駄犬の一日・旅行編 夜
ミラ婆ちゃんとの買い物を終え、俺が宿に戻ったのはもう日が沈み始めた時間帯だった。
いや、当初の予想よりずいぶんと時間が掛かった。
婆ちゃんのサマーワンピース姿の変装が良い仕事をしたのか、絡まれることは殆ど無かったんだけどね。あれこれ見て回ってのんびり土産を物色してたら、気が付いたら結構な時間が過ぎていた。
んで、姉弟子様はやっぱり一旦は聖都にとんぼ返りするらしい。
「中々無い機会なのでつい時間をかけてしまいましたが……猊下が枢機卿の方々の眼を盗んで遊興に出ていないか、確認する必要があります」
今回の買い物で色々と新たな面も見れた教会御意見番だが、普段は真一文字に引き結んでる口元が若干緩んでた。よっぽど土産物選びが上手く行ったって事なんかね?
別れ際には俺が贈ったいつもの眼鏡を掛け、キラリとレンズを光らせて何時もの姉弟子様に戻った感じだったけど。
そういう訳で、つい先刻婆ちゃん町の入口まで見送り、また後日ねーと手を振って別れた次第です。
そういや今更だけど、あの人ワンピース姿のままで帰ったんですけど。
あの姿で聖殿に戻ったら――ましてやそのまんま土産物を孤児院に渡しに行ったら騒ぎになるんじゃね?
若返った御蔭で思い切って声を掛けて来る人増えたみたいだしなぁ。
婆ちゃん相手だと腰が引けてたり緊張しすぎたりしてた聖殿の若い衆とかもそうだけど、現役時代を知ってる古参の僧とか街の古株とか、すごいソワソワして見てる人もいるんもんな。
……ま、婆ちゃんがうっかり着替えを忘れた、なんて事ある筈もないか。聖殿に戻ったらささっと部屋で着替えるんやろ。
俺自身もちょこちょこ色んなものを買ったので、部屋に戻って買ったモンを自分の荷物にしまう。
ちなみに大部屋だ。幾つかの部屋で男女に別れて寝泊まりしてる感じやね。
この部屋は俺、ガンテス、《虎嵐》しか使ってないのでややだだっ広いが、明日以降は後発や日帰りのメンバーも合流してくる。直ぐに賑やかになるだろう。
シアとリアの方はリリィを連れて隊長ちゃん達帝国女性陣の部屋に転がり込んで寝泊まりしてるみたいだ。まぁ、あっちも現段階だと三人だけだからね。折角の旅行なんだから大人数で寝るのも醍醐味よ。
荷の前でしゃがみ込み、お土産や私物用、幾つかの品を纏めて片付け終えて一息つく。
さて、これからどうするかと思った処で部屋のドアがノックされた。
「おーい、そろそろ飯の時間だとさー」
ドアの向こうから聞こえてきたのはシアの声だった。
今いくどー、と応じ、一応は財布だけズボンのポッケに入ってるのを確認して立ち上がる。
扉を開けると、昼間に隊長ちゃんとの遠泳勝負で全力を注ぎ込み過ぎてぶっ倒れた聖女様が完全復活していた。
おう、元気になった様でなにより。だけど一時的に動けなくなるまで体力全ブッパは感心出来んぞ。
海でソレは普通に危険なのでやめてほしい。その状態で足が攣ったりしたら魔法や魔力を使おうとしても一手動きが遅れる。
「わ、悪かったよ。けど、あれはオレ的に負けられない戦いだったというか……」
ノリと勢いで頑張り過ぎた自覚はあったのか、若干バツが悪そうな表情で頬を指先で掻くシア。
だが、本人が『負けられない勝負』と言うだけあって拘りがあったのか、「でもさ」と、ちょっと言い訳する様に付け足す。
「お前とグラッブス司祭が近くにいたし、何かあって大丈夫だろ? 多分、ミヤコも同じ判断で全力で来ると踏んでたからさ、つい……」
そらね、お前さん達が溺れた、なんて事になったら全力全速で助けに行きますよ。鎧ちゃん完全起動で海割って一直線ですよ。多少海が荒れようが知ったこっちゃねぇ。
ただ、それと安全マージンを取らないのは全く別の話でしょ。気を付けろっつてんだからそこは素直に首を縦に振っとけ。じゃないと次からは海辺では浮き輪を強制装備させるぞ。
戦争中はそういった不注意や楽観が洒落にならない状況を招いたりする。
