白百合と愉快な仲間達(前編)
それは、お日様が中天に昇る最中に見た光景でした。
「お受け取り下さい、巨匠よ」
鳶色の髪と瞳をした野性味のある風貌の男性が、跪いて綺麗な花束を捧げています。
普段は真紅の腰布が目を惹く戦装束を纏っている方なのですが、今日は普通のシャツとスラックスというごく普通の街の人の様な恰好です。
真摯さに溢れた所作で花を差し出すその先には、まだまだ幼い少女――彼女はいつも一緒にいる犬のぬいぐるみを抱き締め、向けられた花束を見てキョトンとしていました。
「おじちゃん、だぁれ?」
「貴女の生み出した名画に心洗われた只の男に過ぎません。敬愛を込めて花捧げることをお赦し願いたい」
時刻は昼前の聖都、表通りの真ん中で繰り広げられる光景に、リリィは一つ頷き――。
「――もしもし、義母様ですか? お伝えしておきたい事があるのですが」
「お待ちを姫!? 暫く! 母君にノータイムで連絡は勘弁してくださいお願いします!!」
鞄から遠話の魔導具を取り出して起動させたリリィに向けて叫ぶ男性――《魔王》陛下の御声が響き渡ったのでした。
現在リリィは兄様の従者としてのお役目を果たすべく、聖都にやってきています。
本来ならばお家のある魔族領と教国は、頻繁に行き来が出来るような地理関係ではないのですが、色々と特別な事情があってリリィはそれが可能となる機会を頂きました。
なんでも、最近になって大量の転移魔法の魔導具が帝国の遺跡から出たようです……詳細までは分かりませんが、教国と魔族領にも結構な数が受け渡されたとか。
現在は三国で様々な運用が検討されている最中との事で、その一環――試験運用的な形で、リリィは魔族領より魔道具の《門》を用いて聖都への移動を許可されました。お家から出た後、三十分後にはこうして聖都にいる訳ですから凄いものですね。
これに関しては《魔王》様の発案あっての事と聞き及んでいます。なので、機会があれば是非とも御礼を述べたいと思っていたのですが……。
「御自分でこっそり聖都に遊びにくるためでもあったとは……」
「……てへっ☆」
何故聖都にいらっしゃるのか、どうして往来であの様な目立つ真似をしていたのか。
全部話してください、とお願いした処、正座して洗いざらいを告白した《魔王》様ですが、舌を出して片目を瞑る所作が普通に可愛くないです。反応に困ります。
本来ならば義母様を通じて《災禍》の皆様に連絡をすべきでしょう。併せて教皇猊下を筆頭としたこの国の偉い方々にも。
《魔王》様が色々とお騒がせな方だというのは、この数ヵ月で理解したつもりです。何か大きな問題を起こす前に各所に報せておくのは必要な事と言えるでしょう。
そうでなくとも、一国の主が誰にも言わずに外国の首都で遊んでいるという状況がおかしいというのはリリィにも分かります。
そう、即連絡は必須、なのですが……。
「お願いします姫ぇ! 《亡霊》のやつ次は小遣い九割九分カットとか言ってたんです! 今でも八割カットなのにこれ以上削られたら迂闊に買い食いもできねぇ!」
「そもそもお小遣いを減らされる様な行いを避ければ良いのではないでしょうか?」
「グハァッ!? 姫に正論でブン殴られるのは堪える……!」
瞬時に土下座の態勢になった《魔王》様に押し負ける形で、結局は口を噤む事となってしまいました。
とはいえ兄様の従者として知らぬふりも出来ません。あくまで報告を数時間遅らせる、程度がギリギリの譲歩です。
そう告げると、《魔王》様は再び「へへーっ! 感謝致します!」と上体をべったりと石畳に付けて土下座の態勢になりました。人目もあるので正直やめて頂きたいです。
「だまっておウチをでるとシスターにおこられるんだよ? おじちゃんもおウチの人にごめんなさいしようね」
「はい! 金言しかと胸に刻みます画伯よ!」
花を捧げようとしていた小さな少女――オフィリの言葉に、《魔王》様は正座したままビシッと音が鳴りそうな敬礼を決めて見せます。
こっそり聖都を訪れたのも、王城の謁見の間に額縁にいれて飾ろうとしていた絵(他の《災禍》の方々に却下されていました)の描き手を探す為だった様です。
顔も名前も知らない描き手をどうやって見つけ出したのか、という疑問はありますが……《魔王》様だから、で納得出来てしまうのはある意味凄いですね。
それに、言われてみればあの独特な絵柄はオフィリの描くものと一致する点が多かったのです。まだまだおねえちゃん力を高める修行の最中であるとはいえ、気付けなかったのは不覚としか言い様がありません。
自らの未熟を痛感していると、《魔王》様が敬礼から挙手に変えて問いかけてこられました。
「ところで姫……今更ですが、猟犬のやつを兄呼びするのは何故でしょう?」
