恐蟲
途方もない巨木である秦樹は、その身に膨大な数と種類の着生植物を住まわせている。着生植物たちは枯れ落ちると、秦樹の枝の上に降り積もり、やがて土へと還り樹木の土壌となる。芽吹いた木は背を伸ばし、やがて秦樹の枝の上に「森」を作る。上下左右にうねる秦樹の枝のそこかしこに森が出来、どの方向を向いても広がる森は、秦樹の中に「緑の世界」を作っている。
その複雑怪奇に絡む枝の間を、二騎のエルクルスは掻い潜るように飛んでいた。この禍々しい燐を振り撒く蟲のいるであろう枝はもう見えていた。村が乗るほどの規模の枝ならば相応の太さとなり、下から見上げたその枝は陰で塗りこめられた真っ黒な天蓋となって、二騎のエルクルスに覆い被さっていた。星のない夜空よりも黒い壁――この向こうにこの壁よりさらに真っ暗なポレンを撒き散らす奴がいる。
近づくにつれて、恐蟲のポレンとは別にもう一つのポレンがある事に気付いた。恐蟲のポレンと相対するそのポレンは、炎のような赤い戦意の色に染まっている。間違いない、エルクルスがこの恐蟲と闘っている……!
枝の側面の絶壁を、二騎は這うように上昇した。暗い枝の陰から上方に昇り出ると同時に、目に刺さる陽光にセトは僅かに顔をしかめ、目を見開いた次の瞬間、その光景を視界に入れた。
巨大な一匹の蜂と、剣を交える一騎のエルクルス。その向こうで壊され、踏みにじられ、煙を上げる村――。
一瞬、目前の光景の現実感の無さに、セトの頭は真っ白になった。
この惨劇を引き起こしたモノ――、『熊蜂』が頭をもたげセトの方を仰ぎ見た。
無機的で真っ暗な熊蜂の眼と眼があった瞬間、セトの体に、底知れぬ怒りの感情と恐怖の感情が、同時に湧き上がった。
黒と黄の縞模様に縁取られ、存在を誇示する毒々しい色は、自身の強さを知らしめて恥じない事の証。その巨大な蜂は、自身の体が示す警戒色の通り、巨大な攻撃の意を放っていた。こうして眼前で感じる威圧感は、遠くで感じるそれとはまるで質が違っていた。まさに毒のごとくポレンに当てられた体が拒絶反応を起こし、全身の肌を粟立たせ汗が噴き出す。見ただけで気絶しそうだった。
その蜂の敵意が、今は一点に向けられている。蜂は、胴から生える六本もの節足を鞭のごとくしならせ、青いエルクルスに切りかかっている。蜂の斬撃を剣で受け止める青いエルクルスは、恐らくあの村の騎士が駆っているに違いない。が、その姿は既に満身創痍だった。
エルクルスが纏う鎧、金属光沢を持つ甲殻ははがれ落ち、骨や筋が露呈している。透きとおる翅も引き裂かれ、翅が放つポレンの灯火も、弱々しく消えかけている。
あの状態では戦うどころか、もう満足に飛べもしないはずだ。だが、あの騎士が発する戦意――朱色に染まったポレンに、逃げるという意志は感じられなかった。それは彼が守るべき村が消えることを意味する。
青いエルクルスを追い立てる熊蜂が、節足の先に備わる鎌を振りかざした。三倍はあろうリーチから振り下ろされた斬撃は、青いエルクルスの右腕と翅を肩口から斬り飛ばした。
青いエルクルスは剣ごと腕をもがれ、翅を失った騎体はバランスを失って錐揉みになった。飛翔能力も戦闘力を失った手負いの獲物にとどめを刺さんと、蜂は追いすがり節足の一本で青いエルクルスを鷲掴みにした。同時に蜂の口腔が大きく開かれる。その動作は、獲物を仕留めた獣が微笑んだようにも見えた。
「やめろーっ!」
しかし蜂はセトの叫びを聞き入れず、節足の中の獲物を口元に引き寄せ――その上半身をかみ砕いた。青いエルクルスは腰を境に二つに分かれ、琥珀色のアンバーも中に納まる騎士ごといくつもの破片へと嚙み砕かれた。
セトの頭が沸騰した。腹の底が煮え立ち、視界が赤く染まる。
「くっそー!」
