誰でもない男
幼い頃から、己がどこか異質である自覚はあった。
明確にそうであると認識したのは学生の時分、見てくれの違う――所謂移民の子である己を標的にして、下らない真似を愉しそうにしている奴らを半殺しにしたときだったか。
下手に反撃して問題を起こせば、当時の己の預かり先であった施設にも連絡がゆく。
そうなれば面倒だと思って、極力相手にしないように努めていたのだが……出身、立場、財力――どんな形であれ、自身より"弱い"者を甚振って薄い自尊心を満足させたい類には逆効果であったらしい。
子供らしい可愛げのある嫌がらせ程度ならば我慢も効いたのだが……数人掛かりで囲み、ニヤついた顔で刃物を見せびらかした時点で、驚くほど冷静に、自然に、自分の中のスイッチが切り替わった。
眼前の連中は凶器を、人を殺しうるものを己に向けた。
ならば、それは悪戯だの、世間一般でいう処のイジメというものではない。
合図だ。
命を奪うという、或いは奪われるという、合図なのだと。
本格的な暴力沙汰なぞはそのときが初めてだったが……端的に言えば己は其方の方面の才能があったらしい。
殴られて痛みと共に走る熱も、相手の肉を打って潰す感触にも、なんら違和感を覚える事無く。
直ぐにそれは馴染み、楽しさすら覚えながら絡んで来た連中を叩き潰した。
結果的に言えばその後、停学になった。自分も、連中も。
相手は数人がかりで且つ刃物を持ち出し、実際にこちらは多少切りつけられて負傷もしたのだが、確実に無力化するために手足をへし折ったのが過剰防衛だと連中の保護者が訴え、それを学校側も正論だと判断した。
喧嘩両成敗だと言えば聞こえは良いが、それまでに連中が己に行ってきた行為に関しては都合よくスルーされたらしい。
親無しのハーフの餓鬼が社会的な弱者である事など、論ずる迄もない。一方的に加害者扱いされないだけマシだったというものだろう。
それ以降はまぁ、平和なものだ。
手足と一緒に薄い自尊心の方も折ったのが功を奏したのだろう。停学明けは面倒なのに絡まれる事もなく、穏やかに学生生活は過ぎていった。
学校側からは危険物扱いで腫物の様に扱われたが、それでも友人・知人の類がいなかった訳では無い。
己の本質が現代社会から見て不適合である事は理解したが、小動物を切り刻むだの、通りすがりの女子供をカッターで切りつけるだの、そういった方面の嗜好が湧く事も無く。穏便に過ごせていた様に思う。
今思い返せば、"向かってこない相手"や"同じ土台に無い相手"には嗜好が反応しないというだけだったのだろうが。
穏やかではあるが退屈な時間。
師と出会ったのはそんなある日の事である。
師は寂れた剣術道場――であった、古い屋敷に住んでいた偏屈な爺だった。
とうに道場も畳んだというのに、外しもせずに放置していた、文字もすっかり掠れて薄汚れた看板。
それを通りすがりに偶々見かけた己が、"戦う術"と"人を斬る技"というものに惹かれてぼんやりと看板を眺めていたときに、買い物帰りの師が後ろから長葱で頭を引っぱたいて来たのが出会いである。
「興味があるか。ならば試しに振っていけ、坊主」
はしょり過ぎにも程がある勢いで、襟首掴まれて屋敷に引きずり込まれ、庭で素振りをさせられたのが始まりでもあった。相手が施設育ちの餓鬼とはいえ、時代が時代なら誘拐だ虐待だと外野が騒がしい事になっていただろう。
師事してからというもの、何処ぞの道場の経営者だの、警察関係者のお偉いさんらしい人物だのがやってくる度に、「とっくの昔に引退した」と嘯いて相手にしなかった老人。
それが何故、家の前で二、三言葉を交わしただけの餓鬼を半ば強引に弟子にしたのか。当時は理由が分からなくて困惑したものだ。
とはいえ、心惹かれる技術を無料で学ぶ機会、というのもあって拒否する事無く流れに乗った己も大概である。
弟子が己一人、というのもあったせいか、漠然とイメージしていた回りくどい精神論や木刀や竹刀を握るまでに年単位かかるといった大層な前置きも無く。
二人で埃の積もった道場を数日掛けて掃除し、雑巾で必死に磨いた床と壁がピカピカになった事に感慨を覚える暇すら置かず、直ぐに修練は始まった。
ボコボコにされた。
次の日に、即施設や学校にまたもや暴力事件でも起こしたのかと問い詰められる程度には。
幾つかの構えと、基礎的な振り方。受け方。
最初の半月ほどは只管それを反復する。
後は走り込み――流派や得物に関わらず、足腰の萎えた武術家など羽を捥がれた鳥と変わらん、という主張も理解できるので、こちらは道場外の時間でも意識して行う様にと言われた。
そして半月後。木刀を振る本人が随分とハイペースだと思う流れで試合形式の稽古が始まったのだ。
自称・引退した年寄りは当時の己からすれば意味が分からない程に強く、打ち込まれる竹刀に反応すら出来ずに意識を飛ばす事もしばしばあった。
我が事ながらなんとも救いの無い性分であるが……それに悔しさよりも歓びを覚える。
全力で打ちこんでも、考え得る限りの方法で隙を作りだそうとしても、なんら届かずに捻り潰され。
一撃一撃が、気を抜けば一瞬で意識を飛ばされる程の打ち込みを、全神経を集中して凌ぎ、躱そうと試みる。
あくまで修練であり試し合い――"本番"とは程遠い緊張感であろうが……それでも楽しかった。生きていた中で、これまで無い程に。
床を舐め、攻防の問題点を問われ、考え、答え合わせに再び打ち合い、もう一度床に転がされ。
得た経験を咀嚼しながら反復稽古に反映させ、芯として在るべき型と実践時での実際の振り方、その擦り合わせを行う。
客としてやって来る警察関係のお偉いさんが頭を下げるだけあって、師は妙なコネがあったらしい。施設の門限を大幅に遅れてたり、ときたま泊りがけになっても特に注意や小言が飛んでくる事も無く、問題として話題に上がったことすら無かった。
剣を振り、走り、師に打たれ、学び、そして剣を振り、また走り。
繰り返す内に、教わる型や構え、脚運びが少しずつ増えてゆく。