「気軽な呼び方にして欲しいとの事でしたので」
聖者様に対して不敬では? とも思いましたが……あの方を親しみを込めて呼ぶ場合、リリィ的に一番しっくりくる呼び方が兄様なのです。兄様いわく、ふぃーりんぐ、というものですね。
「――! 俺も是非ともくだけた感じで読んで欲しいなぁ! ほら、同じ魔族領在住だし! 近所のお兄さん的な感じで!」
「……? 兄様は兄様だけですし、《魔王》様は《魔王》様ですが……?」
「オッフ……一点の曇りもない眼差しでの断言ナリィ……」
正座の態勢から横倒しになって脱力する《魔王》様の傍にしゃがみ込み、オフィリが不思議そうに拾った木の枝で突いています。
それも直ぐに飽きたのか、彼女は枝を捨てて立ち上がるとリリィのもとに駆け寄って来ました。
「それじゃあいこ、おねえちゃん!」
「そうですね……シスターから渡されたメモはちゃんと持っていますか?」
「うん! ある!」
自慢げにポケットから取り出した紙片を受け取ります。
なにをかくそう、本日はオフィリが大人の同伴無しでおつかいを行う記念すべき第一回目なのです。今日はお友達兼おねえちゃんであるリリィが彼女を監督するお役目を任されたのでした。ふふん。
当初は兄様の御傍に控え、従者としての務めを果たそうとしたのですが……兄様によれば、これもよりぱーふぇくとな従者になる為の修行の一環だとか。友人と交流する事で得られる経験というものは大事だと、そう仰っていました。
「先ずはパン屋さんですか……む、このお店は以前、兄様方と訪れた事がありますね」
「そうなの? パンのおばちゃんはね、あまったパンとかコムギをおウチに分けてくれるんだよ。ぎゅーってすると、やさしくていーにおいがするの」
紙片に書かれたお使い内容の一覧を確認するリリィの傍らで、オフィリは手の中のぬいぐるみを掲げてぐるぐると回り出します。おそらく同じ事をパンのおばちゃんなる方にしてもらっているのでしょう。
確か、パン屋の店主である女性は恰幅の良い、焼いたパンの香りが漂う方でした。
兄様の背をバシバシと叩いて豪快に笑う姿は記憶にしっかり残っています。ジャムパンもおまけしてくれました。
あれもある種の包容力と言えるのでしょう。「また来ておくれ」と仰っていたので丁度良い機会ですね。
ざっと目を通し終えてメモを鞄にしまうと、萎れた草木のようになって地面に倒れていた《魔王》様が身を起こします。
「姫、姫! もしかして画伯とお買い物ですか? なら是非とも御供をさせて下さい! 竜だろうが邪神の眷属だろうが立ち塞がる奴は二秒で潰してみせますヨ!」
「聖都内でのお使いで、そんな危険と遭遇はしないと思うのですが」
勢いよく手を挙げ、気炎を漲らせてアピールする《魔王》様ですが……正直な処、同行は御遠慮して頂きたいのです。
これはオフィリのお使いであり、同時にリリィが引率役としての経験を積む機会でもあります。《魔王》様に限らず、大人の方が付いてきては本末転倒というものでしょう。
しかしながら、まるで幼い少年の様に瞳を輝かせている方に対し、ばっさりとお断りの返事をするのは憚られます。
悩むリリィでしたが、お使い役であるオフィリが「だめーっ」と声を上げて頬を膨らませました。
「おふぃーがおかいものするの! しすたーもぺとらもおるすばん! おじちゃんもついてきたらダメなんだよ!」
「……! そ、そうか、これが『初めてのお使い』……! 幼女の貴重な初体験の機会だというのに、俺はなんて無粋な提案を……!!」
雷に打たれた様に身を震わせて目を見開き、《魔王》様がなにやら悔恨の表情で呟きます。
言葉の意味はよく分かりませんが、どうやら同行に関しては諦めてくれそうですね。お見事ですオフィリ。
「あっちにおふぃーのおウチがあるの。おじちゃんもちゃんとまっててね?」
「……分かりました! 姫と画伯が御戻りになるまで画伯の御家を守護させていただきます!」
「オフィリ? 流石にそれは……あぁ、もう見えなくなってしまいました……」
止める暇もありません。
勢いよく立ち上がると見事な敬礼を決め、《魔王》様はそのままオフィリの指し示した方へと走りだしました。土煙をあげてあっという間に曲がり角の向こうへと消えてゆきます。
……あの方をオフィリの家――即ち孤児院に行かせて良いものかと少し悩みましたが、なんだかんだといって子供達に害を為す行為は絶対に行わない方です。《災禍》の方々もその点だけは信頼に足ると仰っていました。
それに教国や魔族領の皆様への報告を先延ばしにするのですから、聖都内を奔放に散策されるより一カ所に留まって頂いた方がトラブルも起こり辛いのではないでしょうか?