咆哮がアンバーの中を反響し、激情を吸い上げたキバチが背に収めた剣を抜き放ち、蜂に急襲した。
「セト!」
回線ごしのタルテの制止も、セトには聞こえていなかった。
新たな敵の襲来を認めた蜂が、食べ残したエルクルスの下半身を無造作に放りなげ、迫りくるキバチの方に向きなおった。
剣の間合いに入る寸前、蜂がその巨体に似合わぬ反応で目前の敵を横一閃に薙いだ。キバチは空中で半回転してその刃を紙一重で躱し、剣の間合いまで入り込むと上段に構えたアキュリアスを、蜂の胸部に全力で振り下ろした。
が、その刃は蜂の体に届く事はなく、剣は蜂の体の表面に展開した光の壁により弾かれた。
「なっ……!」
セトが起こった事態を理解する前に、眼前の蜂は反撃行動に移り、懐に収まるキバチにその数本の節足を振り下ろす。
四方から飛来する刃にキバチは逃げ場を失う。セトの脳裏に先刻、この蜂に引き裂かれた青いエルクルスの姿がよぎる。俺もあのエルクルスのように身を切り裂かれ、何もできないまま――死ぬ。
その二文字が頭をよぎった刹那、上方から高速で急降下してきたブランビィががキバチに体当たりした。蜂の刃は空を斬り、二騎は折り重なりながら蜂の間合いから逃れた。
二騎は縺れあいながら蜂の下方から背後に回り込み懐から離脱した。タルテはセトのキバチを抱えながら叫んだ。
「正面から突っ込む奴があるか!」
「だってあの蟲はクルスを……騎士を……!」
「もう死んでる!」」
死ぬ――平然と言い放ったタルテはキバチから離れる。
数瞬前まで、あの蜂が青いエルクルスの頭を噛り付くまでは、タルテもあのエルクルスの騎士を助けようとしていた。だがあの蜂は騎士をエルクルスをごと喰らった。セトは蜂のその行為に激昂した。だがタルテはその一瞬で切り替え、無謀な特攻をするセトを窮地から救い、諫めて、態勢を立て直した。
こと戦闘に関しては、歴戦の戦士のように戦況を見据え、氷のように冷徹な判断を下す――『白雪のタルテ』と呼ばれる所以だった。
あの蜂を目撃してからまだ一分も経ていない。様々な感情がセトの内を去来していったが、蜂はそんなセトの感傷にもお構いなしとばかりに襲い掛かってきた。
鞭のようにしなる蜂の節足をキバチとビィはすんでの所で躱す。躱しきれない一撃をキバチは剣で受けた。ギィンと空気を裂く耳障りな衝撃がセトの耳朶を打つ。エルクルスの剣圧とは比較にはならない斬撃にキバチは後方に弾かれた。
キバチの筋は軋み、その振動は神経を同調しているセトの両腕にも伝わっている。圧倒的な重量差は、まるで生身の体でエルクルスの剣を受けたような衝撃だった。
あの熊蜂、初めて見る種、その巨体と凶悪なポレンに違わずとてつもなく強い。まともに戦うことすら難しい。あの大鉈のような節足の一太刀でも貰えばエルクルスの胴は切り離されるだろう。しかも奴にはフラーレンをも備え、守りも堅い。
キバチとブランビィは熊蜂の斬撃の雨を躱し続ける。
長くは持たない。打つ手は一つしかない。
「退くぞ!」
タルテが叫び、二騎のエルクルスは熊蜂から身を翻し、離脱した。同胞を殺した憎き蟲に背を向け逃げる屈辱に歯軋りし、セトは内頬を噛み千切る。血の味が口中を満たした。
1000mほど離れた所で振り返る。敵は追ってはこなかった。こちらを見据えながらも、奴が蹂躙した村の上、未だあの大枝の上に佇み、離れる気配を見せない。
ブランビィとキバチは剣を構えなおしたが、熊蜂は纏わりつく羽虫を追い払ったとばかりに、こちらへの警戒を辞め、村へと向き直った。村は既に暴虐の限りを尽くされ、無残な姿に変えられている。セトは人間の住む村が蟲に蹂躙する光景を目にするのは初めてだった。天曜の騎士の号を受けていても、セトはまだ騎士になって一年のニュウビィなのだから。
