いつかのあの日を、また。
えーんやこーらどっこいしょー、っとぉ。
聖殿の厨房裏手に、俺の適当な掛け声が思いの外大きく響く。
気の抜けた声とは反して、割と本気の身体強化を施した状態で手斧を振り上げ、切り株の上に置いた薪を叩き割った。
本日は快晴。秋も深まり、いよいよ以て空気も冷え込むようになって来たのだが、今日は陽がよく出ているせいか、中々に小春日和だ。
あれよ、空気は結構冷たいんだけど、日光当たる場所は暖かい……っていうか寧ろ若干暑いやつ。まぁ、寒い中薪割りするよか良いのでこの陽気はありがたい。
料理長に頼まれた量は七割方終わったかねぇ……いや、結構量多かったから割と魔力食う。良い鍛錬になるわい。
わざわざ強化を使って薪を割っているのは、自前の魔力量を鍛える為である。
言う間でも無く、ラブリーマイバディの銘名の為の地道な一歩という奴だ。
……問題は距離換算すると、千里の道どころかその倍くらいありそうな道程の一歩って点だけどな! 先は長ぇなぁオイ!
薪を置く、斧を振り下ろす。薪を置く、斧を振り下ろす。
何度も繰り返し、ある程度の量になったら壁際の保存用の木枠の中に並べてゆく。
精度も強化幅も周囲の知人・友人と比べるとへっぽこにも程があるが、それでも一応は全身を魔力強化しているので、薪は一発でぱっかーんと割れる。
最初はちょっと左右どっちかに寄ったりしたんだけど、流石にこれだけ延々やってると綺麗に割れるようになってきたなー。
はーどっこいしょー、と掛け声を上げながら、残りを片付けるべく気持ちペースを上げた途端。
「あ、ここに居たか! おい、一大事だ!」
聞き慣れた声が背後から届き、肩越しに振り返ると……我らが聖女様の姉の方がバタバタと騒がしく駆け寄って来た処だった。
なんだなんだ、ちょっと声が切羽詰まってるな。何かトラブルでも発生したのか?
取り敢えず、話を聞く前に切り株の上に乗せたこの薪だけは割ってしまおうと、俺は斧を振り上げ――。
「薪割りしてる場合じゃないぞ! ヒッチンさんが倒れた!」
……ファッ!?!??
耳に飛び込んできた余りにも唐突かつ衝撃的な言葉に、盛大に空振りした斧が木材の横面を引っぱたき、弾かれた薪が回転しながら高々と頭上を舞った。
◆◆◆
「いやはや、報せを聞いたときは驚愕の余り我が耳を疑いましたが……お元気そうで何よりでしたな、安堵で胸の閊えが消える思いです」
「全くだねぇ。しかし、肝が冷えたのは確かだよ」
大聖殿内にある、女性用居住区――有り体に言ってしまえば女子寮にて。
多くのシスター達が寝起きする場ではあるが、その中の一室――古株の者や団体行動の際の監督役などに割り当てられる個室には、今現在複数の人間……それも立場ある者達ばかりが押しかけていた。
寝台の脇にある椅子に腰かけ、肩を竦めるのは真っ白な髭を伸ばした法衣姿の老人――聖教国教皇たるヴェネディエ=フューチ=ヘイロウ。
その直ぐ後ろで厳かに聖印を切るのは、天井に頭頂が擦らんばかりの筋骨隆々の巨漢の司祭、ガンテス=グラッブスだ。
「先生が倒れたって聞いて酔いも吹っ飛んだわぁ……確かこういうのって異世界でオニノカクラン、とか言うんだったかしらぁ? とにかく、連れて来てくれてありがとねぇブラン」
「いえ、ミラ様が調子を崩されたのは孤児院での作業中の事ですし、当然の事です――とはいえ、私も驚きました」
残る二人は女性、場所柄当然ではあるが、彼女達もまた聖職者であった。
赤いカソックを着た妙齢の美女と、一見年若いが見た目にそぐわぬ落ち着いた雰囲気を持つシスターの二人――枢機卿の紅一点たるシルヴィー=トランカードと、聖都で孤児院の運営に携わるシスター・ブランだ。
以上四名に囲まれ、ベッドの上で半身を起こしているのは部屋の主であるミラ=ヒッチンその人である。
この状況が不本意であるのか、普段は鉄面皮であるその表情は少しばかり眉根が寄って渋面気味だ。
「……少々眩暈を起こしただけです。大袈裟に騒ぎ立てて皆で押しかけて来るような事ではありません」
「トイルとスカラも今の仕事を片付けたら直ぐに向かうって言ってましたよぉ」
「年寄りが出先でよろけた程度で仕事を放りだすな、と言っているのです枢機卿」
元・教え子の言葉に、体調云々とは全く別の理由で頭痛を覚えたらしい。
額を指先で抑えて益々顔を顰めるミラだったが……既に聖殿中に話が広まっており、彼女の身を案じたり、見舞いに行こうかとそわそわしている者は結構な数に上ると知れば、無言で溜息を洩らして天を仰ぐ事となるだろう。
「まぁ、それだけ君が慕われているという事だよミラ。僕なんてこの間は一日中ベッドから起き上がれなかったのに、皆で部屋にまで書類を持ってくるんだからねぇ……あまりの容赦の無さにちょっと涙が出て来そうになったよ」
「猊下がラックのおじ様の処で馬鹿みたいに痛飲して渾身の門限破りを決めた上、先生に叱られて魔法での解毒を禁止されて二日酔いでのたうち廻ってた日の事ですかぁ? 自業自得って言葉、御存知ぃ?」
「本当に容赦無いなぁ……!」
教皇と枢機卿がアホなやり取りをしている傍らで、ガンテスが見舞いついでに持って来たらしき新たな水差しを部屋にあったものと交換する。
取り替えた水差し片手に、角張った厳つい顔を思案する様に上向かせて呟きが漏れた。
「ふむ、少々遅まきになれど……ラック殿にもお伝えしておいた方が良いかもしれませぬな」
「幾ら何でも私の知人全員に片端から伝える必要など無いでしょう……」
「ミラ様、事の次第をラック様御一人だけ知らなかった、という状況になってしまうのは聊か不義理かと。臍を曲げる程ではなくとも、良い気分はしない筈です」
これ以上見舞客が詰めかけるのは御免なのか、ミラが再度の溜息をつきながら否の声を上げるが……ブランの極真っ当なツッコミに反論を封じられて黙り込む。
「はっはっはっは! これを期にしっかりと休息を摂るのもよろしいのではないですかな? 現役時代の休暇も疎かであったミラ殿が身を休めるともなれば、異を唱える者はおりませんとも」
ガンテスの言葉に、部屋主以外の全員が首肯する。
そう広くも無い部屋に五人も居るせいで部屋は中々に窮屈だ、これでは休む処では無いだろうに。などとミラが珍しく愚痴染みた思考を脳裏に走らせた、その時であった。
ドドドド……という、足取りも慌ただしく誰かが全力疾走して近づいている音を、室内の全員が耳に拾う。
音はみるみる間に近づき、程なくしてブーツの靴底が床板を擦って急停止する音が部屋の直ぐ外で聞こえた。
――ミラ婆ちゃんが倒れたってマジかぁぁぁぁっ!?
ドバーン、とノックもなく扉を蹴破らんばかりの勢いで飛び込んで来たのは、ミラの弟弟子にしてお騒がせには定評のある男――《聖女の猟犬》こと黒髪の青年である。
彼の性格的に、事の次第を聞けば全力ダッシュで姉弟子のもとにやって来るのは予想が付く。なので、部屋に居る全員、青年の来訪自体に驚く事は無かったのだが……。
――大丈夫なんか!? 怪我!? 病気か!? もう治療は済んだのか!?
「人を気にするより先に貴方が治療を受けなさい、何故流血してるのですっ」
バタバタと慌ただしく近寄って来る青年を見て、ミラが間髪入れずに語気を強めて叱り飛ばす。
そう、何故か彼は額に大きめのコブをこしらえ、ちょっと割れているのか普通にデコからダラダラと流血しているのである。額の傷は出血量が少なくとも派手に見えるのもあって、中々に酷い見た目になっていた。
――ちょっと薪割りしてただけだっつーの! 俺の事はえぇねん、婆ちゃんは何も無いんか!?