ルーティーン化した、だがこれ以上無く充足した時間を過ごし、そのまま幾度かの季節が巡った。
義務教育にも終わりが近づき、同時にめでたく施設からもお払い箱になるであろう時期が近づいてくると、師はあっさりと自分に告げてきた。
「お前が望むなら身元の保証と引受人になってやろう。ただし、修練は本格化すると思え」
施設の紹介する職に就くにしても、どうにか道場に通える時間を捻りだす為、場所や勤務時間に都合の良いものはないか。
そう悩んでいた己にとっては天から垂らされた蜘蛛の糸であった。
同時に、こうまで自分に心をくだいてくれる初めての大人への申し訳無さを覚えたのだが――当の師はそれを笑い飛ばして「小僧が気にする事か」と切って捨てる。
どうしてそこまでしてくれるのか、とは、気恥ずかしさと幾らかの怖さがあって、そのときは聞けなかった。
師の紹介してくれたバイトはこれまた足腰の鍛錬に役立ちそうな職種であり、なんなら重りの類を着けていっても話が通っているのか何も言われる事は無い。
これ幸いとばかりに職場の時間も修練に利用し、帰れば剣を振り、打ち合い、打たれ、また剣を振る。
春を迎え、成長期真っ只中の背は伸び。
夏になり、いつの間にか分厚くなった掌は、幾度素振りを行なおうと皮がめくれ上がる事もなくなり。
秋が巡り、剣だけでなく、組討ち術も修練の内容に含まれる事になって。
冬が訪れ、瞬殺から秒殺程度には喰らい付ける様になった筈の師との試合が、無手の技まで織り込むようになって床に転がる頻度が振り出しに戻る。
そんな生活を続けて二、三年ほども経った頃であろうか。
「出掛けるぞ、支度をしろ」
飄々とした掴み処の無い爺である師が、珍しくむっつりとした顔で遠出を宣言した。
最低限の生活費は収めているとはいえ、衣食住を世話してもらっている身だ。供を命じられても否は無かったが、遠出の理由を聞かされたときは驚きと呆れを感じたのは覚えている。
「……孫を迎えに行く」
昔、大喧嘩の末に家を飛び出して行った、絶縁状態の一人息子がいたらしい。
いた……過去系の言葉が差す通り、数日前、交通事故で妻であった女性共々亡くなったと連絡が来たそうだ。
事故自体は既に先月の話らしい。苗字まで妻のものを名乗る等、比喩抜きの絶縁であった為、役所側も師が親族であると辿りつくのに手間取ったという。
息子夫婦には娘が一人いた――つまり、師の孫である。
最初はこっそりと墓参りだけを行い、他所の親戚に引き取られる孫に経済的な援助を密かに行うつもりだった、と移動中の車の中で師は愚痴っていた。
だが、母方の親戚筋も彼女を引き取ることに積極的ではないらしく、最悪、孫が盥回しにされる可能性がある、と判断して手をあげたそうだ。
なんだかんだと長い付き合いだ。本当は真っ先に立候補したかったであろうに、息子と没交渉であった自分がどの面下げて、と変に遠慮していたのは丸分かりである。
何より、喧嘩別れしてしまった息子が、和解もしないまま自分より先に逝ってしまった事がショックだったのだろう。
「……いつの日か、お前と倅を合わせたいと思っていた」
呟く師の背は、何時もより小さく、丸まって見えた。
師の孫は、己より一回り以上は年下の幼い少女だった。
迎えと墓参りを兼ねた出先で見た両親の遺影を見るに、母親似らしい。
体の色素自体が薄いのか、白い肌に亜麻色の髪の、将来は美人になりそうな中々の器量良しではあった。
だが、折角の愛らしい容姿も俯いてどんよりと曇りに曇った表情では真価を発揮できているとは言い難い。少女の現状を考えれば当たり前ではあったが。
「……これから、よろしくお願いします」
「……任せておけ」
初対面の祖父と孫の会話は、ぎこちないとかそういうレベルでは無かった。
礼儀正しいと同時に聡い子でもあるのか、自分が非常に不安定な立場である事を理解していたのだろう。
両親を失った衝撃と心の傷、将来への不安、初めて会う祖父への緊張や恐れ。
それらで滅多打ちにされて、酷く憔悴した様子である孫に向けて、師は気難しい偏屈クソ爺ムーヴ全開でぶっきらぼうに返答していた。
――が、あくまで見てくれはそう見える、というだけだ。
実際の処は初めて会う傷心の孫を相手にどうすればよいのか、途方に暮れているのが透けて見えた。
剣腕においては未だ影すら踏めぬ妖怪じみた爺だが、この数日で意外とヘボな面が見えた事で、良くも悪くも師への幻想が崩れた感がある。
どうやら自分はこの場において、師の添え物、ただの置物ではいられないらしい。
全く以て性分では無いが、伝えたい言葉と表の態度に甚だ乖離のある老人のフォローをせねばならない様だった。
――そこから先はあまり思い出したくは無い。
棒振りに人生を全振りした家庭人としては赤点の師に、人間性の根っこの部分に問題のある弟子。
心傷ついた小さな少女のケアを行いつつ、柔らかな会話をするにはほとほと向いていない男二人で、悪戦苦闘して剣の代わりに舌を回す羽目になったのだ。
得意分野である剣と違って、無様で見苦しいものであったのは客観的に見なくとも明らかだった。
必死さだけは一丁前のみっともない慰めを試みる老人とその弟子に、最終的に少女が少しだけ笑ってくれた事だけは、せめてもの救いである。
そうして、師と己だけであった屋敷での生活に幼いながらも華やかな一輪が加わった。
どうやら己がバイトで屋敷を空けている時間、祖父と孫で語らう時間を設けたのか、日を追うごとに、月が巡るごとに老人と少女の間にあった硬さやぎこちなさは失われていった。良い事だ。
自分はというと、以前とそう変わらぬ生活サイクルであったが……バイトが休みの日は少女を送り迎えする様になり、修練終わりの夕方には道場の外で型と素振りを熟しつつ、彼女の学校での話を聞いて相槌を打つ、そんな変化が加わった。
後は……少女の為に、季節の行事や学校の保護者が関わるイベントに師が時間を割く様になり、極稀にその代理を押し付けられるようになった位か。
