告白 その2
そして俺達は今、帰宅路を歩いている。
のだが、「一緒に帰っている」と呼ぶのは憚られる状況である。
気まずい沈黙も目下継続中――というかそもそもこの表現もこれも前後に並んで歩いている状況ではふさわしくない気もするが。
かといって誘った手前、なにか話さなくちゃな。歩いて家までは一時間は掛かる。自分から誘っておいてなんだが、そんな時間歩くのに応じてくれたのは意外だった。
「別に、少し歩きたい気分だったし」
振り向きもせずに応える。確かに、咲美は頭に沁みついた煩悩でも振り払うかの威勢よく歩いている。
流石にこのまま無言では途中のバス停からバスに乗りこんでしまうかもしれない。その前にキメないと。
そう、「つい誘った」なんていうのは嘘だ。今日、俺は咲美に大事な話をしなくちゃならない。その為に放課後のバス停で待っていた。学校の予定で、部活が全て休みになるこの日を狙って。
俺の前をズンズンと進む咲美は、歩道橋の階段を一段飛ばしで昇り始めた。「淑女たれ」を校風とするお堅い北高生にあるまじき姿だ。北高生でなくても女性ではあまり見ないが。ちょっと仮面が取れかかってるな……。
歩道橋の中腹にさし掛かった所でおもむろに口を開いた。
黛にはなんて返事したんだ?
話題を困った俺はこんなことを口走った。
言った直後に後悔していた。黛に対してデリカシーがないなんて、人の事を言えたもんじゃない。他人のプライベートに土足で踏み込んでいるゲス野郎とは俺のことじゃないか。
そして朝、「知っている事をわざわざ人に確認するな」と、黛に言った言葉がよぎる。自分の吐いた言葉が自分に返ってきている……。
いきなり咲美が立ち止まるのでつんのめりそうになる。咲美は自分の足元を見、空を振り仰いでからこちらに振り返った。
「断った」
なんで?
それこそゲスな勘繰りだったが、訊かずにいられなかった。
「あんたには関係ないでしょ」
語気を強めた顔には、苛立ちと非難の色があった。
その刺すような視線に射抜かれて、冷や水を掛けられたように気持ちが萎えていった。
咲美が俯き黙り込んだ。前髪に覆われた顔からは表情は伺えない。やがて肩が小刻みに震えだした。嗚咽している――ように見えるが、さにあらず。これは……。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
咲美が白い喉を仰け反らせ、天を仰いで叫んだ。
歩道橋の俺達の前後を歩いていたOLらしき女性と、主婦らしき女性が同時に振り向いた。俺は咄嗟に頭を下げ、なぜ俺が謝らねばならんのかと思う間に、二人は気まずそうに再び歩き出した。階段を降りる最中もチラチラとこちらの様子を伺っていたが、あの二人には俺達はなにに見えているのだろうか。
「もう、なんなのよあの男! 私があんたみたいなチャラくて、バカで、軽薄で、女たらしで、授業中に寝て、頭悪くて、成績悪くて、チャラくて、校則守らない、ギタリスト被れの男と付き合うわけないでしょうが!」
黛本人が聞いたら卒倒してしまいそうな悪態の数々と、そして姿であった。しかしバカで頭が悪くて成績も悪いというのは俺に突き刺さる言葉でもあり、俺も今ちょっと傷ついている。
まぁまぁあいつはあれでいい所もあるんだぜ。男にも女にも人気あるし。しかしなぜ俺が奴のフォローをしているのか。
「それよ!」
と、咲美が間髪入れずに俺に人差し指を突き出す。その勢いに俺は一歩下がり、代わりに咲美がズイと顔を寄せてくる。
「黛が私に公開告白なんてしてきたせいで、私が黛のことを好きな女とその取り巻きたちから、睨まれることになったのよ! なんで私がそんな目に合わなくちゃいけないのよ!? ああ、もう!」
黛のことを好きな女とその取り巻きたち……。