普段は姉弟子の厳しい声を聞けば、反射的に背筋を伸ばして正座の態勢に入る男であるが……今は知ったこっちゃないとばかりにベッドの傍にズカズカと歩み寄る。
呆れと疑問が混ざった声色で呟いたのはシルヴィーだ。
「聞き違いかしらぁ……薪の代わりに額が割れてる薪割りとか聞いた事無いんだけどぉ」
「此処近日、猟犬殿は魔力量を増加せんとする鍛錬に余念が無いようですからな! 部位鍛錬も兼ねて五体を用いた薪割りを行っていたのやもしれませぬぞ!」
「いやガンテス、それを鍛錬にするのは君だけだから。頭突きで杭を打ち込むだの指先で薪を二つに毟るだの、普通の人間はやらないからね?」
枢機卿と司祭と教皇がトンチキな会話を繰り広げるのを他所に、顔にデカデカと『心配』と書いた青年は姉弟子に詰め寄り、その姉弟子当人とブランに血の垂れた顔面を左右から拭かれている。
これで室内には六人――いい加減、キャパオーバーと言っても良いのだが、ここに来て更に追加がやって来た。
「っ、はぁ、結局追いつけなかったか……! 気持ちは分かるが全力疾走し過ぎだろ……!」
「にぃちゃん、血出てるって! おでこ! その状態じゃシスターに逆に心配かけちゃうよ!」
先の青年程では無いものの、それでも慌ただしく駆けて来たのは教会の二枚看板たる聖女姉妹――レティシアとアリアである。
開けっ放しだった扉に飛び込んできた二人は、半ばすし詰めの様になった部屋を見て軽く目を見開き、顔を見合わせた。
「うわ。凄い人数……と、取り敢えずにぃちゃんのおでこを治したいんですけど……」
「あと、ヒッチンさんの健診だな。皆、ちょっと通してもらって良いか?」
「もう好きにして下さい……」
非常に珍しい事に、なんだか諦めた様な、やや投げやりな口調になったミラが天井を仰いで三度目の溜息をつき、溢した声が過密状態となった室内へと静かに響いた。
女性の健診、おまけに男が長々と居座る場所でも無いという事で男衆は早々に部屋から追い出され、女子寮の外で待つ事暫し。
そう時間も掛けずにミラの身体を魔法で精査し終えたレティシアが、ちょっと所在無さげに待っていた男三人のもとへとやって来た。
聖女曰く「結論から言えば、疲労と、其処からくる体力低下が原因の風邪」というのが教会御意見番の現在の体調である。
つい最近帝国で開催された《大豊穣祭》。
ブランの孤児院の子供達の監督役として帝国まで同行し、長い距離を馬車旅で過ごしたというのも原因――と、考えるのだろう。相手が普通の御老人ならば。
だが、体調を崩して孤児院で倒れたのは只の年配のシスターでは無い。
全盛期はとうに過ぎたとはいえ、嘗ての教会最高戦力にして今なお人外級の戦士足り得る百戦錬磨の女傑である。
体力及びそれに伴う継戦能力の低下、というのが主な引退理由ではあるが、子供達でも問題無く行える旅路で彼女が調子を崩す程に消耗するというのは、中々に首を傾げる話だ。
そこまで話を聞いて青年の顔色が変わった。
ただの旅の疲れで倒れるのは不自然――ならば、体力を消耗するような理由がある筈だ。
それが帝都で行われた大捕り物……一夜限りの大掃除に依るものではないか? 彼はそんな推論に至ったのである。
申し訳無さのあまり死にそうな顔色になりながら、青年は自身の推測をその場にいるガンテスとヴェネディエ、それと検査結果を伝えにきたレティシアに告げた。
その内容に司祭と教皇は納得がいった、という様子で頷く。
「成程。助力を乞うた猟犬殿の御立場からすれば、心痛覚えるは必然ですが……神ならぬ身でこの様な事になるとは分かる筈もありますまい。消沈が過ぎれば却ってミラ殿に心労を掛けかねませんぞ?」
「そうだねぇ。幸いにして大事にはなっていない訳だし……厳しい事を言うのなら、久しぶりの現場仕事でミラにもはしゃぎ過ぎた面があったんだと思うよ? 本来、自分の体力や回復力と相談した立ち回りは戦士には必須なものだしねぇ」
大人二人が道理の通った慰めの言葉を口にするが……この男、それで納得できるのなら魂フェチなどという独特かつ拗らせた性癖を基点にしたライフスタイルを送っていない。
女子寮入口前の段差に腰掛け、がっくりと項垂れる彼であるが……続くレティシアの言葉にすぐ様顔を上げる事となった。
「早合点するなよ、あくまで現在の体調が確定したってだけだ――肝心の原因……かどうかは分からないけど、ちょっと気になる点があってな。お前に手伝って貰いたい」
◆◆◆
シアとリアの魔力精査で引っ掛かる点があり、でも詳細な検査には俺の助力が必要。
こんな特殊なケースは滅多にない。そもそもシア達の精査で判別出来ない事の方が少ない訳だし。
必然、俺が唯一扱える希少技能――即ち《三曜の拳》が得意とする生物の気脈周りの云々に関してだろう。
が、そうなると不安やら疑問が幾つも湧いてくる。正直、想像もしたくないけど。
症状自体は風邪、という話だったが……聖女の魔法で精査しきれないとなると、婆ちゃんの不調の原因は相当複雑な部類なんじゃなかろうか、とかね……。
そもそも、俺の手が必要という時点でおかしな話なんだよ。
だってそうだろ? なんせミラ婆ちゃん自身が俺の完全上位互換――《三曜》の奥伝到達者やぞ。俺が診て分かることなら婆ちゃんが気付かない筈が無い。自分の身体の事なら猶更に。
勿論、疑問への答えを予想することは出来る。
でも、正直当たって欲しくはない。
もしミラ婆ちゃん本人にその原因とやらに心当たりがあって、尚且つ自覚症状の類があり――それでも黙っていたのだとしたら。
「癒す必要はありません――この傷痕は、私にとっての忘れてはならない"証"なのです」
それは、本人に治す気が無い、という事に他ならないからだ。
ミラ婆ちゃんは症状を隠していた後ろめたさからか、少しばかり抵抗がある様子ではあったが結局はシアリアの精査、俺の《三曜》による気脈の観測を受け入れた。
二人の魔法による精査では、胸元――心臓に近い部分を中心に呼吸に併せて微かな魔力の乱れが発生してるという結果が出だ。
そこを重点的に、俺が婆ちゃんの気脈を診てみると……やはり胸部、特に呼吸器周りに気脈の乱れがある。
症状としてはかなり特異――というか、本来有り得ない状態だ。
乱れの発生源はおそらく古傷の類、しかも相当に昔に打たれたであろうモンなんだが……この古傷自体がちょっとおかしい。気脈に残った痕跡が、まるで《命結》の打効を乗せた一撃を喰らったような状態なのだ。
それによる影響を、婆ちゃんは自身の《三曜》で相殺し、乱れた気脈も地力で調整していたみたいだが……それでも年齢による体力の低下は本来の下降線より大分大きくなる。
今回、体調を崩したのなんてモロにそれが原因だ。そして、年齢を重ねる事でこれから更に症状が悪化する可能性だってある。
早急に確りとした治療を行う必要があった。どんな怪我・病にせよ、症状が軽い内に早期治療を行う方が良いのは言う迄も無い。
単純な肉体の賦活や再生とはちょっとジャンルが違うので、ちょっとした準備や――場合によっては小規模だけど儀式魔法の必要性もあるけど、シア達ならば問題無く完治まで持っていける。
診断結果と共に、姉妹揃って力強く根治可能を断言して。
けれど、それを拒む台詞が治療を受けるべき当人の口から飛び出した、というのが現在の状況なのだ。
そう広くも無い、部屋の主の清貧っぷりがこれでもかと表れた質素な部屋に、痛い程の沈黙が下りる。
言うべき事は言った、といわんばかりに眼を閉じて口を真一文字に引き結ぶ、ベッドの上の姉弟子。