色々と考慮すると、オフィリの指示は中々に妙手である気がします。むむむ……益々やりますねオフィリ。これはリリィも負けてはいられません。
手を振って《魔王》様の背を見送ったオフィリは片手にいつものぬいぐるみ、背には今日のお使い用にと準備した背負い鞄姿でこちらを見上げてきました。
「じゃ、いこ! しゅっぱーつ!」
「……では、気を取り直して。最初はパン屋さんでしたね。早速向かいましょう」
ニコニコとした可愛らしい笑顔に、頷きで返します。
えいえいおー、と。気合を乗せたリリィ達の掛け声が住民区のお空に響いたのでした。
「いらっしゃい! おや、なんだか見ない組み合わせだねぇ」
何事もなくパン屋さんに到着したリリィ達でしたが、店主さんが以前と変わらぬ様子で迎えてくれます。
……むっ、なにやら「よく迷子にならなかったね」とでも言いたげな気配を感じましたが、その意見は不本意ですね。
帝国では確かに何度か不覚を取りましたが、あれは全く見知らぬ土地と、お祭りの人込みあってのもの。本来ならばリリィはおねえちゃんなので迷子になどならないのです、ふふん。
以前に訪れたのは二ヵ月ほど前ですが、変わらず美味しそうな商品が棚に並ぶ、小さ目ながらも素敵なお店です。兄様いわく、転移・転生した方々の影響を受けた品が多いお店だとか。
他のパン屋さんを知らないリリィには比較が出来ないのが少し残念ですね。何れはそういった差異を楽しめる様にもなりたいものです。
目の前ではオフィリが「どーん!」とはしゃいだ声を上げて店主さんに抱き着き、彼女も笑いながらそれを受け止めています。
「おふぃーはおつかいにきたの。おねぇちゃんとふたりなんだよ」
「成程ねぇ、お友達だったって訳だ。茶でも出してやりたい処だけど、生憎仕事中でね。メモか何かはあるかい?」
「あるっ!」
ふむ、どうやらリリィに渡された物以外にもオフィリ用の買い物リストがあったようですね。万が一、オフィリがメモを紛失した際の予備をおねえちゃんであるリリィが持つというのは理に適っています。
彼女は店主さんの腕の中から元気に返答すると、身軽にそこから飛び降りて背負い鞄を床に下ろし、中を漁り。ちいさな身体を自慢げに反らして一枚の紙を誇らしげに取り出しました。
差し出されたそれに目を通し、店主さんはやはり笑顔のままで「ブランらしいねぇ」と頷きます。おそらく、あちらのメモにはシスター・ブランの添え書きか何かがあったのでしょう。
「小麦と乾し葡萄だね。ちょっと待ってな」
そういって店の奥に向かうと、直ぐに店主さんは小さな小麦袋と乾し葡萄の入っている布袋を手に戻って来ました。
「ほら、こいつだ。葡萄の方は帰ったら瓶に移しておくれよ――銅貨は数えられるかい?」
「……できるよっ」
「オフィリ、両手の指の数では流石に足りませんよ。支払いはリリィが行います」
十指を立て、自信あり気に両の手を突き出して見せるオフィリですが、店内には他のお客さんもいます。指折り立てて勘定にゆっくりと時間をかけては迷惑となってしまうのです。
自分で全てやりたい、と不満を露わにされると困ってしまうのですが……店やお客さんに迷惑となってはいけない、と言い含められているのでしょう。お店の中を見廻したオフィリはこっくり頷くと、鞄から銅貨の入った小さな革袋を出してリリィに差し出してきました。
手早く中身を摘まんで数えると、代金を店主さんに差し出します。
「では……これで丁度ですね。お願いします」