祖父と孫、弟子という名の居候という奇妙な関係ではあったが、過ごす時間は修練の御蔭で変わらず充実しており、各人の仲も良好。不満は無かった。
師も己も、少女絡みの話で四苦八苦する場面もあったが……それも後に振り返れば良い思い出と呼べる程度には、上手くやれていた様に思う。
そんな生活が続いたある日、夏の気配が近づいて来た季節に少女が突然言い出したのだ。
「義兄さん、今度家に学校の子達を連れて来ても良いですか?」
仕事の無い休日ではあったが、師が所用で出かけた為、庭で基礎鍛錬に精を出していた己は首を傾げる。
何時の間にやら己を義兄予呼びする様になった少女――此方にも義妹呼びを強制してきた――は、身内の贔屓目無しにしても華やかな雰囲気の美人に育った。
ついこの間までランドセルを背負っていたというのに、今ではブレザーの制服を行儀よく着こなした中学生である。子供の成長は早いものだ。
兎に角、そんな義妹であるからして、学友に囲まれた実りある青春を送っているのは理解できる。
友人を自宅に招く事も十分にあり得る事だろう。師に許可を得ているのなら、居候に過ぎない己が口を挟む事では無い。
「もう、またそんな事を言って……って、そうじゃなくて。夏休みに入ったら、剣道部の方で合宿をしようって話が出たんです。それで、家の道場を使えないかって」
そういう事かと得心がいった。
義妹は最初、師や己の真似て剣を振りたがったのだが、師が「これはお前が学ぶべき類では無い」と主張して譲らず、珍しく言い争いにまで発展した。
代替案として彼女が剣道を始めてからは、師も剣道に則した振りや鍛錬を見てくれるようになったので義妹の不満は消えた様だ。
思うに、義妹はあくまで師や己と共有できる話題・繋がりとして剣を求めたのだろう。
それ自体は特に問題では無いのだが……師と己の剣は古臭い、現代の倫理観から見れば不適格にも程がある由緒正しき人斬りの技である。
己の様にそちら方面に傾いた気質を持っているのならば兎も角、真っ当な感性と良識を持つ義妹が覚えるべきではないものばかりだ。師がやるなら学校の部活動にしろというのも当然の話であった。
……大分話が逸れた――兎にも角にも、そんな切っ掛けで始った義妹の剣道部ライフであるが、ミーティングで初の合宿話が上がる程度には順調らしい。
公式の記録としては大したものは無い、よくある弱小校のようだが……義妹が卒業するまでには全国進出を目指しているのだそうだ。青春を謳歌しているようで結構な事である。
合宿とやらを行うのであれば、在宅中は四六時中道場に居座っている己は邪魔になるだろう。
要は、義妹は合宿中だけでも道場を空けてくれないかとお願いしに来た、という処か。
何度も言うが、師が許可を出しているのならば己に否は無い。だというのに態々頼み込むとは、我が義妹ながらなんとも律儀な気質ある。
「……褒められたのは嬉しいですけど、全然違いますからね? 私がお願いしたいのは――」
しかし、そうなるとバイトを終えて帰宅しても時間を持て余してしまう。
泊まり込むであろう剣道部の少年少女達も、己の様な無骨な居候者が居ては何かと心休まらないだろう。
いっそ休みをとって山籠もりに行くというのはどうだろうか?
大抵は師と二人――ここ数年は義妹も加えて半ば行楽染みたキャンプと化していた行事であるが、偶には一人で山頂付近まで脚を伸ばし、厳しい自然の中で自身を研ぐのも悪くない。
山頂付近にある水場での滝行を思い浮かべると、柄にもなく浮き立つ様な気分になる。
義妹は学友達と道場で切磋琢磨し、己は雄大な自然を相手に自分の剣を見つめ直す――うむ、実に良いでは無いか。
一頻り考えを巡らせて結論を出すと、心惹かれる予定が待ち遠しく、なんとも良い気分であった。
笑顔で義妹のお願いを快諾しようと改めて向き直ると――。
「このっ馬鹿義兄っ……話をっ、聞けーっ!」
何やら顔を真っ赤にして憤慨した義妹に手拭いで面打ちを叩き込まれた。
濡れそぼった手拭いは、地味に痛い。
結論から言うと、義妹の願いとは部活仲間の学友達の剣を己にも見てやって欲しい、という事だった。
正直に言えば気が進まない――というより、師が保護者兼監督役として子供達の面倒を見るというのだ、己の出番があるとは思えない。
だというのに、当の師から合宿の監督役を補助するようにと命じられてしまった。
「他者に教える事で己が剣を見つめ直せる事もある。良い機会だ、同じ武でも術と道では見えるものが違う場合もあると知っておけ」
競技化した剣を下げて見る気など無い。
あれはあれで時代に則したものなのだろうし、スポーツ化した事で多くの者が触れる事によって研磨された技術というのもあるだろう。ただ、己の気質に沿うとは思えないだけだ。
――が、師の命だ。何より、この経験もまた自身の剣の糧になり得ると言われてしまえばやはり否は無い。
「何にしても、教える側が規範を理解しておらねば張子の虎よ。何はなくともお前は剣道――武道と競技としての剣の在り方、それとルールを覚えるのが先だ、手引書があるので眼を通せ」
ニヤリとしたその笑みは正に糞爺のソレであり、渡された入門~上級者用にまで分けられた数冊の本は、総合すると真剣の刺突も止められそうな厚みであった。
悪い笑みを浮かべる師の顔面に本を投げ返したくなった。師事して七、八年は経つが、何気に初めての経験である。
そして半月後。
普段の修練の時間を削ってまで手引書の内容を頭に叩き込んだ甲斐あって、義妹の学友達への監督――正確にはそれを行う師の手助けは、一応は大過なく終える事が出来た。
……その筈、なのだが。
何故か自分が義妹達の外部顧問になるだのならないだの、そんな話が持ち上がっているのは解せなかった。
あくまで己は師の補助に徹していた筈だ。何をどうすればそのような話になるのか。
義妹の級友である女生徒達に「あの娘があんなに自慢しているお義兄さんが、どんなに凄いのか見てみたい」な等とせがまれ、見世物よろしく鉄芯入りの巻き藁を斬らされたが……それとて師とは比べるべくも無い、粗だらけの一太刀であった。