なのでシアもきっちり冷静な思考や方針を元に行動をとっていたのだが……平和になった現在のプライベートでは、結構ノリや勢い任せな面が見えて来る様になった。
或いは、これがシア本来のライフスタイルなのかもしれない。のびのびと平和を満喫してる事自体は魂フェチに見ても大変に満足なので文句とかは欠片も無いんですけどね。
まぁ反省はしてるみたいだし、次からは気を付けてくれるだろう。後は何かあっても俺がどうにかすればいい。
我ながら今生イチ推しの友人にはゲロ甘な対応だとは思うが、何度も『繰り返して』終いには世界を救った聖女様やぞ。後の人生を楽しく笑って過ごす位は当たり前の権利だ。
異論がある奴がいるなら是非とも俺に言いに来て欲しい。理解してくれるまで全力でOHANASHIしようではないか。初手《銘名》使用で。
うむ、ちょっと会話が逸れた……というか思考が脱線しすぎたな。じゃ、飯を食いに行こう。
「おう、そうだな。アリア達はもう向かってるし、さっさと合流しよう」
上機嫌なシアが頷き、並んで宿の食堂に歩き出す。
スキップでもしそうなくらいに足取りの軽い聖女様は、俺の手を掴んで引っ張り出した。
「よしっ、早く行こうぜ!」
腹減ってんの? そこまで急がなくても食堂は閉まったりしないだろうに。
がっちり手を繋ぐ形になった友人に連れられ、二人で駆け足気味に歩き出したのである。
言う迄も無い話だが、女公爵肝入りだけあってここの宿は相当にデカい。
規模的には旅館に近いだろう。維持費なんかも援助してるらしいので、地味にこの町だと彼女の影響力がデカいんじゃなかろうか。
少なくとも宿においては《魔王》より丁寧に賓客として扱われているのは確かだ。つーか公爵専用の部屋とかあるみたいだし、今も特別なディナーをその部屋で頂いてる模様。
折角クインも来てるんだし、もーちょい一緒に遊んだりしたいんだが……今、彼女は公爵の側仕えっつーお仕事中だからね、中々顔を会わせる機会も無いのだ、残念。
まぁ、なんだ。要するにだ。
そんな大きな宿なだけに、食堂も相応にデカいって事よ。
宴会場みたいなところも別にあるにはあるらしい。後発メンバーが合流して人数が増えたらそっちを使って宴をやる予定もあるので、今から楽しみだ。
それはともかくとして、先ずは夕飯である。
「それじゃ、いただきまーす」
「「「いただきます」」」
うむ、いただきます。
大人数なので自然と食堂の一画を占拠する形になっている俺達は、シアの一声に併せて一斉に唱和し、掌を合わせた。
現在、食堂にはバカンス参加者ほぼ全員が揃っている。
居ないのは先にも述べた女公爵と、後は本日から参加のレーヴェ将軍と御付きの数名の騎士だ。
特に後者は「いいから休め」と無理矢理こっちに放り出された様な状態で来たので、どうしても今日中にやっておきたい書類だけは片付けておくと宛がわれた部屋に籠っている。
結局休んでない気もするが、「今日中には終わらせる」と言っていたらしいので明日からしっかり休暇を楽しむ為の最後の一仕事、って事だろう。
既に夕飯の準備は万端、海の幸をふんだんに使った様々な料理が卓の上に所狭しと並んでいた。
ちなみに飯時も喧しいイメージがあった《魔王》だけど、予想に反してかなり静かだ。
どうやら事前に「食事を台無しにしたら次から宿の飯は抜き。自分で魚でも獲って食ってろ」と《災禍》の面々から言い含められているらしい。
それだけでは大人しくしてるか怪しいもんなのだが、本人もしっかり味わって食うのに集中してる感があるので意外と大丈夫そうだ。
「うめぇ……細やかな調理のされた飯ってやっぱ良いよな。文明的な食事って感じがする」
「なら小遣い削られたり飯抜きにされる様な行動を減らしましょうよ……」
一口一口、丁寧に食事を噛みしめてしみじみと頷く自国の筆頭に《不死身》が憐憫と呆れが半々になった視線を向けて呟いている。
「無理だっつうの。大将に延々大人しくしてろっちゅーのは魚に泳ぐな、飲兵衛に飲むなと言ってるのと変わらんぞ」