「はいよ、毎度あり。お嬢ちゃん、オフィリの事をよろしく頼むよ。ペトラ坊やブランがいないとあちこち目移りして直ぐにいなくなっちまうからねぇ」
「お任せください。リリィはおねぇちゃんですから」
先のオフィリの様に胸を張って応えると、店主さんは愉快そうに声をあげて笑いました。
「あっはっはっは! そりゃ頼もしいね! それじゃお使いを頑張るおチビちゃん達二人にご褒美だ。一個ずつおまけしてあげるよ、丁度お試しの品を焼いてたんでね」
店主さんに見送られ、意気揚々とお店を出たリリィ達は軽く手を掲げてハイタッチを交わしました。
「ばっちり!」
「おまけまで頂いてしまいました。これは幸先良いですね」
買った品はオフィリの背負い鞄に、お互いの手には店主さんがおまけしてくれた小さめのパンがあります。
「むき出しで持ち歩く訳にもゆきません。早速食べてしまいましょう――こら、駄目ですよオフィリ。そこにベンチがあるので座ってからにしないと。お行儀が悪いのです」
リリィが言い出す前に、早速とばかりに小振りな丸パンにかぶりついている小さな友人を諫め、手を引いて店の外に備え付けられたベンチへと連れていきます。
「ふぁあ……ふぁまーひ」
目を輝かせてパンに齧りついているオフィリが何やら感嘆の声を上げていますが、小さな口を栗鼠の様にぱんぱんに膨らませているので聞き取れません。
品は同じなのですから、食べてみれば分かる事……リリィも倣って頂くとしましょう。
「いただきます」
パンを落とさない様に軽く手をあわせ、先ずは一口。
見た目はありふれた丸パンです。とはいえ、焼きたてなのもあってとても香ばしく、外はパリっとしながらも中はふっくらと柔らか……とっても美味しいのです。
牛酪やジャムがなくともそのまま食べきれる美味しさですが、食べ進めると中に何かが入っている事に気が付きました。
「むっ、これは……」
甘いです。何でしょうかこれは。
歯を立てた断面をじっくりと観察してみますが……リリィの知識には無いものです。
白いペースト状のそれは、ジャムよりは重めの口当たりですが実に滑らかです。何かを濾したものに、砂糖か糖蜜の類で優しい甘さを加えたのでしょうか?
とても上品な甘さで、それ単品でもお菓子として売りに出せそうな……なんとも不思議なお品です。
そして、この白い具材が香ばしい小麦薫るパンと組み合わさったときの完成度と来たら……! これで試作品とは信じ難いですね。食した感じではデザートに近いのでしょうが、これは花丸級です。
「……! ンむ……!」
隣に座るオフィリは夢中で頬張り、あっという間に食べ尽くそうとしています。服や頬に食べかすが付いてしまっていますよ。
小さな友人の口周りをハンカチで拭き取り、服についたパンくずを払ってあげながら、リリィもじっくりと未知なる味を吟味します。
むむっ……中の白いペースト……やはり食べた事のない品ですね。なんでしょうかこれは? 丁寧に濾してある分、とっても滑らかで良い口当たりなのですが、その分元の食材を予想するのが困難です。
あとで兄様に自慢……もとい、報告してみましょう。これがどういった物なのか御存知かもしれません。
秋晴れのお空の下、ベンチに座って美味しいパンに舌鼓を打っているリリィ達ですが、あとの買い物も控えています。
時間にはまだまだ余裕がありますが、そろそろ次のお店に向かうべきでしょう。
そう判断し、食べる速度をやや上げた途端の事です。
「――あ!」
「……んぐ。どうしました?」
リリィの持ち歩いている水筒で喉を潤していたオフィリが、びっくりした様子でベンチから身を乗り出し、真横を指さしました。
