ヴァンパイア
漆黒のマントに身を包んだそれが音もなく枝を蹴り、咲美の頭上より降りかかった。
マントの隙間から覗かせた鋭い刃――そのものの爪を、咲美の首筋に突き刺さんと振り下ろす。
だが、
咲美!
叫ぶが早いか、俺の体は勝手に動き、不意打ちをしたその黒づくめと咲美の間に飛びこんでいた。
俺の体が咲美の体に被さる瞬間、黒づくめの能面のような顔と咲美の驚愕の顔が大写しになる。黒づくめの爪が左肩に食い込むのも意に介さず、咲美に体当たりをした。
黒づくめの爪が空を斬り、縺れ合った俺と咲美は地面に体を打ちつけ転がった。その刹那、顔にかかる咲美の髪の甘い香りが鼻孔をくすぐり、脳の奥を痺れさせた。
いい匂いだ。もっとこうしていたい。なんて、戦いの最中に、まして不意打ちを食らった瞬間なのに場違いな感想を抱いた。まったく男って生き物は本能には抗えないらしい。
慣性で地を滑る俺と咲美は同時に地を蹴り、後方に跳躍し身を翻して着地した。
すぐに剣を構え直しながら、俺達を襲撃した黒づくめを見据えた。
黒いマントに身を包んでいるが、頭と胴体とそこから生える四肢、そのシルエットは人間と変わらないように見える。
人と違い異様なのは、手の先から伸びる爪がナイフのように長く鋭いことか。さっきはあの爪で咲美の首を落とそうとし、だが失敗して俺の肩を斬りやがったに違いない。
頭がいくぶん落ち着いてくると、奴に斬られた左肩から遅ればせながら痛みが湧いてきた。指先を動かすだけで、痛みが神経を介して全身に電気のように走った。前進から汗が噴き出し、動悸が早まる音が聞こえる。
傍らに立つ咲美に顔だけで振り向いた。何が背中がお留守だぞ、だ。お前の背中もお留守じゃ……
「バカ!」
俺のボヤきは咲美の怒声にかき消さえた。
それだけ大声を出せるならお前は大丈夫だな。お前に傷がなくて良かったぜ。
「バカ!見せてみろ」
言いながら咲美は俺の肩を覗き込む。しかし二度もバカ呼ばわりしなくてもいいだろう。助けてやったのに。
これぐらいなんともない。言いかけたが、「黙っていろ」と再び遮られる。
俺の背後に回り、肩に手を置いた咲美が目を閉じて祈りだした。
「宙に坐します尊き方よ、その慈悲を示したまへ」
癒しの呪文を唱えると、肩から温かな光が溢れ出した。
白魔法。
神、精霊、悪魔……、この世界に、あるいはこことは別の世界に普く存在する大いなるものたち。術者は呪文や法具、儀式などを媒介にし、自身の体を通じてその見えざる者たちの力を顕在させる。
剣技に長けた咲美のもう一つの特技で、俺がこれまでにも幾度となく世話になってきた癒しの技だ。
咲美の指先から傷口を通じて、咲美の気を送り込まれているようだ。温かな気、あるいは温かな咲美の思惟のようなものが全身に広がっていく気がする。
この感覚は他のなににも替えがたい。咲美の癒しを受けれるのならば、戦って怪我をするのも役得だなと、またも場違いな感慨に浸った。
ましてこれは咲美を守って負った傷だ。俺にとって、これ以上の誉れが他にあろうか。
咲美の回復を受けながらも、敵は依然に健在であり、俺は眼下に立つ黒づくめを睨み据えた。
真っ黒なマントに覆われた体躯と顔は人間と変わらず、遠目にはまさに人間に見える。だが尖った耳と牙に、燃え盛るような金色の瞳と髪、そしてこの禍々しい気配は、奴が人間とは根本から異にする存在であることを語っている。いや、なまじ人と同じ同じ形をしているからこそ、余計に違和感と、気味の悪さが際立つのかもしれない。
こちらが奴を見据えるように、奴もこちらに観察の眼を注いでいた。
しかし、不意打ちに失敗した黒づくめは、何も気負いしている風には見えない。というより、真っ黒なマントに比して仮面のように白い能面からは思考のようなものが読み取れない。
敵は襲ってこなかった。不意打ちに失敗したならば彼我戦力差は2対1であり――もう伏兵がいないのであればだが――攻め手を失してるのか。
だが手負いのこちらに追撃を加えず、回復を見逃していることは解せない。何か思惑があるのか。
だとすれば、不意打ちをしてきたことも含めて、あの黒づくめはかなりの知能を持つことが伺える。
妖魔とは妖をもって人に害をなすものどもを全てを指す呼び名であり、その種族はごまんとある。
魔狼のような低級な妖魔とは一線を画する存在であることに疑いはなく、そうであるならば手強い相手ということでもある。
恐らく先の魔狼たちはこの黒づくめに使役されていたに過ぎず、奴隷を戦わせて自らは気配を消して様子を伺っていた。
あの魔狼たちはこの黒づくめに怯えていたのだ。だからああも命を投げうって掛かってきた。
