悪夢
先の見通すことのできない、どこまでも通ずる深い闇。
その暗黒の中にひとつ、淡く輝く光を纏った人影が浮かんでいた。
咲美だ。
およそ瑕疵を見つける事のできない均整の採れた眼鼻立ち、絹のように光沢のある黒髪。スラリと伸びた四肢に反して出る所は出ている、人の目を引きつけて止まない体、美しさの凝集とでも呼ぶべき存在。
でもこの咲美をオレは知らない。生まれてから片時も離れずに寄り添ってきたオレの咲美じゃない。オレの知らない咲実だ。
オレが咲美に気付くと、咲美もオレに気付き、こちらを見遣る。
その顔にはなんの感情もなかった。
オレは咲美の方に駆けよろうとするが足が動かない。声を出したくても声が出ない。
そもそもオレはここにいるのか?真っ暗な闇の中に体の感覚はない。ただ意識だけはある。
意識だけのオレに、咲美は物を見る目を注いでいる。
やめろ!
お前にそんな顔をされてはオレはオレでいられない。そんな血の気のない妖魔のような、ヴァンパイアのような能面でオレを見るな!
咲美の傍らに別の光が灯り、それは見る間に大きくなって人の形になった。その光は咲美以上の能面、というより目鼻もなにもない、ただの人の形をした光ののっぺらぼうだった。
その光が咲美の体に触れる。
光は太もも、腹、乳房、咲美の体を撫でまわしていく。
思考が煮えたぎる程の怒りが襲ったが、オレは何もできない。ただ見ているだけだ。
そして、咲美は……、光に全身を嬲られている咲美は、愉悦の笑みを浮かべていた。
その顔を見たオレは、衝撃に、怒りさえ忘れるほどの衝撃のあまりに、一切の思考が停止した。
なんだこれは?
オレの咲美が別のものに変えられていく。オレはそれを止めることも、目を背けることも出来ずに、ただ痛切と無力感の中にただそこに居ることしかできない。
こちらを見る咲美の目が初めてオレの存在を認識し、その顔が歪み、蠱惑的に嗤った気がした。
――あれは哀れみ?
再び衝撃と、そして疑問がオレの中で渦を巻いた。どうしてオレが咲美に哀れまれる?
喧嘩をして怒らせたり、嫌われたりしたことならあった。でも咲美に哀れまれるというのは初めての経験だった。
それはオレの内にあった、自分でも気づいてすらいなかった、オレの男としてのプライドを剣でほじくるようにズタズタに引き裂いた。
暗闇の中にあったオレの自我、意識、思考――などと呼ばれるものが、グニャリと歪んでかき混ぜられていく。
このままがオレが壊れる。内から湧きあがる負の激情によって自身が燃え溶けて、霧散していく。
オレが壊レル。
オレガキエル……。
咲美の顔に纏わりつくのっぺらの光が、顔の形に凝集し、伸びてきた唇が咲美の唇に触れた。
忘我と恍惚の境地の咲美はその唇を吸い返す。その瞳は涙に濡れて――。
そして、目を覚ました。
すぐに眩しさに目を閉じる。
目が久しぶりの光を受けるように焼けるように熱い。
徐々に視界の輪郭が定まり、最初に目に入ったのは木目の古めかしい天井だった。
知らない天井。いつも目覚めて初めに目にする部屋のあの白い、素っ気ない天井ではない。
ここはどこだ?
それが最初に思ったことだった。
いや、違う。古い木目の天井には見覚えがあった。見知らぬ天井ではない。でもどこだかは思い出せない。
記憶の手綱を探る。思い出せる近い記憶……、朝、新曲を告げるアラームで目を覚まし、バスの中で天音の歌声を聞き、原田に会い、帰りで咲美と一緒になって、その帰り道で咲美に思いを伝えて、それから……。
そこまで思い出して頭に電流が走った。頭を巡らせて左右を見渡す。見覚えのある畳の部屋、しかし誰の姿もない。
上半身を起こそうとして、腹に刺すような痛みが走る。体は汗まみれで、見覚えのない服を着ている。
刺す――そう俺は咲美とともにヴァンパイアと闘って、腹を刺されて奴と差し違い、そして――そして、どうなった?
頭の上で人の気配がして、電灯の明かりを覆い隠す。
目の前に、咲美の顔がさかさまに大写しになった。
瞳に涙を溜めた咲美の顔がさらに近づき――そのまま俺の胸に飛び込んだ。
ろっ骨が軋んで、さっき以上の痛みが全身を巡ったが、なんとか呻き声を上げるのを堪える。
――咲美の体を離したくなかったからな。
「良かった……」と絞り出した咲美の声は濡れていた。
俺は咲美の頭に右手を置いて撫でた。艶やかな髪の感触と体温が伝わってくると、自分の生の実感も湧いてくる。どうやら俺は生きているらしい。
俺の胸で泣く咲美の感触に、さっき見ていた夢の残滓が脳裏をよぎった。
なにか嫌な夢を見ていたが思い出せない。咲美がいたような気がするが、それは俺の知る咲美ではなく――。
だが、頭を鳴り響く咲美の鳴き声によって、微かに残る悪夢の欠片も消え失せた。
俺には咲美がいる。生まれてから片時も離れずに育った一番大事な人。咲美さえいれば俺は戦える、生きられる。それは変わらない、そうだろう?
俺の胸を濡らす咲美はしばらく離れそうになく、泣き止むまで俺は咲美の頭に手を置いていた。