霊峰の日々(前編)
シリアスさん
「あ、帝国編終わった? それじゃ当分長期休暇取るわ。その間ワンオペよろ」
ギャグ君
「やめてください(過労で)しんでしまいます(^q^)」
白狼は上機嫌であった。
以前やって来た三匹のヒトと、腐臭を放つ忌まわしき者共。
あれ以降は霊峰に妙な者達がやってくる事もなく、普段通りの日々が続いているのも理由の一つだが、僅かだが"母"から感じるけはいが優し気というか、穏やかなものになったのが最も大きな要因だろう。
元より、激昂や憤怒といった意を抱く事はほぼ無いといってよい"母"であったが、あの三匹のヒト(なんかヒトっぽい岩の精霊らしき者も混ざっていたが)との交流以降、雲や雨、風や大地に近い――言ってしまえば肉の身を持たぬ精霊の如き気配であったその匂いが、少しだけ尋常の生物に近いものへと変わった。
以前は『穏やか』というよりは『平坦』とでもいうべき気配だった"母"に訪れた微細な変化。
それが良い事か悪い事なのかは分からないが、白狼にとっては好ましいものであるのは確かだった。
何せ、最近は撫でてくれる事が多くなった。これはとてもとても重要な事である。
先日、狩りで仕留めた獲物を届けた際にも"母"は以前よりずっと長い時間、己の背をその掌で梳いてくれた。
頻度高く、或いは長い時間、"母"の住処に滞在すると他の縄張り持ちがうるさいのだが……知った事では無い。
元より、一番喧しく嚙みついて来る奴は己と一番反りの合わぬ奴でもある。やっかみ混じりの嫌味など記憶に留めておくにも値しない。
獲物は届けたばかりだ。狩りをするにしても"母"に届ける必要性は、今の処薄い。
――が、それは食糧に限ればの話だ。
冬が近づいてきたせいか、山の頂付近には既に雪も降り始めた。
己が"母"の住処で暮らしていた頃、冬場に使っていた毛皮の敷物はいい加減草臥れているだろう。新しい敷物になりそうな毛皮を持つ獲物を狩れば喜んでくれるかもしれない。
彼女にとって峻厳たる霊峰の厳しい寒さも、小春日和の平原の暖かさも、身体に齎す影響という点では大差ないが……ヒトに近しい形をしている以上、こういった物は必要な筈だ。
それとなく"母"のもとに向かう口実――人間の言葉で言う理論武装と呼ばれるものを胸中で展開し、今日も今日とて白狼は狩りに勤しんでいた訳だが。
――お師匠ぉぉぉおおおおお!!
以前にも何度か見た事のある、真っ黒な甲殻のようなものを全身に纏ったヒトが、麓から凄まじい速度で山の頂上へと爆走してくるのを遠目に見つけ、その日の狩りは中断する事となった。
小さく漏らした唸り声は、おそらく人でいう処の溜息の類である。
物騒な魔力を撒き散らして一直線に山を登って来た真っ黒なヒトは、これで三回目の来訪という事もあって霊峰の上位に位置する存在にはほぼ周知されている。
というか、ちょっと前にも"母"の住処に滞在していた。季節が一巡りすらしていないのだから、忘れる筈もない。
本来なら迎撃待ったなしなのだが、今回も"母"の客分となるであろう事は容易に想像できる。
なので、白狼を始めとした霊峰内に縄張りを持つ主級は、揃って黒くて喧しいヒトの雄をスルーした。
あの黒いのが来ると、"母"はアレに掛かり切りになる。住処を訪れても撫でてくれる時間だってごっそりと減る。
今、狩りの成果を見せにいっても、何時もの様な楽しい時間とはならないだろう。
白狼は巣に戻り、その日は不貞寝を決め込んだ。
この間訪れたときのように、日を何度か跨ぐ程度には"母"の住処に滞在すると思われた黒いのだが、どうやら今回は急ぎの用があったらしい。
