燐葬
二騎のエルクルスは御堂の上空に来ていた。目的のものはこの真下にあるが、亡骸が横たわる御堂をエルクルスで踏み荒らすなど出来ない。
ブランビィはアキュリアスに念を込めると熱弾を撃つときのように刀身が赤熱し始める。だがこの時は熱弾を撃つ事はなく、その状態のまま、御堂からやや離れた地面に突き刺した。瞬間、轟音と共に地面が爆発して、土が周囲に吹き飛んだ。永年の時に渡って積もった腐葉土の下に秦樹の枝、その地肌が剥き出しになった。アキュリアスの刀身は今、蜂の羽ばたきのように微細の、しかし超高速の振動状態にあった。触れただけで岩をも砕くアキュリアスの形態の一つだった。
ブランビィは再び剣を振りかざし、その枝に剣を突き刺さした。キツツキが枝に穴を開ける如く、木屑を周囲に撒き散らしながら、ブランビィは大枝に穴を穿つ。だが、その切っ先は僅か2度の刺突で、セトたちの足元にある元々あった穴と繋がった。そう、この御堂は、というよりもこの村は初めからこの「洞」の上に築かれたものだった。そしてその洞の中にあるものは――
エルクルスが通れる大きさの穴を開けたタルテは、剣を収め、一瞥だけ寄こすと無言でその穴に潜行していった。
先の戦いでアキュリアスを喪失して、手ぶらとなったセトのキバチも後に続く。
村の建つ大枝の半径はおよそ1㎞。目的の「もの」はそのほぼ中心にあると、タルテは言っていた。
500mの距離などエルクルスで飛べば一瞬だ。それはすぐに目の前に現れた。洞の奥、日の光の全く届かない闇の中に在る妖しい光。朧げに光る宝石、琥珀がそこにあった。
セトにしても、タルテにしても、エルクルスに搭載されてないアンバーそれのみを見る事は初めてだった。この村はこの秦樹の樹液の塊である宝石が大きく育つのを守るためにあったのだ。
アンバーがそれのみで光るということはない。人と同調していなければ。このアンバーの中には一人の少女が眠っていた。
キバチはそのアンバーを掴み抱き寄せる。キバチの胸部に位置するアンバーと、少女を内に収めたアンバーがチンと音を立てて触れ合った。瞬間、ザワッとした「感触」が流れ込んできた。この超個体ほど強力で明瞭な同調でもないし、燐通信のような言語化された疎通でもない。弱々しくてすぐにその感触も忘れてしまいそうな、あるいは気のせいだったのかもと思えるほどの朧げな感覚。それは秦樹の意志か、この少女の心か、あるいはこのアンバーが見てきた数百年の村人たちの記憶か――
その感触は相互的なものであったのか、この少女側にもキバチのアンバーから何か波のような者が伝わったのかもしれない。
「ん……」
今度は現実の音となってその音が聞こえた。その声を聞いたのはセトだけではなくタルテも同じようだった。回線が開いた。
(目覚めたのか?)