彼女の言葉を聞いて呆気に取られたものの、直ぐに我に返って厳しい表情となったシアとリア。
室内に居る他の面子は、目を伏せたり真っ直ぐにミラ婆ちゃん見つめていたりと、反応は様々だが……口を挟む気は無いのか、静かに事の成り行きを見守っている。
「……もうちょっと具体的な理由を聞いても良い? シスター」
「拘るだけの何かがあるんだろうけど……聖女を前に治せるもんを治さないって言う人をそのままにするのは、割と沽券に関わるんだけどな? ヒッチンさん」
普段だったらシア達もミラ婆ちゃん相手に詰問染みた真似なんて絶対にしない、というか出来ない。
それでもこのときばかりは、こと誰かを癒す事が関わる話だけは別だ、とばかりに語気を強めて言い募る。
「傷痕を消したくないっていうなら、表面だけなら残す事も出来る。でも、内側の歪になった魔力循環は治すべきだって。このままだと年々悪化していく可能性だってあるんだ」
「今だって皆、心配してるよ。卑怯な言い方になるかもしれないけど、孤児院の子供達だってシスターはずっと元気で自分達の処に来てくれると思ってる、絶対」
二人の言葉には、なんとか先の言葉を翻意させよう、という必死さが溢れていた。
大戦中、シアとリアの癒しや浄化で助かった人は多い。下手をしなくとも数千……いや、万にも届くだろう。
それでも、二人の聖女としての規格外の魔力、魔法精度があっても、助からなかった人間はいた。
その事実に囚われる事はなくとも、忘れ難い、忘れてはいけない記憶だと、二人とも思ってる筈だ。
だからこそ――お互いに手を伸ばせば届く、助かる人間が、その手を伸ばさないという事に納得が行かない。
何より、聖女としての沽券だの癒し手としての矜持だの、小難しい事を抜きに単純にシアもリアも、ミラ婆ちゃんに元気でいて欲しいのだ。
勿論俺だってそうだ。黙り込んでる他の面子だって、本音の部分では同じ意見だろう。
眼を閉じた儘の姉弟子殿は、口をへの字にしたまま黙して答えない。
ただ、その態度から頑として治療に関しては首を縦に振る気が無い、というのが見て取れた。
ミラ婆ちゃんは頭固いし、頑固だし、意外と負けず嫌いだし、何より自他共に厳しい。
けれど、仲間や友人に心配を掛けて、それでも尚、自身の拘りを押し通す様な頑迷な人じゃない――筈だった。
ましてや、シアやリアにあんな表情をさせる選択なんていつもなら絶対にしない。
つまりは、そういう事なんだろう。
婆ちゃんにとって、あの胸の傷痕は単なる古傷以上の意味を持つ、大切な過去なのだ。
それこそ、現在の大切な人達が向けてくれる想いと、自分の寿命。それを秤にかけても傾きが生まれてしまう位には。
或いは黙したまま見守るガンテス達は、その理由を、傷痕の意味を知っているのからこそ、何も言えないのかもしれない。
一歩引いた処から室内の全員の顔を順繰りに見回して、そんな事を考える。
……さっきも言ったがミラ婆ちゃんは頑固だ。
一度こうと決めたら――ましてやそれが自身にとって譲れない類のモノだというのなら、梃子でも動かないだろう。
――なら梃子じゃなくて超大型の重機を用意してやれば良いんだヨォ!
我が姉弟子にとって、自分に刻まれたその古傷は大切な記憶に繋がるものなんだろう、それはなんとなく分かる。
パッと診ただけでも理解できた。胸に喰らった《命結》……或いはそれに近い性質をもった打撃は、おそらく聖女の癒し無しに根治は不可能な練度の一撃だ。
それこそ現役時代から、自身の戦士としての寿命や、もっと単純に生命的な意味での寿命が削れる事も覚悟の上で、その傷を抱えて戦い、生きてきたんだろう。痛みや違和感だって当時からあった筈だ。
その想いを、知ったこっちゃねえ、いいから治せとは言えない。間違っても。
だが、その上でこっちの意見を押し通す。
何が何でもミラ婆ちゃんにはシア達の治療を受けてもらう。
理由? そんなの俺が嫌だからだよ。決まってんだろ(真顔
ようやっと平和になったこの世界で、厳しいけど尊敬できる姉弟子と、まだまだ一緒にいたいんだよ。
身勝手な意見である事なんぞ承知の上だ。
が、それこそ今更だ。こちとら聖女様を筆頭に色んな奴をだまくらかして、こっそり一人で邪神の頭叩き割りに行った身やぞ。スタンドプレーは身に沁みついとるわ。
腹は決まった――故にこれより、最速でミラ婆ちゃんの首を縦に振らせる包囲網を構築する!
ゆーても、俺が何かせんでも周囲の人が現状を知れば勝手に説得する側になってくれるだろう。
過去の経緯を知る・知らないでの積極的・消極的の違いはあるだろうけど、治って欲しいと思う気持ちは共通してる訳だしね。
なので、俺がすべきは更なる応援要請――とりわけ、姉弟子殿がどうやっても話をしっかり聞かざるを得ない人を引っ張り出す。
善は急げだ。癒し手、患者が話し合う光景からそっと背を向け、人数超過が過ぎて狭いので開けっ放しだった部屋のドアから女子寮の廊下へと出る。
「……何方へ行くのですか?」
背後から声が掛けられ、振り向く。
普段より少し揺れた、何処か不安気な声色で問うてきたのは、俺の後を着いて廊下に出てきたシスター・ブランだった。
ちょっと入用なモンを搔き集めてこようかと。他の皆と一緒に引き続き婆ちゃんの説得、引き続きオナシャス。
それだけ言うと、踵を返して廊下を走り出そうとして……けれど身体を引っ張られる感触に動きが止まる。
咄嗟の行動だったんだろうか? こちらの服の裾を弱々しく掴んだシスターは、自分のした行動にハッとした表情を見せていたが、同時にひどく苦しそうだった。
「私は……きっとミラ様を説得できません」
力無く俯いた顔と、其処から零れる声色は、暗い。
「私が同じ立場だとしたら……あの娘が、あの娘達が残したものが、例えそれが傷痕であったとしても、私もきっと……」
きっと、同じ選択をしてしまう。
眼前のシスターが、そう言葉にならない声で呟くのが、分かった。
いや、別にいいんじゃね? 今回は身体に障りがあるから問題になったけど、別にそれ自体は良いとか悪いとかって話でも無いでしょ。
間髪入れずに俺が答えると、何故かシスターは驚いた様に顔を上げる。
そんなおかしな事言ってないと思うんだが。
共感出来ちゃうから説得する側に回れない。
けど、元気でいて欲しい。
これらの気持ちは矛盾したり相反するようなモンでも無い。結局の処、どっちもその人やそれに関わる過去を大事に思うが故ってやつだ。
幸いにして、説得に回ってくれるであろう人はシアリアを筆頭に大勢いる。
シスターはミラ婆ちゃんがああも頑なに治療を拒む理由を知っとるんやろ? なら、担当が違うってだけだ。
話をしてやってくれよ。過去を共有できる人にしか出来ない、思い出話を。
傷痕が無くても、痛みが無くても。
想い出は無くならないと、そう思えるくらいに。
俺の下手糞な激励っぽい言葉を受けて、シスター・ブランは掴みっぱなしだった服の裾を離し、ぎこちなく――けれど少しだけ笑った。
「……そう、ですね。それなら、得意分野です。ミラ様とのお茶会の話題は、いつもそうですから」
ありゃ、こいつは釈迦……もとい、女神様に説法ってやつだったか。まぁそらそうだよね。
そうお道化て返して、改めてミラ婆ちゃんの様子を気に掛けて欲しい、と告げて。
今度こそ廊下を走り出そうとした瞬間の事だった。
「…………ぇ?」
俺を見つめる、ある程度は暗い雰囲気が払拭された栗色の髪の美人さんのお顔が、きっぱりはっきりと驚きに染まる。
それに首を傾げる間も無く、唐突に片頬を伝った熱い感触に、驚いて指先を這わせてみた。
……おぉ? 濡れとる。涙かコレ?
