アンナの受難
アンナ=エンハウンスは騎士である。
守るべき民と、背を預ける戦友と、尊敬する愛しの隊長と、あとついでに皇帝陛下の為に、剣を執り戦う事を生業とした戦士である。
大戦が終わったからといって騎士の仕事が終わる訳ではない。
先の一件の吸血鬼然り、邪神の軍勢の残党達も各地に潜み、存在している。
憧れであり、目標である隊長の隣に立って戦う為にも、日々精進あるのみであった。
幸い、出向先である聖教国には猛者も多い。
聖女姉妹を筆頭とした高名な聖職者の他にも、あの戦争を生き残った腕利きが多数在籍しており、腕を磨く機会は多く、充実していると言えた。
そして今回。急に捩じ込まれた話ではあったが、己の上司であるミヤコ隊長も聖都に出向する事になったのだ。
あの困った駄犬に振り回される形で一度帝国に戻る事にはなったが、おかげで隊長が一緒に来てくれたと考えれば寧ろ感謝しても良い位である。
修練は捗るし、ご飯は美味しいし、聖都は良いところだ。
隊長がいない事だけはアンナちゃんポイント的に大きくマイナスだったのだが、これで唯一と言ってもいい不満は無くなった。
自分と違って短期出向なのは残念だが、己と隊長が所属している部隊の事を考えれば贅沢は言えない。
一緒に過ごせる時間を大切にしつつ、先に出向していた経験を生かし、良い処を見せて褒めてもらおう。
嘗て駄犬は、副官ちゃんは身体の必須栄養素にミヤコニウムが入ってる人類だから仕方ないね、等と言っていたのを思い出す。
珍しく良い事を言うものだ。と、素直に礼を述べたのだが、何故か奴は処置無しィ! と天を仰いで叫んでいた。とりあえず馬鹿にされてるのは分かったので蹴っておいた。
尊敬できる上司を敬愛する事の何が悪いのか、まったくもって失礼な奴だ。
美人で優しく、穏やかで普段は控え目ですらありながら、いざ戦場ともなれば圧倒的な武力を持って並み居る敵を斬り伏せる。
黒髪黒目は転移者によく見かけるカラーではあるが、隊長ほどの美しい黒髪と黒瞳はアンナは他にお目にかかった事が無かった。
スタイルも抜群で、とくに大きなお胸とほっそいお腰のくびれの生み出す曲線はアンナちゃんポイント+1000でも足りないげーじゅつひんである。
あのくびれを眺めながらであれば、自分はパンを無限に食べれる。お腹一杯になるまでくびれだけでいける。
こちらに出向して間も無い頃、聖女姉妹の片割れ――妹御であるアリア様にそう力説していた処を鬼シスターに見つかって正座させられた事も、今となっては懐かしい思い出だ。
やや話が逸れた。
とにかく、アンナは隊長を尊敬している。
こちらに転移してきて二年足らずで《刃衆》が作られる切欠を作ったその武力も、穏やかな中にも強固な芯を感じさせる内面も、敬愛するには十分過ぎる程の要素が揃っていた。
聖都への出向で会えない時間が長かった分、共に仕事ができる喜びも一入である。
そして、今。アンナの推して止まない隊長は――。
いつもの優しい微笑みを浮かべた穏やかな立ち振舞いは何処へやら、物凄い無表情で愛刀の手入れをしていた。
今二人が居るのは、大聖殿内にある来客用の応接室だ。
先行して走っていってしまった隊長の馬を引きながら、聖都に戻ってきて明くる日。
短期出向の挨拶を兼ねた聖女との会談、という形での友人との再会に、立場上、アンナも当然同席する事になった。
予め、決められていた会談の場所――即ち此処で、隊長はソファに腰を下ろすとテーブルの上に道具を広げだしたのだ。
目釘こそ抜いていないが、打ち粉に拭紙、各種油に油紙と、刀身の手入れに余念が無い。
勿論、帝国のお抱えの鍛冶師に定期的に調整はしてもらっている。アンナの双剣もそうだ。
それでも以前から、隊長は自らが行う手入れを欠かしたことは無い。
「命を預ける得物ですもの。本職の人に比べれば拙いでしょうけど、自分で感謝を込めて綺麗にしてあげるのは良いものよ?」