生徒達に受けは良かったが……これは単に、真剣自体を見るのも、それが振るわれる処を見るのも初めてだった所為だろう。
己の拙い技でもすごいすごいと無邪気にはしゃぐ女生徒の中に気になる娘でもいたのか、男子部員の中でもいっとう勝気そうな少年に突っかかられもした。
見当違いの熱意に折れる形で試合もしたが……そもそも身体の出来上がっていない中学生相手では、技術の差以前に根本的な鍛え方が違う。
伊達に成人してまでフリーター擬きで鍛錬に全振りした生活をしていないのだ。世間的に見れば全く自慢にならないが。
弱小校の中ではエースである事など誤差にもならない。初手の面打ちで気絶させた事で、寧ろ子供相手に大人げない真似をした人物としてマイナス印象ですらあった筈だ。
……だというのに、気絶させた少年を筆頭に、剣道部の少年少女達は己を外部コーチとして招く事を熱望している。正直、意味が分からなかった。
愚痴混じりの見解を聞き入っていた義妹であったが、その反応は辛辣である。
「またそんな事言って。ストイックなのは義兄さんの長所ですけど、御祖父ちゃんだけを基準にするから自覚が出来ないんです。もう少し周囲と関わる様にして下さい」
呆れた声色でバイト先と家の道場を往復してるばかりじゃないですか、と言われてしまうとぐうの音も出ない。
だが、先にも述べたが己はよい年齢して定職にも着かずに剣ばかり振っている身だ。
未成年を指導する人間としては甚だ落第点である、という認識はそう的外れではないと思うのだが。
そんな風に抗弁していると、やはりというか、反論や逃げ道を封じて来たのは師であった。
「ならば丁度良い。これを機に、お前のいう"まともな職"も兼ねてコーチとして雇われてみろ。どの道、あの子らが強くなるには腕の立つ者の指導は必須よ」
……確かに、義妹の所属する剣道部にはまともな指導者がいない。
合宿前に菓子折りもって挨拶に来た部活の顧問であった教師は、人柄としては生徒の意思を汲んで応援している、好感の持てる人物だった。
実際に合宿中にも頻繁に様子を見に来て差し入れなどを置いてゆき、生徒達からも慕われているようであったが……剣に関しては若い頃に多少部活でかじっていた、程度だと自己申告しているし、立ち振る舞いからみても実際にそうだろう。
公式の試合で勝ちあがっていくつもりならば、上達を促せる指導者が必須というのは間違ってはいない。いないが……剣腕以外の全てが不適格である己が選ばれるのは、子供達にとっても良い事であるとはどうしても思えなかった。
「喧しい。グチグチと尻込みした言葉ばかり吐くでないわ。お前の言う社会的云々は儂が最低限揃えてやる。先ずはやってみろ、師匠命令だ」
「わぁ、強引。流石御祖父ちゃんです。先にお話しておいて大正解でした!」
「ククッ、コネと立場はこういうときにこそ使うものよ。造作もないわ」
笑顔の孫に抱き着かれて自慢げに小鼻を膨らませる祖父。なんでもいいがその発言は義妹の教育によろしくないのでやめろ師。
そんな感じで、あれよあれよという間に外部からの雇われコーチとして就任してしまった。
「指導する立場で無位は恰好がつかんので、段位も並行して取れ」等と宣う師に、本気でぶちのめすつもりで試合を挑んだ己の行動を、誰が浅薄と言えるだろうか。
……後々考えてみれば、合宿前に大量の剣道関連の知識を詰め込ませたのもこうなることを見越しての事だったのだろう。最初から師の掌の上だったという訳だ。
そうして、気が付けば己の手の中には、常に握られていた剣以外にも抱え込んだものが増えていく。
握った剣の先にあったのは、斬り合う相手では無く、追いかけるべき師の背中であり。
直ぐ後ろには義妹の姿があり、更にその後ろに続くように己を過分にも"先生"と呼び慕う、子供達。
常に自身の裡にあった抜身の刃。
師によって導かれ、鍛えられたそれは、不定の狂気にも成り得た己の本性を律する術へと変わり。
いつしか切っ先を向ける先を探すのでは無く、背後にある者達に迫る陰があれば、それを斬り払う為に構え続けられるようになった。
そして、義妹が学生時代に巡り合い、過去に我が家にも連れてきた事のある青年と式を挙げた日に。
幸せそうに微笑む家族や、それを祝福し、笑顔で囃し立てる嘗ての教え子達を目の当たりにして――抜身の儘であった己の本性が、確かに鞘に納められた感覚を覚えたのだ。
「めでたい、というべきなのだろうな」
溺愛していた孫の挙式を複雑極まる表情で眺めていた師が、唐突に呟いた言葉。
それはきっと、ライスシャワーを浴びて隣の若者と笑い合う彼女だけに向けたものではなく――。
「ま、儂が剣を振れる内に収まったのは僥倖だった――道場はお前にやる。あの子らの為に中途に開いた儘であったが……これを機に正式に再開するも、完全に閉じるも好きにせぇ」
今度こそ完全に楽隠居よ、と笑って此方の胸板を拳で叩いてくる老人の表情は、やり遂げた人間のソレであった。
偶々、自分の家の前で放置していた道場の看板を眺めていた子供。
その内にある剣才と、それ以上に闘争に餓えた人斬りとしての素質――それらを見抜き。
只、危ぶむのでは無く導く事を選択した老剣士は、放置すれば歪むであろうソレを矯正し、一振りの刀となるまで子供の心身を鍛え上げた。
その上で、本性が納まる『繋がり』まで作り上げ、見事剥き出しの刃を納めてみせたのだ。
十数年越しに、師が己に時間を割いてくれた理由を漸く察し。
完敗だと、そんな想いと共にどこか晴れ晴れとした気分で、笑いが零れた。
「まだまだ、並べたのは剣の腕程度だ。アンタには勝てる気がせんよ――親父殿」
「当然よ。年季が違うわ馬鹿息子が」
義妹の幸せな様子に中てられたのか。
素直に師をそう呼べたのは、その一度きりだ。
それから先は、殊更に語るべき事も無い。
家族や友人、慕ってくれる者達と共に生きてゆこう。
その為に生涯自身の本質に蓋をし続けようとした男の、特筆すべき事も無い終わり。