セトは現実感が喪失する様を味わった。何かの間違いと思いたかった。たった一匹の蟲に、数百は居たであろう人々の生が、わずか数分で終わらせられたとは……。セトは眼下の光景に再び怒りが沸き立つのを自覚した。
熊蜂は背から生やす翅を震わせ、飛びあがった。セトとタルテは剣を構え直したが、やはり熊蜂はこちらに向かってくる様子はない。
大枝の上を低く這うように飛び、村の上空を旋回する。まるで何かを探しているような――。荒らされつくした村の上に動くものはない。あれでは生き残った者は――いや、違う。かすかに感じる。小さく、弱々しいが確かにポレンの灯火があの荒れ果てた村の一角から感じる。生き残りが居る――。
「タルテ!」
その気配に気付いたのは二人同時だった。
「今度は止めても行くぜ!」
「分かっている。だが奴には刃が通らん、アレを使うぞ」
「ああ」
交わした言葉はそれだけでも、二人は互いの意を察していた。
タルテの言葉に、先の青いエルクルスの騎士の死を割り切った時の冷たさはなかった。
死にゆく者に同調してはならない。そうすればその者もその死に引っ張られることになる。それは騎士の戒律でもあった。
だが同時に、民の命を守るために、己が命を賭す事もまた、騎士の義務であった。
生き残りの村人が一人でもいるなら、その者を救う事に全力を尽くす――。そう目標を定めると、セトの中に熊蜂に対する恐怖は薄れ、冷静さも戻ってきた。
キバチとブランビィは手に持つ剣を振りかざし、二騎の内に収まるセトとタルテは目を閉じ、剣に気を送り始めた。自身の手の延長、体の一部のように。
切っ先までポレンが通った剣は、炉の中の鍛刀のように光を帯び、眩く輝き始めた。
この毒針で奴に毒を送り込む……!
円錐の形をした剣、アキュリアス。それは秦樹に棲む恐蟲、その中でも最も強く、恐れられる種である蜂の尾針をそのままエルクルスの剣に加工したものだった。
蜂の尾針を得るためには、最強の蜂を屠らなければならない。故にこのアキュリアスは誰しも手にできる剣ではない。アキュリアスを持つことは最強の騎士の証でもあった。
そしてその力は強力無比。アキュリアスの毒を受けて死に至らない生き物は居ない。例えエルクルスであっても。同じ尾針を持つ蜂であっても。
二騎のエルクルスが熊蜂に殺到した。敵襲を悟った熊蜂がこちらに振り向く。と同時に二騎のエルクルスは左右に散開する。翅から撒き散らすポレンとアキュリアスが放つ光、色調の異なる二種の光跡を空に刻みながら、二つの光点となったキバチとビィが熊蜂の周囲を旋回する。
熊蜂は迎撃態勢を取りながらも、高速で周囲を飛ぶ二つの敵に翻弄されているように見える。左前方から直角に旋回し、熊蜂の懐に入るキバチの眼前にフラーレンが展開される。だがアキュリアスを前方に構えて一本の矢となったキバチは失速することなく突っ込んだ。
アキュリアスとフラーレン、矛と盾が触れた瞬間に、反発するエネルギーが光となって爆ぜ、障壁の表面をバチバチと稲妻が走る。
次の瞬間、フラーレンは針で刺されたシャボン玉のように砕け散った。
熊蜂の懐に飛びこんだキバチは、渾身の力でアキュリアスを突き刺した。
熊蜂の胸部に刺さった毒針は根元まで刺し込まれ、傷口からどす黒い体液をぶち撒けた。キバチはその刺さった針をなおも捩じ、り突き立てて熊蜂の体の奥まで刺し込む。熊蜂の体内に刺さったアキュリアスの輝きは衰えず、熊蜂が纏う黒いポレンと接触した。二つの光は反発しあい、火花となって熊蜂の体内を焼いた。アキュリアスを深く深く突き入れるたびに傷口からは火花が撒き散らされ、焼き火鉢で抉るように熊蜂の組織を溶かし、破壊した。
ブランビィは、正面に気取られている熊蜂の背後に取り付き、アキュリアスを薙いだ。扇状の光跡を残す斬撃は、熊蜂の背から生える翅の一枚を千切り飛ばした。