軽く背筋を伸ばして彼女の身体越しにその方向に首を向けると、直ぐにその理由は判明します。
パン屋さんとお隣の建物の隙間――狭い路地から顔を出したのは、小さな栗鼠にも狐にも似た小動物でした。
大きな耳に大きな瞳。まだ幼体なのでしょうか? 首だけを路地から出してじぃーっとこちらを見つめる様は、非常に愛らしいです。
「わぁ……きつねさん!」
パンを頬張っていたときと劣らぬ程に眼を輝かせ、オフィリがベンチから飛び降りました。
そのまま突撃しては子狐も怯えて引っ込んでしまいそうなものですが、意外にもオフィリは大きく距離を取り、手元に一口分だけ残ったパンを見せつけながらゆっくりと近付いて行きます。
「わんわんもねこさんも、きゅうにさわろうとするとビックリしちゃうんだよ? とおくからゴハンをあげるの!」
眼をキラキラさせながら自慢気に語る友人の動作は、なるほど、確かに慣れたものを感じさせます。街の犬猫で既にこの手の状況は経験済みという事ですか。
そーっと、ゆっくりとした静かな歩みで小さな獣に近寄るオフィリですが、肝心の子狐は警戒心が薄いのか、じりじりと後ろに退がるのですが逃げ出すような事はありません。
寧ろ興味深そうに、小首を傾げながらその動きをじっと見つめています。
一人と一匹の静かな間合いの測り合いを邪魔をしない様、リリィは黙して見つめるのみです。
真剣な顔で抜き足差し足間合いを詰めるオフィリと、少しずつ後退する子狐さんに併せて席を立ち、少々離れた位置から彼女達の攻防を見守ります。
あと数歩、と言った距離で立ち止まったオフィリはその場にしゃがみ込んでパンの残りを細かく千切り、石畳の上に撒いて一歩分だけ下がりました。
おそらく子狐はパン屋さんから立ち昇る香りに引き寄せられてきたのでしょう。
スンスンと小鼻を膨らませ、石畳に撒かれたパンから漂う香りが惹かれたものと同じであると気付いたのか、おそるおそる欠片の一つを咥えました。
「――!」
おぉ、尻尾と耳がピーンと伸びましたね。
そのまま夢中になって残りも食べ始めたのを見るに、悪い反応では無さそうです。
カフカフと小さな吐息を漏らしながら小さなパンの欠片を頬張っている子狐を見て、オフィリはニコニコと笑って腕の中のぬいぐるみを抱き締めています。
「かわいいねぇ」
「同意します。しかし、微かに青みがかった白の毛並みですか……」
友人の後ろに回り込み、正面から子狐の姿を眺めると、その神秘的な毛色には覚えがありました。
狭く、薄暗い路地の中でもうっすらと光を放つ、美しいホワイトブルーの毛並み。
リリィの勘違いでなければ、この子は《雪精狐》と呼ばれる霊獣です。
冬の訪れを告げるとされる雪精の一種で、秋が深まると自然豊かな環境で姿を現すのだとか。故郷である大森林の聖地で見かけた事もあります。
見た者は冬の寒さがもたらす苦難を避ける事が出来る、という言い伝えがあり、御利益ある霊獣として知られているのです。これに関しては聖地でも外界でも共通している様ですね。
問題なのは……《雪精狐》は間違っても都市内で見かける様な存在では無く、希少性や益獣扱いされている事から外界では捕らえたり狩ったりするのは基本、禁じられているという点なのです。
ましてや幼体です。迷子となって人里に紛れ込むというのは有り得ない種ですし、両親の傍から人為的に引き離されたのだとしたら……普段は温厚で人に牙を向けない種族といえど、親は激昂して都市に襲撃を行う可能性があります。
これは……ひょっとしなくともトラブルの類でしょうか?