と、にっこり笑うその表情は、アンナちゃんポイント+300ものだった。
優しく、丁寧に愛刀を拭き上げるその姿に、おい、ちょっとそこ代われ。と隊長の手の中の湾刀に嫉妬したのは秘密である。
そんなワケで、彼女が己の剣を労る光景自体は、そう珍しいものでは無い。
だが、いつもの笑顔が、今は無い。
表情筋が1ミリも仕事をしていない。感情が抜け落ちたような面持ちで、無言のままソファに腰かけて手入れを続けている。
そんな彼女の背を眺めて暫く経つが、とうとう堪え切れずにアンナは声を掛けることにした。
「あの……隊長?」
「なぁに、アンナちゃん?」
いつも通りの優し気な声だ。
――ただし、表情筋が死んでいる。
どうしよう、隊長が怖い。
黙り込みたくなるが、一度声を掛けてしまった手前、アンナはなんとか疑問を声にして絞りだす。
「これから、聖女様――レティシアと出向挨拶を兼ねた、会談ですよね?」
「えぇ、そうね。もうそろそろ来る頃だと思うわ」
じゃぁ何で今、剣の手入れをしてるんですか? というのが本当の疑問なのだが、言える訳が無かった。
疑問を飲み込んで結局黙ってしまったアンナを他所に、隊長は手慣れた様子で油紙で最後の一拭きを行うと、静かに刃を鞘に納める。
「やっぱり、直前に手入れをしてあげた方が、なんとなく刃筋が滑らかに通る気がするの」
そう呟いて、此方を振り向いた彼女は――いつも通りの笑顔だった。
先程までの虚無顔は幻だったのではないかと思うほどの、いつもの優しい笑顔なのだが……アンナは何故かそれに引きつった笑顔を返してしまう。
――直前ってなんですか。この後、抜く予定があるんですか。
当然、この疑問も口にだせる訳が無かった。
いつもなら至福であろう隊長と二人っきりの時間を何故か重苦しく感じていると、遠慮のないノックが応接室の扉から響き、お~い、開けてくれー。なんていう、友人の声が聞こえてきた。
立ち上がろうとする隊長を押し止め、私がやります、とアンナが扉に向かう。
ドアノブを捻ると、その向こうにはティーセットの載ったトレイを抱えた金糸の髪の聖女――レティシアが居た。
「やぁ、悪い悪い。見ての通り両手が塞がってるからさ」
「いや、自分で持ってこないで誰かに淹れさせなさいよ、立場ってもんがあるでしょ」
というか、足でノックするの見られたら後でアンタも中庭行きじゃないの? と呆れた目を向けるアンナに、そこは黙っていてくれると助かる、と笑いながら返してレティシアは応接室に足を踏み入れた。
聖女という肩書きも殆ど気にしていない明け透けな態度は、アンナ的には好ましい。
なので、出会った当初から二人は良い友人関係を築けている。
さっきまで湾刀の手入れ道具が広げられていたテーブルに、今度は緩やかに紅茶の香りを立ち上らせるティーセットが置かれる。
レティシアが手ずから茶を淹れるのを眺めながら、アンナは隊長の後ろにそっと控え、手を後ろに組んで直立した。
「? なんでそんなとこに立ってるんだよ、こっちに座ったらどうだ?」
「そうよアンナちゃん。そんなに堅苦しい場でもないでしょう?」
不思議そうに首を傾げる二人に、いえ、一応会談という形なんでこのまま控えてます。とソファに座る事を固辞する。
決して座ることによって逃げ場が失われる、逃げるのが遅れる事を危惧した訳ではない。
そもそも何から逃げるというのか。あくまで聖女と《刃衆》の長が会談を行う場に侍る立場として、立ち位置を弁えたに過ぎない。座ることに何故か生存本能を刺激されたりはしていない。断じてしてない。
「まぁ、アンナがいいっていうなら、そのままでもいいけどさ」
レティシアが軽い口調でそう言って、直後。
「――さて」
「えぇ」
異口異音で、金色の聖女と、黒髪の戦乙女は同時に頷いた。