「失敬な。俺の酒への愛を頭領の言動と同列に並べないでよ」
「お前ら揃いも揃ってひどくない? ……お、これも美味いな。酒くれ酒」
《万器》と《赤剣》の会話に眉を顰める《魔王》。
しかし飯の方に集中しようと思い直したのか、いそいそと渡された麦酒を杯に注いでいた。
会話はいつもと然して変わらないが、一番のトラブルメーカーが大人しいので魔族領幹部共は実に穏やかに食事している。
この分なら、少なくともこの旅行中は飯の時間が台無しになる可能性は低そうだ。
海の幸を味わう、これが重要な目的の一つでもある俺達としても一安心っすわ。
「うわぁ……ねぇねぇにぃちゃん、これロブスターかな?」
大皿にドカンと乗った大振り過ぎる剥き身の甲殻類を指さし、右隣のリアが目を輝かせる。
あー……そんなに詳しい訳じゃないけど、多分違うな。普通のエビだわコレ。
妹分の顔がキョトンとしたものになった。
気持ちは分かる。サイズ的には伊勢海老に近いので、正直言った俺の方も若干自信が無い。
「エビなの? この大きさで?」
多分だけどね。異世界産はサイズもパねぇって事やろ。
宿の人に聞いたけど、大型の魚も大当たりのときはヤベぇレベルでデカいらしい。
引きだけで小型船は転覆しかねないサイズだったりするみたいだし。
「船が……それって魔獣化してない? というか何百キロになるんだろ」
一匹丸々は結構な大人数でもない限り、食いきれないサイズやろなぁ。
とりあえず食ってみるか。そっちはいる?
「うん、デッカいから端っこだけ」
「あ、じゃぁオレも」
あいよ、じゃ三人分ね。
左隣のシアも手を挙げたので、ボイルされたエビに手を伸ばして尻尾を半分からぶちっと千切る。
ボイル自体は軽めだな。鮮度の高さを示す様にエビの身はプリップリだった。
三人同時に口に運ぶ――うん、美味い美味い。
デカいし、大味だったりするかもと思ったがしっかりと甲殻類の旨みを感じる。
意外な事に香辛料の利いた、ちょっとエスニック風にも思える味付けだ。
この世界だとどういうカテゴリのなのかは知らんが、美味い事には違いないので問題無し!
「へぇー、味付けが独特だけど、美味しいね!」
「だな。次はエビマヨとか食ってみたいな。このサイズでやるのは浪漫がある」
エビマヨか、いいね。
少なくともこの町ではマヨネーズを見ていないが、いっそ聖殿に戻って食堂から貰って来るのもアリだな。時間も掛からずサッと行き来できる《門》の利便性と頼もしさよ。
左右のシアリアが姉妹で舌鼓を打ち、それに倣って俺も取り分けたエビを頬張って飲み込む。
すると、向かいに座る隊長ちゃんが、取り分けていた小皿をこっちに差し出してきた。
「先輩、こちらをどうぞ――多分これ、マリネです」
え、マジで?
俺は思わず、受け取った小皿をマジマジと眺める。
隊長ちゃんの言う通り、輪切りにした玉葱や青椒にイカや貝柱、赤身の魚なんかが和えてあるな。
おぉ、イカ、貝は一応火を通してあるみたいだが、魚は生だ。漬け込まれている汁も、酸味のある果実や酢の香りがする。日本のスタンダートなマリネ液のソレに近い。
マリネの元ネタは確か、海水に漬けて魚介を保存する方法だった筈だ。
この世界にも似た様な調理・保存法は元からあったんだろうが……こうまで日本式に近いのは、転移・転生者の影響とか入れ知恵やろなぁ。
フォークで魚や玉葱を刺してまとめて口に放り込む。
おう、こりゃ美味い。ほぼほぼ日本式のマリネだ。
というか生魚食うのが懐かし過ぎてヤバい。ちょっと感動していると、隣のシアが手を伸ばして来て俺の小皿に盛られたマリネにフォークを突き刺した。
そのまま魚の切り身を口に運ぶと、感激した表情で齧った断面を凝視する。
「うぉ、マジだ……生魚料理とかあったんだな……!」
眼を合わせ、二人で力強く頷き合う。
魚介の生食料理があるって事は、生で食える魚の種類が知識としてしっかり根付いてるって事だ。
これは期待感が高まる! 刺身なら直ぐにでも食えそうじゃないですかぁ!