翌日の早朝には再び凄まじい速度で爆走し、山を駆け下りていった。喧しい上に慌ただしい奴である。
とはいえ、帰ったのなら不貞寝も終わりだ。早速狩りに出て"母"に良い獲物を届けるとしよう。
求めるのは肉では無く毛皮――即ち、敷物に適した大きさと毛並みの獲物を、極力傷を付けずに仕留める必要がある。今日一日かけてじっくりと吟味し、狩ることにしよう。
仕留めた獲物は巣の近くにある洞穴に置けば、よく冷え込む場所なので夏場であろうとも早々には腐らない。今の時期なら猶更だ。臓だけ喰らい、明日にも"母"に届ければ良い。
そんな算段を立て、白狼は意気揚々と狩りに出た。
そして、翌日。
中々な大物を仕留めることが叶った白狼は、早速"母"のもとに訪れんと準備を整える。
狩ったのは、最初から目星を付けていた《装甲熊》と呼ばれる魔獣――が、霊峰の環境に適応した個体だ。
自身よりも大きな相手なので、狩っても中々喰いきれない。その上、他の獲物よりも少々肉の臭みが強いので、何時もなら積極的に狩る相手ではないのだが……良い毛皮を持っていたのと、おまけに自分の縄張りの近くで少々調子に乗って暴れ廻っている奴だったので、実に丁度良かった。
喰った臓は、やはり少しばかり臭いがきつかったが……食いごたえはあったのでトントンといった処だろう。何より、主目的は其処では無い。
どの道、これ以上無軌道に暴れる様なら狩る予定ではあったのだ。負けて骸を晒した以上、これからは"母"の住処を居心地良くする敷物となれ。
この熊は図体があるので、咥えて持って行ってはあちこちを引き摺って毛皮が傷む。
なので、白狼は霊峰ではそこら中に生息している小さな精霊達に呼びかけ、魔力と引き換えに背に負った獲物と己を頑丈な蔓で結んで固定して貰った。
背にかかるズシリとした重みもなんのその、足取りも軽く、"母"の住処へと向かう。
頂上に近づく気配を早々に察知していたのだろう。"母"の住処――屋敷まで近づくと、既に彼女は外に出て白狼を待っていた。
「――おはよう。この様な朝早くにどうしました?」
美しい紺碧の髪に、不思議な光彩を放つ、吸い込まれそうな程に輝く龍眼。
獣であるが故に美醜の感覚が希薄である筈の白狼をして、幾度見ても見事だと思える、何時もの"母"の姿であった。
白狼が鼻先を近付けると、彼女は柔らかな指先で頬から首元にかけてを梳いてくれる。
優しく、穏やかな匂いに包まれ、ついつい小さな幼子の様に甘える音が喉を鳴らしてしまった。
このまま動かず、撫でられ続ける誘惑に駆られるが……己は"母"へと冬に入用であろう新たな毛皮を届けに来たのだ、断腸の思いで身を離し、一声吠える。
「うん? 随分と大きいのを獲って来ましたね……食肉は前の分がまだまだありますが……ふむ……」
"母"は白狼が背に負った大きな獲物に眼を向けると小首を傾げ……獣であるにも関わらず、気持ちドヤ顔に見えなくも無い白狼の顔と見比べ、ややあって納得した様に頷いた。
「……そろそろ冬も近い。察するに毛皮の贈り物ですか。屋敷に住んでいる私が忘れがちだというのに、良く気が付く仔ですね」
まるで家事を手伝った我が子を褒める様に、"母"が掌全体を使って白狼の顔廻りをわしわしと撫でる。
再び白狼の喉から子犬の如き高い鳴き声――甘える様なソレが漏れる。霊峰にて縄張りを持つ霊獣の一角として、獣なりの自負に近い意識を有する彼であるが、"母"の掌の感触にはどうにも抗い難い。
幼き頃、まだ自身が"母"の腕にすっぽりと収まる程度の大きさだった当時の記憶が、今でも色鮮やかに想起されてしまうのだ。現在に至るまで抵抗は極めて困難であり、成功した事もなかった。