「出よう!」
セトが応じるよりも早く、二騎のエルクルスは飛び立ち、下ってきた縦穴を引き返す。
キバチはアンバーを抱えながら飛び、村の脇に広がる草原まで運びそこで下ろした。
セトとタルテが同時にエルクルスから飛び降り、アンバーに駆け寄る。
改めて日の下で見るとやはりこのアンバーは見事だった。暗闇の中では、中に納まる人間の燐を反映して淡く輝くのみだが、陽光を反射して煌めくアンバーもまた種類が異なる美しさを放っていた。自然が、秦樹という生命が数百年を紡いで作り出した宝石――その内に収まる少女の神秘さを含めて、これよりも美しい芸術品はないのではないかとセトは思う。
今、そのアンバーに手を伸ばして中の少女に接触を図る。が、伸ばした指は硬いガラスを触れる感触に拒まれた。
内に人を取り込み、その者の燐と同調した燐は天曜にあるどんな鉱物よりも硬くなる。だがその硬さは騎士とアンバーの同調の度合いに比例し、より深く同調できる者のアンバーはエルクルスの甲殻であるキチン鋼よりも硬くなり、アキュリアスの刃や恐蟲の節足を弾くほどにもなる。だからこそ村の人たちはこの子をここに隠した。
そしてこの幼い少女を内に収めるアンバー、その同調はとてつもなく深い。他の接触を拒む完全な調和がある。それは途轍もなく硬さであるはずだ。だが同調が強すぎるゆえにあまり深く潜りすぎると……
「急がないと、この子は出てこれなくなる」
さっきの俺のように。ましてこの年端の行かない子は同調の訓練も受けたことがないかもしれない。あるいは種すら食した事がないかもしれない。そんな人が一度でもアンバーと同調すれば、その肉体も燐も全てが取り込まれ二度と出てこれなくなる。琥珀に閉じ込まれた蜂のように。
救う手立てはこの少女と同調して、少女を眠りから呼び戻すことだ。だが初めてのアンバーに、それもエルクルスの操縦座になる程の巨大なアンバーに同調することは、訓練を受けた騎士でも危険だ。まして初対面の人間と深く同調するなど、不和をきたした場合には互いの精神が壊れる危険もある。
セトが詰問の目を向けるが、タルテは動じた風もなく「下がっていて」と言って前に出た。
息のかかる程アンバーに近寄り、そして目を閉じ黙祷を始める。
タルテの髪が揺れ、その体に薄ぼんやりと燐を帯び始める。エルクルスと同調している訳でもないのに肉眼で見えるほどの燐……!
開花が近くなり、あるいは先ほどの大物との戦いを経て、タルテの力が増大しているのだろうか。「あるいはセトの視力が上がっているか」
光る靄に包まれるタルテに呼応するように、眼前のアンバーにも異変が起きる。数百年を経て固まり、石となったアンバーが樹液の粘りを取り戻したかのように蠢き始めた。アンバーの模様が対流を起こし、その内に取り込む陽光を乱反射させる。
セトは驚愕にたじろぐが、目を見開いたタルテ落ち着き払っている。というよりも、眼差しは正面の少女に据えられているが、意志というものが感じられない。「何かが憑依しているかのようだった。それは秦樹の意志なのか、それとも亡くなったこの村の者たちの霊なのか――
セトはタルテの瞳に、巫女様を思い出していた。この表情、仕草、秦勅を寄せる時の巫女様そのものだ。セトやタルテが望む、望まないに関わらず、タルテが花巫女の素質を持っている事は疑いがないと、セトも認めざるを得なかった。
タルテが前に伸ばした手がアンバーに触れるが、その指は触れる音を立てることもなく、アンバーの界面を通過した。石の硬質さから樹液の粘り気に戻ったかに見えたアンバーだが、タルテの接触にはなんの抵抗も示さずに受け入れたかのように見えた。
タルテの胸の中に居たイーミロがビックリして飛び出し、その勢いのままセトの肩に飛び乗った。そして身を翻して視線をセトと同じくし、主のポカンと見つめる。はて、イーミロがタルテ以外の人間に体を預けるなんてどうした事か。こいつはこいつでタルテの異変に只ならぬものを感じているのだろう。