俺の主張に、シアもうんうんと何度も首肯する。
「切実に山葵が欲しい。この際山わさびでも良いから欲しい」
その言葉には本人の言った通り、切実さが滲んでいる。刺身食いたいって言ってたもんなぁ。
隊長ちゃんから同じ様に小皿にマリネを取って貰っていたリアが、思い出した様に軽く手を挙げた。
「そういえば明日の午後、ボクら三人はこの町の魚市を見に行く予定なんだけど……他に一緒に行く人っている?」
うむ、シアが山葵欲しいと訴えているのもその辺が理由だ。
市場で刺身として食える魚をゲットしても、山葵が無ければ画竜点睛を欠くってな。
リアはサビ抜きでも気にならないみたいだが、俺もあった方が嬉しい派だ。なので買い物したときにそれとなく探してみたりはしたのだが……今のとこ見つけられていない。
リアのお誘いに、数名が手を挙げる。
「それなら私も。先輩、お醤油を使った御料理を頂くなら御相伴に預かっても良いですか?」
「拙僧は御姉妹の警護も仰せつかっています故。いや若い方々の仲睦まじき観光の時間に無粋を働く様で気が引けますが、木石の類と思うて頂ければ!」
ぶっちゃけ隊長ちゃんは参加するだろうと思ってたので全く問題無いよ。
醤油で海鮮が食える機会とか日本出身の転移者なら食い付いて当然だろう。界樹の一件で皆で大森林に向かったときも、材料があれば和食を作ってみたいとか言ってたもんね。
ガンテスも同上。別に邪魔なんてこたぁ無いし、変装中だったとはいえ、あのミラ婆ちゃんですらナンパされる事もあるんだ。護衛として非常に分り易い、見た目の威圧があるおっさんが付いてきてくれるなら、トラブルも事前にカット出来るだろう。
「遠い外国まで来たんだし、その土地の美味しい物を探し行くのは鉄板でしょ」
「リリィも参加希望です。おしょーゆ、という調味料を使った料理でしたら、是非とも食べてみたいのです」
「……そういう訳だ、我らも加わっても問題ないだろうか?」
あとは副官ちゃん、それとリリィに《虎嵐》か。
まぁ、食いしん坊な二人が手を挙げるのは当然だな。
実際、今も二人の前には結構な量の皿が積み上がっている。特に副官ちゃんはペースが早い。食事が始まってそう時間も経っていないが、早々に卓上の料理をコンプリートしそうな勢いだった。
どうやら、明日魚市に行くのは結構な人数になりそうだ。
参加してる女性陣が全員見目麗しいので、これまた素人目にも分り易い戦士の風格がある《虎嵐》がガンテスと二人でガードしてくれれば、トラブルに対してより万全になるだろう。
今日の姉弟子との買い物でもつくづく思ったが、俺は護衛という視点で見ると風格が不足しているみたいだからね。《猟犬》の悪名無しだと、哀しいかな未然防止という点では落第なのよ。
他の国ならまだ話は別だが、強面や厳ついといった概念の基準ハードルが高い魔族領だと、どうにも見た目の迫力が足りな過ぎるらしい。
その御蔭で《聖女の猟犬》だと認識さえされなければ、バトルモンガーに手合わせ挑まれる確率も極低いんだけどね。
さて、とりあえずの参加メンバーは……計八人か。
俺の呟きに、隣のシアが肩を竦める。
「ま、別に後からの飛び入り参加が出来ないって訳でもないしな。増えても問題はないだろ」
隊長ちゃんの隣で魚介のスープを興味深そうに啜っていたシャマダハル嬢ことダハルさんが、はいはーいと声を上げて提案してきた。
「出発は午後からっしょ? なら午前中は皆でまた海に行きたい!」
「そうだな、それも悪くないか」
お、シアは乗り気か。それなら午前中は海に行っとくかね。
他の連中の予定を大雑把に聞くに、《魔王》は明日一日は飽きるまで町の冒険者達や腕自慢と『遊ぶ』との事。
《不死身》はその付き添いというか、やりすぎない様にお目付け役。《万器》は女公爵と何やら話があるらしい。
《赤剣》とローガスは明日、後発組としてやってくるシルヴィーさんと一緒に酒盛り。ローガスもかなり飲兵衛の部類ではあるけど、相手は教国のザルと魔族領のワクやぞ。大丈夫? 肝機能足りてる?
