白百合の水練 後編
子供達の悲鳴と水飛沫が上がる中、小舟を転覆させた影が悠々と海中を巡る。
透明度の高い海に透けて見えるその影は、大きな鯱の姿をしていた。
元来知能が高く、海に生息する様々な生物の中でも体躯・能力共にほぼ最上位に位置しているであろう、海の狩人である。
海に放り出された四人の少年少女。その周囲を見せつける様にゆっくりと旋回するその姿は、同種の中でも更に巨躯――十中八九、魔獣化した個体だ。
あまりにも唐突だった船の転覆。
その混乱を抑え、藻掻く様に水を掻いてなんとか海面に顔を出す。
ツインテールの少女が魔獣を視認したとき、最初に浮かんだのは驚愕混じりの疑念だった。
「ッ、ゲホッ、なん、で……!?」
僅かに喉に入った塩辛さに咳き込み、呻く。
彼女の疑問は当然だ。
先にも述べた通り、鯱という生き物は非常に知能が高い。
狩りを行う際も群れによる見事な連携を駆使し、獲物を的確に追い詰める。
彼ら独自の、言語にも近いコミュニケーション能力があり、喜怒哀楽の理解――どころか群れ内での一過性の流行りを共有する程に脳が発達している、とまで言われている。
そして、それ故に『狩りの相手』は確りと判断する筈だった。
異なる世界――転移者達の故郷においても、鯱は人間と友好的な関係を結ぶ事例が多い。水族館などの海洋関係の施設で飼育されている個体も、それなりにいる。
これは知能が高い生き物同士、種族的な波長が合う、相互理解が容易というのもあるだろうが……鯱側が人間という生物を『狩りの対象にするには割に合わない』と確り理解しているという点も大きい。
そう、彼らは理解しているのだ。
体躯の大きさこそそれなりであるが、生き物としては貧弱で、そもそも水中に適した生態すらしていない人間という生き物。
だが、個では無く種として見た場合、その発達した知能とそこから齎される社会性故に、敵であると、害獣であると認識されれば駆逐されるのは自分達である、と。
それが理解できる程度には、彼らは高い知を持つとされていた。魔獣化する程の優れた個体ならば、当然分かっていない筈もない。
遠い沖合の、誰の目にも留まらぬ状況ではまた別のケースもあるだろう。互いの本来の棲み処に近いか否か、というのも重要な要素の一つだ。
が、うっすらとは言え、まだ浜辺が見えるこの場所で小舟を襲って来るというのは、あり得えない――筈だった。
少女の、或いは彼女にそれを教えた者の認識は、本来なら正しい。
認識不足であったのは一点――それは、その鯱の持つ残虐性であった。
再三となるが、彼らは海洋生物の中では特に高い知能を持つ。
そして、それ故に狩りを最中、戯れに獲物を追い詰めて『遊ぶ』事がある。
それは人間が狩りを遊興・娯楽の一つとして行うものに近い。当然、自分達の安全や危険と天秤に掛けるもの足り得ない。くどいようだが安易に人を襲う事の危険性を彼らは理解している。
だが魔獣化し、更なる力と知能を得たその個体は特殊だった。
リスクを理解して尚、人間を『遊ぶ』対象の一つとして選んだのだ。
強大になった己への自負と、肥大化した残虐性。
空腹感とは違う、より発達した知能が齎すそれらを満たす為。
理性が訴えるリスクを踏み倒し、自負に見合うだけの己が力を誇示する様。
海のギャングとまで言われる側面をこれ以上無く剥き出し、群れを率いて近海の海で暴れだしたのが、この鯱の魔獣だった。
転覆した小舟にしがみ付いた少女は、周囲をゆっくりと旋回する複数の巨影を見て歯噛みする。
「アタシ達で遊んでる……馬鹿にして……!」
状況を正確に把握しながらも、出て来るのがその台詞という時点で彼女も相当に負けん気が強い。
船から放り出された他三人――少女が子分と呼ぶ少年達も、海に慣れているだけあってパニックになって溺れる、という事は無かった。
――だが。
「う、うわっ、クソ、こっち来るなよ!?」
子分の一人が悲鳴を上げ、必死になって船から離れる。
彼だけでは無い。他の少年達に対しても、魔獣達は同様の行動を見せた。
少年達が水をかき、少女の傍か、或いは転覆した小船に近づこうとすると、周囲を悠々と泳ぐ群れ一匹が遮る様に近づき、邪魔をする。
態と脅かす様に近づく鯱達から距離を取ろうとした結果、四人の互いの距離は段々と離されようとしていた。
一瞬で水中に引き摺りこむ事など容易だろうに、恐怖や必死さを煽る為に殊更にゆっくりと包囲し、時折脅かす様に近づき、また離れる。
弄ばれる、という言葉が正にしっくりとくる状況を少年達も理解したらしい。
「ち、ちくしょう、コイツら遊んでやがる……!」
「駄目だ、船に近づけねぇ……!」
「……お嬢ォ! なんとかして逃げて下さい!」
友好的な海の生き物がじゃれつくのとは違う、明確な嗜虐を伴った魔獣達の行動。
それに悪態をつきながらも、どうにも出来ない現状を前に、どうにか『親分』を逃がそうと彼らは声を張り上げる。
海面を掌で叩き、大声を上げてなんとか鯱の注意を引こうとする子分達を見て、少女は歯を喰いしばった。
「子分の癖に、生意気言うな……!」
少女は多少ではあるが、魔法が使える。