今朝の黛との会話で俎上に上がった御堂翠の顔が浮かんだ。いずれもミッションスクールにしてはちょっと派手で目立つ、いわゆるスクールカースト上位に座する女たちだ。黛も近い位置にいる奴だから、いつもクラスの一角を陣取って談笑している。あの派手で目立つ女子集団に睨まれることになったら……。
想像して身がちょっと竦んだ。なるほど、確かにめんどくさいかもしれないな……。しかし告白というイベントがあったのは今日なのに、もうそんな話が噂の当人である咲美の耳に入っているとは……。女子のネットワークってすげーな……。それはそれでちょっとゾッとしないな……。
眉根を寄せて、両の手で握り拳を作って、その場で地団太を踏んでいる。こんな身振りを実際にやる奴がいるのか、と思われるかもしれないが、居るのである。
黛のみならず、クラスメイトたちがこの咲美の本性を見たら驚愕するであろう。
普段は優等生を演じているが、一たびその優等生、淑女、聖女と呼ばれる仮面が剥がれれば、こんな風に感情をストレートに爆発させる。それが織部咲美という女であった。
最も、その本性を表すのは幼馴染の俺の前ぐらいであり、その俺にしたってここまで咲美が爆発したのを見るのは久しぶりであったが。以前の咲美は、男に告られるたびにこんな風に俺に愚痴を聞かせていたものだった。
確かに、告白されるたびにこんな風にあっちこっちからやっかまれていては、愚痴の一つや二つ、三つや四つ……、いや両手に足りんほどにも吐きたくなるのか。
黛にしてもそうだ、咲美に告白するのであれば、周囲の女にあんな風に思わせぶりな態度を取らなければいいのに。いや、あいつの場合は無自覚か。だからこそ質が悪いとも言えるが。
いずれにせよ咲美にしろ、黛にしろ、モテる人間の辛さなのかもしれない。でもこんだけ告られるのに慣れてるなら、もう少し上手い立ち回りを覚えてもよさそうなもんだが。
「はぁ? 告られるのに慣れる? 慣れてなんかないわよ」
そう……なのか? しかし、そう言って毎度愚痴を聞かせれる身にもなってほしい。俺の方が愚痴りたい気分だ。
その後も咲美は怒涛のごとく愚痴り続けた。
今日のことに限らず、数々の人間関係や色恋沙汰に関してや、クラスや部活動や学校の行事に関してなど。みんな協同体の一員としての自覚がなさすぎる、リーダーをすぐに私に押し付けすぎだ、とか。その割には今日の音楽の時間にパートリーダーに選ばれた時は嬉しそうだったけどな、とは言わなかった。果ては政治家の汚職に公共料金の誤った使い道についてなど、ゴミの分別から地球規模の環境問題について、人類は無自覚すぎる……などなど。
俺はああとか、そうだなとか生返事をするたびに「ちゃんと聞いてる?」と鋭い一瞥をくれる。
でも思う。そういった周囲の些事に憤りを覚えるのも根が真面目だからであろう。多くの人間は自分に関わりのない事には無関心でいることが普通だ。
リーダーを任されるのも、それはひとえに咲美の能力の高さに周囲の人間が依存しているからであろうが、お人好しの咲美は頼られることを拒まない。自ら進んで立候補するタイプのリーダーではなく、周囲の人間の推挙でリーダーになってしまうタイプだ。推されているのではなく、押し付けられているともいうが。
幼馴染の俺はその事を知っていた。前に一度、そんなに虚勢で取り繕って疲れないかと訊いたことがあったが、咲美は「頼られるのは嫌いじゃない」と照れくさそうに笑っていた。
咲美は仮面を被っているのではなく、孤独に本や音楽の世界に浸っているのが好きな咲美も本物ならば、頼られることに喜びを感じる咲美も本物で、そして今のように生の感情を吐き出す咲美もまた本物なのかもしれない。
歩き出しておよそ30分。
俺と咲美はデカい公園内を歩いている。バス通学の場合はバスは道路を走るが、歩きの場合はこの公園の中を突っ切るのが近道だからだ。
延々と話したおかげで、さすがにもう話す話題も尽きてきたのだろう。少し前からまた無言に戻っていた。
これは丁度いいタイミングなのだろうか?