あの日、住む街は記録的な豪雨……所謂水害というやつに被災した。
家路を急ぐ途中、氾濫した河の水に呑まれようとする道場に通う子を見つけ。
無我夢中で飛び込んだは良いが、鍛えた剣技も荒れ狂う自然の前には意味を為さず――だが、剣の為に鍛えた身体はかろうじて溺れたその子を岸に放り捨てる事に成功して。
そのまま己は水底に沈んだ。
あちらで覚えているのは其処までだ。
やり残した事、残した者の事は気掛かりであったが……それでも、若い頃に予想していたものよりは上等な最期であると、それなりに満足して眼を瞑った筈だったのだ。
――だが、何の因果か、こうして自分は異なる世界に零れ落ちた。
己の家族の無い、この世界に。帰る事など出来ない、遠い世界に。
もう、二年以上前の話だ。
気が付けば野っ原に転がっていた己が、冒険者として活動を始める前……少しの間だけ世話になった、帝国領南部にある小さな教会。
そこの神父の御蔭で、この世界の事や近年の情勢などをおおまかに知ることが出来た。
当然、ほんの少し前まで続いていた生存競争にも近い、血みどろの大戦の事もだ。
家族を失った刀が行き付いた世界は、既に多くの剣が役目を終えた――これから穏やかになっていくであろう世界で。
元いた世界といい、つくづく自分に適した乱世に縁が無いのだと苦笑いした記憶がある。
だが、それでも良かったのだ。
腕っぷしが生かせる職という事で冒険者となって。
この世界に来た際に宿った魔力とやらの御蔭で、およそ人間離れした身体能力を発揮出来た事もあり、生きてゆく為に糧を稼ぐ仕事は実に捗った。
自身の命すら危ぶまれる灼けつく様な戦いこそ無いが、"鞘"を失った己の性が渇きを覚える事も無い程度には、異世界は元いた世界より闘争に溢れている。
大きな戦が終わった直後、という事を加味してもだ。正直にいえば、元の場所で偶に感じていた窮屈さや息苦しさが無い分、生き易いのは確かだった。
人里に降りて来て人間や田畑に危害を与える野の獣を斬り。
土地調査の依頼と修練も兼ねて遠出した先の山中で、魔力に適応した獣――大型の魔獣と遭遇し、返り討ちにする形で斬り。
一度だけだが、同じ様な依頼を受けた先で邪神の信奉者、その残党を殲滅した事もある。
自身で選んだ道とはいえ、やはり鬱憤が溜まっていたのだろう。
押さえつけていた、命のやり取りを好む性分をある程度発散できる生活は、あちらでは得られぬ充足感があった。
繰り返すが、己にとってこの世界の方が元居た世界より生きていくのに楽であるのは確かだ。そこは否定しない。
だが、それでも胸を穿つ喪失感は其の儘で――それは分かり易い形で剣に顕れた。
何のことは無い、己は……普通の人間だけは斬れなかったのだ。
最初に相手をしたのは依頼を受けて潰しに行った野盗の集団だ。
長く続く戦で荒れた世――しかも負ければ種族単位での滅びが待った無しな状況で、自分達が一時の享楽に耽る為に安易に強奪や略奪を繰り返していた者達。
邪神の信奉者共よりはマシ、というだけで、この世界の法と照らし合わせても処刑か鉱山奴隷として使い潰される末路しかない塵芥。
躊躇いなど無かった。
この世界に住む戦いを生業にする者達は勿論の事、己の同郷である転移者であっても、こんな連中を斬り捨てるのに躊躇する者はいないだろう。
だというのに、どうしても己には斬れなかったのだ。
裡にある本能は、闘争を求める自身の性質は、間違いなく手にした刃を振り抜き、斬り裂く事を求めているというのに。
人を相手にすると師や義妹の声が、あちらで過ごした日々が――失くした筈の"鞘"がそれを引き留める様に、脳裏にチラつく。
結局、野盗共は手足を潰して全員生け捕りという形にした。
元より実力差を考えれば手間が多少増えると言うだけだ、労力的には大して変わりはしない。
人を斬る事の出来ない人斬り。
元居た世界と比べれば格段に命の軽いこの世界で、なんとも間抜けな存在があったものだと自嘲の笑いが漏れたが、同時に安堵する気持ちもあった。
"鞘"を失っても、共に在った頃の記憶まで消える訳では無い。
例えもう会えなくとも、己の中に家族の存在は、確かに残っているのだと。
そんな風に思えば、今の自分の状態もそう悪いものでは無い。そう、結論づけて。
自己の本質とこれまで培ってきた、大切だった者達との記憶。
胸の裡より湧く二つの声が、擦れ合って小さな不協和音を発した事には気付かないフリをした。
この時点で己は剣を捨てるべきだったのかもしれない。
だが、それが無理な話である事も嫌になる程理解していた。
師と出会った日から、剣は常に己の傍らにあった。半身といっても過言では無い。
同時に、師と出会った切欠であり、義妹や教え子達と長く関わる事になった重要な要素でもある。
切り離せる筈も無かったのだ――例えそれが、後に自身へ致命的な矛盾と亀裂を突き付ける事になろうとも。
日毎、或いは立ち塞がる敵を斬り伏せる度、不協和音にも似た雑音は少しずつ大きくなっていった。
幻聴として頭の中を掻き乱すそれは酷く不快で、心身にまで影響したのか、時折頭痛すら引き起こす。
戦いに没頭する間だけはそれも鳴りを潜め、だが、魔獣や獣を斬る度に益々雑音が大きくなる悪循環。
その頃になると、人を相手にした依頼は極力避ける様になっていた。
斬ろうとして――だが斬る事が出来なくて……頭痛がマシになる処か、悪化するばかりであったから。
恐ろしかった。
このまま音が大きくなる事が、ではない。
己がこれに耐え切れず、一歩踏み出した先。
その場所で、今度こそ全て手放すであろうものが、二度と戻ってこないソレを失ってしまう事が、怖くて堪らなかった。
剣を捨てる事も、己から振り切れる事も出来ず、ただ訪れるであろう結果を先延ばしにして身を苛む雑音から目を逸らし、剣を振るう日々。
そんな中途な状態が長く続けられる筈も無い。
ごくあっさりと、何の盛り上がりも無く、『その日』はやって来る。
己は、人を斬った。