喉を鳴らし、されるがままの彼に"母"は穏やかに微笑みかける。
「ありがとう、使わせてもらいます――剥ぎ取りと干しだけ済ませてしまいましょう。少しだけ待ってくれますか?」
勿論、白狼に否などある訳もなかった。
"母"がその繊手を一閃させると、持って来た獲物の肉と毛皮が綺麗に断たれる。
脂一つ付かずに切り離された毛皮を近くの樹の枝にかけ、枝から落ちぬ様に軽く紐で結わえると、それで一旦は終わりらしい。
余った肉をどうしようかと"母"は少し悩んでいたようだったが、不要ならばそちらは己が持ち帰っても良い。
というか、量はあるが少々臭みの強い肉など彼女が口にする必要は無い。白狼が喰ってしまうか、最悪、彼の縄張りに置いておけば、腹を空かせた他の獣が小一時間と掛けずに骨だけに変えてくれるだろう。
服の袖を咥え、眼でその様に訴えかけたのが通じたのか、"母"は頷いた。
「では、そちらは木陰に移しておくとして……今日は、少々山中を巡らなくてはなりません。貴方の他にも、霊峰内で各所の守護を行っている仔達の領域に足を伸ばす必要があります」
どうやら、他の縄張り持ちの棲み処を巡るらしい。基本、頂きであるこの場所から滅多に動かぬ彼女だが、珍しい事もあるものだ。
疑問という程ではない。が、少しばかり驚いている白狼の意を感じ取ったのだろう。
これまた珍しい、ちょっと困ったような――所謂苦笑に近い感情で口元に弧を描き、"母"は自身の懐を探ってある物を取り出した。
「かの女神の力の中継点足る聖遺物――これが、慌ててやって来た目的の《《おまけ》》だと断ずるのですから、なんともあの子らしい」
そう言って、彼女が掌に握って見つめるのは、大きな何かの『種』だった。
大きさといい、宿る清廉かつ膨大な力といい、白狼の知識には無いものだ。
どうやらあの黒いのは、大慌てで霊峰までやって来て何やら"母"に頼んだ上、おまけとしてこの奇妙な『種』をこの地の適した場所に植えてくれと彼女に丸投げしたらしい。
"母"がアレを気に掛けているのは何となく察せるが……ちょっと図々しいのではないだろうか。
白狼としては面白くない。同じ主級の連中にも、同意を示す者は多いだろう。
黒いのめ、今度やってきたら少し齧ってやろうか、などと白狼が考えていると、傍にやってきた"母"が彼の背を撫でて申し訳なさそうに見つめて来る。
「この世界における、万物の循環にも関わる事柄。優先して為すべき事なのですが……もう大分顔を合わせていない仔の領域にも向かいます。以前と通じる道が変わっている可能性もありますし、道案内があると手早く事が進むと思うのです――貴方が良ければ、今日一日、私に付き添ってはもらえないでしょうか?」
――よくやった、黒いの。今度来たら獲物をちょっと分けてやろう。
降って湧いた"母"とのお散歩の機会に、白狼は元気よく一鳴きして尻尾をバタバタと振りたくった。
"母"を背に乗せた白狼が、軽やかに霊峰の大地を駆ける。
一人と一匹が先ず向かったのは、山の中腹であった。
霊峰における縄張り持ち――即ち主級の霊獣は、峰の中腹以降からをその棲み処としている。
白狼の領域である濃霧立ち込める渓谷と森林は凡そ六、七合目。四足の獣である彼の速さと種族柄の隠密性も加え、霊峰の半分を踏破してきた登山者を更に見定める役割を担っていた。
が、彼の縄張りより標高の低い地――五合目にも主級は存在している。今回の散歩――もとい、"母"による『種』を埋めるべき場所の見定めは、そこから初めて順繰りに上り、再び頂を目指してゆこう、という事になったのだ。