「久しぶりだな、ミヤコ。元気そうで良かった」
「お久しぶり、レティシア――変わり無いようで安心したわ」
視線が交わり、お互いに笑顔を浮かべて互いの壮健を喜ぶ言葉を交わす。
何気ない、再会の挨拶だ。
だというのに、何故か応接室にカーンというゴングの音が響き渡った気がした。
「あとでアリアにも会ってやってくれよ、アイツもミヤコに会いたがってたし」
「えぇ、勿論。私もアリアちゃんに会うのは楽しみですもの」
ニコニコと笑顔で穏やかな会話を続けるレティシアと隊長に、何故かただならぬ圧迫感を覚えながらアンナは密かに息を飲んだ。
おかしい。自分が知る限りでは、二人はそこそこ以上に気安く、良好な関係を築いていた筈だ。
間に駄犬が挟まると妙な緊張感を走らせる事もあったが、今回のソレは今までの比では無かった。
額に汗を浮かべるアンナの胸中など置き去りに、表面上は穏やかなやり取りの中、レティシアが何気ない様子でジャブを打つ。
「そういえば一昨日、一人で先行して聖都入りしてたんだって? あんまりアンナに負担を掛けてやるなよ?」
「それは昨日の内に謝ったわ――でも、確かにそうね、ごめんねアンナちゃん?」
こちらを振り向いて申し訳なさそうに眉をひそめる隊長に、いえ! あのくらいなんでもないです! とついつい鼻息も荒く返してしまう。
これは本心だ。酷く焦燥に駆られた様子だった隊長のお顔が晴れ渡るなら、アンナ的にはあの程度、負担の内にも入らない。
憂いに満ちた横顔も素敵なのでアンナちゃんポイント+50なのだが、やはり何時ものような優しい微笑みのほうがポイント5倍なのである。
力強い返答に、安心した様子で頷いた隊長は笑顔に戻ってカウンターを叩き込んだ。
「そう言ってもらえて、とっても助かるわ――だって……フフッ、先行したおかげで先輩と大切な約束ができたんだから」
「――へ、へぇ」
胸に手を当てて、記憶を丁寧に噛み締める様に微笑む隊長に、レティシアが頬の端をヒクつかせて反応した。
約束とやらについてはアンナも気になる処ではあるが、正直今はそれどころではない。
謎の圧迫感はいよいよもって強くなり――明確に二人の放つ圧となって部屋を満たさんとしていた。
「オレは聞いてないなぁ……ちなみにどんな約束をあの馬鹿としたんだ?」
「それは勿論――秘密よ。先輩と私だけの、ね?」
膨れ上がり、応接室に限界以上にまで詰め込まれた圧力が空気を軋ませたような気がする。
まさか、この二年鍛練を欠かさなかった己を呪うことになるとは思わなかった。
二年前の自分なら、この時点で気絶出来てたかもしれないのに。
二人の放つ空気に、深海に沈んで圧縮された瓶になったような気分で遠い目をするアンナ。
「まぁ、なんだ。市場で派手な再会劇をやらかしたみたいだけど、人のモンに手ェ出してんじゃねぇぞコラ」
「あら、大丈夫よ。先輩は赦してくれたし、何よりは? そもそも貴女のモノじゃないでしょう」
会話で殴り合っている両者の放つ重圧に耐えきれなくなったのか、紅茶のカップにピシッと音をたててヒビが走る。
――もうやだ、おうちかえりたい。
今の二人の意識が間違っても自分に向かない様、必死に気配を殺して石ころと化そうとしながらアンナは内心で悲鳴を上げた。
会話の流れから、なんとなく察した。これは本来自分が味わうべき修羅場ではない。
脳裏に駄犬のアホ面がよぎり、おまえちょっとこっち来い、すぐに変われ。と呪詛を飛ばす。
「はははっ、祝福かぁ。アイツはオレの相棒だから、街の人達はちょっと変な勘違いをしちゃってるみたいだなぁ……あとで変な噂にならないよう、火消ししといてやるよ」
「ふふふっ、いいのよ、別に? そのままでも――それに私、思うんだけど」
レティシアも隊長も、ずーっと笑顔のままではあったが、ここで隊長が更に笑みを深め、華やかに、楽しそうに宣った。