流石は大聖殿の聖職者というか、教会御意見番が心配ではあっても、こっそり中の様子を立ち聞き、なんて人は廊下には居ない。
なので、目撃者はシスター・ブランしかいないのだが……俺の方は唐突に頬を濡らす滴に困惑することしきりだ。
確かに姉弟子殿が抱え込んだものの為に自身を蔑ろにしてるのは、見ていてしんどかった。今だって心配もしてるし、不安だって感じてる。
でも、泣くのも嘆くのもまだ早い。ミラ婆ちゃんも直ぐにどうこうなるって段階では無いし、色々とやれることはある筈だ。
だというのに、人が泣くときには付き物の、嗚咽やせり上がる感情の波も特に無く、只々、片方の眼の涙腺だけがぶっ壊れたみたいに涙が頬を伝う。
あぁ……そっか。
なんとなく、腑に落ちた。
――こいつは、お前さんの涙か、相棒。
内心での問いかけに、応じる様に伝わって来る感覚は、酷く揺らいで、漠然とした想いで。
なんとなく、寝込んだ母親を前にして不安で泣き出しそうな子供――そんなイメージが脳裏に浮かぶ。
こうなると、流石に鈍い俺でも気付く。
鎧ちゃん――正確には、鎧ちゃんに《三曜》を継承させた嘗ての使い手は、ミラ婆ちゃんと深く関わる人物だったんだろう。
ひょっとしたら、問題となってる傷痕にも関係あるのかもしれない。
一部か、全部かまでは分からないが……技術を丸っと継承させたと言う事はその身や魂を侵食され、取り込まれ――それは今でも魔鎧の中に存在している筈だ。
……うん、なら猶の事、ミラ婆ちゃんには元気になって貰わんといかんな。
ラヴリーマイバディがこれ程分かり易く――それこそ、俺の身体に涙という形で同調が起こる程に、哀しんで、苦しんでいる。
もうこれだけで俺が自重なく走り出す理由になった。元から自重する気もないけどな!
この事を姉弟子殿に告げてしまうのも有効な手段となる可能性はあるが……先ずは強力な味方への応援要請から熟すとしようか。
と、そのときだ。
涙はそのままに気合を入れる俺を見て、正面にいるシスター・ブランが「あぁ……」と、深く、とても深く息を吐きだした。
「やはり、そうでしたか。貴方は……」
その吐息は、溜息というよりは胸に満ちて溢れ返った感情が零れ落ちたようで。
彼女の腕が俺の目元へと伸ばされ、白い指先が流れ落ちる儘だった涙をそっと拭う。
「……貴方達に、お任せします。どうかミラ様を、あの方が背負う最後の荷を下ろせるよう、手伝ってあげて下さい」
……あいよ、お任せあれ。
泣き笑いにも似た表情で深く頭を下げるシスターに、俺は力強く首肯して。
善は急げとばかりに、女子寮の廊下を駆けだしたのであった。
とりあえず、最初に向かうは弐ノ院。次に参ノ院だな。魔道具の貸し出しはスカラが全般の権限を持ってるし、トイルには事前の根回しをお願いしないといかん。
◆◆◆
ミラが倒れてから、数日が経過した。
レティシアとアリア、それに彼女達の必死な様子に説得する側に回ったガンテスなどが話を続けているものの、女傑は首を縦に振らない。
数年後には本当に危険な状態になるかもしれない、そう告げる聖女の言葉にも、彼女は動ずることなく。
「……これまでに何人も見送りました。私よりも若い者達を、大勢。年寄りにやっと来るべき時が訪れるというだけの話です。順番としては、寧ろ遅すぎる程でしょう」
覚悟の決まった、どころか、何処か晴々とすらした口調で言う始末である。
平和な時代が訪れ、自らが背負っていた、背負い続けるべきであった筈のものは、自慢の弟弟子がその殆どを解き放ってくれた。
未練が無い訳では無い。だが、もう十分過ぎる程に貰った。見たかった光景を見れた。
そう述懐する彼女は、酷く穏やかで、満足気で。
翻意を促そうとした者達――特に齢を重ねた者であるほど、納得は出来ないのに理解は出来てしまうので、なんとも歯がゆい思いを抱く羽目になっている。
彼女が嘗ての戦績や立場に相応しき地位にあれば、その辺りの職責をどうするのかと持ち前の責任感を刺激する事も可能だったのだろうが……未だに公的な立場はただのいちシスターという意味不明な立ち位置の教会御意見番であるからして、それも不可能だ。
「……難敵すぎる」
「骨が折れる、ってレベルじゃないけど……やっぱり諦めるなんて出来ないよ」
「そうだな、それはそうだ」
聖女姉妹は姉の自室にて、今日の説得が不発に終わった事にぐったりとしていた。
姉は僧衣のままで寝台の上に力無く寝転がり、妹は机の上に突っ伏して、其々に溜息をつく。
彼女達とて、漸く掴んだ平和な今が永遠と続くとは思っていない。
人は、命は老いる、巡る。何時かは等しく女神の御許へと還る。
それは、人外級へと到達したことで定命の其れより長い時間を生きるであろう者達であろうと、例外では無い。
ましてや、今回の相手は教会最古参の古株である女傑だ。嫌な話であるが、確かに年齢的な順番という点で見ればミラの言葉は的外れでは無いのである。
――的外れでは無い。けれども。
「それは今すぐって話じゃないだろ、ヒッチンさん……」
寝台に転がったまま、天井を眺めてレティシアが呟く。
何時か訪れる『そのとき』は、きっとまだまだ先の筈だ。
そうであって欲しい。そうでなければ、何のためにあの戦争を生き抜き、終わらせたのか。
順番とは言うが、古参の人達は自分達が転生してくる前からずっと戦い続けてきたのだ。
それと同じくらいに平和な時代を満喫して、良い思い出も楽しい思い出もたっぷり作って、沢山の土産話を手に入れてから旅立っても良い筈だ。
そんな事を考えていると、アリアが机から身を起こし、レティシアの方へと向き直る。
片方の手で自身の銀の髪の先端を弄り、少女ははにかんだ。
「ボクさぁ……もし、もし、教会でそういう式を挙げるとしたら……最初に隣を歩く役は、先生にお願いしたいなぁ、なんて思ってるんだ」
照れ臭そうに、頬を染めて未来を語る妹の言葉に、姉もベッドから身を起こして眼を合わせる。
「神父役はヴェティお爺ちゃんで……式の前の控室とかで、準備を手伝ってくれるなら……シスターかアンナが良いな、なんて思ってた」
「……そりゃ豪華にも程がある面子だな」
婚前の誓いを問う役が教皇という時点で相当だ。
だが、レティシアとしても特に反対意見は出ない。実際にその要望が通るかはさておき、仮に自分が同じ想像をしても面子は似通ったものになると思ったからだ。
「そうなるときまで――ううん、そういう日を迎えても、ずっと皆に元気でいて欲しい。ずっと一緒にいたい、って思うのは我儘なのかなぁ……」
「かもな。けど、我儘である事と間違いである事はイコールじゃないだろ」
極論、レティシアの『繰り返し』も、始まりは親しい人をあの戦争で失くしたくない、という強烈な意思がトリガーとなっていた。
その結果が今だと、あの青年を引き寄せたというのであれば、自身の我儘を誇りすらしてみせよう。誰であれ間違いなどとは言わせない。
「まぁ、何にせよ、だ。ヒッチンさんに治療を受けさせる事を諦めるつもりは無い。そうだろ?」
「そうだね。にぃちゃんも何かするつもりみたいだし、それで進展が生まれるかも」
「あぁ、いつもそうだったしな。今回も期待しておくか」
この件が始まってから直ぐに用がある、と言って姿を消した青年の姿を思い浮かべ、二人は少しだけ表情を明るくして微かな笑みを交す。
「――それはそれとして、式は多分オレが挙げると思うんだよな。アイツがそーいうの嫌がらなければ、だけど」
「あははっ、ナイスジョーク。言い出したのはボクだし」
バチッ、っと。聖女の私室に火花が散ったように見えた。
普段は鞘当てともなれば聖女姉と某戦乙女の激突が主ではあるが、今回は珍しく姉妹で発生したらしい。
うふふー、あははー、と絵面だけ見れば非常に秀麗な美少女姉妹が微笑み合っている光景なのだが、この場に居合わせる者がいれば、見えざる圧で圧縮されるハムの気分を生で体験できる事だろう。
とはいえ、これも姉妹のじゃれ合いの様なものだ。