中腹の主級は白狼の縄張りが近い事もあり、偶にだが顔を合わせることもある。当然、根城としている場所も記憶にあるので、そう時間も掛けずに最短ルートで辿り着いた。
到着し、脚を止めたのは苔生した無数の巨岩が鎮座する岩場である。
魔力をたっぷりと吸った霊石や、霊峰の外では最高クラスの貴重な鉱石として扱われる鉱物がごろごろと転がるその場には、一見して生物の気配は無い。
"母"が己の背より降りたのを確認すると、白狼は身を反らし、天に向かって高々と遠吠えの声を上げた。
魔力を乗せた叫びは辺り一帯を駆け巡り、やがては霊峰の空へと上って消えてゆく。
ややあって居並ぶ巨岩の内、頂上に小さな花の咲いた、一際大きな小山の如きソレが微かに震え始めた。
凄まじい重量が動き始め、岩場全体が地震いが起きた様に重低音奏でて振動が起こる。
大量の土砂と共に巨岩が隆起――否、立ち上がるのを眺めながら、白狼は飛んでくる小石と砂埃から"母"を庇い、宙を見上げた。
「――――――――ォ、――――ヴ――ォオ…………」
パラパラと石粒混じりの土くれが降り、固い岩同士が擦れ合うような『声』が上から響く。
舞い散る粉塵や土埃が流石に邪魔だったのだろう、"母"が掌を天に向けて翳し、軽く横に扇ぐ様な動作を見せる。
それだけで周囲一帯を舞う土や砂、埃の膜は静かに沈み始め、数秒とかけずにこの場にやってきた当初と同じ静けさを取り戻した。
白狼の毛皮に潜り込んだ粉塵も砂粒一つに至るまで地に落とされ、粉塵塗れでちょっと黄ばんでしまった彼の体躯も元の真っ白な毛並みを取り戻す。
"母"が「綺麗になりましたね」と首筋を撫でてくれたので、白狼的には寧ろ得をした気分であった。
改めて、土煙が消えて視界が明瞭になった岩場で、この辺り一帯を縄張りとする存在を見上げる。
動き出し、屹立した巨大な岩の塊は、大雑把なヒトの形をしていた。
頭一つに腕二本、脚二本。胴も頭も、四肢も、構成される全ての部位が太く、厳つく、何より超重量。
霊峰に古くから在る巨大な霊石――そこに大地の精が宿り、定着した巨大な岩の精。
彼(性別など無いが、便宜上そう呼ぶ)こそが霊峰の大地を司る、主級の一体、白狼の同輩であった。
「――――、――――ヌ、――――――ォ"……」
再び、石が擦れ合う様な音が岩精から発せられる。
ゆっくりと、下手な巨木よりも長く、太い腕が曲げられ、角張った頭部の脇に添えられた。
彼の言語は勿論の事、動作の意味も白狼には分からない。
が、込められた意思や動力となってる魔力から感じ取れる匂いから大まかな意思疎通は可能で、実際に白狼はこの岩精とのコミュニケーションで苦労した事は無い。
この様な巨大で威圧的な姿形だが、本人……本岩? は、取っつきやすい性格をしている御蔭もあるだろう。
先の発声らしき音も、言語化するなら「すまん、寝てた。何か用?」と言った処か。
「久しぶりですね。起き抜けの処、悪いとは思いますが……少々話しておきたい事があります」
「――――ォ、――――ヴ、――――――――ッ……」
一歩前に出て声を掛けた"母"に、その剛体を微かに軋ませて身体を傾げる岩精。どうやら頭を下げたらしい。
例の『種』を取り出して見せた"母"は、それを植える場を求めている事を語りだした。
「貴方の領域は草木が根を張るには少々適性の低い環境なので、おそらく違う場所になるとは思いますが……場合によっては植える場所自体を整える事になります。そうなった際、霊峰の大地と深く結びついた貴方にその土台の制作を頼む事になるかもしれません」
そういうことか、と白狼も得心が行った。
この辺りは土の下まで石と岩、砂利や鉱物で満ちている。