冒険者としての功績を買われ、大規模な賊の討伐を合同の指名依頼という形で受けた日の事だ。
終戦後、各地の兵力は治安維持に力を割く事が出来るようになり、それによって蹴散らされた賊が一所に集まって大所帯を形成しつつあるのだという。
依頼主は滞在していた街の領主。断れる筈も無く参加し、同業者と共に古い砦跡に巣食った賊を叩き潰しに向かう。
頭の中を乱反射するような酷い雑音の中、それでも不殺で切り抜けようと剣を振るい――伏兵に挟撃を受けた。
後で知った事だが、賊には基礎的な兵法の知識もある、何処ぞの国の逃亡兵も混ざっていたらしい。
地形を利用した簡易ではあるが効果的な敵の配置に、同じ依頼を受けた若手の冒険者達が窮地に陥っているのが見えて――加減や躊躇いをかなぐり捨てて剣を振った。
質は雑魚ばかりではあったが、とにかく数が多かった――言い訳だ。
囲まれた若者達の中に、嘗ての教え子に似た雰囲気の者が居た――言い訳だ。
己は人を斬った。
刃に絡みつく"鞘"との記憶を、一度踏み出してしまえば、止まらなくなる己の本性を律していた家族の声を振り払い、人に向けて致命の刃を振り抜いたのだ。
それまで多く斬って来た魔獣に比べれば脆く、柔く、だが同じ生命を断ち切る確かな感覚。
両断されて鮮血を噴き上げて転がる人であった骸達を前に覚えたのは、後悔では無く、ついに訪れた時間への恐れですら無く。
枷か、或いは箍が外れる様な開放感であった。
そのとき、己はどんな顔をしていたのか。
喉から掠れて転げ落ちる声は、解放の齎す乾いた笑いであったのか、今度こそ失った事への啜り泣きであったのか。
今になっても、分からない。
雑音はもう、聞こえなかった。
◆◆◆
帝国領の北部へと掛かる山脈――その麓近くにて。
丘の上から、剣士は雲間から差し込む朝陽によって段々と照らされてゆく帝都を眺める。
「――斯くして堕ちた獅子の妄執は陽の下に暴かれ、強者に依って消えゆく朝露が如く泡沫へ。勧善懲悪、世は並べて事も無し……ってな」
眼を細めて見つめる先は偶然か否か、雇い主であった男の最期の場所である帝都郊外の田園地帯であった。
「最期くらいは笑えたかよ? ティグル」
疵面の剣士は、この場に居ない自らの行いに依って生まれた業――その全てを抱え込んで、破滅の見えた道を突き進んでいた男へと、問い掛ける。
独白にも近い問い掛けに、返事が返って来る筈も無く。
剣士は思い出す。妄執と信念と――何より兄への敬愛に溢れていた男との出会いを。
元はと言えば、彼に接触してきたのはティグルの方からだ。
転移して来てから腰を下ろしていた街を出て、アテも無くふらついていた剣士。
帝都に向かって北上していくついで、道中の魔獣や賊の類を片っ端から斬って捨てていた彼の泊まる宿に、ティグルは単身でやって来た。
酒場を兼ねた宿の一階にて軽食をつついていた剣士の座る卓――その向かいの席へと自然な動作で腰掛け、遮音効果のある魔道具を使用し。
「帝国に巣食う犯罪組織のトップをやっている」などと言う自白にも似た自己紹介を堂々と行って、勧誘を行ってきたのが出会いだ。
当然、鼻で嗤って突っぱねた。
酔っ払ったお忍びの貴族様の戯言であると断じるのが自然であったし――仮に話が本当だった場合、尚の事御免である。
話半分に聞いたとしても、どう扱った処で帝国側からは文句も出ないであろう外道共の集団だ。未だ表沙汰に知られていないというのであれば丁度良い。
巨大な犯罪組織の全員を、己一人で斬り伏せる。選んだ道の手始めとしては丁度良い。
そんな勘定を脳内で弾き、剣士は正面から勧誘して来た潔さに免じてこの場では斬らないでおく、とだけ伝えたのだが……。
『……君ならそう言ってくれると思っていた。だからこそ、是非とも雇われてもらいたい』
負の遺産を残さず、完全に終わらせる為に、と続けた男の顔は至極真剣であり。
下らない連中の首魁、という扱いで括るにはあまりにも腹の据わった表情と眼力であった。
元々その組織とやらは、長く続く大戦の天秤を人類種側に傾ける為の一石として作られたものらしい。
戦局は一進一退――だがその実、種族間の連携を断たれる謀略を受けるなど、じりじりと後々の布石を打たれていた当時。
それに危機感を覚えた者達が、邪道を以てしてでも戦力の拡充を図ろうと立ち上げたのだとか。
「このままでは負ける――そう、思っていたのだけどね」
苦笑、の一言で表すには複雑に過ぎる感情が乗った声色と共に、卓を挟んで向かい合ったティグルは注文した杯を呷った。
軍略・戦略に長けた視点を持つ者からすると、当時の状況は相当に不味いものだったらしい――それこそ、外法に手を染めてでも戦力を確保しようとする程度には。
各国の志を同じくする者と連携し、戦地での死傷者や国で保護し切れない難民などを違法な実験の検体として使用し、組織の違法性を理解して尚、国家の為に戦力を欲する国へと話を持ち掛け、出資を募る。
外道に相応しく、影に潜み、蠢き――近い未来、払った犠牲以上のものを光に生きる者達に還元する為に、組織は段々と規模を増して行った。
だが、予想外にも程がある形で彼らの危機感と奮闘は無意味なものへと成り下がる。
聖教国における、聖女の台頭。
しかも確認される限りでは一時代に一人であった筈の女神の愛し子は、今代において二人現れるという異例の事態であったという。
勿論人類種側にとっては紛れも無い朗報――実際、ティグル達も吉兆であると、足掻き続ける人類への女神の思し召しであると喝采を上げたものだ。
事実、彼女達が正式な称号を得てからの戦いにおいて、人類種は奇跡の連続としか言いようの無い連勝・大勝を重ねていった。
そう、奇跡だ。まさに出来過ぎといって良い。
それこそティグル達の作った組織が、必須では無くなる程の。
「……おそらく、かの姉妹だけではあそこ迄奇跡……いや、喜劇じみた快勝は続かなかった……盤面そのものを引っ繰り返すような埒外が、彼女達の傍にいたんだ」
フードを目深に被り、更に髪の色を魔法で変えた帝国の双獅子の片割れ。