親しい人間の今後を左右する一件の最中なので、半ば意図的に普段のやり取りを行ってメンタルを回復させている面もあった。逆を言えば二人とも半分は本気なワケだが。
表面上はニコニコと微笑み合う人外級のじゃれ合い空間を霧散させたのは、室内に響いたノック音だ。
「お休みのところを失礼します。枢機卿・ストラグルより伝言をお持ちしました」
姉妹は威嚇混じりの笑顔を引っ込め、ベッドと椅子の上から即座に腰を上げる。
位置的に部屋の出入り口に近かったアリアが素早くドアを開けると、参ノ院からの使いである僧は丁寧に一礼した。
「――内容は?」
「はい。都市外に出ていた猟犬殿より連絡があったそうです。取り急ぎ、中央の大聖堂にお越しいただきたいとの事で」
「大聖堂だな。ありがとう、直ぐに向かうよ」
一礼する僧の言葉に、レティシアが頷く。
てっきり向かう先は参ノ院かと思ったが、聖殿内の他の人間にも同じ伝言を送ったのかもしれない。
距離や集まる人数を考えて聖殿のど真ん中にある大聖堂を指定したのだとすれば、納得がいった。
「急ごうレティシア。にぃちゃんの事だし、きっとシスターの事も何かとんでもない用意をしたに決まってるよ」
「だな。さっさと行くか」
顔を見合わせ、頷き合い。
伝言を持って来た僧に見送られ、聖女姉妹は急ぎ足で部屋を飛び出した。
大聖殿中央にある、大陸最大級の聖堂。
レティシアとアリアが到着すると、そこには既にトイルの呼び出しを受けたらしい複数の人間が集まっていた。
先ずは聖教会のトップたる、教皇のヴェネディエ。
呼び出した当人であるトイル=ストラグルを筆頭とした三枢機卿。
教会の人型筋肉要塞ことガンテスの姿もある。筋トレの途中だったのか、大聖堂の入口横に巨大な球体状の岩が置いてあったので姉妹も既に居るとは思っていた。
そして、気弱そうなシスター……チェルシー=ミンスタに付き添われた、ミラ=ヒッチンその人である。
「……とうに風邪は治ったというのに、何時までも付き添いに人手を割くのはどうなのですか」
「申し訳ないですが、この一件が決着するまでは付き添い人は必須です。我々の心の安寧の為にも、どうか受け入れて頂きたい」
納得が行かない様子で呟かれたミラの言葉を拾い、トイルがぴしゃりと言い切る。
何時もの如く眉間に皺の寄った顔つきで、彼は集まった一同を見渡した。
「では、声を掛けた方々は全員集まった様なので、話を始めたく思う」
「トイル殿、ラック殿とブラン嬢がお見えにならぬようですが……」
「先生の治療に関してならば、確かにその御二人も呼ぶべきではあるのだが……今回は状況が特殊なのです、司祭。内容的にも聖殿内の人間だけで完結させたい」
ガンテスとトイルの会話を聞きつつ、きょろきょろと周囲を見回していたアリアが手を挙げる。
「あの、にぃちゃんは? 戻って来たんですよね?」
今回集まる発端となったであろう青年の姿が見えない事に、当然の疑問が湧いた様である。
何名かも同じ考えだったのか、片眼鏡を掛けた顰め面に向けて視線が集中するが、その当人も疑問は当然とばかりに頷きを返した。
「アリア殿の問いも尤もではある。して、肝心の彼に関してだが……つい先程現地に到着したばかり、という状況らしい。帰還にはもう数日は掛かるとの事だ」
その言葉に、現地? と首を捻る者が出るのは当然の話であった。
トイルが隣に目配せを行うと、その視線の先に居た弐ノ院枢機卿、スカラが前に進み出て小脇に抱えていた装飾の入った木箱を開ける。
「見ての通り、こちらは遠話用の魔導具です。性能的には以前にアリア殿に貸し出した物と同じですが、儀礼的な面も重視した装飾と、見栄えを重視した材質を使用した品ですな」
「猟犬殿には、こちらを貸し出して目的地へと向かってもらった――何分、使用する御方が御方だ。本来ならば簡易用の魔導具では無く、通信官を用いた大型を扱いたかったのだが……「ンな嵩張る上にクソ重いモン担いでいけるか」と却下されてしまってね」
何やら意味ありげな事を言うトイルに、事情を知っているらしき教皇と枢機卿以外の全員が怪訝な表情となった、そのときであった。
木箱の中身――柔らかな絹に保護されて中心に鎮座する宝珠が、強い光を放って明滅する。
「む!? も、もう始まってしまったか。説明の為に半刻は待ってくれと頼んだのだが……!」
スカラが慌てた様子で木箱を聖堂奥の台座に置くと、居住まい正して遠話の魔導具の発動を待つ枢機卿達。
他の面子が驚いたのは、ヴェネディエまで気持ち背筋を伸ばしたのを目撃して、だ。
本人の気質と教皇という立場故、大国の王相手であっても泰然とした態度を崩さぬ老人が、ちょっとだけ鯱張っているのである。なんかとんでもない事になってないか? と心配になるは当然の事だろう。
そして光の明滅が収まり、魔道具が起動する。
膨大な魔力を注ぎ込まれた最高品質の宝珠は、遠く離れた場所の声を極めて鮮明に大聖堂内に響き渡らせた。
『……これで良いのでしょうか? こ、壊れていないとよいのですが』
鈴を鳴らす様な、年若い女性の声。
その直ぐ後に、そこの装飾の傷は元からです、大丈夫ですお師匠。という、聞き慣れた青年の声が続く。
「……ブッ!?」
「うぇぇっ!?」
「ぬぅっ、なんと!?」
「…………!?」
女性の声に聞き覚えのある者達から、唖然を通り越して驚愕した叫びや唸り声が一斉に上がる。
その中でもいち早く立ち直ったアリアが、思わず、といった様子で一歩踏み出して宝珠へ向けて声を張り上げた。
「ちょっ、えっ……《半龍姫》様ですよね!?」
『あら、この声は……久しぶりですね。貴女が此処を訪れて半年と経っていないのに、ひどく懐かしい気がします――この身は悠久たる龍であるというのに、なんとも不思議な事ですね』
柔らかな、嬉し気な声が返って来て、アリアもついつい「そ、そうですか? ……えへへ」なんて照れ笑いを返してしまう。
和やかな会話を行う宝珠の発動者と銀麗の聖女であるが、その周囲は阿鼻叫喚にも近い大騒ぎであった。
「うぉおい!? マジで龍の姫様かよ! なんつー人を引っ張り出してんだあの馬鹿は!?」
「あ、レティシアちゃんがその反応って事は本当にこの御声は《半龍姫》様のものなのねぇ……念入りにお酒抜いてきて良かったわぁ……」
「これはなんとも……猊下、猟犬殿からお話を伺っていらしたのですか?」
「僕が聞いたのはトイルから事後承諾的な形でだよ。もうその頃には聖都から飛び出していたみたいでねぇ……」
「全力稼働させた魔鎧で最速で霊峰に向かう、との話でしたので……あの短時間で進路上にある近隣の都市への事前通達や根回しは、少々骨が折れましたが」
「正直、私もトイルも霊峰に到着してもあの大慌て振りでは道中の霊獣の警戒対象になってしまう、と予想してたのでもう少し掛かると思ってたのですがねぇ……二日以上早くなるとか……」
「こ、これ私が同席しても良いのでしょうか!? ひ、一人だけ場違いな気がしますぅ……!」
皆混乱するのも当然だ。なにせ魔導具より響く声の主は、現存する最後の龍の血脈にして超越者。霊峰に住まいし龍の姫君である。
遠話越しとはいえ、もっとも神格に近い存在として不可侵の扱いとなっていた人物の登場に、事前に知らされていた者もそうでない者も騒然となってしまうのは仕方の無い話だった。
言う迄も無いが、どんな国の王族よりも敬意を払って相対せねばならぬとされる存在である。
先ずは教皇であるヴェネディエが挨拶の口火を切らんと、最初に声を上げてしまったアリアを下がらせて一歩、前へと出た。
「いや、お久しぶりです、姫君。お弟子の身とはいえ、今回は教国の人間である彼が――」
『今回は儀礼的な挨拶は不要ですよ。私は、師として姉弟子の不養生を叱ってやって下さいと末弟子に頼まれただけの身です』
その言葉を受け、大聖堂内の視線が一斉にミラへと向けられる。
色々と斜め上な無茶をやらかす弟弟子ではあるが、まさか自分の説得の為に霊峰にまで赴いて師を引っ張り出すとまでは思っていなかったのだろう。