上の兄二人と違い、強さを尊ぶ魔族本来の気質が強い彼女は、父のコネを使って冒険者組合の魔導士から基礎的な魔法を教わっていた。
元々はちょっと気になっている少年が「やっぱ将来は冒険者か狩人になりてーよな!」と話してるのを偶然聞いて、彼のパーティーに参加する事を夢想したのが始まりなのだが……魔導の勉強自体は真面目に取り組んでいる。既に簡単なものであれば幾つか習得済みであった。
それらを駆使すれば、僅かではあるが少女だけでも助かる可能性がある。
少年達もそんな判断を下したのだろう。残酷だがそれが現実であり、同時に勇気ある決断でもあった。
――が、彼らの『親分』はそれを良しとしない。
生来の負けん気の強さ、一人で逃げ出す事への反発、口にこそ出さないが、子分である少年達への確かな友愛。
諸々の感情と激し易い性格も手伝い、彼女は逃走の為では無く、戦う為に拙くも魔力を練り上げる。
「アタシの子分に手を出すんじゃないわよぉ! この魚擬き!」
「いやお嬢ォ!? やめろって!」
罵声と悲鳴が同時に上がり、小さな火の玉が少女の掌より飛ぶ。
それは手近にいた個体が海面より見せていた背びれに当たり、水分が蒸発する音と共に鯱に小さな火傷を負わせた。
今回の獲物――否、玩具からの予想外の反撃に、魔法をぶつけられた個体から怒り交じりの苦鳴が上がる。
群れの長である強力な魔力適応を経た個体ほどでは無いにせよ、配下の鯱達も半ば魔獣化した個体ばかりだ。子供の扱う初歩の魔法程度では大した痛痒にはならない。
それだけに、遊んだ後は適当に食い散らかすばかりだった筈の玩具から、小さな反撃を受けた事に怒りを燃やす。
背びれに少しばかり焦げが付いたその個体は、旋回すると少女に狙いを定めた。
長が遊び飽きていない――未だ『待て』が掛かった状態なので、喰い殺す訳にはいかない。
だが、手足の一つくらいは食い千切ってやろうと怒りの鳴き声をあげ、傷を負った背びれで海面を裂きながら一直線に進む。
「うあぁぁっ!? 言わんこっちゃねぇ!」
「逃げてくれぇ! お嬢!」
「――ッ、こ、このぉ!」
少年達から一斉に悲鳴が上がり、少女は怯えながらも何とか再び魔力を練ろうとして――。
横合いから突っ込んで来た人影に、少女へと牙を剥こうとしていた鯱が蹴り飛ばされた。
ドボォ! という水袋が殴打される様な重く、鈍い音と共に、魔獣化した巨躯が海中より弾き出され、宙を舞う。
蹴り飛ばされた個体は、今度は苦鳴を上げる余裕すらない。
胴体にくっきり残った足跡を中心に、くの字に折れ曲がった躯は回転しながら再び着水した。
死んでこそいないが、痙攣しながら横倒しのままプカァっと水面に浮かぶ巨体。子供四人は勿論の事、知能の高さ故か鯱の群れまで唖然とした様に動きを停止させる。
一方、凄まじい速度で海上を走って来たその人物は、魔獣を蹴り上げると同時に水面も蹴って跳躍していた。
サマードレスの裾が翻り、ひっくり返った小舟の上にネコ科の獣を思わせる軽やかさで着地する。
「やれやれ、まさかとは思ったけど……念の為、見に来て正解だったわ」
腹を見せた船の上で仁王立ちとなり、海の魔獣達を睥睨したのは三人の子分達よりは年上の、だが年若い銀髪の少女だ。
「あ、あんた、さっきの観光客……」
「ちょっと無謀だったけど……根性あるじゃない、お嬢ちゃん。個人的には結構好きよ、あぁいう啖呵」
小舟に掴まった儘のツインテールの少女が、半ば呆然として呟くと。
銀髪の少女――アンナはそれを見下ろす形で不敵に笑いかけたのだった。
手が伸ばされ、海に浸かった少女の後ろ襟首が掴まれる。
「よっ、と」
そのままあっさり彼女を持ち上げると、アンナは軽い動作で足場としている船底の端を蹴りつけ、跳び上がった。
小型とはいえ複数人を乗せる事が可能な筈の船が、それだけで冗談の様に跳ね上がって再び引っくり返る。
本来の形で着水した小舟の上に再び着地すると、急展開についていけてないツインテール少女は襟首を離され、ストンと船の上に降ろされた。
「身を低くして伏せといて――あと、あの宿の子に感謝しときなさい」
「……ふえっ?」
その言葉に少女の瞳が驚きと、幾つかの複雑な感情で見開かれる。ついでに海に浸ってずぶ濡れであるにも関わらず、微かに頬が赤くなった。
実際、アンナの言葉に偽りや誇張は無い。
彼女が此処にいるのは、宿の一人息子である犬人の少年の言葉があったからだ。
「多分なんだけど……沖からアイツの悲鳴が聞こえた気がしたというか……」
自信無さ気ではあったが、腐れ縁の少女の安否が気にかかるのか、不安そうに告げる少年の言葉に、アンナが一応は見てこよう、と提案して。
万が一を考えて、小舟を使ったり泳ぐのではなく、その脚力を生かした水上走行で少年の指さした方向へと進むこと暫し。
浜辺からやや離れた沖に近い場所で、転覆した小舟と魔獣化したらしき海の生物の群れ、それに囲まれる四人を発見したという訳だ。
結果を見れば、アンナの即断即決は正解だった。
犠牲者が出る前に、こうして寸での処で間に合ったのだから。
が、後は魔獣を鎧袖一触、とはいかない。
(……慣れない海で装備無し、おまけにこの格好。やり辛いったらない……!)