「そりゃ二人と同じ量を飲めばな。自分より強い奴と飲むときは、相手が杯を空ける速さを気にしないこと、強引に勧めて来る奴とはそもそも一緒に飲まない事ってな」
そうなん? うーん……言われて見れば確かにそんな気も……。
確かに二人とも自分が飲むのは大好きだが、周りに飲め飲めとアルハラするタイプでも無い。自分のペースを崩さず飲めるなら問題無いのかもしれん。
飯が美味けりゃ会話も弾む。各々、食事の感想だったり、今日は何があった、明日の予定はこうしよう等々。和気藹々とお喋りに興じながら、和やかに食事は進んだ。
副官ちゃんが食卓に並んだ品を制覇し、二巡目に入った辺りで《万器》のオッサンが酒の肴であるナッツ類をボリボリと噛み砕きながら声を上げる。
「言い忘れとったが、漁場にゃワシらの同僚がおる。明日は午前中に確認して、お前さん達に融通を利かせる様に話通しとくぞ」
何気に気配りの利いた申し出だが、ちょっと気になるワードがあったのは皆同じらしい。
そういえば初日に、他の幹部に《不死身》が連絡を取りに行ったとかなんとか言ってた様な……この町にいるって?
代表する形でシアが不思議そうに問いかける。
「有難い話だけど……同僚、って同じ幹部って事か? 王都にいる面子以外、オレも殆ど見た事ないけど」
……これ、暗に『繰り返し』も含めて、って事で言ってるな。
大戦中、なんとか状況を好転させようと、周回ごとにあれこれ試行錯誤して色んな奴と接触を持っていたウチの聖女様が殆ど知らんって相当だぞ。
かく言う俺も、最後の総力戦のときに遠目にそれらしき連中を見たかもしれない、程度だ。王都外にいる他の《災禍》は普段何やってんねん。
「まぁ、知っての通りワシらの領は広さだけはあるからの。王都におらん奴らは、普段は離れた地域や特定の場所を縄張りにしとる」
オッサン曰く、他数名の《災禍の席》は其々に故郷から離れず定住していたり、広大な魔族領を巡回する形で過ごしているのだそうだ。
元からそういうライフスタイルだったのを、後追いで実力的に幹部に相応しいという事で席次だけを与えた、という連中ばかり。
なので基本、縄張りだと認識してる地域から出てこないのだとか。
今回は南部周辺で巡回生活してる《災禍》の一人が、この時期だと町に漁師として長期滞在している、との事だった。
「じ、自由すぎる……《刃衆》らも相当融通の利く職場だとは思ってたけど……」
「レーヴェ将軍より一個だけ下、くらいの立場の人が領土の端っこで漁師やって暮らしてるって事? ちょーウケる、魔族領パねぇ」
副官ちゃんとダハルさんの其々の台詞を否定する奴はいなかった。
事実、頭領が同じ町にいるのに挨拶にすら来てないしね。「用があんならそっちから来て、どうぞ」くらいのノリをひしひしと感じる。
まぁ、そもそも幹部の選考基準自体が『《魔王》がある程度は本気だして遊べる奴』だしなぁ……。
必然的に人外級オンリーになるし、いくら魔族領が広いって言っても早々そのレベルの人材が見つかる筈も無い。
もし相当する実力者を見つけたら、よほど人品に問題でも無い限りは取り敢えず任命だけしとけ、くらいの感じなのかもしれない。実際、今でも席に欠番はあるみたいだし。
ま、何はともあれ、腕っぷしがモノをいう魔族領。
力自慢や喧嘩自慢の多い漁師達の中に《災禍》が混ざってたらリスペクトされてるのは間違いない。そんな人物が融通を利かせてくれるなら、俺達の探す食材も手に入るかもしれない。
「そうだな……オレとしてはやっぱマグロが良いな。本マグロなんて贅沢は言わないからミナミかメバチが食いたい」
「ボクはホタテ系! このマリネに入ってるやつよりでっかいのをバター醤油で食べてみたい!」
夕飯を食いながら、既に明日買う食い物の話で盛り上がる聖女様である。
気持ちは分かるけどね。やっぱこの世界で醤油や味噌で飯が食えるってのは、日本出身者にとって重要よ。想い出補正も含めてテンション上がるのは仕方ない。
「蜆があったら買っていこうかしら……お味噌の方は試験的な量産を始めたみたいだし」
口元に手を当て、小さく呟く隊長ちゃん。
……それはもしかしてしじみの味噌汁をお作りになるという事でしょうか?