驚愕やら動揺やらバツの悪さやらで、女傑はこれまで誰も見た事な無いような複雑怪奇な凄い表情をしている。
一方で、形式的な言葉をやんわりと遮った龍の姫君の声は、少しだけ悪戯っぽいというか、茶目っ気の様な物を含んでいた。
曰く、あくまで龍という種族としてではなく、《三曜の拳》という一つの戦武の師として、弟子と話をする場に出てきた、という事らしい。
理屈は分からないでも無いが、少々無茶な話だ、と聖教国のトップである老人は苦笑した。
とはいえ、立場的に上位である彼女がそう明言した以上、多少無茶でも受け入れるのが無難というものだ。
元より、大人数と関わる事を避ける御仁である。
そんな彼女が、わざわざ魔道具を用いて声を届けてくれた事に対して礼を尽くす為に、彼女の知己や国内の代表格を集めた形としたが……ここは全員の挨拶などはすっ飛ばして本題に入った方が良いだろう。
そう判断したヴェネディエは、音声のみのやり取りではあるが宝珠へ向けて丁寧に一礼した。
「分かりました。では、その様に……我が友へ言葉を届ける為にこの場を設けて下さった事、感謝致します」
『えぇ。それでは早速ですが――ミラ、其処に居るのでしょう?』
穏やかに声を掛けられ、呼ばれた当人が僅かに緊張を浮かべた表情で進み出る。
拱手と共に片膝を地に着いて一礼すると、ミラは叱られる前の子供を思わせる、躊躇いがちな口調で声に応じた。
「……お久しぶりです、師よ」
『そうですね、時の流れを感じ取る事に不得手な身ですが……貴女の声を聞けば、やはり懐かしく感じるだけの月日は流れているのだと実感します』
叱る、とは最初に口にしたものの、竜の姫君の言葉は柔らかな儘であり、久方ぶりに話す弟子との会話に喜びを覚えている様であった。
『こうして声を交したのは貴女が一線を退く前でした……遠話越しですから、態々膝を着く必要は無いのですよ?』
「……お分かりになるのですか?」
『流石に見えはしませんが――実際、しているでしょう? 貴女は昔から生真面目が過ぎましたからね』
お見通しだ、とばかりに微笑む師の顔が脳裏に浮かび、弟子が恐縮した様子で再度一礼して立ち上がる。
『ふむ。おそらく、その場には多くの者が集まっているのでしょうが……弟子と二人で話しがしたい。可能ですか?』
挨拶を交わしただけであるが、声色からミラの胸中を汲み取ったのか、それとも最初からそのつもりであったのか。
二人きりの会話を望む姫君の言葉に、問われたのであろうヴェネディエが問題は無いとばかりに頷く。
「えぇ、御随意に。それじゃあミラ、そちらの魔導具を持って奥――聖処に移動してくれるかい? 僕達は此処で待たせてもらうとするよ」
「……分かりました――師をこの様な形で引っ張り出した事、後で話があります、ヴェティ」
「それは君の弟弟子に言って欲しいなぁ……さっきも言ったけど、僕は事後承諾しただけだし」
丁寧に木箱ごと宝珠を持ち上げ、ジロリと老人を横目で見据える女傑に、当の老人は飄々と笑ってその視線の圧を受け流す。
即座に魔道具越しに、俺に矛先逸らすのやめてくれません!? いや確かに言い出しっぺも実行したのも俺だったわ! 駄目だコレ糞ァ!? とか青年の騒がしい声が聞こえてきたが、かの《半龍姫》を説得要員として引っ張り出すなどという無茶苦茶をしたのは、実際彼自身である。残当なので全員にスルーされた。
『貴方もですよ、話が終わるまで客室で待つようになさい』
更に姫君にやんわり諭され、あ、ハイ。すいません。と返す言葉が続く。
すごすごと背を丸めて移動する様が目に浮かぶようで、レティシアとアリアが顔を見合わせてちょっと笑った。
声の発生源たる宝珠を手にした女傑も、師を相手にしても全く調子が変わっていない弟弟子の声に、苦笑の混じった微かな笑みを浮かべる。
「……やはり、私は貰い過ぎです」
そう呟くと、ミラは一度振り向いて、この場に集った――己の傷が癒える事を望む者達を見廻す。
案じてくれる者達に、大きな感謝と、それを今も突っぱねている申し訳無さを同居させた表情で一礼して。
遠話の魔導具片手に、さて、どうやって師のお叱りを乗り越えようかと考えながら、女傑は大聖堂の内陣仕切り奥へと足を向けたのだった。
◆◆◆
さて、霊峰のお師匠のもとへと突撃して、ミラ婆ちゃんの説得を頼むという最重要案件を済ませて一泊して。
ついでと言ってはなんだが、彼女に渡す予定だった俺の黒歴史にも関わる遺物――界樹の種も預けて、帰路に着く事はや数日。
見事に姉弟子の説得に成功したらしきお師匠の言によれば、治療の用意自体は皆が既に万全に整えていたらしいので、もう始まっているだろうとの事。
ミラ婆ちゃんの翻意の切欠になってくれれば良い、とは思っていたのだが、しっかり首を縦に振らせたらしいお師匠は流石である。感謝喝采雨あられってなもんだ。
尤も、師匠からすれば大した事は言ってないらしい。
『叱る、とは言いましたが……私はそれとなく伝えただけです。あの子の拘りの根幹を――他ならぬあの子自身の選択で、泣かせてしまっている事を』
俺とマイバディの現在の状態をあっさり看破したのか、眼を細めて俺を見つめ、白く細い指先で軽くこっちの胸元を突いて微笑むお師匠に、なんともむず痒い気分になったり。
あ、ちなみに遠話の魔導具は置いてきた。
夕飯御馳走になってるときに「あの子達と話せるのは、とても良いですね」とか宝珠を眺めてポツリと呟いてたんでね。仕方ないね。
品質的には最高級の一品だけど、貢物の類なんぞ基本眼中に無い《半龍姫》様がちょっと物欲しげにしていたとくれば、トイルやスカラもそのままプレゼントした事を咎めはしないだろう。寧ろ良い判断だと親指立てて来るまである。
万が一駄目だったとしてもそっくりそのまま弁償したるわい。とんでもない出費だろうけど、価値ある散財ってやつだ。迷う必要すら無い。
帰路は現在半分程度。行きはなりふり構わず全速力で向かったので同じ日数で到着したが、流石に帰り道もあのペースはしんどい。なのでもうちょい時間を掛けて帰る予定だ。
行きは俺が焦ってたってのもあるけど、鎧ちゃんの出力がいつもより高めだったしね。一刻も早く到着すべし、という意志がマイバディから伝わって来た。
速力アップ狙いで道中何回か《銘名》も切ったんだけど、ほぼ最初から完全最適化した状態だったと言えば、我が相棒のとんでもない気合の入りっぷりが分かるだろうか?
街道からやや外れた道なき道を走る。
流石にこの速度で人通りのある舗装された道は危ないからね。人でも馬でも馬車でも、轢いたら粉々にしてしまう。洒落にならん。
しかし、ミラ婆ちゃんは大丈夫かな……もう治療は終わったんだろうか?
シアとリアが治療さえ始めれば根治自体は可能だと断言していたので、行き道ほど焦燥や不安は無いが……まーそれでも気持ち的に心配なのは変わらんからね。あんまりゆっくり帰る気はしないから、少しペースアップしてもいいかもしれない。
鎧ちゃんの出力を上げてみると、ラヴリーマイバディも同感だったのか、思ったより速度が上昇した。
うむ、良いペース。この分なら二、三日後には聖都が見えて来るな。
帝都の一件でも思ったけど、定期的に《地巡》を挟めば完全起動の継続時間が上がったのは、やっぱ有難いよなー。
そんな事を考えつつ、お家への道程を走る俺である。
――で、更に二日後。
特に何事も無く聖都目前まで到着し、日も高いのでそのまま聖殿入りしようかと考えていた俺を待っていたのは、鍛錬がてら都市の外周を走っていたらしいガンテスだった。
「おぉ、御帰りになられましたか猟犬殿! 御無事の帰還何よりです!」
走るときに重りとして担いでいたらしい、アホみたいなサイズの岩を足元にズズン、と下ろす。地面揺れたんですけど。
今更けどさぁ……何メートルあるモン担いでんねんこの人。どっかの岩盤を丸ごとぶっこ抜いてきたのコレ?