「アイドルの追っかけって、あちらでもあったでしょう? ――熱心な人でも、推しのアイドルと実際に家庭を持つ相手って、大抵は別なものだと、そう思わない?」
ピシリ、と空気に致命的なヒビが入った。
今の応接室は、まともな生存本能の持ち主なら近づく前に全力できびすを返すであろう重苦しい空気が、膨れ上がった風船より酷いレベルの過圧状態で詰め込まれている。
――ここが地獄だ。アンナは静かに確信した。
「そうかー、アイドルの追っかけかぁ。ユニークな視点って言った方がいいか? ふ、は。はははははははははははは」
「無理に褒める必要は無いわ、だって私がそう思ってるだけだもの、ね? うふ、ふふふふふふふふふ」
もう勘弁して、おうちにかえして。ねるならゆかじゃなくておへやのべっどがいいの。
ギャリゴリと悲鳴と軋みを上げて空間が捻れて歪んでいくような、そんな錯覚を覚えながらアンナが意識を手放そうとしていると、空気を変えるような一言を放ったのは、やはり隊長だった。
「――前置きはこの辺りにしておきましょう、レティシア。先輩の『治療』について聞きたいの」
その一言がもたらした反応は、劇的だった。
笑顔のまま、ドラゴンだって腹を見せて恭順の鳴き声をあげそうな重圧を発生させていたレティシアが、一瞬顔を強張らせ、次に頬を赤らめて、そしてそのまま目を大きく泳がせる。
そんなレティシアを見て、隊長は目を細め、表情がストンと抜け落ち、最後に口元が何かを我慢するように引きつった。
霧散した応接間の重苦しい空気に、気絶しなかった事を喜べばいいのか、気絶出来なかった事を嘆くことにすれば良いのか。
どちらにしても地獄、といった風情ではあったがそれよりも気にかかる事がある。
その治療とやらもそうだが、アンナが気になったのは、その前。
(いや、ちょっと待って前置き!? アレが前置きなんですかたいちょー!?)
私それで失神しかけたんですけど!? という思いと、じゃぁ本題は!? という恐怖で、どこぞの馬鹿の様に白目を剥きたくなる。
戦々恐々としているアンナを他所に、一気に勢いが失われたレティシアが、目を逸らしたままごにょごにょと呟いた。
「いや、それに関しては一応、最上位の治癒魔法技術も関わってるし、聖教会の秘に掠める部分もあるからちょっと詳細は言えないというか……」
「先輩は、自分は寝ているだけだから、全く内容は知らないと言ってたけどナニをしているのか聞いても良いのかしら?」
口ごもるその言葉をばっさりと切り捨て、隊長は単刀直入に切り込んでゆく。
傍から見ていれば、レティシアにある何らかのうしろめたい点を突いた隊長が、彼女を追い詰めている様にも見えるが――
――どうにも嫌な予感がして、アンナの背筋に悪寒が走る。というか現在進行形で止まること無く走っていた。
(あ、これ駄目なやつだ。このまま話を進めると絶対酷いことになる)
持ちたくもない確信をはっきりと抱くハメになり、さりとて口を出せる訳もなく、大嵐を木陰で必死にやり過ごす小動物のような心持ちで祈るのみである――ホントふざけんなあの駄犬。あとで覚えてろ。
「術式や魔力操作の説明は別に聞かなくてもいいの。ただ――そうね、見学でもさせてもらえると嬉しいのだけれど?」
「良いわけねーだろ! できるかそんな事!」
顔を真っ赤にして反射的に、といった様子で叫んだレティシアが直後に己の失態に気付いたように口を噤むが、その時点で隊長は何かを確信したのか、数秒、顔を俯かせて――
再び面をあげたとき、そこには本日一番の美しい笑顔があった。
こんな状況でなければ即座に脳に丁寧に丹念に焼き付け、永久保存したくなるようなアンナちゃんポイント+1000オーバーの女神様を思わせるスマイルである。
なお、今保存すると思い返す度に状態異常:恐怖が付与されるトラウマ映像になってしまうので泣く泣く断念した。