内心で愚痴りながら、超人的な脚力を生かして水の上を走る。
この場に居るのが彼女一人で、魔獣を打倒する、或いは追い払うだけならば、今の条件でもそう難しくはない。
だが、要救助者である四人の子供達を庇いつつ、残った鯱達を仕留めるというのは、アンナをして中々に骨の折れる仕事であった。
魔獣の群れを追い散らし、駆け抜けざまに海に浮かんでいる少年の一人の襟首を引っ掴んで持ち上げる。
「うぉわぁっ!?」
「……ッ、流石に沈むか……!」
少年の素っ頓狂な悲鳴と、アンナの苦々しい声が重なった。
足腰に魔力を叩き込み、増えた重量によって水面に沈みかけた脚を強引に持ち上げる。
子供とはいえ、肩にひと一人を担いだ状態ではやはり速度は落ちる――陸ならば誤差の範囲だが、水上を走る最中では相当に負荷が違った。
再度跳躍。跳ね飛んだアンナは小舟を飛び越える放物線軌道で宙を舞い、飛び越すついでに肩に担いだ少年を船上に放り込んだ。
衝撃で派手に揺れる小舟に、既に乗っているツインテールの少女と放り込まれた少年の悲鳴が上がるが、そこは勘弁して欲しい。加速するのも手間な状況なので、なるべくなら止まりたくない。
アンナの着地点に、鯱の一体が待ち構える。
通常の原種より格段に発達した牙を剥きだし、海面から飛び出したその個体へ向け、口を閉じてろと言わんばかりに鼻っ面へと踵を叩きつけた。
魔獣は巨大な石槌でブン殴られたが如く、強制的に口を閉じて海に沈む。仕留めたかまでは判別出来ないが、着水の水柱の後に赤い斑が海に広がったのを見るに、相当な重症だろう。
これで二体目。突如乱入して来た銀髪の少女が『玩具』や『獲物』では無く、自分達を逆に狩り得る『敵』であると認識した鯱達は、明確に動きを変える。
群れの長である一際大きな個体が、海上にも聞こえる声量の独特な鳴き声をあげると、魔獣達はアンナから距離をとった。
頻繁な方向転換を行いながら大きく弧を描いて移動し、小舟と、未だ海に漂う少年二人を狙い始める。
「狡すっからい真似を……すんなっ!」
船を狙う二体に向けて飛び込んでゆくアンナだが、矛先が自分達に向かった途端、二体ともに急旋回で船から離れた。
その間に別の個体が海に取り残された少年達を狙い、アンナは舌打ちする間も無く海面を蹴り飛ばして強引に進行方向を変える。
単純な速度であれば、水上を走るアンナの方が数段早い。
が、その速さ故に動きは直線的になりがちで、なにより下手に減速すれば海に沈む。そうなれば再加速にはより多くの時間が必要になってしまう。
必然、旋回能力や小回りという点で大幅な制限が掛かっているのが現状だ。
水を吸ったサマードレスも動き易いとは言い難く、何より無手であるのが痛い。有効な攻撃が加速を利用した蹴り一択に限られてしまう。
それでも尚、単純な戦力という点では魔獣の群れを圧倒しているアンナだが……あくまでそれは個々の戦力だけを数値的にみた場合だ。
鯱達は子供四人を連携を駆使して狙い、且つこれ以上の合流を阻止してくる。
船に二人、そこから少し離れた二ヵ所に一人ずつ。
数と機動性で勝る相手に、計三ヵ所に散った要救助者を単騎で護り続ける為、アンナは全速に近い移動を延々続ける事を余儀なくされていた。
勿論、彼女とてそれで直ぐに根を上げる様なやわな鍛え方はしていない。
だが、これが長時間続くとなれば流石に不味い。何より、延々と身の危険に晒され続ける子供達への負担は相当なものになるだろう。
嫌がらせ染みた鯱達の立ち回りは、腹立たしい事に有効な手段ではあった。
「チィッ――背に腹か……!」
今の儘ではジリ貧――そう、考えた彼女の決断は、走る速度に劣らず早い。
走り続けるまま、濡れそぼったサマードレスの胸元とスカート部分を引っ掴み、強化した指先で強引に引き裂く。
裂けた夏服の下から表れたのは、彼女の瞳の色と御揃いカラーな水着の上下。
白で縁取りされた可愛らしいデザインの水着だ。
着た姿を陽の下に晒すのは無理と断言していたが、海で遊ぶ際には通常の下着よりは適していたのと、あと水着自体は可愛かった事もあって、ちゃっかり購入していたアンナなのである。
――が、今それは重要ではない。
水着姿となった事で動き辛さが消えたのか、銀髪の少女はより軽快に海の上を疾走する。
走りながら二つに裂いたドレスをきつく絞り、先端を強く結び。
固く捩じった二つの布棒へと化けた元サマードレスを、普段の戦闘スタイルの如く両の手にぶら下げた。
改善された機動力を用い、懲りずに小舟の周りをうろつき始めた一体に狙いを定める。
慌てて海中深くに潜ろうとするその背が消える前に追い縋り、アンナは濡れた布製の棒切れをフレイルの如く叩きつけた。
たかが布と侮るなかれ。耐久性こそ低いが、水分を吸った雑巾でも確り勢いと体重が乗る様に打ち据えればちょっとした鞭か鈍器の如き威力を発揮する。
硬く絞り、縛り上げた物を身体強化を行なえる一流の前衛が振るえば、それは魔獣の表皮を抉り、肉を潰す威力を伴っていた。
背びれとその周辺をごっそりと抉り取られ、その鯱がもんどりうって海中に沈む頃には、ターコイズカラーの水着姿は既にその脇を駆け抜けている。
海面を走り回る『敵』の速さが一段と増した事に、魔獣の群れが警戒と驚きで動きを鈍らせた。
その数秒もない停滞の時間に、海に投げ出されたままの少年達の片方へと、アンナは駆ける。
「掴まれ!」
「――ッ!?」
減速する事無く、片方の布棒を差し出して少年を傍を走り抜け。
咄嗟の事ではあったが言葉の意味は理解したのか、しっかり布を引っ掴んだ彼の身体は、急激な加速で引っ張られ、海中から一瞬で引き摺り上げられた。
そのまま小舟へと進路を変更。少年が掴んだ元サマードレスの布っ切れを、アンナはアンダースローの軌道で思い切り振り上げる。
「どわぁぁぁぁぁっ!?」
「うぉぉぉっ!? 飛んで来たぁっ!」
「あ、あの銀髪、無茶苦茶やるわねぇ!?」
山なりの軌跡を描いて宙へと投げ出される少年。そこそこ以上の距離を舞うも、後ろからそれを追うアンナを警戒してか、魔獣達は空中へと飛び上がって彼を襲う事をしなかった。
そのまま小舟に飛び込む少年の身体。荒っぽい救助方法によって再び転覆せんばかりに揺れた船から、三人分の悲鳴が追加で上がる。
(海に落ちた子は、あと一人――!)