「以前、聖殿にて同様の品を持ち込んだ際、中庭の敷地を圧迫するとお叱りを受けてしまいましてな! 都市外で鍛錬するに限り使わんと、城壁の傍に置かせて頂いておるのです!」
小屋みたいなサイズの岩塊をダンベルを隅っこに置かせてもらうみたいなノリで言うのやめよう(真顔
これは良い物ですぞ、じゃねーんですよ。アンタ以外にはただのクソデカい岩だよ。
厳つい角張った顔面に晴々とした笑顔を浮かべるオッサンには、憂いや心配事があるようには見られない。
もうこの表情を見ただけで分かる――婆ちゃんの治療は問題無く、完璧に終わったのだろう。
やれやれ、なんて偉そうに嘆息する様な身でも無いが……肩の荷が下りた気分になったのは確かだった。
「……では、聖殿に向かうとしましょう。皆々、猟犬殿の帰りを待っておられます故」
肩の力が抜けた俺の様子に気付いたのか、こちらの肩に分厚い掌を乗せ、オッサンは目尻を緩めて再び笑う。
うん、そうですね――でも、その岩はちゃんと城壁の傍に寄せておこう? このまま置き忘れたら邪魔ってレベルじゃねーし。
「おぉ、確かに。危うく忘れる処でありました」
絶対忘れちゃ駄目なやつぅ! 衛兵さんとかじゃ誰も撤去出来ないでしょ!
御機嫌に大笑する筋肉要塞が岩を片付けるのを待って、二人並んで都市への門を潜る。
聖殿へと歩く道すがら、かいつまんで事の顛末を聞くが……やっぱり姉弟子様の治療はもうバッチリだそうだ。良かった良かった。
「ミラ殿も、かの傷を負ったまま戦った年数が相当にありますれば。それらが全て消え、急速に体調が回復してやや感覚にズレが生じておられる様です。喜ばしき苦労、と呼べるでしょうな」
へ~、そうなんかぁ……しかし、考えてみれば基礎部分に呼気法とかも含まれてる《三曜》で、胸にハンデ抱えておいてあの強さと戦歴だったんだよな……やっぱおっかねえなぁあの人は!
「はっはっはっは! 率直ですな! 拙僧もミラ殿のお怒りを買うは避けたいが故、返答はご容赦をば!」
それもう答え言ってない? まぁお互い黙ってれば良いか!
「ですな!」
オッサンが豪放磊落快活なのは今に始まったこっちゃないが、俺の方もミラ婆ちゃんの一件が一番良い形で終ったと聞かされて、気分がアガっている。
二人で馬鹿話をしながらゲラゲラ笑って歩を進めると、あっという間に懐かしの今の我が家、大聖殿が見えてきた。
入口の門構えを守護する人達に心軽やかに挨拶し、意気揚々と中に入る。ただいま我が家よ!
……さーて、やっと帰って来た事だし、早速ミラ婆ちゃんの様子を見に行こうかな! その後はシア達にただいまも言って、久しぶりの食堂の飯も腹一杯食って、お部屋でのんびりするの!
今の時間だと、姉弟子殿は中庭で軽く身体を動かしてる最中かね? なんか調子良くなりすぎて調整してるみたいな話だし。
「おぉ、そういえば言い忘れておりました」
俺の後ろを歩くガンテスが手をポン、と打ち合わせて、なにやら思い出したように声を上げる。
「先も申しましたが、ミラ殿は御身体の調子が非常に良好ゆえ、ここ数日は自主鍛錬の時間を増やして身と意識の一致合一を行っている最中でしてな。この時間ならば、中庭にいらっしゃるかと」
お、ドンピシャですねぇ! ならこのまま中庭に向かおう。
心だけでなく足取りも軽くし、元気な姉弟子の姿を拝もうと慣れ親しんだ聖殿の中を進む。
ガンテスもついてくる気みたいだ。背後から後頭部に向かって投げ掛けられる、相も変わらずニコニコとしてそうな溌溂とした声で続けられる言葉に耳を傾ける。
「いや、技は言うに及ばず、御身体のキレも現役時代を彷彿とさせる健常ぶりでしてな! 拙僧も若かりし頃を思い出す様な心持になり、つい鍛錬のお手伝いのお誘いなどを申し出たのですが……いやはや「その気は無い」ときっぱりとお断りされてしまいました!」
わっはっはっは! と爆音みたいな笑いで背中にビリビリと衝撃が来るが、このオッサンが御機嫌な時は何時も発生する現象なので気にしない。
へー、そうなのかー。とやや適当に返事しながら、中庭に足を踏み入れ、見慣れた背筋の伸びた姿を探し――。
「なんでも「身体を癒した後、最初に拳を交えるのは弟弟子《《達》》と決めている」との事……これは割り込むは無粋と思いましてな! 何れ機会が巡ることを待ち侘びる事にしたのです!」
へー、そうな……何て??
不穏過ぎる言葉を耳に拾い、勢いよく背後を振り向こうとした瞬間だった。
キン! という甲高い音を立てて、一瞬で中庭を包む様に魔力障壁が張り巡らされる。
強度も魔法の構成自体も注ぎ込んだ魔力も桁外れ……戦争中に嫌というほど見慣れたソレは、間違いない――シアとリアが扱う結界の一種だ。
障壁が中庭を覆うと同時、何時もの様に訓練鍛錬に励んでいた聖殿内の皆さんが、示し合わせた様に一斉に端っこに移動を始めた。
ご丁寧に置いてある器具の類まで片付けられ、だだっ広くなった荒れ気味な芝生を目の前にして、俺の背中にぶわっと嫌な汗が噴き出す。
振り向こうとした動作は錆びついた様に鈍くなり、ギギギギ、音を立てそうな動きで背後のガンテスの顔を見上げた。
「どうやら猟犬殿の帰還にお気づきであった御様子。レティシア様とアリア様に結界の御助力を願うとは、ミラ殿の本気が伺えますな!」
目の前の筋肉ゴリラは笑顔だった。物凄く。
羨ましいぜ! 今から観戦するのも将来自分が戦るのも楽しみ過ぎてテンション上がって来た! と言わんばかりにメチャクチャ良い笑顔だった。
どうやら逃げ場は無いらしい。
……ならせめて紙とペンをくれ。当たり前だけど手元に無いんだよ。
「……む? と仰ると?」
遺書書くに決まってんだろ、言わせんなよ分かれよ。
……嘘だよ書きたくねぇよ! 逃げ出したい! さっきまであれ程顔を見たかった姉弟子だけど、今は視界に収める事すら無く全速力で脱兎の如く逃げ出したい!!
確かに今回、お師匠にヘルプするとか無茶苦茶やったけどさぁ! 帰って来て早々元気になったミラ婆ちゃんのKAWAIGARIとか鬼畜ってレベルじゃねぇぞ!
シアーっ! リアーっ! なんで協力したぁ!? 理由を言ってミロォ!?
鎧ちゃんを起動してもそうそう簡単にはぶち抜けないであろう、アホみたいに頑丈な魔力障壁を前に地団駄を踏む……見苦しいとか言う奴は俺の代わりにKAWAIGARIされてみろコラァ!
「拙僧は是非とも次に名乗りを上げたく思うておりますぞ!」
うるせぇぇぇっ! 人型要塞岩ゴリラは例外じゃぁ!? つーかアンタが外に居たのって、俺が帰ってきたら逃がさない様にミラ婆ちゃんに頼まれてたからだろ!
「わっはっは! 御慧眼ですな! 拙僧もまた女神にお仕えせし者の一人なれば、同じ神を頂く戦友にして先達たる御仁の頼み、どうにも断るは忍びなく!」
少しは悪びれろゴルァッ!?
現実逃避代わりにガンテス相手にギャーギャーと叫んでいると、ついに恐れていたときが訪れてしまった。
「漸く帰ってきましたか。待ち侘びましたよ」
聞き慣れた――もう声からして鉄芯でも入ってそうなビシッとした声色。
反射的に背筋を伸ばした俺は、そのままの体勢でおそるおそる振り返って……振り返って…………。
………………。
……えーと、どちら様ですか?(困惑
混乱するのも宜なるかな。
中庭の真ん中へと進み出て来たのは三人の年若いシスターだった。
いや、両脇の二人はね、シアとリアなのよ。
俺の顔を見るなり両の掌を合わせ、申し訳なさそうに口をパクパクと動かしている。
……"すまん、許せ"、"ごめん、にぃちゃん"、ね。後で覚えていたまえキミタチ。猟犬印のウメボシをこめかみにお見舞いしてやろう(恨み節
まぁ多分、治療を受ける代わりに今回のKAWAIGARI(組手では無い。断じて)に協力してくれ、とか言われたのかもな。そうでなくとも元気になった教会御意見番に迫られて断れるかっつーと、中々に難事であるのは否定出来ない。
……で、だ。
問題は真ん中を歩く女の人だ。いや、マジで誰?