我ながら分かりやすく前のめりになって聞くと、彼女の表情が悪戯っぽいものになる。
「はい。ローレッタさん経由で少しだけ分けて貰える事になっているので――飲みたいですか?」
はい!(即答
……ハッ!? 気の利いた返答とか考える前に脊椎反射で手を挙げていた……!?
一人で勢い込んでる俺のアホ面を見て、隊長ちゃんが小さく笑いながらこちらに向けて手を伸ばしてくる。
「それなら約束しておきましょう。指切りげんまんです」
おっ、良いの? なら是非ともお願いしたいですねぇ!
テンションが上がる儘に向けられた白く細い小指を自分の小指を絡めようとして――何故か隣のシアが俺の手をガッシとばかりに掴んだ。
「いや、味噌が供給されるなら料理長に頼めば良いだろ。わざわざ帝国に行くつもりかお前」
「先輩、お味噌汁の他に味噌煮やみぞれ煮もご用意できますけど」
「オイコラ! 和食で釣るとか反則だろうが!?」
「あら、レティシアも何か作れば良いでしょう? 少量なら先輩のお醤油もそう消費しない筈だし」
「うぐっ……! こいつ、自分が料理得意だからって……!」
ちなみに料理の腕は隊長ちゃん>>>リア>>>>シア≧俺って感じである。他の面子は分からん。
この場に居ないが、シグジリアとトニー君なんかも料理上手の類だったな。特にシグジリアには醤油をちょっと渡したし、主婦業をバリバリ熟してるのでこれから更に腕を上げていくだろう。
またもや謎の競り合いを始めたシアと隊長ちゃんを眺めつつ、俺は深く、強く頷いた。
うむ。醤油と味噌が実際に手に入る段階が近づいて来た御蔭で、和食への道が一気に開かれた感がある。
ならば、ここは最後の重要なピースを手に入れるべきだろう。
キリッとした顔を意識的に作り、右隣のリアに首を向ける。
そんな訳でアリア君。にいちゃんバカンス終わったらちょっくら霊峰に行って米を――。
「「「「「それはやめろ」」」」」
この場の殆どの奴が会話を中断し、ゼロセコンドで突っ込んできた。
《不死身》曰く、ちょっと前に《万器》が同じ様な真似を既に実行済みなのだとか。
半分冗談のつもりだったがマジでやったのかよ。自由人過ぎるだろ。
呆れと共に突っ込み返したんだが、返って来たのは多数の胡散臭いものを見る目付きだった。
俺の冗談だという主張は何故か受け入れて貰えないらしい。解せぬ(白目
まぁ、そんな感じで。
明日の予定にテンション上げつつ、楽しい食事の時間は過ぎていくのだった。
いやー、飯も美味いし大満足。その上明日も楽しみが多い。
テンション上がっちゃって、ちゃんと眠れるか心配だなこりゃ。
◆◆◆
時刻は既に深夜。
町の灯も殆どが消え去り、暗闇を照らすは月と満点の星明り。
夜の静寂を優しく押し退ける様に、そこかしこから虫の音が響き渡っている。
つい先刻まで大騒ぎしていた今回の各国の旅行参加者達も今は寝床に入り、その多くが微睡みの中であった。
長期旅行も未だ前半。胸躍る出会いや益々盛り上がっていくであろう明日への期待。
大小差はあれど、参加者達の多くが興奮を抑えて眠りについた、そんな夜。
聖女の守護者にして猟犬たる青年は、不思議な夢を見た。
見た事の無い、不思議な場所と、見た事も無い者達。
知らない筈の――だが、奇妙な程に既視感や親しみを感じるその光景の中を、唯一の既知である人物が歩く、そんな夢だった。
それは何かの予感か、或いはあくまで夢現の幻であったのか。
白く、濃い湯気が立ち込める不可思議な空間。
その湯けむりの発生源である、足元に拡がる踝ほどの深さのぬるま湯。
殆ど音も立てず、滑る様な足取りで進むのは、金灰の髪をした妙齢の女性であった。
明らかに尋常のものではないその空間を、彼女は迷う事無く進む。