「うむむ……結果論ですが、《魔王》様に同伴して頂いたほうが良かったのかもしれません」
「……? どうしたの、おねぇちゃん?」
どうやら思わず唸り声が漏れていた様です。
子狐を撫でるか否か、悩んでいたオフィリが不思議そうに振り返って問いかけてくるのに、リリィは説明を行なおうと口を開き――。
「あぁ! 良かった、こんな処にいたのか……!」
なにやら息を切らした安堵の声が背後から上がり、一旦口を閉ざして振り向きます。
そこに居たのは見知らぬ男性でした。
旅人か、商人さんによく見る、ありふれた旅装を身に纏っています。
兄様よりやや年上でしょうか? 走り回っていたのか息荒く膝に手をついて呼吸を整えており、少し気弱そうな面差しは息切れで眉根が寄り、更にその雰囲気を助長していました。
「はぁ……見つかって良かった……」
呟きながら一歩踏み出す男性は、こちらの背後――《雪精狐》しか目に入っていなかったのか、位置的に通せんぼする形になった事でやっとリリィ達に気づいたようです。
「……あぁ、すまない。もしかして君たちが見つけてくれたのかな? その狐はこちらで……何と言うか、預かってる子でね。悪いけど引き取らせてもらって良いかな?」
愛想笑いらしきぎこちない笑みを浮かべる男性ですが、当の子狐は「キュ!」という警戒混じりの高い鳴き声を発して後退りを始めてしまいました。
……さて、どうするべきでしょうか?
男性の言葉をそのまま受け取るのならば、《雪精狐》を保護して親元なり自然になり返そうとしている方、という事になります。下手に口を挟まず、任せてしまった方が良いでしょう。
ですが、幼いとはいえ知能の高い霊獣がこうも露骨に警戒しているのを見ると、先の台詞を鵜呑みにするのは良くない選択な気もするのです。
逡巡するリリィですが、先に判断を下したのはオフィリでした。
毛を逆立てて可愛らしい威嚇を行う子狐の発する鳴き声を聞くと、彼女は男性に向かって眉根を寄せて問い掛けました。
「……きつねさん、嫌がってるよ? せまいのもあついのもヤだって」
その言葉を聞くと、男性は分かり易く顔を強張らせました。
逆に、子狐の方はオフィリの顔を見上げ――唐突に飛びついて彼女の肩に飛び乗ります。
色々と疑問はありますが、一人と一匹の其々の反応を見ればリリィにも判断は容易でした。
「失礼ですが、そちらはこの狐さんの種族を理解している、という認識でよろしいでしょうか?」
「…………」
「沈黙は肯定と受け取りますが」
前に一歩出て、オフィリと子狐を庇う様に手を翳します。
男性は困った表情のまま、自身の行動を決めあぐねている様です。暴力的な雰囲気は無いのが救いですが……彼の言動によってはオフィリの手を引いてこの場の離脱を図る必要が出てきます。
間の悪い事に人通りは無いですが、ここはお店が並ぶ通りです。すぐ傍にはついさっき出てきたパン屋さんもありますし、御迷惑をおかけしていまいますが飛び込むのも選択肢にいれるべきでしょう。
ゆっくりと気付かれない様に魔力を練りながら、背後の友人の手を取ろうとした瞬間でした。
「こんな子供相手に、なに手古摺ってるの」
リリィ達の背後――狭い路地の暗がりから手が伸ばされ、オフィリが襟首を掴まれて持ち上げられてしまいます。
暗がりから現れたのは斥候らしき装いの若い女性でした。
整った容姿なのでしょうが、目の下に隈の浮いた、どこか危険な目付きの人です。
魔力探知には多少の心得があると自負しているリリィですが、全く気付きませんでした……間接的に自画自賛になってしまいますが、相当な腕利きの様ですね。
……下手に手を出しても簡単に対応されてしまいますね。オフィリを取り戻すのにはタイミングを計らねばなりません。
「お、おい、相手は子供だ。あまり乱暴な真似は……」
「なら貴方がさっさと商品を取り上げればよかったでしょう。子狐一匹見つけるのに何時間もかけた上、子供に邪魔されて立ち竦むなんて……とんだ愚図ね、やる気あるの?」
乱暴な口調で吐き捨て、女性はオフィリの肩に乗った《雪精狐》に手を伸ばします。
ちいさな牙を剥き出して噛みつこうとするのをあっさりと躱すと、その手は白い体毛に覆われた小さな身体を無造作に掴み上げてしまいました。
「あー! きつねさんをイジメたらだめーっ!」
鷲掴みにされて苦し気な鳴き声をあげた子狐を見て、襟首を掴み上げられたままのオフィリが憤慨して声を張り上げます。