全員を船に上げてしまえば、守るのは格段に楽になる。
小舟の櫂は外れて海に沈んでしまったが、子供達に手でもなんでも使って浜へと進めてもらえば、自分がそれを守り抜きながら浅瀬に辿り着く事も可能だろう。
気合を入れ直し、海の上を飛沫を上げて疾走するアンナであるが――ここで魔獣の群れの動きが、再び変化した。
ゆらりと眼下に浮かび上がる巨影。群れのボスが、水面下でアンナと並走する。
「後ろに引っ込んでる類じゃ無かったか……!」
真下に位置した巨体に向け、咄嗟に手にした布棒を叩きつける。
海が弾け、爆発じみた衝撃に大量の飛沫が飛び散るが……手ごたえは無い。
海面から身を晒して攻撃を受ける事を警戒し、一定の水深を保ちながら自身の速度に喰らい付いて来る魔獣に、小さく舌打ちを漏らす。
更に加速しようと両脚に魔力を装填するも、振り切れない。
速度自体は明確にアンナが上の筈だったが、一番の巨体を誇るこの鯱が水面下に張り付いてから、急激に海面が荒れだした。
小さな波がこの魔獣を中心に小刻みに発生し、踏み込んだ足が取られる。
魔法か、魔獣化したことによる生来の能力が強化されたものかは判別が付かないが……それはアンナの動きを著しく制限してくるものであった。
乱入直後より速度の低下した『敵』を前に、群れの長は嘲笑う様に断続的な鳴き声を上げる。
海洋生物の言語など分かる筈も無いが、コケにされているのだけは理解出来た。アンナの眼が冷えたものに変わる。
しかし、直ぐに何かに気付いた様に瞳が見開かれ、勢いよく顔を上げて子供達――船の三人と、まだ海に漂う一人を視界に収めた。
(不味いっ、この手の奴がこっちの足止めに徹するのは――!)
戦時中に幾度となく体験した流れを思い出し、魔獣の妨害による走りづらさを捻じ伏せて無理矢理に速度を上げる。
嫌な予感の類ほどよく当たるものだ――アンナの危惧は的中していた。
鯱達の長は、端的に言えば腹を立てていた。
陸棲みでありながら、巨大な木の乗り物に乗って海でデカい顔をしているヒトとかいう生き物。
幼体らしきヒト四匹を見つけたのは偶然。気儘に回遊していたときの事だった。
丁度良い、たっぷりと遊んだあとで、海に引きずり込んでゆっくり食してやろう。
軽い気持ちで狩りを始め、良い調子で楽しんでいた矢先に、配下の同族が三匹も潰された。
まだ生きてるのもいる様だが、どの道もう使い物にならないだろう。近海の王となるべき自身の配下に、傷んだ役立たずは不要なのだ。つまりは死んだも同然である。
更に忌々しい事に、それを為した『敵』――銀の毛並みを持つヒトの雌は、単純な力や速さでは自身の上――逆にこちらを狩り尽くしかねない怪物であった。
ひ弱なヒトとは思えない力を振るうその雌は、或いは自分と同格――陸での王と呼べる存在なのかもしれない。そうでなければその強さは説明が付かない。
陸の王であろうその『敵』に、今の自分が劣ることは認めるのは業腹であったが……今回の狩りの勝敗はまた別だ。
魔力によって増幅した、本来は遠くの配下に自身の命令を届ける力を、『敵』の足元で集中して発生させる。
これにより、水の上を走り回るというふざけた真似をしている『敵』の足は大きく制限された。
更に、海深くに潜る己に相手の攻撃は届かない。
やはり陸の王に海の王たる自分が劣るなどという事は無い。王たる者同士の力は拮抗しているのだ。
湧き上がる悦と共にそんな結論に至った鯱の魔獣は、今回の狩りを自身の勝利で終らせるべく、残った配下に命を下す。
内容は単純――四匹の小柄な獲物を、喰え。
命に従い、配下達はそれまでの牽制や威嚇が目的であった半端なちょっかいを辞めた。
狩人の、捕食者としての本能を剥き出し、木の乗り物に掴まった三匹と、海に浸ったままの一匹に向け、一斉に飛び掛かった。
猛然と駆ける『敵』が、己の妨害すら振り切って進路上――波に揺られるままだったヒトの方を仕留めようとした配下二体を、手にした奇妙な棒切れで叩き潰す。
『敵』ながら見事な力だ。が、このタイミングでは固まっている三匹の方は間に合うまい。
理由は分からないが、『敵』はひ弱で脆い四匹の獲物を護る為に現れた。
四の内、三を狩れたなら、こちらの勝ちと言って良いだろう。
同族の配下を多く失ったのは手痛いが、遠くない将来、己が近隣の海を統べれば、同族以外の配下も数多く手に入る。問題は無かった。
突如現れた難敵を相手どり、狩りを成功させた。この充足感が配下数匹で手に入ったと考えれば安いものだ。
人間ならば満足気に笑みを浮かべ、ウンウンと頷いていただろう。
鯱の魔獣は達成感と喜悦を以て、アンナが手を伸ばす先、三人の子供達が配下に喰らい付かれる瞬間を見届けようとして――。
「――だが残念、リリィです」
そんな声と共に、飛び掛かった配下達が見えない壁にぶつかった様に弾かれる様をみて、唖然として大口を開けた。
(間に合うか――いや、間に合わせる!)