背筋を伸ばし、一直線に前へと進むのは、女性にとってこの空間が既知であるからか――もしくはこの場に対して何かの確信があるのか。
静かに湯を掻き分け、女性は歩き続ける。
暫しの先、湯けむりの向こうより現れたのは塀に囲まれた庵であった。
立ち止まり、塀を見上げる切れ長の瞳が少しばかり訝し気に細められる。
それも当然であった――なにせ、塀は全方位に屹立している。正門の類はおろか、勝手口すら見当たらない。
顎下に指を這わせ、思案する様に立ち尽くす女性。
その鉄面皮の如き表情が微かにくずれ、少しばかり眉根が寄る。
――と、そのときであった。
唐突に、本当に突然、女性の傍に一人の若者が現れる。
幻か、はたまた蜃気楼の如く像をゆらめかせて出現したその人物は、一見してごく普通の一般人。
風貌・服装共に、大きな特徴の無い、何処かの街で暮らすごく普通の年若い青年であった。
不自然な出現をした若者を警戒する事も無く、女性はジッと彼を凝視する。
その視線に苦笑を浮かべる事で応えると、彼は塀に近づき、その壁面に手を当てた。
重い音と共に、何の変哲もなかった土壁に継ぎ目が走る――どうやら壁に偽装した隠し扉であった様だ。
扉を開け放ち、手振りだけでどうぞ、とばかりに若者は塀の奥を指し示す。
女性は隠し扉の先に佇む庵に目を向け……ややあって彼に向かって丁寧に一礼した。
軽く頭を下げて手を振る若者に見送られ、金灰の髪を靡かせて女性は扉を潜る。
夢見の主たる青年にとってはある程度馴染みのある日本式の家屋だが、彼女にとっては未知の建物だ。
ほんの少し戸惑いを見せつつ、正面玄関らしき場所を見つけて扉を開けようとする。
引き戸に鍵は掛かっておらず、扉の木枠とレールが擦れる音を立てて問題無く入口が開いた。
内部は庵らしき外観に違わぬ、日本的な装いだ。
奥まで板張りの廊下が続き、その脇には幾つかの部屋の入口が見える。
そして、玄関口の傍――そこに置かれた木造りの椅子の上に、やはり幻の様にゆらりと人影が現れる。
眼鏡を掛け、書物を手にした魔導士風の出で立ちのその男は、椅子に腰かけたまま女性の足元を指さし、次いで玄関前に並べられたスリッパに視線を向けた。
数瞬思考する女性だが……直ぐに気付いたのか、ブーツを脱いで玄関口の端へと並べるとスリッパの一つを手に取り、足を入れる。
そのまま本を広げて読書の態勢に入った男に向けて軽く一礼し、彼女は庵の廊下を歩き出した。
この先に何か――或いは誰かが居るのか、女性の表情には少なからず緊張が浮かんでいる。精神の強張りが歩の乱れとして現れたのか、踏み出した先にある板張りの床が一度だけ微かに軋んだ。
最初の部屋へと続く襖を前に立ち止まり、彼女は深呼吸を行なう。
きっかり二秒、目を閉じて気息を整えると、襖の引き手に指を掛けて開け放つ。
はたしてその先に拡がる畳張りの和室は……無人であった。
彼女にとっては見慣れないであろう室内を、じっくりと見廻し。
やがてお目当ての『何か』は見当たらなかったのか、小さな溜息と共に少しだけその肩が落ちる。
そんな彼女の肩を、三度目となる唐突に現れた人影が掌で叩いた。
振り向いた先にいたのは、身体のあちこちに傷痕はしる、魔族の女戦士である。
立ち姿や、やや露出の多い鍛え上げられた体躯からして、相当な使い手であろう事が伺えるその女は、頭一つ低い位置にある女性の顔を見下ろし――ニッカリと笑う。
快活さと、何処か悪戯っぽい雰囲気の滲む笑み。
そんな笑顔を浮かべた儘、女戦士は親指で廊下の奥を指し示した。
その先……突き当りにある部屋へと続く襖を見つめ、女性は改めて女戦士へと向き直ると黙礼を行う。
やはり笑って鷹揚に頷く女戦士に見送られ、女性は真っ直ぐに廊下の突き当りへと進んだ。
最初の襖を開けた際に心の準備は済ませたのか、次は立ち止まる事無く引き手に指を伸ばし、そのまま勢いよく襖を開放。
