天音
午前6時50分。
枕元のスマホの通知音が鳴り、目を覚ます。
起床のためにセットした目覚ましアラームの時刻よりまだ10分も早い。普段であれば、起きる十分前になる通知音など、ブチギレからの二度寝が普通なのだが、この通知音は例外だった。個別にセットした特別の通知音。これが鳴るのは――、
新曲……!
頭に電流が走り、跳ねるように布団から飛び起きた。一秒前までの眠気は、もう遥か彼方に吹き飛んでいた。
寝間着を脱ぎ捨て、トースターに食パンをセットする。焼きあがるまでの2分で顔を洗い、着替え、身支度を済ませる。
生のピーマンを切らずにヘタごと丸かじり、ハムを挟んだトーストを、牛乳とともに胃に流し込む。
鼓動が速まり、脳細胞が活性化しているのが分かる。体重まで軽くなっている気がする。歯を磨きながら見返してくる鏡の中の顔は気持ち悪いぐらいニヤけていた。
バッグと剣を持ち、逸る気持ちを抑えることなど全くなく、俺は玄関から飛び出した。
バスはすぐにやってきた。
というより、いつも乗っているバスよりも一本早いのに間に合うように急いだからなのだが。一本早いバスに乗る理由はない。ただ足取りが速まるのを抑えることが出来なかった。
座席はいつもと変わらずガラガラ。最後尾窓側のいつもの座席に腰掛け、俺はスマホを取り出した。
毎日見ている動画サイトからの通知をタップすると、『天音』のチャンネルがダイレクトに開く。動画リストの一番上に新曲が投稿されていた。
バッグからイヤホンを取り出し耳に付けて、再生をタップ。
目を閉じて、耳から入る音以外の一切の情報を遮断し、曲に没頭する。
既存の曲を何度も聞くのもいいが、新曲を初めて聞く時の喜びと興奮は別格だ。それは正に、新曲を聞くその時の、一度しか味わえないものだから。
新曲とは言ったが、世に初めて発表された曲ではない。多分30年ぐらい前か? 俺らの親世代がちょうど今の俺達と同じ高校生だった頃にシンガーソングライターが発表した歌謡曲だ。テレビや有線放送で聞いた事があるので知っていたが、もちろん現在流行っている訳ではない。
投稿されたのはおよそ20分前で再生数はまだ一桁。平日の朝に投稿とはいえ、再生数が少なすぎるのではないかと思われるかもしれないが、この曲を歌っているのはそのシンガーソングライターではない。まして著名なアーティストにカバーでもない。カバーには違いないが。
いま、俺が聞いている天音は一介のアマチュアシンガー、いわゆる『歌い手』だ。
バスが停留所に止まると同時に、約4分の曲の再生が終了する。すぐにリピートをタップ。
俺はこの歌い手の曲を通学バスの車内で聞くのが日課になっていた。
でもこの習慣が始まったのも割と最近である。実は、少し前までは同じバスで一緒に通学していた同級生がいた。一緒に通学する奴の前でイヤホンを着ける無作法はせずに、その同級生と他愛もない会話をし、バスが到着するまでの時間を潰していた。
実は、それはそれで俺にとってとても楽しみな時間であったのだが、少し前にそいつとは気まずくなり話す事が少なくなった。そいつは通学のバスの時間をズラすようになり、一緒に通学する事も無くなって今に至る。
その時は俺もずいぶん落ち込んだ。そして未だに完全には立ち直れていない。どの位落ち込んだかというと、人生で最も落ち込んだと出来事だったと断言できる。なぜならそいつと俺は、高校入学以降に、一緒に通学する間柄になった訳ではなく、それ以前の中学生、小学生、さらに小学校を入学する以前からの間柄だったからだ。要は幼馴染というやつだ。
ガキの時分は、俺達の仲が裂けるなんて思ってもいなかったが、思春期特有の自意識からくる葛藤や諍い、イザコザといった言葉で呼ばれるものは俺達にも容赦なく襲い掛かり、あっさりと、あんな些細な事で関係は終わった。
否、まだ終わってはいない。俺達は以前のように戻れる事をまだ諦めたわけじゃない。そして以前以上の関係になる事も――。
バスが二つ目の停留所に止まると同時に曲が終了、またリピートをタップ。
曲を聴きながらチャンネルをスクロールすると、なんとチャンネル登録者数が一人増えている事に気づいた。