触れた指からアンバーに、湖面に投げた石のように波紋が広がる。タルテの肘、肩、顔、半身とアンバーに顔を埋めるタルテを見ながら、セトは驚愕しつつも己の無力感を痛感していた。今のセトにはタルテの行いを手伝う事も出来ないし、止める権利もない。
どうしてタルテは、この共に育った幼馴染はこうも誰に習った訳でもない事を、こうも躊躇わずに、上手く行う事が出来るのだろう。
タルテは今日、恐蟲との戦いで死の淵に居たセトを救い、そして今、見ず知らずの少女を助けようとしている。
これがタルテの花巫女の素質というのなら、俺にはタルテをリューシュの邑から連れ出す権利なんて――
琥珀色越しに見えるタルテの顔は私は敵じゃない大丈夫、と言っているように見えた。人に懐くことのない野生のモモネコの子供、イーミロを手懐けた時のように。
やがてその指が少女の頬にそっと触れる。母親が幼子を起こすように頬を撫でると……
(ん……)
それが現実の音だったかは分からない。だがセトは少女は呻き声を聞いた。上げながらゆっくりと薄目を開けた。
タルテは体の全てをアンバーの中に入れ、少女を抱きしめる。するとアンバーは少女の燐と、タルテの燐、二人分の燐によってマーブル模様に染まった。
タルテが少女を抱きかかえ、おもむろに立ち上がる。そして一歩、二歩とゆっくり足を踏み出し、水面から浮き上がるようにアンバーの中から出た。
同調相手が居なくなったアンバーの輝きは鈍り、陽光を反射するのみの元の巨大な琥珀色の宝石に戻った。
タルテは膝を付き、腿の上に少女の頭を横たえた。セトも外套を脱いで少女の体に羽織る。
薄い胸は僅かに上下している。セトとタルテが揃って嘆息をつき、無事を確認できたことで張りつめた糸がかすかに緩むのを感じた。良かった。ひとまず体は無事のようだ。
血色の良い肌は、アンバーの中に居た時のような人形のような印象とは異なる、年相応に生命力に満ちている。当然か、この子はさっきまでこの村で他の村人たちと同じように呼吸して、生きていた一人の少女に違いないのだから。でも今は……
「セト、クルスから水と布と薬を持ってき……」
タルテが言いかけた時だった。少女の眼がピクリと動き、その大きな瞳がゆっくりと開かれる。焦点の定まらない目を泳がせる。
タルテが「平気?どこか痛むところはない?」と問うが、まだ現実を認識できていないように見える。少女は日差しを避けるように眼前に手をかざす。少女はそこでようやく自分が誰かの膝に身を預けている事に気づいたようで、指の隙間から見下ろすタルテと目が合った。
「あなたは……?」
少女が掠れた声を声を上げ、「私は……」とタルテが応じかけた時、少女はタルテの向かいから自分の顔を覗き込むセトの存在に気付いた。呆けた目がこちらを覗き込むがやがてその顔が驚愕へと変わり、
「お兄ちゃん……!!」
しわがれた声で叫ぶと、突き出した手をセトの頬に触れさせた。
セトは思わずその手の甲を掴み返す。
兄?俺を兄と間違えているのか?
少女は上体を起こしてセトに抱き着こうとしているようだが、まだ力が戻っていないらしい。首を巡らせるのが精いっぱいで、そうしてセトと正面から向き合う。少女は喜悦と安堵に顔を綻ばせ目の端に涙を浮かべるが、セトの顔を覗き込む内に、再びその表情が驚愕に変わる。驚愕からやがて消沈と失意へと。セトが自分の兄ではないと気付いたのだ。
目を伏せた少女の頬に雫が伝った。セトとタルテは戸惑う顔を見合わすだけでかける言葉も見つからない。
「あなたたちは……?」
口を開いたのは少女だった。タルテが問い返す。
「私たちはリューシュの邑の騎士よ。あなたはこの村の……エレブの村の子ね?名は?」
エレブというのは、タルテが捜索している時に見つけた村の名前か。
少女はいくらか調子を戻したようで、上半身を起こし応えた。
「私はナハラ。……みんなは?お兄ちゃん、お父さんにお母さんは?!」
しかしまだ状況を把握できているわけでもなく、自分が眠っていた時間を自覚したのか、問いかける声は焦燥に滲んでいる。少女はタルテの腕を掴み、タルテはその手を握り返し、努めて冷静に、感情を押し殺した声で応える。
「ナハラ。私がこれから言う事を落ち着いて聞いて欲しい」