至近距離で子供特有の甲高い叫びを受けた女性が、眉を顰めました。
「……煩い子ね。静かになさい」
ここです。
オフィリを掴んだ腕を何の躊躇いもなく振り上げ、壁に叩きつけようとしたのを見て、リリィも躊躇なく魔法を発動させました。
「――!」
圧した風の塊を女性の肘に向けて放ちますが、やはり相当に腕が立つらしい彼女は咄嗟にオフィリを離して魔法を回避してみせます。
ですがリリィのターンはまだ終わっていません。魔法の発動と同時に鞄から取り出した硬い木の実を、魔力強化を用いて全力で投擲しました。
「チィッ、このガキ……ッ!?」
悪罵を吐きながらも、リリィの投擲はしっかり避けられてしまいます。不意を討ったとはいえ、やはり自力の差は如何ともし難いです。
とはいえ、背後へと軽く跳んだ女性からオフィリを離すことは出来ました。
半ば放り捨てられた形になった友人を、すかさず抱き留めます。おねえちゃんとして怪我はさせられませんからね。
「おい!? 何やってるんだ、こんな小さな子に……!」
「黙ってなさい愚図。魔法を使った方はエルフよ、商品の価値について"知ってる"様だし、このまま帰せないわ」
声を荒げる男性の言葉を、それ以上に語気を強めた声で遮ると、斥候の女性は腰から短刀を抜き放ちました。
「……恨むなら安易に首を突っ込んだ自分を恨みなさいな――エルフなら十分に商品になるから、抵抗しないで付いてくるなら痛い思いはさせないであげる」
ギラギラとした、熾火の様な暗い熱を感じさせる瞳です。
人の情緒や機微を読み取る事はまだまだ未熟なリリィですが、眼前の女性が危険な人だというのは理解できました。
幸い男性の方は荒事自体を忌避している様子ですので、彼の脇をすり抜ける事自体は出来そうですが……このままパン屋さんや近くのお店に飛び込むのは悪手ですね。
先のオフィリへの暴力を見るに、この女性は店に居合わせた人達に刃を向ける事を躊躇しません。周囲を巻き込んでしまえば、最悪、衛兵さんが駆けつけてくるまでに死傷者が出る可能性があります。
そもそも身軽さを強みとする斥候職――それも一流であろう相手に、オフィリを連れたまま離脱するのは難しそうです。
「……お買い物の監督役は失敗ですね」
無念です。お友達のお使いも中断させてしまいます。身の安全には変えられないので、仕方ないのですが。
最終手段を発動させようと、友人を抱えた腕とは逆の手で懐を漁った、その時でした。
「うむ。状況はよく分からん。分からんが、幼子相手に刃物を抜くのは感心出来んな」
そんな声と同時に、唸りを上げて巨大な質量がリリィ達の脇を通過しました。
ぐるんぐるんと回転しながら女性の近くの壁へと深々と突き刺さり、ドォンという轟音を立てたのは、とっても大きな剣――一般に特大剣と呼ばれる、戦士の扱う物としては最大級の重量武器です。
路地の入口に仁王立ちしていたのは、武器に負けない位に長身な獣人の男性でした。魔族領産の剛健な鎧に身を包んでいます。
義父様以上に獣としての要素が多い方です。相当に先祖の因子が強いのか、見えるお顔は完全に狼さんか犬さんのソレですね。
右手は振り切った投擲のポーズのままで、左手に大量のパンの入った袋を抱えています。お口の周りには沢山の食べかすがついていました。
「とってもおっきいわんわんだぁ!」
「ッ、傭兵ブライシオ!? 何で聖都に!?」
オフィリの歓声と、女性の驚愕の叫びが薄暗い路地裏に響き。
「――む? このマヨパンとやら、玉葱の量が少々多いな……兄弟には別の品を買っていってやるか」
それには全く頓着せずに、咀嚼中のパンに対する感想が呟かれます。
帝都のお祭りで、催しとして開かれた闘技大会。
そこで選手としてお見かけした獣人さん――ブライシオ様は、大きなお口をもごもごと動かして、口の中にあるパンを飲み込んだのでした。
お子様コンビ
お使い中。ふたりでできるもんっ。
どっかの犬がパン屋のおばちゃんに吹き込んだ試作アンパン(白あん)の試食第一号を体験。
妙なトラブルに巻き込まれ中。果たして無事にお使いをミッションコンプリート出来るのか。
《魔王》
こっそり他国の首都に単独で遊びに来てる傍迷惑な鳥。
孤児院に突撃後、現在は院の屋根を補修中である。
わんわん傭兵
聖都にやってきたばかり。
一度に食い過ぎると腹が緩くなるがタマネギは食えるらしい。マヨパンうめぇ。