妖魔を使役する妖魔は多いが、魔狼を使役する妖魔には思い当たる節があった。あいつはまさか――。
その時、氷のような目を視線を注いでいた妖魔の顔が、不意に笑みの形に歪められた。
同時に、背中から贈られていた咲美からの癒しの気の流入がブツッと途切れ、そして火のような痛みが再び傷口を襲った。
「これは……」
耳元で咲美が青ざめた声を出す。肩越しに振り向こうとした時、俺は肩に負った傷の異変に気付いた。
傷口から煙のような紫の気が立ち昇っていた。それが咲美の回復魔法の光を弾き、閉じかけた傷口が見えない刃に切り裂かれたように開いた。
膝から力が抜け、倒れそうになるのを咲美に支えられる。汗がドッと噴き出し、視界が遠くなり、気を失うのをすんでのところで堪える。全身の力が傷口から血とともに流れ出ているようだ。
咲美に肩を借りながら、俺は顔も上げて黒づくめを睨んだ。奴は得たりと、不敵に嗤っていた。
奴は……吸血鬼だ。
「なっ……!」
咲美が驚愕を隠しきれない顔を見せた。戦いで劣勢に陥っても狼狽えることの無い咲美の、初めて見る顔だった。
食料として人の血を吸う、限りなく不死に近い、妖魔の中でも最上位といっていい、それが――、
「ヴァンパイアだっていうのか、奴が……!」
咲美が耳元で叫び、奴を見た。ヴァンパイアの爪が月明かりを反射してキラリと輝いた。
呪われた存在そのものと言っていいヴァンパイア。その爪には恐らく白魔法など神聖なものに対する強力な抗力があるのだろう。それが咲美の回復魔法を無力化した。
そしてこの呪いが回復魔法だけでなく、自然治癒まで無力化するものだとしたら?遠からず、それどころか今日の内に失血死するだろう。。
死ぬ。このまま何もできずに。せっかく咲美に告白したのに、まだ返事も聞いていない。デートもキスもセックスもまだ何もしていない。
そして咲美は? 咲美はどうなる? 俺が死んだ後に咲美はあいつと戦って勝てるのか? 咲美もあいつの手に掛かって死ぬ――。そう思うと気が狂いそうなほどの焦りと恐怖と、そして怒りが湧いてきた。
俺は頭を振ってその負の感情を追い払った。
怒りに呑まれることなかれ。
怒りは判断を鈍らせ、見えるものが見えなくななり、為せるものも為せなくなる。それは退魔師の戒律に背く。
生きるためには奴を倒すしかない。奴が死ねばこの傷の呪いも消えるはずだ。
決意を胸に咲美へ振り向くと、咲美もまた同じ顔をしていた。
言葉はいらない。俺達は退魔師だ。
一つ頷いて、すぐにヴァンパイアの方に向き直った。
同時に跳んだ。
左右に散開。
ヴァンパイアを挟み込むように吶喊する。
聖銀刀を顕現させ、渾身の力で振り下ろす。
退魔師とヴァンパイアの間に火花が散り、バチバチと爆ぜた。
退魔師二人の太刀を、ヴァンパイアは両手の爪で受け止めていた。
ヴァンパイアの爪に無数に施された呪文が見える。そこから浮かび上がる紫の光が奴の爪を纏い、光剣を防いだのだ。
奴も、呪術によって自らの肉体――爪に魔力を付与して強化している。
退魔師と同等の業を使う妖魔の存在に驚愕する間もなく、ヴァンパイアは返す刀で両腕を掃った。
首を狙った太刀筋をすんでの所で受け止め、俺と咲美が吹き飛ばされる。空中で身を翻して、着地する。
同時に肩に痛みが走る。血を蹴る度に、剣を振るうたびに、疼痛に頭が苛まされる。
痛みに身を竦めたほんのわずかな隙にヴァンパイアは追撃してきた。跳躍し、俺の頭上に覆い被さったヴァンパイアが両の爪を伸ばす。
だが、その爪は真上に弾かれた。
咲美がヴァンパイアの太刀を弾いたのだった。返す刀で咲美が斬りつけるが、ヴァンパイアは音もなく飛び退り、音もなく木の上に着地した。
「無事か!」と叫ぶ咲美の声が遠くに聞こえる。
平気だと返そうとした声は声にならず、かわりに嗚咽が口から漏れた。
ドクン、と心臓が跳ね、たまらず胸を押さえた。
肩の傷口が膿んで、瘴気でも出し始めたようだ。
毒が血管を通じて全身に巡り、筋肉、内臓を蝕んでいく。血が沸騰するかのような未知の苦悶に苛まされる。
いや、魔力が全身を巡る感覚は毒なんて生易しいものではない。もっと禍々しい、呪いによって自分の体が別のものに変えられていくような――。
その時、ヴァンパイアに関しての伝承を思い出した。
ヴァンパイアに血を吸われたものは、ヴァンパイアの虜となりて、その者もまたヴァンパイアとなる。
今、俺の全身を巡っているのが単なる毒ではなく俺の意識を奪って隷属させるものだとしたら? 俺はあいつの奴隷となり、人の血を吸う吸血鬼となるのか?