苦悶に身を捩らせる熊蜂が、キバチの体を掴み放り投げた。弾みでアキュリアスも熊蜂の胸から抜け落ち、傷口からは大量の体液がしぶきとなって噴き出す。
二騎の突然の反撃に狼狽したのか、熊蜂は手負いの体を羽ばたかせ二騎から遠ざかった。
その予想外の行動にセトは虚を突かれ、追撃を踏みとどまった。
セトがこれまでに相対してきた蟲たちには、およそ「知能」と呼べるものは無かった。少なくとも感じられなかった。攻撃本能に従うままに、獲物に対して殺戮を繰り返す。それがセトの恐蟲に対する認識であったからだ。
奴からすれば小さな獲物に過ぎない二騎のエルクルスから手傷を負わされた熊蜂が、今度は奴の方が離脱した。その行動に何か戦術、意志のようなものをセトは感じ取っていた。
そういえばさっき破壊した村に戻って住人を探している時もそうだった。いくら恐蟲が人の天敵であるとはいえ、あの巨大な熊蜂が喰い残した一人の人間を入念に探す様な真似をするだろうか……?
「ギィィィィィィ」
熊蜂が身を捩じり、鉄を鋸で引いたような耳障りな鳴き声を上げる。それによりセトの思考は霧散された。
それはこの巨蟲が怒声、あるいは悲鳴を上げたのかもしれなかった。熊蜂は苦悶にのたうっているようにも見える。
いける……!恐蟲の纏うポレンと相反するポレンである毒(毒)を纏い、その反発により対象を破壊するこのアキュリアスならば、この桁外れの熊蜂とも戦える。
一つ分かったことがある。この熊蜂は「痛がる」ということだ。セトが過去に戦ってきた蟲たちは殺戮の本能に従い淡々と攻撃を繰り返すのみ、体が千切れようとも狼狽などしなかった。この馬鹿でかい熊蜂は違う。奴には知能や痛覚と呼ばれるものが小型の蟲よりも鋭敏という事だ。それはセトたち赤い血が流れる動物に近い特性でもあるのだが……。ここに奴を倒す糸口がある。
同時に一抹の不安がよぎった。キバチの持つアキュリアス、この剣もまたあの熊蜂の並はずれて硬いフラーレンと甲殻によって消耗している。毒を使えるのはあと一度が限度か?それ以上は剣が持たない。
一撃で仕留めるためには相打ち覚悟で奴の懐に飛びこむしかない……。
「タルテ。あいつは俺が刺し違えてでも仕留める。お前は村の生き残りを……」
「バカ言うな!」
「惚れた女に死なせるわけにはいかないんだよ」
「見くびるなよ、私も巫女様とリューシュにこのポレンを捧げた騎士だ、命を懸けることに厭いはない。だがそれは捨て鉢になる事とは違うぞ、今の私たちの目的はあの村に居る者を救う事だという事を忘れるな」
セトは刺し違えてでも熊蜂を討つつもりだった。だがそんなセトの胸中をタルテには見抜かれていた。その考えを諫められた。
例え相打ちとなって目の前の蟲を倒しても、まだいるかもしれないこの蟲の仲間が別の村やリューシュの邑を襲うとも限らない。村の生き残りを救い、生きて帰還しこの事態をリューシュに伝える。それが騎士たるの義務だ。
「ごめん。ありがとう」
「ギイイイイイイイ」
再び熊蜂が金切声を上げる。同時に、撒き散らす様な破壊衝動が、明確な指向性を持ってこちらに向けられた。眼下の熊蜂は今や二騎のエルクルスを完全に敵として警戒している。優先順位を村の生き残りの始末から、こちらの抹殺に変更したのかもしれない。
熊蜂がこちらへ向き直り、その何本もの節足が開き翅を展帳させて威嚇するような仕草を見せる。尾部の黄色と黒の縞模様のラインが熱を帯びたように光が灯る。そして蠍のように体を逆に反らせて尾部に備わった針をこちらへ向ける。
尾部の黄色のラインに灯っていた光は、徐々に一か所に集まり、尾の先端の針がアキュリアスのように強い光を放った。
セトとタルテは熊蜂の意図を察したが、遅かった。