タルテは伏せていた目を上げ、決心した目をナハラに向けたが、
その時だった。ナハラは何かの異変に気付いたのかタルテから頭を巡らせて背後に、村の方に向き直った。村から昇る煙と血の臭いが、風に乗ってここまで届いたのだ。
その村――かつて村だった残骸を視界に入れても、ナハラは状況が理解できていないようだった。あるいはまだ夢の続きを見ているのか、そう思っているかもしれなかった。
ナハラは膝を立てるとよろよろと起き上がった。一歩、二歩と踏み出して、つんのめらせ転びそうになる体をタルテが抱きかかえ支える。その間も少女の瞳は眼前の光景から逸らせずにいた。
家も納屋も御堂も残らず潰されて、火の付いた家屋からはいまだ煙が燻っている。荷車も機織りも水瓶も壊されあちこちに転がっている。そして、家の跡に、道端に無惨に横たわる住人たちの亡骸――。
ある者の体は胴から上がなく、敷居の上では子供が母親と思しき女に抱き抱えられながら事切れている。焼け落ちた家の中で黒ずむ遺体は男か女かも分からない。
つい先ほどまで人々が生きていた村、ナハラにとっては見慣れた景色が、彼女の世界の全てであったであろうその村が、別のものに変わっていた。
少女は何事か声にならない言葉を呻きながら、呆然とした目をかつて村であった場所に送っていたが、やがてその眼は、まるで地獄でも見たかのように、驚愕に見開かれた。踏みしめる土の感触、立ち込める血と煙の混じった臭い、頬に食い込ませた自分の爪の感触に、眼前の光景が夢ではなく現実だと認識したのかもしれない。駆けだそうとした足がつんのめり、転びそうになるのをタルテが支える。
「う、ううぅ……」
ナハラはタルテの胸に顔を埋めて慟哭した。ナハラは膝を折って崩れると、タルテもまた膝を付き、ナハラの体を抱擁する。
「う、ううう、うぁぁぁぁぁ……」
朽ち果て、動くものの何も無くなった村にナハラの鳴き声だけがこだました。
セトは無力感に苛まされた体を佇ませた。
「ろくな弔いも出来ずに済まない」
エルクルスで開けた穴に村人たちをあらかた埋葬し終えた。
本来ならば、生き残りのこの少女を伴って一刻も早くリューシュの邑に戻り、あの巨大な熊蜂が現れたことを報告しなければならないのだが、『拝花の民は同胞を見捨てない』の戒律に従いセトとタルテは彼らを弔う事にした。
そう、同胞は死後も、その魂が肉体から離れたとて同胞であることに変わりはない。肉体を離れ精神のみの体になった体は祖霊となって、子孫を代々見守る。やがてその精神も、肉体という止まり木のない燐も徐々に飛散し、この秦樹の森に帰っていく。そして肉体がそうであるように、その精神、燐もまた、次の生き物として芽吹くことになるのだ。
秦樹に生きるもの全てが信奉する教えだった。
最もセトはこの教えを信じていなかった。肉体の死後も魂が残るなんて話は。
しかしそれも今なら分かる気がする。あの熊蜂との戦い以後、限界までキバチと同調し、タルテと超個体で繋がり、そして死の堺を経て、今セトの同調は以前よりも遥かに鋭敏になっていた。
タルテはセトの体調を慮っているが、不調どころかむしろすこぶる体調がいい。六根の全てが鋭敏になっている自覚がある。いや強くなっているというより「思い出した」というぐらいの感覚だ。
セトは今日の体験を経て、この鈍い肉の体のお陰で、人間が本来持っている本来の知覚がほとんど発揮できていなったのだと気付かされた。あの精神が燐となって体を抜け出しどこまでも広がっていく感覚――あの感覚こそが本来で、以前の感覚は不自由な肉の体という錘を背負った状態でしかない。そんな感覚だ。
いま、再びキバチに乗れば、以前よりもさらに深く、強く同調することが出来る。そんな確信もあった。
だから、「霊」の存在というのも今なら信じられる気がする。この村を覆いつくしている想念、死して尚、現世に執着しようという残留思念が、霊と呼ばれるものならこれこそが霊なのだろう。
無念、悲しみ、恨み、そう言った負の想念を抱えたまま霊となった彼らに、死を自覚させ、導いてやらねば彼らは永久に成仏できずに苦しみ続け、この世をさまよう悪霊となる……。