ピシャン! と良い音を立てて開かれた襖の先。
そこにあったのは、最初の部屋とそう変わらぬ小さ目の和室である。
――だが、一つだけ違いがあった。
同じ様に部屋の真ん中に備えられた卓の上には、紋様の彫りこまれた小さな木板が幾つか置かれた儘だ。
女性は無言で卓に近づき、膝をつく。
常と比べてひどく穏やかな表情と共に、その切れ長の双眸が過去を懐かしむ様に細められる。
卓上の木板に指が伸ばされ、作り掛けらしきソレの表面をそっと優しく撫でて。
両の瞳を閉じて嘗ての記憶を反芻する彼女であったが……ふと、何かに気付いた様に唐突にその頤を上げた。
転じた視線の先は、部屋の壁際にある出入口とは別の襖――要は押入れである。
暫しの間、しっかりきっちり閉じられた押入れを胡乱な目で見つめていた女性だが、やがてその目付きは幾らかの呆れを含んだものに変わった。
静かに、音も無く立ち上がる。
押入れの襖の前で腰に手を当てて立ち止まった彼女は、無造作に伸ばした手でそれを開け放った。
再びピシャン! という襖独特の鋭い開閉音が室内に響き渡り、閉じられていた押入れが露わになる。
布団の類をしまったり、屋内の物置として利用されるそのスペースには、特に物品や寝具の類は入っていなかった。
代わりに、そこにいたのは一人の少女だ。
長い黒髪にメッシュの様に真っ白な一房が混じる、小柄な女の子である。
狭い押入れの中でしゃがみ込み、丸まって耳を塞いでギュッと目を閉じている様は、なんというか親に叱られるのが怖くて隠れている子供を思わせるものだった。
真っ暗な押入れに光が差した事に気が付いたのか、ビビリ散らかして真一文字に引き結ばれていた口元がピクリと動く。
おそるおそる、といった感じでその両目が開かれ。
――その紅玉の様な紅い瞳が、仁王立ちで見下ろす金灰の髪の女性の姿を捉えた。
「――――!?」
何故バレた!? と言わんばかりに驚愕の表情を見せる少女は、反射的に立ち上がろうとして押入れの天井に頭をぶつける。
狭い押入れの中、器用に痛みで七転八倒する少女。
だが、その瞳に浮かぶ光は、喜びと混乱、怖れやうしろめたさ……様々な感情が複雑に絡み合ってごった返しているようで。
そんな少女の瞳を見て、彼女の姿を見た瞬間、鉄面皮が全身にまで及んだかの様に表情と身体が固定されていた女性が、ようやっと動き出した。
ひどく衝動的な、少々乱暴ですらある動きで、女性は少女の肩を掴む。
そしてそのまま強く――本当に強く、抱き寄せた。
「――――。――――」
震えの混じる声で呟かれた囁きは、どんな言葉であったのか。
だが、少女を抱きしめる腕は、小さく掠れた声より遥かに雄弁であった。
ずっと、こうしたかった。こうしてあげたかった。
そんな、声なき声が伝わって来る。
その腕の中にある少女の真紅の瞳が見開かれ。
躊躇いがちに女性の身体へと少女の腕が回され――指先がその背に触れた瞬間、服の生地に皺が寄り、背中に食い込む程の強い力で抱きしめ返す。
祈りにも、願いにも似た、互いへの抱擁の時間。
それはきっと――本来ならば叶う筈も無かった、奇跡の様な母娘の再会の証であったのだろう。
やがて、嗚咽を堪えるような、子猫の唸り声の様な音が少女の喉から上がる。
例え夢幻の出来事であろうと、抱き合ったぬくもりと彼女達の頬を伝う雫の熱は、決して偽りではない。
そう思えるものだった。或いはそうである事を願うべき再会だった。
その夜、聖女の猟犬は不思議な夢を見た。
それは何かの予感か、或いはあくまで夢現の幻であったのか。
夢はあくまで夢、そう言ってしまえばそれまでだ。
だが、それでもその光景は。
訪れるいつかの再会を予見した、優しい未来を映した夢であったのかもしれない。