威圧も喧嘩腰の雰囲気も無い、只々美しい笑顔に、怯んだようにレティシアがソファの上で身を仰け反らせる。
気持ちは分かる、先程までの笑顔と違って一切重圧が無いのが逆に怖い。怖いが、完璧にただの巻き添えな分、味わっている理不尽度はアンナの方が遥か上である。駄犬共々、悔い改めろ聖女。
そのレティシアは気圧されたまま、隊長の様子を伺いながら歯切れ悪く言葉をぶつ切りで零した。
「あー……ミヤコ。さっきのは、その、なんというか、そういう意味じゃなくて、だな?」
「なんですか何か言いたいことがありやがるんですかえぇ聞くだけなら聞いてあげますよこの性女」
句点は全てレティシアにくれてやった、と言わんばかりにワンブレスでぶった切る隊長。
というか今、その口からとんでもない罵倒が聞こえた気がする。
こんな新たな一面知りとうなかった、でもそんな隊長も素敵。とアンナは現実逃避気味に思考した。
進退窮まった、といった感じのレティシアだったが――
ふーっと。大きく息を吐くと、唐突に落ち着いた様子で無言でテーブルの上の茶器を――自分のだけでなく隊長の分まで片付け始める。
カチャカチャと小さな音を立ててトレイに一纏めにされてゆくそれを、同じく無言で待つ隊長。
アンナはそれを怪訝な気持ちで眺めていたが……なんとなく。そう、なんとなく巨大な火薬庫に繋がっている導火線に、火がつけられたイメージが湧いて、ごくりと、唾を飲み込む。
やがて、綺麗にティーセットがトレイの上に片付けられ、レティシアはそれをそっとテーブルの脇に寄せた。
静かに立ち上がると、意を決した表情で、一言。
「――そうだな。この際、言っておくことがある」
「そう。辞世の句は決まったの?」
いつの間にやら、脇に立て掛けていた愛刀を握りしめている隊長の女神スマイルにも今度は一切怯む事なく、通り名の由来である美しい淡い金の髪を見せつけるようにかきあげて。
片足を振り上げると、ダァン! と空いたテーブルの上に叩きつけて威風堂々と笑い、親指で自身を指し示して宣言した。
「――よく聞け小娘共! アイツの『初めて』はお前らではない! このオレ、レティシア=ディズリングだ!!」
「ぶっころす」
それを聞いた瞬間――。
アンナはこれまでの人生最速と言っていい速度で魔力を足に装填し、渾身の力をもって窓に向かって跳躍した。
この二年、必死に鍛えた足腰は彼女の意思に応え、一瞬で凄まじい加速を生み出す。
窓を突き破るまでの刹那、極限まで集中・加速された知覚によって、隊長から大戦中でも聞いたことのないドスの利いた声が聞こえたとか、小娘共ってなんで私までカウントされてんのよとか、ここから脱出したら美味しいご飯を食べにいこうそうしようとか。まるで走馬灯の様に、様々な思考が脳裏を過ぎ去り――。
無事、窓をブチ破って外へとダイナミック・エスケープを果たした。
たなびくサイドテールの銀の尾が窓枠を越えたギリギリ、間一髪のタイミングで応接室に結界が張られ、強固なそれは外界との物理的一切を遮断する。
死地からの脱出を果たし、受け身をとって柔らかな芝の上へと着地すると、アンナは大きく息を吐き出した。
「た、助かった……生きてる……私生きてる……!」
生きてるって素晴らしい……! と、中天の太陽を仰ぎながら、致命レベルの危機を脱した喜びを噛み締める。
あぁ、空気が美味しい。と胸一杯に平穏なソレを吸い込むと、先程脱出したばかりの窓へと目を向けた。
応接室と他を隔てるように張られた――おそらくはレティシアの魔法であろう結界は、薄青い光を放つ障壁となり、部屋の中を伺い知る事は出来ない。
聖女が本気で構築した結界は、内部で起きているであろう痴話喧嘩という名の人外級同士の激突も音一つ、魔力の波動一つ洩らさず、建物の外周部に当たるこの場所は、穏やかな静寂を保っていた。