光は爆発すると、針の先から放たれた無数の光の針が二騎に襲いかかった。
高速で迫る矢の雨は回避のしようもなかった。とっさに意識を前方に凝らせ、二騎はフラーレンを展開した。
針がフラーレンに触れた瞬間、干渉の火花が二騎の前で明滅したが、押し寄せる針の群れは障壁を易々と突き破った。
二人の騎士は並はずれた反射神経により針のいくつかを剣で受け止めた。
だが面となって押し寄せる針のいくつかは、エルクルスを貫いた。エルクルスの鎧、甲殻を引き剥がし、その下にある肉を擦過する。翅に当たった針は薄膜を破き、針の一本はキバチの腹を貫通した。
「ぐっ……!」
衝撃はアンブルの内にて神経を同調させるセトにも伝わり、内臓を刺し貫かれる感覚となってセトに伝わった。
二騎は後方に飛び退る。針の密度が下がりまで後退すると、熊蜂は針の放射を止め、巨体を飛び立たせ、負傷した二騎へ追撃をかけるべく襲来する。
二騎は追撃を逃れるためにそのまま飛び、大枝の裏へと回り込む。
熊蜂も方向転換し追撃したが二騎には追い付けない。速さだけならこちらが勝っている。たとえ負傷により普力が落ちていたとしても。
普力によって重力を抗し、天を舞うエルクルスは翅の羽ばたきによって飛んでいるのではない。翅が破損しても飛べなくなるわけではないが、その普力の発生源、ポレンを生み出す騎士が負傷したなら別だ。
セトの腹部の痛みは徐々に治まってきた。神経同調による痛覚は実際の痛覚とは異なる。だが肉体や神経は確実に消耗していた。視界が霞み、眩暈と吐き気がセトを襲う。体が発熱し、身を重くさせているのを自覚させた。
「平気か!」
「なんとか……な」
ブランビィに振り返りながら、タルテの問いにとっさに強がりが出た。
タルテのビィはセトよりは軽傷のようだった。だがそれでも甲殻のいくつかは千切れ飛んで筋が剥き出しになっていた。
自分よりも、相棒をこんな目に合わせたあの熊蜂に、セトは怒りを覚えずにいられなかった。
奴もアキュリアスを持っていた。近づかなければ奴を倒せない。だが近づくにはあの針の雨を潜らなければならない。
熊蜂の注意を引きつけ村からは引き離したが、このまま逃げ去るという選択肢はない。あまり離れすぎると奴は村へと目標を変更するかもしれない。
だが飛翔能力が落ちているキバチにはその選択肢すら難しそうだった。やがて追い付かれる。
出し抜けに体から力が抜けた。同調下にあるキバチ越しの視界が上へと滑り、流れ、そして真っ暗になった。極度に消耗したセトとキバチの同調が切れたのだ。
翅から輝きが途絶え、普力を失った騎体が枝に落ちた。
「言わんこっちゃない」
タルテのブランビィがキバチの傍らに降り立ち、人がそうするようにキバチの肩を担ぐ。キバチの騎体を枝の上に生える森まで運んで隠す。
「ここにいろ」
そう言うとタルテはブランビィを羽ばたかせ、一人熊蜂の元へ飛び去った。
「タルテ……」
絞り出した声は、同調の切れたキバチの中では回線が開くこともなく、アンバーの中をこだました。
同調を切っていれば熊蜂にポレンを探知されることもなく、この幻痛も収まるが、そうしている間にタルテは……。
ブランビィは熊蜂に一直線に向かっていった。囮になるように。
熊蜂は六本の節足を広げて迎え討つ。タルテはその六本の節足による刃の雨を巧みに躱している。その身のこなしはセト以上だった。徐々に戦闘域を離していく戦い方に、囮になろうとしているタルテの意を察したセトは、唇を噛んだ。
何が騎士の義務だ。何が二人で生き残るだ。お前は自分が犠牲になろうとしているじゃないか。
ブランビィが徐々に枝の入り組む森の方に追い詰められていく。自由に動き回れる空中と違ってあの位置では躱しきれない……!