そして、さらに忌まわしい予感が頭をもたげた。
俺は咲美があいつに血を吸われてあいつの奴隷になる姿を幻視した。
瞬間、その想像を消し去りたく、自分の頭を聖銀刀で刺したくなった。
そんな姿を見るぐらいならば死んだ方がマシ――。
とかそんなレベルではない。そんな事が万が一にも――いや、万に一つどころではない。
そんな事態が起こることは断じて、絶対に、許すわけにはいかない。
そう思うと、体の芯からマグマのような熱が湧き上がった。毒による熱とは異なる、自身が生み出す熱だ。
ついさっき追い出したはずの怒りと恐怖が降りかかってきた。
いや、そんな生易しいものではない。燃え滾る黒い炎は憎悪そのものだった。
ヴァンパイアを見上げる視界が血の色に染まっていく。震える手に剣を握りしめ、奴に跳びかかろうとした刹那、眼前を咲美の手によって制された。
「お前は下がっていろ、あいつは私が仕留める」
傍らに立った咲美が刀を下ろし、目を閉じて祈り始めた。
「大いなる還流、輝く御座、天照らす御光背負いし聖王よ、その御手によって我に力を与えん事を……」
詠唱とともに咲美の足元から白い光が湧き上がり、体が光に包まれていく。
契約者の力をその身に下ろして、肉体の強化をする白魔法の奥儀。
迸る神気を受けてヴァンパイアが一瞬驚愕したに見えたが、ヴァンパイアは不敵にこちらを見据えることをやめなかった。
そして――、仮面のような能面、その口元がゆったりと三日月の形に吊り上がり嗤った。
その違和感に、異質感に、一瞬戦意を忘れた。
あの笑みはなんだ? まるで嬉しくて仕方がないとでもいうような。探していたものを見つけたとでもいうような。まるで妖魔のはずのヴァンパイアの人間のような笑みは一体なんだというのだ――。
詠唱を終えた咲美が目を見開いた瞬間、周囲に竜巻が生じた。
木の葉が舞い上がり、咲美より一際強く放たれた閃光が夜の森を鮮烈な白に染め上げる。
……咲美、よせ!
制止も聞かずに咲美は飛び出していた。木々をジグザクに蹴ってヴァンパイアへと迫る。
咲美の太刀をヴァンパイアは爪で受け止める。剣戟の甲高い音が夜の森を揺らした時には、両者の姿は消えていた。
同時に周囲の木々が一斉に騒めき、落ち葉の雨が前後左右から降り始めた。上空の全ての方向から剣戟の音が鳴り響く。
両者は木々を蹴り、高速で跳びまわりながら互いの刃を打ち合っていた。
咲美と互角に戦う妖魔を初めて目の当たりにした。やはり間違いない、あのヴァンパイアは上位の妖魔だ。しかも敵の力は未知数。咲美一人の手には負えないかもしれない。俺も加勢しなくては。
すぐ背後で鳴った剣戟の音に振りかえったが、もう二人の姿はなかった。
毒と出血により、反応が鈍ってきている。もう長時間戦う事は不可能。それどころか爪の一度を受けれるかどうかも分からない。そうであるならば、今の俺が採れる選択はもう多くない――。
眼前に何かがヒラヒラと落ちた。黒い布切れ。それを認めた瞬間、心臓が撥ねた。咲美の制服……!