年の頃は二十代半ばか、それよりちょい上、程度だろうか?
切れ長の眼をしたちょっとキツめの美人で、金灰の髪を後ろで括ってポニーテールにしてる。
背筋は伸び、胸を反らして真っ直ぐに立つ様は何故か非常に既視感があるが……。
「ふむ。混乱しているようですね――では」
これまた非常に聞き覚えのある声が謎のシスターの口から発せられ、懐から眼鏡ケースを取り出して中身をスチャっとばかりに掛ける。
見覚えのある三角型のデザインの細眼鏡が、キランと光って太陽光を反射した。
………………。
あの、すいません。もし間違ってたら謝るんで、ちょっと質問良いですか?
「えぇ、構いません」
……どうも。あのですね、その……お姉さんって、ひょっとしてミラ=ヒッチンとかいうお名前ではないでしょうか?
「お姉さん、などと言われる様な年齢ではありませんが、その通りですね」
…………。
……はぁぁぁぁぁああっ!?!?
えぇぇぇぇぇぇぇえっ!? ちょっ、えぇぇぇぇっ!?
思わず背後にいるガンテスに向けて振り返る。凄いイイ笑顔で頷かれた。意味が分からん。
次いで、ミラ婆ちゃんを自称するねーちゃんの脇にいるシアとリアに視線を向けた。物凄い勢いで『気持ちは分かる』とばかりに頷かれた。意味が分からん。
宇宙猫どころの騒ぎじゃない。
寝転がって煎餅齧ってたら噛み砕いた煎餅の断面にこの世の真理を見つけた様な、超絶に意味不明な現象に俺の脳味噌は完全にフリーズした。
口から煙と魂を吹きそうになっている俺を見かねたのか、シアが後ろ手に頭を掻きながら説明らしきものを始める。
「いや、ヒッチンさんの治療なんだけどな? 乱れてる胸元の魔力とか気脈とか、患部諸々を賦活させて、オレ達が回復魔法をかけ続けた状態でヒッチンさん自身に《三曜》で矯正してもらう、って手法をとったんだよ。患者側が制御する部分が多くなるけど、これが一番、身体に負担が掛からないと思ってさ」
眼鏡を外してケースにしまい直してる隣のシスターの顔を見上げ、金色の聖女様はいまいち自信無さげに語った。
「――で、治った結果。簡易儀式でオレ達が全力で発動させた、細胞を賦活させる魔力が、詰まった栓が抜けるみたいに全身を流れたらしくて……本来なら余剰分は身体から抜けて終わりなのが、ヒッチンさんの《三曜》での魔力制御が高すぎてきっちり全身に馴染んだみたいでさ……なんか終わったら、その……若返ってた?」
ごめん、一個も理解できない。どういうことなの?(真顔
「オレだって分かってねーよ!? 結果起こった事をそれっぽく後から理屈付けしてるだけだっつーの!」
シアの方も謎過ぎる現象に理解が及んでいないのか、キレ気味に返されてしまった。
どうやらここ数日でリアと話し合って出した結論みたいだ。妹分の方も、姉の叫びに同意する様に深く頷いている。
「……正直に言えば、当事者である私にも理論立てた説明は出来ません」
眼鏡を外して再び懐に収めたシスター……ミラ婆ちゃんが、苦笑に近い形で微かに笑い、唇に緩やかな弧を描く。
「ですが……治療を終え、衰えたこの身にあの頃に近い力が宿ったと理解したとき、思ったのです」
同時に腰が深く落とされ、構えを取ると共に踏み出した脚が、深く地面を穿つ。
大地を揺らす震脚と共に、鋭く、深い呼気が吐き出され――姉弟子殿はふっつーに美人になった……というか戻った? ご尊顔に、穏やかな表情を浮かべる。
「今度こそ、あの日の――いつかの稽古の続きを。終わらせる為では無く、貴方達と、これからも続けていく為に」
これで満願成就、と言わんばかりに満ち足りた表情で告げられたその言葉に、どれだけの願いが、積年の想い込められていたのか。
全部を汲み取る、なんて真似は俺には出来そうにも無かったが……それでも。
「これは、私の我儘です――受け止めて貰えますか? 我が自慢の弟弟子よ」
此処でノーと言えるほど、俺はタマ無しや畜生の類では無かったらしい。
無言で拱手を返して、鏡合わせの如く同じ構えを取った。
――胸を借ります、師姐。
静かに返した言葉に、真っ直ぐに俺を見つめる姉弟子の顔が、堪え切れぬとばかりに破顔する。
今回に限り、身内に戦闘用の全力を向けたくないだの、そういった主義主張は封印して……相棒を起動させた。
《起動》
魔力が吹き荒れ、装甲が展開――展開……されなかった。
…………なんで?(白目
一瞬、呆然とするものの、直ぐに我に返ってマイバディに呼びかける。
え、ちょ、鎧ちゃーん? どうしましたー? ここ格好良くシャキーン! ってする処だぞー?
反応は、無い。
ただ、なんだろう……まるで白目を剥いて頭抱えて、プルプルしながら背を向けてしゃがみ込んでる様なイメージが、妙に強烈に伝わって来る。
ど、どうした相棒!? 何があった!? まるでトラウマを直撃された様な凄い怯えっぷりやぞ!?
なんか見た事無い反応してるんですけど! 邪神と相対したときすら、待ち望んだ怨敵との戦いって事で歓喜混じりの武者震いしか示さなかったのに!?
師姐! 師姐! ミラ婆ちゃーん!? 一旦タンマ! ちょっとだけタイムお願いします!(必死
主武装にして俺の戦力の根源である鎧ちゃんが明らかに調子がおかしいので、必死こいて一時中断のお願いを叫ぶ。
けど、なんかもう感極まったみたいな笑顔でウッキウキなミラ婆ちゃんには聞こえていないようで――。
「さぁ、行きますよ。貴方達二人の力、私に見せて下さい……!」
ちょっ、待っ……嫌ァァァァァッ!?
姉弟子が力強く地を蹴り出し、踏み込む音と、俺の情けない悲鳴。
それらが同時に聖都の空に響き渡り、お天道様へ向かって吸われて消えていったのであった。どっとはらい(白目
ミラ婆ちゃん
昔、弟子に付けられた傷を後生大事に抱え込んでそのまま墓に入る気マンマンだった人。
多方面からの説得&当の弟子がべそかいてるとお師匠から指摘を受け、治療に踏み切った結果、なんかパワーアップした。
全盛期の肉体に現在の技術が合わさり、(主に駄犬にとって)ひどいことになっている。
尚、KAWAIGARIの次の日にはいつものミラ婆ちゃんに戻っていて周囲が再び驚愕した。
可変式らしい。多分、普段が省エネモード、ちょっと本気出すと若返って四英雄モード的なやつ。
駄犬
素の状態で四英雄筆頭のKAWAIGARIを受ける羽目になった奴。
ちなみに治療を受けさせるだけなら、わざわざ霊峰までいかなくとも鎧ちゃんが泣いてた事を説明するだけでミッションコンプリート出来ていた。
お師匠まで引っ張り出し、彼女の御言葉によって鎧ちゃんが今どんな状態か、どれだけちゃんと意識があるかなどを割と具体的に知った事で、姉弟子のスイッチが色々入ってしまった。
要はやりすぎて自分に返って来た形である。残当。
教国の面々
幾らか、或いは詳細な事情を知っているが故に強く説得に出られずにヤキモキしてる面子が多かった。
霊峰の主を巻き込むというとんでない真似をする奴の行動に、見える処・見えてない処で阿鼻叫喚。
とはいえ、その御蔭で女傑が治療を受けてくれたので一安心。
尚、若返った女傑を見て二度目の阿鼻叫喚(一部喝采もあり)が起こる。
お師匠
弟子や可愛がってる聖女と色々お話出来たし、魔道具貰ったので偶のやり取りまで出来るようになった。ちょっと嬉しい。何気に今回一番得した人。