「ギィィィィィ」
金切声を上げた熊蜂が身を反らせて尾針をブランビィの方に向けた。
あの針の雨がタルテに放たれる。そう認識した瞬間セトは激高した。
「キバチ!」
キバチの目に光が灯り、瞬時に展開された翅がポレンを撒き散らす。キバチはセトの肉体以上の反射で動き、飛翔した。
神経の同調により動くエルクルスは、とっさの衝動にこそ鋭敏に反応する。すでに熊蜂から光針は放たれている。
キバチはセトとのこれまでの同調下の中で最も早く、速く動き、熊蜂とブランビィの間に騎体を割り込ませた。
セトは圧縮された時間の中、迫りくる針の雨を見た。針の動きの一つ一つがスローモーションで見えた。キバチは四肢を開くとフラーレンを展開し、セトはその光の壁にありったけの念を送り込んだ。光の玉は輝きを増し、倍ほどに巨大化し、光球は背後のブランビィをも飲み込んだ。
強固な結界となったフラーレンに針が刺さる。だが毒矢の群れは全てが結界の表面で弾かれた。
「今だ!」
セトの叫びに、キバチの背後に隠れていたタルテがハッとなった。
眼前の熊蜂は今、腹部にポレンを集中させて体の正面を無防備にこちらに晒している。今ならば――
「ちぇいっ!」
タルテはありったけの力をアキュリアスに込めて、全力で突き出した。剣の切っ先から特大に練られた炎の玉が放たれた。
それは針の雨の間を縫って、熊蜂の頭部にある右目を直撃した。
熊蜂の顔面で爆発が起こり、巨体が身を仰け反らせる。光針の放出が止まり、恐蟲は雄叫びを上げる。
同時にキバチも身を包むフラーレンが消え、ポレンを消費し尽くした騎体は普力を失い、落下した。
「セト!」
ビィは落下するキバチの抱き上げ、下方に見える大枝に二騎を不時着させた。この位置ならば大枝から延びる小枝と葉が熊蜂から身を隠すはず。
「平気か、セト!」
「そういう……お前は?」
「無事だ、お前のお陰でな」
再び遠のいた意識の中で、セトは虚勢を張って見せた。惚れた女の前では弱みを見せられない。
「尻尾を使っている時は、フラーレンも使えないみたいだな、あいつにだって隙がある」
「どうしてあんな無茶を……!」
どうしてあんな無茶を?考えてやったことではなかった。体が勝手に、キバチが勝手に動きビィを身を挺していた。あの時に張ったフラーレンも防げるという目算で張ったわけじゃない。自身、あれほどまで硬い障壁が作り出せるとは思っても見なかったが。
「何度も……言わせるなよ……俺はお前を……」
「もういい、喋るな!」
タルテの声は濡れていた。キバチを抱え見下ろすブランビィの顔が、タルテの顔に重なって見えた。
だが今ので見えた。確かに俺たちは攻めも守りも、個々の能力では奴に劣っている。だが奴はその二つを同時にはできない。対してこちらは二人だ。役割分担ができる。そこに奴を倒す糸口がある。
上を横切った熊蜂の影が、二騎の上に落ちる。獲物を見失った奴は、いま文字通り血眼になってこちらを探している。。そのポレンは変わらず攻撃色に染まり、殺意を露にしているが、だが先刻までとはいささか色が変わって見える。虫のような無機的な敵意から、まるで人間の怒りや恨み、焦燥と言った色までが感じられる。群れを生かす為ならば個々が死ぬことに全く躊躇いがない蟲……その無機質さが感じられない。奴には知能だけではなく、人のような感情まで持っているのか?