海に漂っている少年に食い付こうとした魔獣二匹を一瞬で仕留め。
次の瞬間、アンナは渾身の力を込めた跳躍の態勢に入った。
鯱の長は間に合わない、と判断したが、それは刃衆の次席たる騎士を過小評価し過ぎである。
小舟に飛び掛かった鯱の数は四体。
なりふり構わない全力ならば、三体までは飛び込んで迎撃できる。
が、流石のアンナも確実に対応できるのはそこまでだ。しかも迎撃後には大きく隙を晒すことになるだろう。
最後尾の四体目がアンナに標的を変えた場合、対処できずに喰らい付かれる可能性は高い。
だが、寧ろそれが狙いだ。
子供達と違い、自分ならば喰いつかれても魔力防御で即死はしない。防具もないので痛手は避けられないが、内臓と急所だけ避ければ海中に引きずり込まれる前に一撃を加えられる。
後に控える群れの長の相手は厳しくなるだろうが――全員を助ける為にはこれが最善だ。
一瞬にも満たぬ、刹那の予測と判断。
それらを終えたアンナは、全開の魔力強化による跳躍を行なおうと一歩を踏み出し――。
「――だが残念、リリィです」
唐突に上空から降って来たエルフの少女がシュタッとばかりに小舟に着地。魔力障壁を展開して鯱達の強襲を受け止めて見せた。
バチィ! という紫電の走る音と共に弾かれる魔獣達。どうやら純粋な魔力では無く、雷の性質を持たせた障壁らしい。
近寄ったら感電しそうなので、アンナは慌てて跳躍を停止。動作を急停止したせいで脚が止まり、危うく水没しかける。
「おぉ、予想以上に効果的です。水棲の相手には火より雷が通る場合もある――兄様の仰っていたあーるぴーじー理論とやらはどうやら実戦でも有効なのです」
とはいえ、味方までビリビリしてしまいそうですね、などと呟いて、リリィは障壁を解除。
身体を痺れさせる厄介な壁が消えたと見るや、鯱達は再び小舟に飛び掛かろうとして――障壁が消えた直後に跳躍、最後の少年を抱えて船に着地したアンナを見て怯んだ様に距離を取る。
何とも言えない顔をして見つめて来る好敵手を前に、エルフの少女は可愛らしいドヤ顔を見せて胸を張った。
「リリィ、参上です――確かこういった場合、『待たせたな』と言うべきでしたか」
「いや、あの馬鹿の影響受けすぎだから」
どうやら飛行魔法でアンナを追って来たらしいリリィ。
何故ついてきた、とか、ここは危ないから直ぐに浜辺に戻れ、とか、色々と言いたい事はあったのだが……。
なんというか、駄犬の変な知識や語録に汚染されつつあるエルフの少女の未来を憂いた結果、現状と全く関係ないツッコミを入れてしまったアンナである。
「――凄い」
ポツリと呟いたのは、急展開に置いてけぼり気味となっている子供達四人――その紅一点であるツインテールの少女であった。
「アンタ凄いじゃない! アタシよりちっこいのに魔獣を吹き飛ばす魔法なんて! 障壁に属性を載せるとか先生にだって出来ないわ!」
「リリィは日々精進しているのです。将来は兄様のぱーふぇくと従者にしてぱーふぇくとおねぇちゃんを兼任する予定ですので」
まだまだ見習いとはいえ、ツインテ娘は同じ魔導士としてリリィの魔法行使に感銘を受けたらしい。
興奮気味だが明け透けで純粋な賞賛の声に、フンスフンスと鼻息荒くドヤ顔になるエルフっ娘。先の緊迫した空気が行方不明過ぎて捜索願い出しても見つかりそうにないレベルである。
「いや待てって! 今話す事じゃないだろ、魔獣どもが集まって来たって!」
三人の少年の内一人が、代表して至極真っ当な声を上げる。
五人乗りとなった事で一気に手狭になった小舟は、群れの長を筆頭とした残る魔獣達によって円を描く様に取り囲まれていた。
必勝と思われた狩りに二度目の乱入者が現れた事で、鯱の長は相当にご立腹みたいである。相も変わらず海面に姿を現さないものの、こちらを突き刺すような憤激混じりの敵意が海中から発せられていた。
「ここまでこっちに形勢が傾いたんだから逃げれば良いのに……無駄にプライドだけは高い魔獣だこと」
鼻を鳴らしたアンナが、手にした布製の棒をきつく捩じり直す。
「曲がりなりにも保護者代理を引き受けた立場だし、リリィちゃんには鉄火場に立って欲しくないんだけど……」
言葉を濁し、背後の子供達を肩越しに見やる。
先の雷を纏った障壁で小舟を護って貰えば、浅瀬に避難するにしろ、魔獣を殲滅するにしろ、各段に楽になるのも確かだ。魔法の腕前だけでいえば、既にリリィはそこらの半端な魔導士よりずっと上である。
騎士として、保護者としての責任感と、現状での安全性を高める手段。
相反してしまうそれらを前に、さてどうするかとアンナが小さく唸り声を上げた。
「あ、それならば問題ないのです――というか、リリィはこれ以上役目がありません」
実に軽い口調と共に、エルフの少女の手がハーイとばかりに挙げられる。
「ふむ、と、言うと?」
周囲を廻る魔獣達を警戒しながら問い返すアンナに、リリィは懐に手を入れて何かを取り出し、掲げて見せる。
「お手数をかけてしまいますが……人命には代えられません。来る前に吹いておいたので」
「「「……笛?」」」
少年三人がリリィの手の中にある小さなソレを見て首を傾げ。
「……魔道具の一種? というか、何かの呪具を笛に埋め込んでる?」
そちら方面についても勉強しているらしいツインテール少女が、不可解な物を見る視線で細く、小さな笛を見つめる。
警戒を続けるアンナが、チラッと横目でその小笛を視界に収めた。
彼女の碧い瞳が、軽く見開かれる。
「……もしかして」
光沢の無い真っ黒な小笛に、一本だけ深紅の魔力導線が通っているのが見えて。
思わず、といった様子で呟いた、その瞬間だった。
遠くから、空気の壁を幾度も突き破る音。
アンナが「全員、伏せっ!」と鋭く一喝し、反射的に全員が身を低くして小舟にしがみついたと同時、遠巻きにこちらを伺う魔獣の群れに向けて、超高速の『何か』が飛来。
海面に着弾したソレは、迫撃砲の如き威力を以て海を盛大に捲り上げた。
「「ぎゃあああああああ!?」」
「つ、津波!? し、沈むぅ!」
「なっ、何!? 今度は何なのよぉ!?」
爆風に煽られ、荒ぶる波に揉まれて木の葉の様に揺られ、跳ね上がる船体。
怒涛且つ唐突な展開の連続に、いい加減泣きの入ってきた四人の子供達の悲鳴が上がる。
一番小さなリリィが船から放り出されない様、しっかり抱えて船の縁を掴むアンナ。