その殆どが豊潤な魔力を宿しているので、霊的な環境という面では不足無いが……あくまで植物である『種』を埋める候補地として条件が悪い。
それでも"母"が岩精の縄張りたる此処を訪れたのは、適した場所が見つからなかった場合、一からそれを作る事も考慮したからだ。
整地ならば"母"がいれば事足りる。
だが、育った『種』が霊峰の環境を大きく変えてしまう様な事態を避ける為の最適な場を作る、ともなれば、この地全域と深くつながる事の出来る大地の化身たる岩精の助力があった方が、事は楽に進むだろう。
「――ォ、――――――ォオ、――――ヴ……」
岩精が轟音を響かせながらゆっくりとしゃがみ込み、太すぎて胴といまいち見分けの付かない首を縦に傾ける。
岩石が擦れ、反響するような音はやはり言語としてはさっぱり分からないが、快諾の意だけは伝わって来た。
その点は"母"も同じなのだろう。古の巨人に匹敵する巨躯を持つ岩精であるが、その在り方は不動の大地に相応しく穏やかで揺ぎ無い。白狼が小型の同種と共闘したときも思ったことだが、助力を得られた時の頼もしさは一入である。
故に、その剛体を見上げる"母"も微かに微笑んで頷きを返した。
「ありがとう。では、その際には力を借ります――手隙な時間に、山の中腹以下に良い条件の土地が無いか、思い出してみてください」
「――――――ヌ? ――――――ォ、――――ヴ、ォ……」
"母"が最後に付け足した言葉を受け、岩精は首を僅かに傾げ――そのまま動作を停止させた。
頭頂部で風に揺られてピコピコと左右に揺れる白い一輪が、なんとなく彼の心情を表わしているようにも見える。
「……少し迂闊な発言でしたね」
考える様な仕草のまま、動きを止めてしまった巨躯を見た"母"が、今度は少し気不味そうに苦笑する。
間違いない。この無骨で穏やかな同輩は大地の精特有の、吃驚する程の超長考に突入してしまった。
長命種の中でも更に長寿の精霊。
その中でも不変や不動の概念を多く含む地の精霊は、寿命などあってないようなその在り方故に、なんかもう凄まじくのんびりとした気質を有する者が多い。
この同輩にしてもそうだ。
意思疎通自体は可能なのだが、下手に考え込ませたり記憶を掘り起こさせたりするような言葉を掛けると、そこからとんでもない長さで思考に入る。
以前にやり取りした際も、更にその前――十は月日を跨いだ時と全く同じ位置のまま、微動だにしていなかった。
何かあったのかと聞いてみれば、「良い天気だった。だから空の雲を数えてた」的な答えが普通に帰って来る。六万と少しまで数えたらしい。
ちなみに、流石に有事ともなればのんびり屋の気質にも一旦蓋がされる。この前やってきたヒトに成りすました汚泥共も、小癪な隠れ身さえなければこの岩精によって一人残らず叩き潰されていた事だろう。
神代より在る霊峰でも最長の古株であり、持ち得る力の格もそれに準じ、主級に相応しき存在なのは間違いないのだが……霊峰までやってくる者達の見定め役が彼では無く、白狼なのはこの気質が理由である。
兎に角、こうなってしまっては暫く動かないだろう。
白狼がそれなりに本気になって引っぱたけば意識も切り替わって我に返るかもしれないが、同じ主級の仲では友好的な関係にある岩精に対し、しょうもない理由で傷をつけるのは本意では無い。
それは"母"としても同じだったのだろう。少しの間、困った様に岩精の巨体を見上げていたが、結局は白狼に向き直って鼻先を撫でて来る。
「取り敢えず、伝えなければならない事は伝えました……次の仔の領域に向かう事にしましょう」