「……セト、アレをやるぞ。奴を倒すにはもうそれしかない」
タルテも同じことを考えていたらしい。やっぱりこいつとは「合う」な。だが満身創痍の身でアレをやるという事は、タルテにもその痛みを分けることになる。それに……、
「いいのか?」
「私は騎士だ。お前の負った傷は私の負った傷でもある。苦しみを分かつことに厭いはない」
「……そうじゃなくて、初めての相手が俺でいいいのか?」
「……お前だからいいんだろ。バカ」」
短く言うと、回線が切れた。照れ隠しで笑うタルテの顔が見えた気がして、身を包む苦痛がほんの少し和らいだ。直接その顔が見れないのは残念だった。だが、いいさ。あいつの顔はこれからいくらでも見れる。そう決めたんだ。そのためにも必ず奴を倒して帰らなくちゃいけない。タルテだってそう思ってるさ。
キバチとビィは飛び上がった。
敵を認めた熊蜂がこちらに見る。片目を失ったその顔が、獲物を見つけて喜悦に嗤ったとも、憎悪に怒ったとも感じられた。口腔からギィィィィと雄叫びをあげ、その翅から黒光りするポレンを撒き散らす。
「いくぞ、ハニー」
「来い、ダーリン」
戦闘態勢に入った熊蜂を前にして二人は目を閉じ、念じ始める。
体の中心のさらに内に意識を凝らせる。深くから湧きあがる炎が大きくなり、血液以上の密度と速さで全身を駆け巡るのを知覚する。
それは光の粒となり体を抜け出し、アンバーを満たすと騎体の外へと噴き出した。それはキバチの傍らを翔ぶビィのポレンに触れ、二色の粒子が混ざり合い渦を巻き、嵐となって吹き荒れた。
ビィの騎体に触れたセトのポレン――思惟は、その中のタルテに触れて、さらにその内にまで入り込み、セトはタルテの心を見た。戦いに臨むタルテの闘志、焦燥、氷のような冷徹。ポレンはその感情の殻を破り、さらに深くへ入り込む。先ほど、熊蜂が現れた時の戦慄と恐怖、その前の手合いと浮島でのセトの告白、修業の日々、イーミロとの出会い……セトの心は、タルテの心の底にまで落ちていった。そこはセト、巫女様、リューシュの人々への思いが花となって咲き乱れる花の園だった。
そしてタルテの心もまた、セトの心を覗いていた。
共に育った16年の記憶が絡まっていった。互いに忘れていた記憶、常に喧嘩をしていた記憶、言葉の裏に秘めていた本心が明かされ、記憶はばらされて混ざり、元がどちらの記憶だったか分からないほど補填されていき、セトとタルテは一つになった。
二人が再び目を開けた時には、その視界は既に各々のものではなかった。
「超個体!」
二機を包んでいたポレンが、ひと際強く輝きを放ち、そして弾けた。
同時に二騎は消えた。否、超高速で散開した。バッタのごとき瞬発で空間を跳躍した二騎は瞬時に熊蜂の両脇に回り込む。そして全く同じタイミングで熊蜂の体を切り裂いた。
寸分の狂いもない全く同時の攻撃に、熊蜂はとっさの対応が取れなかった。体液が噴き出し、熊蜂が痛みを知覚した頃には二騎は遥か遠方に飛び退っていた。
光の残像を夜空に焼き付け飛翔する二騎はさながら高速で飛ぶ蛍だった。直角に身を翻した二騎は、再び羽虫の軌道を描きながら熊蜂に接近する。そして再び全くの同時のタイミングで熊蜂に剣を見舞う。
二騎のエルクルスが剣を振るうたびに、熊蜂の節足と翅が胴から離れる。
二つの獲物を相手にしながら、一つの「個」と戦っているような感覚に、熊蜂は事態を把握ができなかった。