彼女の目だけは、飛来したソレが何の変哲も無い投槍である事を捉えていた。
「あー……そういう事ね」
「はい、そういう事です」
荒波に揺れる小舟の中、悟った表情で半ばボヤく様に呟くアンナに向け、抱えられたリリィがこっくりと頷いて見せる。
冗談か何かと思いたくなる範囲で抉れ、吹き飛んだ海面。
これ程の威力ならば、アンナ達が乗る小舟など余波だけでバラバラになりそうなものだが……届いた衝撃は僅か、波や揺れも一見酷いが、先の一撃の破壊規模を見れば小舟とその極周辺だけは奇妙な程に影響が少ないと言って良い。そう、まるで台風の目の様に。
津波じみた水柱が上がり、その周囲の巨大な飛沫の中には、吹き飛ばされて宙を舞う鯱達の姿があった。
着弾の衝撃こそ受けた様だが、いくらか深い海中にいた御蔭で重症は免れたらしい。
そんな魔獣の群れに向け、荒れ狂う波を突き破って二つの人影が突撃する。
「……義娘に、手を出すな……!」
一人はリリィの義父である《虎嵐》。
普段の寡黙で穏やかな巌を思わせる雰囲気を、嵐を思わせる激しい怒りと闘志で塗り替え、一気呵成に打ちかかる。
――こんにちわ死ね。
もう一方は、漆黒の魔鎧を纏った戦士――リリィの兄様こと《聖女の猟犬》である。
隣を疾走する《虎嵐》と比べれば静かな、邪魔な石コロを見る様な視線と冷たい殺意を魔獣に向け、腕を振りかぶった。
圧縮した暴風を纏った鉤手と超速で振り抜かれた手刀、その軌跡がクロスし、巨大な十字を描いて交差する。
結果は――言うまでもないだろう。
発生した破壊の波に呑まれ、複数の歪なパーツに分解された凶悪な魔獣の群れは、断末魔の鳴き声すら上げる事なく水柱と飛沫に呑まれて海の底に沈んでいったのだった。
現地の少年少女には少々危険が過ぎたトラブルを切り抜け、一行は最初に泳ぎを練習が行われていた砂浜に戻って来ていた。
――オッスオッス、お疲れ様です副官ちゃん!
一息ついたアンナに声を掛けたのは、小舟にいた五人の安否を確認した後、一瞬でいつものテンションに戻った駄犬である。
魔鎧を解除し、片手をシュバっと上げてアホ面で陽気に笑う友人に向け、アンナは苦笑い混じりで嘆息を漏らした。
「あ~……ハイハイ。ま、助かったわ、ありがと」
――まぁーたまたー、あの状況なら俺らがなんもせんでも普通に切り抜けられたでしょ。
「そうね、ついでに言うなら、アンタが《災禍》の人とアホな追いかけっこしてなかったらもっと早く片付いてた話ね」
――辛辣ゥ! でも事実なんで言い返せない! お手間をおかけしましたぁ!
疲れ切った様子で浜辺に座り込み、獣人の少年達が用意した飲み水を受け取って口にしているツインテ娘とその子分達を横目に、二人の会話は続く。
――まぁ、全員無事だし、結果オーライやな!
「そうだね、リリィちゃんの泳ぎの練習が中断しちゃったのは、ちょっと申し訳ないけど」
「問題ありません。確かに少々中途ではありましたが、クロールと平泳ぎは少なからず習得の手応えを感じています」
会話に混ざり、今日はありがとうございました、と、続けて丁寧に一礼するリリィ。
「うむ……騎士アンナには世話になった。これに懲りず、義娘と仲良くしてやってほしい……」
「コイツらが助かったのも、アンナねーちゃんが俺の言う事を信じて沖に行ってくれた御蔭だしなー。ホント良かったぜ、サンキュー!」
父親である《虎嵐》と、泳ぎを教わった獣人の子供達。
更には助けられた四人も次々に礼を口にし、大小差はあれど頭を下げる。
この場のほぼ全員から真摯に感謝の言葉を告げられ、アンナは面映ゆそうに肩を竦めて指先で頬をかいた。
「いや、ホラ。私も騎士の端くれだしね? 有事の際の義務を全うしただけというか……」
気恥ずかしい思いをしている友人へのフォローのつもりか、流石アンナ先生マジカッケーっす、とか茶化してくる青年に向け「やかましい駄犬」と脳天チョップを喰らわす。
危険なトラブルが発生したが、誰一人大きな怪我も無く切り抜けた事は喜ばしい。
この達成感や歓びは、民を守護する騎士の特権――とまでは言わないが、小さな報酬と言っても良い。
その報酬を噛みしめ、いつもより少々ご機嫌なアンナであった。
――が、彼女は一つ、大事な事を忘れている。
そしてそれは、駄犬の何気ない一言によって直ぐ様に思い出された。
――副官ちゃんも水着デビューしたみたいだし、これで何の問題もなくなったな! いっそ皆で今からアッチのビーチバレーに混ざりにいくか!
悪気の一切ない、仲の良い連中とワイワイ騒ぐ事を楽しみにした、何気ない提案。
だが、それを聞いた瞬間、アンナは石化の呪を喰らったが如く動作を停止させる。
「――――――ぇ"」
八秒ほど固まり――青年や他の面子が訝し気に首を傾げると同時に、再起動。
だが、その動作は錆びついたブリキ人形を思わせるぎこちないものだった。
ギギギ……と、音を立てそうな鈍い速度で隣の青年に顔を向ける。
なんか不思議そうなアホ面を向けてくる駄犬を数秒注視し、次いで、やはり鈍い動作で自身の格好を見下ろす。
そこには、初日に半ば無理矢理着せられ――けれどデザインと彩色は気に入ったので結局は購入した水着、それを着た自分の身体が見えた。
当然、その上にタオルの類なぞ無い。
着ていたサマードレスに至っては、引き裂いて絞って結んで鈍器代わりにした上、いつの間にか落として海の藻屑になった。
認めたくない現実を前に、やはり錆びついた人形を思わせる動作で再度、青年の方を見やる。
――ん? あ、ひょっとして感想ですかアンナさん。脳死意見で申し訳ねぇが似合ってるよ、うん。可愛い可愛い、普通に眼福ッスわ。
能天気に告げる、その笑顔を見て。
ぶわっ、と。音すら立てそうな勢いでアンナの首筋から頬、耳もとに至るまで朱に染まる。
ぷるぷると震え出し、あまつさえちょっと涙目になり始めた彼女を見て、漸く駄犬も何かがおかしいと気付いた様だ。
やっべ、何かミスったか!? とばかりに焦った表情となる青年に向け、アンナは俯き、言葉を絞り出す。
「………………き」
き? と、オウム返しに問い返したのは、その場の誰であったのか。
どのみち、その答えにあまり意味は無い――アンナ自身が直ぐに続く言葉を発したからである。
「記憶をうしなえーっ! このアホ犬ぅぅぅぅぅっ!!」
――嫌ァァァッ!? なんか知らんけどごめんなさぁぁぁぁい!?