唯一変わらぬその青い瞳には、嫉妬、羨望、否定、憧憬――目まぐるしい程に猛る感情が眩めいている。
聖女の齎す勝利の光。
その光が敗北という名の暗雲を切り裂くとき、光に紛れて雲を吹き散らす一人の男の影が常にあった。
《聖女の猟犬》と呼ばれたその男は、かの姉妹の守護者と戦場での特異な戦力として既に名を馳せていたが……大きな戦線が発生した各地での戦闘の収束やその経緯を俯瞰して観測したティグルは、重要な――或いは後々に重要となる要素を持つ局面において、殆どの戦場にその《猟犬》が出没している事に気付いていた。
まるで未来を知るかの様に、最速・最効率で敵の戦力や思惑を切り崩していったその手腕は、個人が覆せる戦況の範囲を容易く超過しているといって良い。
国や大きな機関が把握している戦い以外でも、大小様々な戦場で敵方に甚大な被害を与えているであろうその男は、ティグルが観測した限りでは間違いなく大戦における個として最大の――否、下手をすれば軍と比較して尚、それを上回りかねない功績の持ち主だった。
「――どうして、今になってあんな出鱈目な男が現れたんだろうね……」
握る杯に満ちる小さな水面を見つめ、ティグルの口からポツリとそんな言葉が漏れる。
聖女という輝かしい救世の光の傍に侍り、その陰で忌まわしいものである筈の呪物の力を振るいながら、人類種の勝利への道筋を切り拓いてゆく、その男に。
泥に濡れる覚悟であった、汚名と許されざる罪を負ってでも人類側の勝利の礎になるつもりであったティグルとその同士達が、複雑怪奇な感情を覚えるのは無理からぬ事であったのかもしれない。
とはいえ、その悲壮な覚悟とやらも剣士には関係の無い話だ――ついでに言えば、その理屈の犠牲にされ、非道な実験の検体にされた者達にも。
「で、俺に何をしろって? 御高説からの愚痴垂れを聞くのが仕事だってんなら御免被るんだがね」
皮肉気に肩を竦めた剣士の言葉に我に返ったのか、感傷混じりの複雑な想いを押し込め、ティグルは顔を上げて剣士を真っ直ぐに見据えた。
「人類種の勝利で終戦を迎えた以上、既に組織は不要――いや、開発した技術の違法性を考えれば、後の火種以外の何物でも無い……だが、複数の国を出資者とした時点で、即時の解体は不可能になった」
強引に組織の解体を決行すれば、大なり小なり技術の持ち逃げや散逸が発生する。
その為、性質の悪い真似をしそうな輩を押し留め、時期が来れば一気に掃除を行う為、段階的な縮小と部分的な解体を行っている最中なのだという。
戦時中と比べれば実験体として手に入る遺体や難民の数が激減したのは確かなので、それを理由として既に幾つかの研究の縮小化を行っているらしい。
「なるほどねぇ……聞く限りじゃ、今の段階じゃ必要なのはオツムの労働と集団の運営手腕に思えるんだが……俺を雇うのは大詰め――最後の大掃除の為ってことかい?」
「それもある。けど、近々適当な理由を付けて組織内の荒事を担当する者達を幾らか間引く予定なんだ。悪い意味で目端の利きそうな奴なんかは特に優先してね」
ティグル曰く、解体作業が終盤を迎える際、組織の当初の理念を知らず、単に犯罪組織の庇護を求めて一員となった悪党や破落戸の類も纏めて掃除する。
極力逃がす者の無い様、丁寧に段階を踏んで徐々に数と質を削っていくその手始めを、剣士に手伝って貰いたいとの事だった。
本来なら部外者をこれ以上引き入れるべきでは無いのだろうが、真に志を共にした者達は各国へのアドバイザー兼人質、或いは全くの別人として、出資を行う国々の中枢に喰い込んでいる。
此方の予期せぬ技術の流出が起こった際、渡った技術や知識を受け取り先の国々で処分する為だ。人手は欲しいが、万が一の保険でもある彼らを呼び戻す訳には行かない、という訳だ。
「……勝手に危惧を抱いた挙句、結果的には無意味に民を贄にして散々に手を汚した身だ。自業で幕を引くにしても、主君や兄には極力迷惑を掛けずに終わらせたいのさ」
戦争が終わり、組織の技術・知識も闇に葬る以上、共に戦う、という望みは潰えてしまったしね。と、自嘲に塗れた言葉を吐きだす男の瞳は、自虐の言葉とは裏腹に強い決意に満ちている。
「これまでの発言が全て真実である、と証明できる手段が僕には無い。ここまで仔細に語ったのは、真っ当な冒険者として活動しているキミに厄介事を持ちかけたせめてもの謝意と誠意だ」
耳にした内容を口外をしないと約束するならば、断ったとしても妙な干渉はしないと告げるティグルの言葉を受け、剣士は腕を組んで暫しの黙考に入った。
勿論、これまで語った内容が出鱈目の可能性はゼロでは無い。
だが、妄言や虚言と切って捨てるにはティグルの纏う雰囲気はあまりにも真に迫っていた。
おそらく、この男は既に自らの"終わり方"を決めてしまっている。
自刃か、巨大な犯罪集団の首魁として裁かれるのか、そこまでは分からないが……組織の解体と自身の幕引きを同一のものと見做しているのは確かだろう。
破滅。そう言ってよいであろう末路を、それこそが自身の進むべき道である、と定めた男。
その行く末に、少しばかり興味が湧いた。
或いは、それは興味というよりは親近感だったのかもしれない。
何にせよ、答えを出した剣士は口の端を釣り上げて笑うと再び肩を竦めて見せる。
「一応言っとくが、ここまで聞いた話と実際の行動に矛盾が含まれてると判断したら――そんときゃアンタを斬るぜ?」
「――! あぁ、そうしてくれて構わない。キミ程の腕前を持つ転移者を雇えるならば、その程度は安い担保だ」
安堵と喜色で表情を明るくし、これからよろしく頼むよ、と手を差しだしてくるティグルの掌を軽く握り返し、剣士は頷いた。
「では改めて名乗ろう。僕はティグル=ケントゥリオ、一応は帝国の禄を食む侯爵家に連なる身分ではあるが、それは気にしなくて良い。外法に手を染めた――只の外道だ」
「そうかい、以後よろしく頼むぜ雇い主様。俺は――」
名乗り返そうとして、黙り込み。
瞳を閉じ、数秒の沈黙を挟むと……剣士は眼を開いて、告げる。