恐る恐る窓に近づいてみると――衝撃がちょっと結界を突破したのか、音を立てて壁にヒビが入った。
「ヒィッ!?」
思わず悲鳴を上げながら、5メートルほど一気に後ずさる。
幸い《《洩れた》》のはそれだけであったのか、以降は何も起こる事なく、再び静寂が戻ってきた。
どこからか鳥の囀ずりが届き、長閑な空気を助長する様だ。
それでも警戒を解かず、アンナは窓と応接室の外壁に視線を固定したまま、じりじりと後ろ足で後退を始める。
まるで音を立てれば死ぬと言わんばかりに、ひっそりと、息を殺すようにしてゆっくりと下がって――建物の角を曲がって完全に視界から応接室の外壁が消えると、そこでようやっと、止めていた呼吸を再開させた。
「あぁ……疲れた……なんで私がこんな目に……」
壁に背を預けて、ズルズルと座り込む。
極限状態から一気に解放された反動か、脱力感とセットで猛烈にお腹が空いてきた。
ご飯食べに行きたい。けど虚脱感が酷い、動きたくない。
ぐったりと壁際に座ったままのアンナに、あれ、副官ちゃんやんけ、何してんのこんなトコで? なんて声が掛けられる。
のろのろと顔を上げると――そこには能天気そうなアホ面が居た。
消耗し尽くした精神が、沸き上がる感情で急激に回復してゆく。
――あぁ、なんだろう、この気持ち。私は今、無性に目の前のこの男を……。
「ブン殴りたい」
何故!? と叫んで距離を取る馬鹿を横目に、嘆息して立ち上がる。
「冗談よ。いや、殴りたいのはホントだけど」
原因はこの男だろうが、流石に本人の預かり知らぬ処で起きた事で殴られるのはたまったものでは無いだろう。ブン殴りたいという気持ち自体は嘘偽りの無い純粋な本心だが。
えぇ……なんでやん……と納得行かなさそうにしている奴に、アンナは真面目くさった表情を作って疑問に答えてやることにした。
「――うん。私、さっきまでちょっと地獄っぽい場所にいたんだけど」
え、なにそれこわい。という呟きは無視して、にっこり笑って続ける。
「あそこにいるべきなのって、私じゃなくてアンタだと思うの。だからつい、ね」
ちょっと待って俺、暗に地獄に落ちろって言われてる!? と悲鳴を上げて騒ぎ出した男に、多少溜飲の下がったアンナは小さく吹き出した。
「まぁ、それはともかく。お腹ぺこぺこだからご飯食べに行きたいのよ。アンタと遊んであげてる暇は無いの」
だからホラ、散った散った、と。手をシッシッと振って男を追い払おうとすると、それならば、と手を打って下がらずに逆に切り出してきた。
――この間は色々世話になったし、なんか奢ろうと思ってたんや。街の屋台でもここの食堂でも、どっちでもご馳走するぞい。
全方位トラブルメーカーのこの男にしては殊勝な心がけだ。特別の特別に、アンナちゃんポイントを+10してやってもいい。
「それじゃ、お言葉に甘えて奢ってもらうとしますか――近いから食堂で」
降って沸いたタダ飯の機会に、ちょっと良い気分になりながらアンナは男と連れだって食堂に向かう。
「とりあえず、ここ一年の新メニューは全部制覇したい処だね」
ちょっとは手加減してくれませんかねぇ!? なんて文句を抜かす駄犬に、なんだか可笑しくなって意地悪く笑ってみせた。
「知らないわよ、バーカ」
副官ちゃん
今回の犠牲者。ミヤコニウムが欠乏するとしおしおになる人。
このあと、友人と仲良くおしゃべりしながら新メニューを制覇した。
友人の財布の中身は消し飛んだ。
騎士だけどシーフの素質も持つ女、アンナ=エンハウンス!
聖女(金)&戦乙女(黒)
応接室を灰塵に変えたあたりで、筋肉僧侶と鬼シスターが乱入してきて鎮圧された。
後半はもう殆どグーを使ったキャットファイトだったらしい。
駄犬
修羅場を回避した挙げ句、副官ちゃんになすりつけたアンナちゃんポイントー2000が妥当な男。
ご飯奢ったおかげでー1900くらいにはなった。