涙目で振り上げられる拳、悲鳴と共に踵を返す青年。
いきなり始まった子供みたいな追いかけっこを前にして、実際に子供である少年少女達の視線は酷く生温かった。
「なんだっけ、これ……確か、犬も食わない、ってやつだっけ」
「犬人のキミが言うと凄い説得力だね……」
「ついでに、リーダー自身も自覚、するべき」
獣人トリオがそれぞれに感想を述べ。
「いやしかー」
「……? どうした、リリィ」
「いえ、ここでこれを言うべきだという謎の意思を受け取りまして」
神託なのか電波なのかよく分からないものを受信するようになったリリィと、そんな義娘がちょっと心配になる《虎嵐》。
そして、年上二人の追いかけっこを眺めていたツインテールの少女が、意を決した様子で犬人の少年に近づく。
「……ねぇ」
「ん? なんだよ」
「……あ、アンタがアタシ達を助けて欲しいって、あの人達にお願いしてくれたって聞いたわ。その、ぁ、ありがとう」
普段は顔を合わせれば喧嘩を売って来る少女のしおらしい言葉に、犬人の少年は眼を剥いて仰け反る。
「お、おい大丈夫か!? もしかして頭とか打ったのか!?」
「このエロ犬ぅ! 人がお礼を言ったんだから素直に受け取りなさいよ!?」
心底真顔で心配する少年に怒鳴り返し、いつもの雰囲気に戻りかけるが……そこで少女はハッとした表情になって深呼吸を繰り返した。
子分達が「落ち着いてお嬢!」「深呼吸しろ深呼吸!」「穏やかに、素直にっスよ!」と背後から喧しくエールを送って来るのを手振りだけで黙らせつつ、彼女はぎこちなく言葉を紡ぐ。
「い、色々あったし、ちょっと心境の変化があったのよ……あと、素直じゃないのに分り易いって、傍から見るとあんな感じだって自覚出来たというか……」
そこまで言うと、再び視線は追いかけっこをする二人へと向けられる。
本気で追いかけるアンナから素の状態で逃げ切れる筈も無く、青年は捕縛されて何故かコブラツイストを掛けられていた。
必死にタップする駄犬と、羞恥やら謎の怒りやら何やらで顔が真っ赤なままの銀髪の少女を暫く眺め「うん、自覚って大事よね」と小さく呟くツインテ娘。
「うーん……なんだかよく分かんないけど、これからは仲良くやろうって事か?」
「……うん、まぁ……そういう事」
「そっか、俺はかまわねーぜ! じゃ、仲直りの握手でもしとくか!」
カラッとした少年の笑顔に、少女の鼓動が一つ、弾む。
(あぁ、本当に……自覚って大事ね)
人のふり見て、という言葉を実践できた結果。
胸に湧き上がる心地良い衝動を素直に甘受できる様になった少女。
差し出された少年の手を取り、握り返し。
胸をくすぐる歓びと掌の感触に、自然と頬がほころぶ。
「うぉ……」
握手を交わしたまま、少年の顔が驚きの色に染まる。
「……? どうしたの」
「あ、いや……お前が普通に笑ってるとこ、初めてみたからさ……怒ってるより、そっちの方が良いな」
「そう? ありがと」
鼻の頭をかきながら照れ臭そうに告げる少年に、少女は柔らかな笑顔で返し。
(それで良いわ、今はね)
内心で、悪戯っぽく付け足すのだった。
ちなみに良い雰囲気の二人の背景では、アンナが卍固めに移行した事で駄犬が泡を吹いていた。
水着姿を見られた記憶を消そうとして――その格好のままプロレス技をかければどうなるか。
色々といっぱいいっぱいな彼女がそのことに気付くのは、もう少し後の話である。
「ガキか、アイツらは」
砂浜よりやや離れた岩場にて、《狂槍》は呆れを隠さずに独り言ちる。
離れていても聞こえて来る、騒がしい若者達の青春模様な声を聞き流しつつ、手にした長槍の柄尻で軽く足場を叩いた。
コォン、と岩を打つ澄んだ音が響く。
数十秒後、眼前に広がる海面が大きく波打ち、盛り上がった。
「GYUIIII~」
そのサイズからすればひどく静かに、海面を突き破って現れたのは、凄まじく巨大な体躯を誇る大蛸――近隣の海域を統べる魔獣、オクトである。
呼ばれたから来たー、と言わんばかりに触腕をふりふりと振って登場をアピールする怪獣じみたサイズの蛸に、《狂槍》は鼻を鳴らして――だが軽く片手をあげて応えてやる。
「教えてやった通り、馬鹿共はシメて来たんだろうな?」
「GYU!」
自信有り気にビシッと触腕を伸ばして見せるオクト。
彼はやや勿体付けた動きで他の触腕を海面からゆっくりと持ち上げる。
幅や太さだけで数メートルに達するソレに巻き付かれ、締め上げられているのは、先程子供達を襲った鯱の同種や、大型の鮫などといった複数の海の魔獣だった。
オクトの手によって文字通りシメられているのは、先の鯱の魔獣に下った者達――群れを成して、将来はオクトを主級の座より追い落とそうとしていた者達である。
「ハッ、やれば出来んじゃねぇか」
「GYUIIII~」
口の端を吊り上げて凶悪な笑みを浮かべるチンピラ魔族からのお褒めの言葉に、大蛸は人間でいう処のドヤ顔にも近い態度でその巨体を逸らす。
体躯こそ立派過ぎる位に立派だが、中身は幼い子供と大差無い近海の主級に向け、《狂槍》は槍の柄尻を突きつけると額にあたる部分を軽く小突いた。