「……そうだな――名無しの権兵衛とでも呼べばいいさ」
「……それが今のキミ、という事かい?」
「あぁ」
自ら接触しにきたということは、ある程度は剣士の事も調査済みだろう。
当然、冒険者として組合に登録した剣士の名を知っている筈だ。
だが、剣士――ジャックの名乗りに対し、其処に込められた何かを汲んだのか、ティグルは明らかな偽名に対しても言及する事は無かった。
そう、それで良い。
引き留めていた家族の声が聞こえなくなったあの日に。
いや……或いはこの世界に来たときから。
嘗て師や義妹と過ごした男は、ただその記憶の残骸だけを残して――戦いを求める人斬りに成り下がった。
"鞘"を失った野晒しの刃に、名は必要ない。
ならば己はそれで良い。誰でも無くなった男でよい。
思うが儘に、闘争を求める本能の儘に。
只、斬れば良い。何時か、相応しい末路を迎えるそのときまで。
そうして、堕ちた獅子と剣士――否、剣鬼は出会った。そんな出会いだった。
時間的には二年程前の……だが随分と懐かしく感じる記憶を掘り返して、ジャックは胸中に浮かんだ憂いを苦笑いで押し潰す。
「……結局、自分で幕を引き切るにゃ、少しばかり時間が足りなかったよな、ティグルよぅ」
ティグルは病身であった。それも末期の。
幼い頃に大病を患い、それ以来、侯爵家の人間として手厚い治療を受け続け。
更には組織を作った後には、『超人兵計画』の検体としての処置を自身に施して――それでも尚、その生命の蝋燭は近々に燃え尽きんとする身であったのだ。
帝国に――兄と主君に要らぬ手間や心労を掛けさせる事を厭うていたティグルは、進行する病状を様々な方法で押し留めていたが、それにも限界が来ていた。
自らの罪を明るみにするにしても、全てを片付けてからにせねばならない。
その一心で組織の段階的解体を推し進めていた様だが……この二年で人斬りとしての質を肥えさせたジャックの眼は、処置の御蔭で一見では健常に見えるティグルの身に、微かに漂う死臭にも近い"終わり"の気配を捉えていた。
おそらく、自覚はあったのだろう。
だからこそ、尚の事止まれなくなった。
組織の主軸となる『超人兵計画』。
その縮小と凍結をなるべく後回しにしていたのは、多くの研究員が関わるメインプロジェクトであるが故に露骨な中止・中断が難しかったというのもあるのだろうが……実験が進めば組織の完全解体まで自身の身を保たせる事が出来るかもしれない、という淡い期待もあったのだろう。
だからまぁ……今回の件はお節介を焼くには良い機会だった、という訳だ。
現行のペースでは、どう考えてもティグルの時間は足りなかった。おそらく、残された時間は半年も無かっただろう。
兄であるレーヴェ将軍に迷惑を掛ける事を殊更に嫌がり、極力自身の手で全てを終わらせたがっていたティグルだが……自身の行状を闇に葬るならば兎も角、最終的には全部暴露する予定なのだ。
今バレるにしろ、後でバラすにしろ、愛しの兄上のメンタルをゴリゴリと削るのに変わりは無い。
ならば、大詰めと後片付け位は外部の者の手で派手に行われても良いだろう、というのがジャックの考えである。
逃走に使う水路の事は以前ティグルに聞いていた――過去にその路を使い、家の者に内緒で自分を背負って郊外の散歩に連れ出してくれた兄の自慢話込み込みで。
必要・不必要な状況に関わらず、この段階までくれば出資者連中を言い包めてその下水路を使用する筈だ。後で纏めて処分なり、捕縛なりをする為に。
レーヴェ将軍がこの時点でも弟に対して疑念を向けない頓馬であるなら、水路に注意は向けまい。
ティグルは近い将来、屋敷か、或いは独房のベッドの上で痩せ衰えて終わりを迎えるだろう。
だが、そうでないのなら……最期くらいは、幼い頃の様に兄とチャンバラに興じて、今のティグルの剣を兄に存分に見せて、逝ける可能性がある。
あくまで可能性だ。
つまる処、螺子の外れた人斬りに過ぎないジャックに出来るお節介など、その程度のものであった。
「ちぃと想像とは違う終わりになったが……これで契約も終了、か。さて、これからどうするかね」
言葉の上では先行きに悩む剣鬼であるが、腹の中ではとうに結論は出ている。
今の己であっても、容易には勝利出来ぬ強者達。その存在と武威は今回の件でたっぷりと確認できた。
――ならば、後は人斬りの本分に、身の裡より湧き上がる欲求に、存分に溺れ、酔うとしよう。
「ま、帝国が後片付けをするとは思うが……仕事のアフターケア位は考えておくか」
ついでに、組織から漏れた技術や逃げ出した研究者が見つかるなら、その都度消しておこう、とサブの目標も立てておく。彼自身もおたずね者になったのは確定なので、暫くはほとぼりを冷ます必要はありそうだが。
折角だ、このまま山脈の奥地に入り、修練も兼ねて冬を越すまで山籠もりというのも悪くない。
何時かは大陸最大の霊地であるという、龍の住まう山脈で修練を行ってみたいものだ、などと考えつつ、剣鬼は眺め続けていた帝都より視線を切り――。
――早朝の散歩にしては随分と遠出やな。徹夜明けに長距離マラソンとかクッソだるかったんですけど。
そんな、この場で聞こえる筈も無い声を聞いて、驚きと共に振り返る。
其処に立っていたのは、一人の青年だった。
黒髪黒目の、転移者としてはよくみる特徴を備えたその若者は、あまり良いとは言えない目付きを更に半分に細めて気怠そうに首を捻り、パキポキと音を立てている。
「……よう、良い朝だな猟犬の」
驚愕を瞬時に押し殺し、飄々とした態度を取り戻した剣鬼は眼前の青年へと笑い掛け。
――良い朝も糞もこっちは徹夜明けだっつってんだろうが。相棒の肖像権侵害のツケ、回収しにきたぞパチモン侍。
鼻を鳴らして応えた青年は、今度は首ではなく指先に力を込め、ゴキリと音を鳴らす。
斯くして帝都の長い夜は明け、ただ一夜の"祭り"は終局に向かう。
薄っすらと白む空の下、秋風の吹く丘の上で。
名無しの剣鬼と聖女の猟犬は、二度目の対峙を果たしたのだった。