タルテには、この霊たちの姿が、声が、俺よりもはっきりと知覚できているのだろうか?そして恐らくあの少女も――
タルテには以前から死んだ者――人間に限らず、獣や枯れた草花でさえ――と話が出来るような節があった。タルテは以前からこの境地に居たのだろうか。であればタルテが人間とは感覚を共有できずに、常に孤独にあった理由の一端も少しは理解できるような気がした。あいつはきっと敏感すぎるんだ。だから鈍感な「普通の人」とは話が合わない。
あいつは誰にも理解されない境地に居た。そしてその己の能力を自覚し、責務から逃れることなく、今もその責務を果たそうとしている。
「これで最後だな」
セトはそう言ってナハラの方を振り返るナハラは小さく頷く。さっきまで泣き腫らしていたが、今は落ち着きを取り戻して仲間たちの埋葬の為に積極的に動いている。
強い子だ、とセトは思った。この子はアンバーの中に居たというのだから、秦樹や自然との感応が強い子のだろうが、こうして死した仲間の為に積極的になれるのは、この子自身の人格によるところだろう。
まだ碌に話してもいないが、ほんの少しナハラという人間性を垣間見た気がする。そしてこの子を育てた村の人々に、今は動かなくって穴の中に横たわる人たちに思いを馳せる。恐らく優しい者たちだったのだろう。
村に横たわっていた亡骸をキバチとブランビィで集めるだけ集め、御堂の脇に掘った穴に葬った。
遺体を見つけられなかった者、あの熊蜂に食われた者もいたのであろうが、仕方ない。
「あなた方の、真心に感謝します」
土を被せ終えると、ナハラは頭を垂れた。その姿にセトは胸がズキリと痛む。違う。俺たちは救えなかった。騎士の義務を果たせなかった。そんな礼を言われるような立派な人間じゃない……。
セトは頭を振って、今日だけでもう何度もした痛恨を追い払った。これからの事を考えろ。今日の事は自省し、絶対に忘れてはならないが、危機が去ったわけじゃない。今はこの死者たちを送り届けて、ナハラをリューシュに無事に連れ帰る事だけに専心するんだ。迷いは剣を鈍らせる。
こんもりと盛られた土の上に、ナハラは村外れから刈ってきた墓標となる秦樹の枝を突き刺す。
セトとタルテもそれぞれエルクルスを降りて、墓標の前に立つナハラの後ろに並ぶ。
三人はそろって膝まづき、胸の前で合掌して、合わせた掌を膨らませた。その形は種にも芽にも蕾にも見える、それは「再生」を意味する秦樹の民の礼拝の仕草だった。
「秦樹よ、あなたの元に仲間を送ります。その魂が枝を通ってアムネスの地に還り、幹を昇り再びこの天曜にて芽吹き、再生する時までその魂をお預かりください。死者たちよ、その魂の安らかならんことを。再会の時までしばし眠りください」
ナハラが弔いの辞を告げた。こちらの心まで慰められるような澄んだ声だった。
そして三人は目を開け、蕾上に合わせた10本の指を開いた。花が開くように、気が芽吹くように。その仕草はわだかまった心を解きほぐして、セトたちまでの心を救っているようにも思えた。
視線が自然と上に向いていた。秦樹の葉がザァァっと風に揺らめき、何かを告げたような気がした。その時――。
セトたちの周囲から光の粒子が湧き上がり、取り囲んだ。
「これは……」
「燐……」
思わず目を見合わせたセトとタルテが呟く。熊蜂に殺され、先程まで怨嗟の声となっていた死者たちの霊が、暗い色を洗われて、燐の本来の澄んだ光に戻っていた。その燐の灯火が、蛍のようにセトたちの周囲を飛び交っている。
生き物が纏い、放つ光、燐。その主を失った燐たちが群れなして渦を巻き、残された者たち、ナハラの前に別れを告げに現れたのか。
ナハラも一瞬驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな顔となり、燐を見上げる瞳には涙が浮かんでいた。死んだ者たちと再会したかのように――。
燐たちはナハラに別れを告げるように周囲を取り巻き、ナハラの燐と混ざり、そして再び解れた燐たちは、螺旋を描きながら天に昇っていく。秦樹が取り巻く燐と触れると、見分けがつかなくなった。