肉体強化の秘法を用いても奴と辛うじて互角。それにあのそれにこの業は長くは使えないし、肉体に大きな負荷がかかる。
天を振り仰ぐと、今度は咲美本人が目の前に降りてきた。湊高のシスター風の制服をたなびかせながら軽やかに一回転し、それこそ木の葉のようにほとんど音も立てずに着地した。
だがその身がよろけ、倒れそうになる咲美をすんでの所で支えた。
「咲美!」
平気か!という問は声にならなかった。シャナの脇腹に妖魔の爪が引き裂いた傷を見てしまったからだ。破れた制服の下に、シャナの白い肌が鮮血に染まるのを月明かりの下でも見えた。
傷はサトル程は深くない。だが、長引けばシャナの体にも毒が廻り、動くこともままならなくなるかもしれない。
だが、腕の中の咲美は、首だけを巡らせて俺に「平気か?」と言った。
こんな時にまでこちらの心配か――。
……駄目だな、俺は。パートナーに気遣われるなんて退魔師として半人前もいい所。いや、惚れた女に心配をさせるなんて男失格だ。
戦いの時にも冷静な鉄面皮を崩さない咲美の顔が、僅かに苦悶に歪められているようにみえた。
俺は自分の無力感を呪った。
ヴァンパイアが遠くの枝の上に降り立った。
月を背に立つ妖魔の顔はよく伺えない。猫背になりこちらを見下ろす二つの眼が、奴の黒いシルエットに浮きたっている。
こちらの負傷に対して奴は無傷。だが、こちらが二人の事を警戒して、迂闊には踏み込んでは来ず、付かず離れずの距離で伺っているように見える。
いや、そうではない。このままでは俺達二人が、遠からず傷の呪いで動けなくなることを知っているのだ。もしくは俺達が奴の従属となる事を知っているか――。
互いを支え合いながら立ち上がり、構える。
「咲美、俺に考えがある」
策を話し聞かせるうちに、シャナは困惑の表情へと変わり、そして叱責の顔となり叫んだ。
「無茶だ!」
もう俺は満足に戦えない。でもこっちは二人だ。それに息も絶え絶えだからの今だからこそ打つべき手だ。
「だからって……」
いよいよ失血と毒の巡りによって立つのも覚束なくなってくる。だが、今の俺にとって咲美の怒鳴り声は救いだった。咲美が心配してくれている事が支えだった。この声が、消えそうになる意識を呼び戻してくれる。
咲美……俺は『退魔師』だ。命を賭して義務を果たさなければならない。
サトルの瞳に射抜かれて咲美は一瞬、戸惑いの顔を浮かべたが、すぐに意を決し、
「分かった」
応えると、正面を向き刀を構え直した。
咲美が再び肉体強化の魔法を唱える。咲美にももう魔法は残されていない。
白い光に纏われた咲美が一直線にヴァンパイアに吶喊する。
守りを考えていないその軌道にヴァンパイアが一瞬たじろぐ。
ヴァンパイアの間合いに入った咲美が聖銀刀を発光させた。
「舞蛍!」
斬撃の雨は、ヴァンパイアの意識を一瞬だけ守りに集中させることに成功させる。
その機を逃さず、俺は咲美の背後よりその身に隠れるように距離を詰め、跳んだ。
捨て身の特攻――。
ヴァンパイアは瞬時にそう悟った。だが、満身創痍の身の特攻など恐れるに足らず、上段に構えた俺が渾身の稲妻斬りを振り下ろすその前に、俺の腹に爪を突き立てた。
それこそが俺の狙いだった。
背中まで抜けた爪をヴァンパイアが引き抜こうとした時、先に剣から手を離していた俺は、その爪を掴んだ。
肉を切らせて骨を……、
「アーメン!」
裂帛の気合とともに咲美が光剣を振り下ろし、ヴァンパイアの胸を袈裟切りにした。
一縷の光筋が、ヴァンパイアの漆黒のマントが切り裂く。
斬り筋から真っ白な炎が爆発的に噴き出し、俺と咲美を視界を覆い隠す。
「ギイイイイイイイイイイイイイイイイ」
金切り声そのものといった絶叫が耳をつんざく。
同時に、漆黒のマントが意志を持ったように蠢きだし、見る間にヴァンパイアの体を覆い隠した。
真っ黒な蛹となったそれが急速に小さくなると、パァァン!と破裂し、ヴァンパイアの体であった黒い塊は無数の蝙蝠となって破裂した。
四方に散ったそれは地上に落ちる前に白い炎となって燃え尽き、聖銀の楔を受けた妖魔の最後を告げた。
「やった……のか?」
囁いた咲美が、瞬時に我に返って俺の方を振り向いた。
視界の中の咲美の顔から急速に色が消え、俺の名を叫ぶ声も遠くに聞こえる。全身から力が抜け、痛みも疲労感も感じない。
だが、意識が消失する寸前、俺は1羽の蝙蝠が夜の闇に飛び去って行くのを見ていた。