「調子に乗ンな。そもそも新参の魔獣が調子に乗って暴れたのは、テメェが縄張りに関して無頓着過ぎるからだぞ」
「GYUUU?」
「散歩はしてる、だ? それじゃ片手落ちだろうが。テメェが新参やイキった馬鹿に舐められると、テメェの下についた奴らも舐められるし、馬鹿共も益々調子こいて手ェ出してくるんだよ。この辺りの海主やってる以上、ガキだろうがそこだけは忘れねぇ様にしろ」
「GYU!」
「おう、分かりゃ良い。テメェの舎弟……あ~、"トモダチ"とやらが暢気に暮らす為だ、次に新参が舐めた真似してきたら即ブチ殺せ」
「GYUGYU!」
《狂槍》としてはそれなりに真面目に助言しているつもりなのだが、元気に返答するオクトの方は理解しているのかいないのか。
話自体はちゃんと聞いているらしく、らじゃー! とばかりに触腕全部を使って敬礼してみせる。ちなみに締め上げていた海の魔獣達は敬礼するのに邪魔だったので、ペイッとばかりに放り捨てられた。
やはり種族年齢的にはまだまだ子供な所為もあって、真面目な話は苦手なようだ。
早速話題を変えるつもりなのか、綺麗なのみつけたからあげる! と巨大な貝殻を取り出して押し付けて来る幼い大蛸をあしらいつつ、本日旅行に参加したばかりの《災禍の席》の五席は、気怠そうに溜息を噛み殺す。
「ったく、あの犬ッコロが立ち会いから逃げた御蔭で暇になっちまった」
逃げる猟犬を追いかけ、止めようとする部下も加えて盛大に街中を駆けて回った《狂槍》だったが、最終的にはリリィの呼子を聞きつけて砂浜に走り出した猟犬と部下をフォローする為、沖で暴れていた魔獣達に投げ槍をぶち込んだ。
更にその後は、こうして主級としては非常に幼いオクトに魔族式の『強者のルール』を教え込んでいる。
言動は限りなく粗暴なチンピラの癖に、仕事や自身の為すべきだと判断した役割に関しては奇妙な程に生真面目・丁寧である性根は、旅行中でも変わる事が無いようだった。
「テメェの半分で良いから、うちの頭領が話を聞きゃぁ色々と楽になるんだがな……」
「GYU☆GYUII~」
ついつい漏れた愚痴に、どんまい! と言わんばかりに触腕の先端で肩をたたかれる。
子供に慰められているという事実に、今度こそ《狂槍》はうんざりした顔で溜息を吐き出したのだった。
リリィ
途中でトラブルが起こって中断こそしたものの、覚えたクロールを義父と駄犬に披露して褒められた。ご満悦である。
後にツインテ少女とはちょっと仲良くなって、偶に手紙でやり取りする仲になった。
獣人トリオ
仲良し三人組。リーダーの犬人少年は朴念仁の気配あり。
最後にトラブルこそあったが、一緒に海で遊んだ宿のお客は凄い人だったし、新しい泳ぎ方も教わったし、何より悪い意味でよく絡んで来た少女が、素直に謝罪して来た上に友好的になった。
彼らにとって最良の一日に近かったと言えるだろう。
ツインテ娘と子分達
分り易い悪役御嬢様と見せかけてそれ以上に分り易いツンツンツンデレ娘――と、その兄貴分三名。
あわや命に係わる危険に巻き込まれたのは不運だったが、それが切欠で仲良くしたいと思っていた少年とグッと距離が近づいた。客観視とか自覚って大事。
自分よりちいさいのに見事な魔法運用をしてみせたリリィはちょっとした尊敬対象。後にお友達になって文通を始める。
《虎嵐》
荒ぶる上司を宥め、娘の危機に爆速で駆けつけて助け出す、有能ムーヴ連発の頼りになるパパ。
ちなみに嫁さん以外の女性の水着姿は極力見ないようにと決めているので、今回盛大に自爆した無自覚シーフの恰好もしっかりと視認してはいない。紳士ムーヴに関しても隙が無い。
《s》感想欄《/s》謎の声を受信した義娘がちょっと心配。聖女にお願いしてお祓いしてもらおうか検討してる。
《狂槍》
血の気が多いし喧嘩っ早いくせに、職務や大人として責任に対して生真面目という難儀な男。
駄犬との立ち合いの約束をブッチされた形になったので相当にイラついていたが、八つ当たりも兼ねた一撃を浜から鯱の群れにぶち込んでスッキリした。
オクトの言葉が分かるらしい。旅行中、魔族領の戦士の心構えを教えたりしてる。
オクト
実力は紛れも無く主級なのだが、お子様なので縄張り争いとか魔獣同士のマウントの取り合いとか全く興味が無いし、そもそもよく分かってない。
結果、勘違いした新参の鯱クンがイキって暴れ出したので、そこは《狂槍》にも注意されて反省。
教わった事も半分くらいしか理解出来て無いが、次はちゃんと滅ってしようとは思ってる。
アンナ
ちゃっかり水着を買ってた娘。
非常時の判断で服をパージした結果、不本意ながら買った品をお披露目する羽目になった。
尚、羞恥や混乱、逆ギレ染みた怒りが先行しているだけで、水着姿を褒められたこと自体はちょっとだけ嬉しいと思わなくもなかったり。
が、それはそれとしてこっ恥ずかしいのでアホ犬は〆た。
駄犬
朝から凶悪チンピラと地獄の追いかけっこをしたと思ったら、今度は友人に追い掛け回された上にプロレス技喰らって浜に沈んだ。解せぬ。