人もまばらで、場所も申し分ない。
ずっと話していて喉が乾いただろう、と、俺は自動販売機で買ったジュースを差し出し、咲美をベンチに誘う。
咲美は「ありがと」と小さく言ってベンチに収まり、俺もその横に座る。
沈黙。
話したい事があるのに、切り出せない。これじゃバス停で腰掛けていた時と変わらんじゃないか。
「ごめんね、私ばかり話しちゃって」
謝られた。殊勝な所もあるもんだ。さっきまでマシンガンのように話していたのに、そんな風にしおらしい所を見せられたらギャップにやられちゃうじゃないか。
「それで? 話があるんでしょ」
かける言葉を探していると向こうからかけられた。どこまで情けない奴なんだ俺ってやつは。
咲美は上目遣いでこちらを見ている。クラクラした。
その瞳に吸い込まれそうになり、俺は思わず立ち上がった。
太陽は傾いでいて、世界をオレンジに染めていた。
俺は朝の黛の言葉を思い出していた。
――いつ死ぬか分からない、死んでから後悔しても遅い。
それは「俺達」にこそ当てはまる言葉だった。
振り向く。
頭上の街灯がチン、という音を立てて灯った。その光が咲美の顔に濃い影を作る。
その顔に俺は言った。
咲美、お前のことが好きだ。
俺は咲美の瞳を見つめ、咲美も俺の瞳を見つめたまま無表情に固まっている。
街灯の光が咲美の睫毛に影を作り、睫毛長いななんて思っていると、その睫毛がふるふると震えだした。
顔を伏せて口元を覆う。前髪に遮られて表情も伺えない。
さっき見た光景がリフレインする。これは、咲美が爆発する前に見せるあの兆候――。
心臓が一跳ねし、落胆が全身を包みこむ。まさか、俺からの告白がそこまで嫌だとは……。 俺が絶望感に打ちひしがれていると、咲美がおもむろに顔を上げた。
目を細めているの夕陽の眩しさゆえか否か、俺を見つめ返すその瞳には涙に潤んでいた。
そして、咲美は花が咲くように咲った
「ようやく言ってくれた……」
濡れる唇が、か細くささやく。一条の雫が頬を伝って流れた。
「私もあんたのこと……」
咲美の唇から発する言葉が体に染み入ると、世界から音が消えた。
夕暮れの琥珀色に染まった世界の境界が曖昧になる。
平衡感覚があやふやになり、自分の体の場所が分からなくなる。
時間がスローモーションになり、俺の全ての意識は咲美にだけ向けられた。
その唇がゆっくりと動き、次の言葉を形づくった刹那――。
俺のスマホと咲美のスマホが同時にけたたましい音を鳴らした。
夢心地の境地は破られ、意識が瞬時に現実に引き戻された。
舌打ちを堪えてポケットから取り出したスマホ画面は深紅に染まっていた。
目覚ましのアラームでも、新曲投稿を告げる通知音でもない、本当の警報。これが鳴るのは――。
出動命令――。妖魔……!
振り向いた咲美の顔は、画面の反射で紅く染まっていた。夕陽の暖かいオレンジ色とは位相が異なる、内面の闘争心を引き移したような燃えるような血の赤色。
仮面の優等生の顔でもなく、俺だけに見せるほころんだ顔でもない、退魔師の顔――。
目を見合わせた俺と咲実は頷き合うと同時に跳び上がった。
街灯を蹴って電柱に飛び移り、二階建ての屋根に着地するや否や、即座に屋根を蹴って隣の屋根に飛び移る。
夕暮れに染まる町を背に、二つのシルエットが空を駆けた。
帰途の最中にある人々の群れを飛び越える。
帰宅路を引き返し学校まで戻った所で、眼下に下校途中の北高生たちが見えた。語り合い、笑いさざめく同級生たちを目にし、胸が疼くのを感じた。
彼らは俺と咲美の姿に気付く事はない。俺達がこれから死地に赴こうとしている事も知る由もない。
家に着いて飯を食い、寝て目を覚ませば、今日と変わらぬ明日が続くと信じ、自分たちのいる日常がとても脆く壊れやすいものだという事を疑う事がない。
頭を振って感傷を追い出そうとしたが果たせず、前を奔る咲美へと視線を戻す。
モヤモヤを抱えたままでは戦えそうにない。思っている事は言ってしまおう。
なぁ、帰ったら返事を聞かせてくれよ。
身を切る風のせいで聞こえないのか、あるいは聞こえないふりをしているのか、咲美は振り向かない。
はぐらかされたようにも感じて、思わず苦笑が漏れた。
だが、いいさ。戦いの後にまた聞ければいい。その為に妖魔を討ち、生き残ることだ。
俺は傍らを駆ける咲美に誓った。