あの人々は秦樹を伝い、約束の地に還れたのだろうか。
この暖かい燐、清らかな魂が織りなすスペクタクルは壮絶に美しかった。その光の瞬きを見上げる視界が滲む。セトもタルテも知らずに涙を流していた。
死者たちが最後に見せてくれた光の饗宴、非業の死を遂げたナハラの仲間たち、彼らに清らかな魂が残されていたことがセトたちにとっても救いだった。
もう一人、弔わなければならない人が居る。
セトたちはナハラを村からほど近い大枝に向かっていた。
ナハラはタルテと共にブランビィのアンバーに収まっていた。セトはあの二人が中でどんな会話をしているの少し気になっていた。というのもタルテとナハラ、あの二人はふとした時に似ていると感じることがあったから。顔は似ていないし、出会ったばかりの少女にそんな事を思うの自分に少し当惑も覚えないでもなかったが。
仲間の死を目の当たりにした時は、年相応に感情を露にしていたが、葬儀の時の佇まいはとても10歳の少女とは――本人に聞いた年齢だ――思えない凛としていて、神々しくすらあった。 そうだ、ナハラの纏う空気に似ている人がもう一人いる――巫女様だ。
鎮魂の儀は、花巫女の奥儀であり、花巫女の花巫女たる所以でもある。では、あの幼さでそれをやり遂げたナハラには花巫女の資質があるのだろうか。タルテと同じように。
セトもこれまで仲間の死には立ち会っている。でもあんな風に「魂」と呼べるようなものを見たのは初めての経験だった。アレはナハラが呼び寄せたものなのか、それとも先の戦い以来、自分の視覚が研ぎ澄まされた故に見えたからなのか。魂の輪廻、その帰る場所「アムネス」。天曜に伝わる伝承を信じていなかったセトだが、アレを見て以来自分の中で何かが、肉体や近くだけでなく、考え方も徐々に変化している自覚はあった。
「ここだ」
タルテから燐回線が入る。エルクルスで飛べば村からはほんの僅かな距離だ。
戦いの影響で周囲の木々はなぎ倒され、木が根差す秦樹の地肌も剥き出しとなり、火が付いた草花は枯れ落ちていた。
その焼け野原の直中にそれはあった。散らばった緑色の甲殻が目印だった。金属光沢を持つエルクルスの甲殻は、エルクルス本体の死により、燐を失い腐食が始まり光沢が無くなっている。まるで数か月も打ち捨てられていたように。熊蜂に敗れ、「食われた」エルクルスの残骸はもはや上半身を失い、人型の原型を留めていない。
ナハラの兄の乗騎、その遺骸は大枝の上の叢に打ち捨てられていた。
エルクルスから降りた三人が残骸に歩み寄る。騎体の中央部、蜂の腹の括れを思わせる胴体部のその上がアンバーごと噛み千切られ、胴より下部分しか残っていない。傷口から滴った血が、叢を赤黒く染めていた。アンバーの中より見下ろすのとは違い、こうして目前で見ると、熊蜂の残した傷跡はより生々しい。戦いの傷というよりも、生き物が生き物を食らったその食べ残し――そう表現する方がしっくりくる。ナハラはタルテの「見ない方がいい」という制止を払い歩み寄る。
このエルクルスの騎士は彼女の兄だと、ナハラはそう言っていた。ナハラの兄は、村に熊蜂が襲撃する直前に、エルクルスでナハラを御堂に連れ込み、御堂の僧侶に預けると、村を守るために熊蜂と戦った、と。兄が居なければ自分も死んでいただろうと。
ナハラはそのエルクルスの残骸に手を触れ、目を閉じた。ナハラはエルクルスの残骸から、兄の記憶を呼び出そうとしているのだろう。
サイコメトリー。生物や物体に残された記憶を読む能力。これも花巫女の資質のひとつと言われる能力で、タルテにも僅かなながらその力があるという。ナハラにもあるのだろうか。
戦って死んだ者の、食われて死んだ者の末期に記憶を読む――それも自分の肉親の。
それを見る事がどれほどの呵責なのか。セトには想像するよりない。余人には想像を絶するもののはずだ。
でも肉親のサイコメトリーであるのならば、それを止める権利は他者にはない。