……と言ってもまだ天音の全チャンネル登録者数は10にも届いていないのだが。
残りのページもチェックする。コメントも届いていなければ、何かの間違いでバズって再生数が伸びているわけでもない(失礼な言い草だが)。コメントの数は未だに0で、いいねの数は1桁、曲ごとの再生回数は2桁からよくて3桁、総再生数はかろうじて4桁に届く程度で、昨日の同時刻からほとんど変動していない。
再生数のほとんどは、俺が回しているんじゃないかという気もする。動画サイトの再生回数のカウント方法が重複なども含まれるのかは知らないので分からないが……。
控えめに言っても有名な歌い手ではない。なのに俺は天音本人でもないのに、毎日数字の変動が気になってチェックしているのだから、我ながら良く躾けられたファンだと思う。
もっと手っ取り早く再生数を稼ぎたければ、流行りの曲を歌ってみるのがいいのだろうが、天音の投稿する曲は古いものがほとんどで、チャンネル開設より約1年経つが、ここ5年以内にリリースされた曲を投稿したことはひとつもない。
さらにSNSで宣伝のような事もしていなければ、この群雄割拠の歌い手界隈では再生数を伸ばすのは難しいだろう。もっと多くの人に聞いてほしいのに。と、リスナーの俺は思っているのだが、当の天音にはあまりその執着が感じられないのが少し不満だった。いい歌い手なのにと、少なくとも俺はそう思っていた。
なんとなく、その新たな登録者のチャンネルを覗いてみる。
名前は『黯』。動画のページを開くとこの人も動画を投稿していて、見るだけの、聞くだけの、「見る専」「聞く専」ではないようだ。
しかもこの人は作曲した曲を投稿する人、『曲書き』さんではないか。投稿した曲数も再生数もそれなりの数字を稼いでいた。
試しに曲を聞いてみた。
いきなり、おどろおどろしく歪ませたギターの音が迎えてくれた。
リズム隊も複雑で重たく、ヴァイオリンなど弦楽器を使用した曲もあり、かなり本格的な人である事が伺える。
感じるのは、総じて荘厳かつ幻想的であり、かつどこかもの悲しい、そんな曲ばかりで、まるで作った人の人生観が込められているような――おおげさか。
しかし、『黒い音』と書いて『黯』とはよく言ったものだな。
しかし軽めのポップスを好む天音とは対照的ではある。
そんな天音が、この黯の書いた曲を歌ったら――。
そんな想像がよぎった。いかようなものになるのか想像がつかない半面、ちょっと聞いてみたくもあるかもしれない。
黯のページをざっと覗いてみたが、コメントもなく自己紹介も空欄で、天音と一緒でそっけない印象を受ける。
プロではないらしいが、そんな才を持つ人に注目されたことは凄いじゃないか。チャンネル開設以来の快挙と言っていいんではあるまいか。
その事に自分のように嬉しくなる半面、どこか寂しさのような、嫉妬のような、あるいはちっちゃな優越感のような感情を持っている自分に気付いた。
ファン心理は微妙だ。推しが有名になるのが嬉しくなる半面、有名になったらそれはそれで無名の頃から推していた自分の元を離れていってしまう気分になるからだ。
バスが次の停留所に停まると、俺と目的地を同じくする湊高校の生徒の群れが乗りこんできた。同時に曲のリピートが終わり、またリピートをタップ。バスが学校最寄りの停留所に着くまでに丁度もう一回は聞ける時間だ。
毎日、同じバスを使っていれば他の乗客の顔も少しは覚える。だが、乗りこんできた同じ高校の一団にクラスメイトはいなかった。元々電車通学の方が多い土地にある学校なので、このバス路線を使用していたクラスメイトは俺とそいつだけだった。
なので今日も俺は一言も口を開くことなく、一人で通学する。だがそれはむしろ都合が良かった。あいつとの関係が気まずくなった時は気を落としたが、今の俺は通学時にこの歌い手の歌を聴く事が1日にで最も楽しみになっていた。今日は新曲が投稿された事を知っていたので、自宅から自宅最寄り停留所までの足取りも軽かった。
目を閉じて、歌声に浸る。耳より入った音色が全身に溶けて、心地よい陶酔となって拡がる。誰にも邪魔されない一人だけの――もとい、二人だけの時間。やがて3ループ目が終わると同時に、バスが学校最寄りの停留所に着いた。