アンバーの少女 その2
夢を見ていた。
硬い、そして柔らかい感触の地に腰を付けている。砂浜だ。目の前にあるのは押し寄せては引いていく、巨大な水の塊――海だ。その波が腰を付けている砂にまで達すると波によって砂がさらわれ、自分の位置もわずかにその巨大な水に引き寄せられる。
視界の先の方で時折起こるうねりは人間の背丈どころかエルクルスを丸ごと飲み込むほど高さに達してる。そんなうねりが各所でいくつも起こっているが、この巨大な水たまりから比すればそんなうねりは小さな「模様」でしかなかった。
いや、巨大なんて形容では全く足りない、これは視界そのもの、世界そのものだ。この青い水の面は彼方の視界の限界まで広がり、水の青とは色相の異なる空の青に触れて真一文字に線を描いている、金平線のように。ならばさながらこれは「水平線」か?
砂と水際の境界線――波打ち際とでも呼べるだろうか――は緩やかな弧を描いているが、視線を左右に移せば大きな崖が見え、さらにその向こうには幾つもの山が連なっている。あの山の一つをとっても、リューシュにある山とは比較にならない大きさだった。エルクルスで上空から見下ろせば、鋸の歯のようにギザギザの線を描いているだろう。その線の先だってまるで見渡せない。
今セトはとんでもなく大きな「場所」にいる。
秦樹に寄り添い育ち、浮き島の小さな地しか知らずに生きてきたセトには山脈など知りようがない。海も船も砂浜も知りようがない。
そして海の反対側、背中に振り返れば、遠くに空気遠近で僅かに青く霞んだ高く聳える塔の群れが見える。リューシュにある最も高い塔、御堂とは比較にもならない、悠に何十倍もの高さの塔の群れ、さらに驚嘆すべきはその数で、百を超える塔が森を作っている。あれが伝承にある都市だというのだろうか。
あんなものを人が作り出し、そしてあの中で生きているのか?だとすれば一体どれほどの数の人間が……。正に蟻が蠢くほどの人があの中に居るのか。アレも上空から見れば蟻塚の群れのように見えるだろうか。最もスケールは比較にならないが。
摩天楼
そして傍らに佇む少女、彼女は遠く水平線に据えた視線を動かさず、風にそよぐ髪で表情も伺えない。
ここは?君は誰?そう言った言葉は言葉になったかどうか。こちらの声が聞こえてか、彼女はおもむろに振り返り――
――夢?
蜂蜜のように粘度のある液体に浸っているようだった。指が一本動かせない。というよりも指の感覚がなく、所在もあやふやだ。
セトは先の熊蜂との戦いを思い出す。あの時の同調はこれまでの同調とは全く質が違った。その次元を超えていた。人が息をしようと思ってしないように、、蠅が飛ぼうと思って飛んでいないように、意のままに騎体を操れた。いや、自分の体を操る以上にキバチを操っていた。
まるで俺がキバチそのものだった。身一つで空を飛んでいたようなあの感覚――。あの境地にあった時はこの肉の体の在りかを忘れていたほどだった。
だがその記憶も、いつの記憶であったのか分からない。あるいは、そんな体験などなく、全て妄想なのかもしれない。
セトはいま、自分が覚醒しているのか、いないのかの判別もつかなかった。目を開いても眼前にあるのは闇であるなら、目を開いているとどう判断するのか。
何かやらねばならない事があったはずだが、思い出せない。起きろ。この体よ。意識はあるのに体がまるでいう事を聞かない。
思考は明瞭な自覚はあるが、それも思い込みかもしれない。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、全ての感覚は鈍り、、残る意根も――思考や感情と呼ばれるものも、先の深すぎる同調によって、ほとんどがキバチに「吸われて」いた。
セトは今、キバチのアンバーの中にいた。アンバーの中でエルクルスと同調し、エルクルスとセトのポレンを「共有」し続ければ、生命維持に必要な呼吸や脈は保たれて、生き永らえることが出来る。
あの時、タルテの賢明な蘇生術と「種」の力によって息を吹き返したセトだが、命は依然として危険な状態にあり、タルテはセトの体が回復するまでの緊急措置としてセトをキバチのアンバーの中に入れたのだった。
だがこれは危険な行為でもある。意識の弱い者、特に衰弱した者をエルクルスと同調させれば、確かに命は永らえる事は出来る。だが生命力の弱い者をエルクルスと同調させることは、命をエルクルスに吸われて、混ざってしまう事を意味する。
だがタルテはそれをした。命の灯火が再び消え入りそうになるセトを救うにはそうせざるを得なかった。セトはキバチに負けない、必ず生きてタルテの所に帰ってくる。そう言ったのだから。
そうだ、タルテだ。
その名を意識した瞬間、闇の中に無数の光の粒が現れ、それが目の前でタルテの形を作った。薄まり拡がっていたセトの意識もまた、一転に凝りそれがセトの形を作る。
そのタルテのシルエットがこちらに寄ってくる。手に届くほどに近寄った所で、
タルテ――
そう叫んだ名は声になったのか。
同時にセトは現実に視界を見開いた。辺りを見回しても、周囲は全て薄ぼんやりな琥珀色に包まれた空間に包まれている。ここはアンバーの中だ。
意識が覚醒していくと共に、徐々に思い出してきた。俺は熊蜂と戦い、奴は落ちて、同時に俺も落ちた。その後――朧気だがタルテに介抱されていた記憶がある。そして今は再びキバチの中にいる、という事か?
村は、あの村はどうなった?思う間に、アンバー越しの前方の視界に、動く人影を認めた。あのよく見知った燐を間違えるはずもなかった。タルテだ。
だが気配はひとつじゃない。タルテが胸に小さな人影を抱えながらこちらに歩いてくる。
意識が覚醒するにつれて、体に神経も通いだしたセトは、アンバーから飛び降りていた。
だが、上手く着地できずによろめいた。大分消耗しているらしい。もしくはこの肉の体を操るのがひどく久しぶり……そんな感覚だ。
ふらつく膝を何とか立たせ、こちらに歩み寄る人影を見つめた。
「タルテ!」
「セト!」
同時に名を呼んだ二人は、互いの安否を確認して共に安堵の表情となった。
目の端に涙を浮かべるタルテの顔に、セトの心臓が撥ねた。
今日は色んな表情のこいつが見れる日だと、場違いな感傷を抱いたが、すぐに包み隠し、セトはタルテが抱える少女を見遣った。
「この少女は?」
タルテもまた、任務に殉じる騎士の顔に戻っていた。少女の顔を見下ろしながら言った。
「村の唯一の生き残り、そして選ばれし者だ」