彼女がそう言うならば白狼に否は無い。そっと身を伏せ、"母"が己にひらりと飛び乗って横座りになるのを待って、しっかりと腰を落ち着けたのを確認してゆっくりと歩き出す。
"母"を相手にしても、その超絶なのんびり気質を如何なく発揮した岩精であるが、それを咎める気持ちは不思議と湧かなかった。
おそらくその理由は、白狼自身も他ならぬ"母"を相手に同じような体験をした事があるからだろう。
岩精と比べれば遥かに通常の生物寄りとはいえ、"母"もまた悠久の時を生きる"龍"だ。
長寿という点もだが、その華奢な身体に反し、耐久性や頑強さという点では岩精すら上回る存在であるが故に、彼女も時間や自身の状態に無頓着な面がある。
霊峰が特に寒さ厳しい、吹きすさぶ吹雪に覆われた冬であった年、なんとか母に肉を届けようと苦労して狩りを行い、届けに行った事があった。
一冬食を断った程度で、"母"がどうにかなるなどとは欠片も思っていなかったが、春がやってくる迄、寒さで萎びた葉だけを口にするよりは肉も喰らった方が彼女も嬉しかろう。
そんな考えの元、少々小振りではあったが良く肥えた獲物を持って行ったのだが……雪に半ば埋もれた屋敷に辿り着いた白狼は、そこで驚愕のあまり咥えて来た獲物を取り落とす羽目になった。
天気の良い日に、よく"母"が腰掛けて霊峰の空や景色を眺めていた、切り出した丸太。
雪が降り積もって元ある位置も見えなくなった其処に、彼女は全身雪に埋まったまま座っていたのだ。
真っ白に降り積もった雪の中に、僅かに紺碧の髪の一房が見えなければ、白狼とて気付くのが遅れただろう。
慌てて飛びつき、キャンキャンと赤子の様な悲鳴をあげながら"母"を掘り起こし、彼女が目を開くまでおろおろウロウロと忙しなく狼狽えていた時間は、白狼にとっての黒歴史である。
穏やかな寝息を立てていた"母"であったが、程なくしてパッチリと眼を開き、雪に埋もれていた自分とそれを掘り起こした白狼を見比べ、直ぐに状況を把握した様子だった。
そして初めて見る、バツが悪そうな表情で呟かれた言葉は今でも覚えている。
曰く、「雪の降りだした景色が綺麗だったので、見ていたら眠ってしまった」との事。
白狼の記憶が今も確かならば、最初に雪が降りだしたのはその日より十は前の朝である。
どれだけ雪の降り積もる景色を眺めていたのか、雪に埋もれたままどれだけ眠っていたのか。
何れにせよ、それを聞いた白狼が嘗てない脱力感を覚えたのは確かであった。
そんな体験もあって、岩精の時間間隔のおかしいのんびり気質にも、腹が立つ処か既視感さえ覚えるのだ。
とはいえ、少し前からは"母"のそういった無頓着な面も鳴りを潜めて来た。
切欠となったのは何だったか――そう、確かあれは、鉄の棒を背負ったヒト……金灰の毛並みをした、やたらと厳しい顔つきをした若い雌が彼女のもとを訪れてからだ。
それからも何人かのヒトが"母"に会いにやってきて……最近になってあの黒いのが訪れる様になり、その頃には白狼からみても長大と言えるような時間の過ごし方は殆ど無くなった。
それが"龍"である彼女にとって、良い事なのか、はたまたその逆なのか、やはり彼には分からない。
だが、あの黒いのや一緒に来た銀の毛並みの雌と過ごす"母"は嬉しそうだった。
ならばそれで良いと、白狼は思うのだ。
「次は大滝に向かいましょう――貴方は彼女を苦手としている様ですが……構いませんか?」
言葉と共に首筋を撫でる優しい感触に、白狼は一声鳴いて快諾の意を示す。
何気ない霊峰での日々。
その中で訪れた、彼にとっての家族との散歩の時間は、まだまだ始まったばかりであった。