朽ちた甲殻に手を当て顔を伏せるナハラ、その後ろ姿からは感情は伺えない。ナハラはすぐに手を離し、立ち上がり振り返った。その瞳からはやはり感情は伺えなかった。
「辛かったら泣いてもいいのよ」
タルテはそう言ったが、ナハラはしかし目を閉じて頭を振った。
「強く生きろと、兄に、村の皆にも言われましたから。メソメソしていたら笑われてしまいます」
目に涙を溜めながらナハラは微笑んだ。頬を伝った雫が地に落ちた。
「それにまだ私にはやる事があります」
ブランビィの方に歩みながら言う。ブランビィの足元には、村から持ち出したアンバーが置かれていた。ナハラはそのアンバーに手を置いて、
「兄たちが、村が代々守ってきたこのアンバーを私は受け継がなければなりません」
アンバー。秦樹の贈り物。エルクルスの操座となる宝石。秦樹の樹液から成り、歳月を経て成長するアンバーは、村の歩みと共にあったのだろう。そしてこの幼い少女はたった一人、その使命を受け継ごうとしている。
この小さな身に、健やかな意志を宿している。ナハラの言葉を聞き入るセトに、ナハラが視線を寄こした。
「セトさん、私からお願いがあります。兄のエルクルスが残した剣、アキュリアスを貰ってはもらえないでしょうか」
まっすぐな透徹するような声と視線に、セトは一瞬圧倒されてしまった。優しく懇願する顔に、セトは花巫女の顔を思い出させた。
セトは先の熊蜂の戦いでアキュリアスを失っていた。エルクルスやアンバーと同様に、アキュリアスも貴重なものだ。それを譲られるとなれば願ったりである。だが、ナハラの兄の剣を受け取るという事は形見を貰う事でもあり、エレブの村の意志を継ぐ事でもある。
セトはタルテの方を伺うが、タルテもナハラと同じように薄く微笑むのみで何も言わない。自分で判断しろという事かならば答えは決まっている。
「エレブの剣は俺が受ける。ナハラの兄の分まで俺が戦う」
セトの言葉を聞いたタルテは笑みを大きくした。その顔は年相応な屈託のない笑顔に見えた。
「ありがとうございます」
その言葉に、重圧と共に力がこみ上げるのを感じだ。
騎士とは同胞のために闘う者。剣とは力の行使の為に与えられる力。その責は重い。
今日、エレブの剣を受け取ったセトには、再びその責と力が与えられた事になった。ナハラの兄と、彼に剣を授けたエレブの村の分まで。
その重圧に身を引き締まる思いはあるが、不思議と、それ以上に力がこみ上げて気が晴れるようでもあった。エレブの村の人たちがセトを守ってくれているような。
「本当にありがとうございます。兄もきっと喜びます。村の皆達も。あなた方の真心に感謝します」
重ねて頭を下げるナハラを見ながらセトは感嘆の思いにつまされた。この子は本当に強くて、優しい子だ。
人が生きる意味が、子を育てて、次代に意志を受け継ぐ事ならば、今日、理不尽に命を落とした者たちの生にも意味があったのではないかと思える。この子を生き続けるのなら、あの村がこの天曜に存在した意味はきっとあったのだ。
「そろそろ戻ろう、私たちの家、リューシュの邑に」
タルテはそう言って一つ嘆息した。少し疲労と安堵の感情が感じる。ナハラの笑みつられて微かに笑ったようにも見える。他人に弱みなど見せないタルテも流石に安堵したのか。タルテにとってもセトにとっても今日は長い一日だった。
だがまだ為すべき事は残っている。今日の事をリューシュの村に伝え、ナハラとアンバーを持ちかえる。新たな恐蟲がまた現れないとも限らない。その事を巫女様や師に伝えなければならない。
セトはキバチに乗り込む。地に刺さっていたアキュリアスを引き抜き、背中の剣帯に背負った。
傍らにはナハラを同乗させたブランビィが、アンバーを抱えている。
目で合図し、二人は戦場跡の大枝を飛び立った。
チラと後ろを振り返る。視線の先には今や住む者の居なくなったエレブの村。あの場所もやがては草木に埋もれて風葬され、数年すれば村の痕跡も無くなり、見つける事も出来なくなるだろう。でもそれでいい。死者たちの魂は秦樹へと還ったのだから。
二人の駆るエルクルスの飛翔速度は速く、村は見る間に小さくなり、やがて見えなくなった。