熊蜂はこちらに接近するキバチに狙いを定めた。まだ数本残る節足の全てが、アキュリオスのリーチを上回る刃となりキバチに振り下ろされたが、その刃は獲物に触れることなく空を切った。
これも熊蜂にはあり得ない事態だった。こちらを攻撃しようとに無防備に近づく敵が、その直前に回避に転じてこちらの刃を全て躱すなどと、まるで動きを読んでいたような――ましてあのキバチは負傷して満足に飛ぶ事も出来ないはず――。
動揺する間に無防備になった熊蜂の背後にブランビィが取りつきアキュリオスを突き刺す。前のめりになっていた体にその針は背の深くまで潜り込む。同時に毒が放たれ、体内が爆発したような痛覚が熊蜂を襲った。熊蜂は雄叫びを上げ力任せに体を捩り、ブランビィは遠心力で弾かれた。
その隙に熊蜂の正面に回ったキバチが、アキュリアスを叩き込む。懐に入った敵を除外しようと熊蜂は節足を横薙ぎに払ったが、またもその鎌は空を切る。
熊蜂が脇を晒した隙に真下から急襲したブランビィが、伸ばしきって剥き出しになった関節を切断した。
自身に纏わりつく二匹の蜂に啄まわれ、熊蜂の神経は混乱に陥り、痛覚すらも知覚できなくなった。事態を把握できぬまま、節足をもがれ翅を毟られ、自身の体が「減って」いく。
もはや、熊蜂の複眼は二騎のエルクルスは捉える事はできず、二機が飛んだ後に残す光跡が目に刻まれるのみ。
二機が作る光の筋は長大な糸となり、熊蜂を包み込み、周囲の空間に巨大な「繭」を現出せしめた。
繭の中に充満したポレンは、それ自体が巨大な感覚野だった。その中にいる二人は、お互いの位置と動きを完全に把握し、全ての近くを寸分の送れなく共有することが出来た。いま二人は正に完全な一つの「個」となった。
どれだけ近くを速く飛ぼうが騎体は接触する事もなく、一方が捉えた敵の動きは、同時にもう一方も「見る」ことが出来た。
狩る側と狩られる側が逆転する。恐蟲は今、巨人の二本の手の中で弄ばれるちっぽけな虫に過ぎなかった。
熊蜂の目がギラと光った。雄叫びを上げ、傷だらけの体を打ち震わせながら、ひと際強い破壊のポレン光を燃え立たせる。その禍々しく黒い炎は熊蜂を包囲する光の繭を破り、内側から決壊させた。
迫りくる黒い壁に押し返され、二騎はその黒いポレンに捕らわれる。
瞬間、二人は超個体の同調を絶たれた。より近くに居たキバチはその黒い波動をまともに浴びて、キバチのポレンもかき消されそうになる。
動きが鈍ったキバチの隙を熊蜂を見逃さなかった。ボロボロになった翅からポレン光を放ち、キバチに猪突する。
自身の最期を悟ったこの熊蜂が敵を巻き添えしようとする。この蟲もまた、己の属する「超個体」の利とする行動をとった。
全ての節足を失った熊蜂に残された最後の武器――顎を目一杯に開き、同調を絶たれて身動きの取れなくなったキバチの上半身を飲み込んだ――。
かに見えたが、セトは普力による飛翔ではなく、空中で騎体の筋で身を捩じらせる事によって、熊蜂の牙を回避していた。
頭と胴は牙を躱したが、顎に飲まれた左足が牙の間に引っ掛かり捕らわれの身となる。痛覚が稲妻となってセトの体を駆け抜けたが、闘志は萎えてはいなかった。刃の間合いに入ったのはそちらだけじゃない。
セトは残る右手に握られたアキュリオスに全霊の力を込めた。右手から剣に伝わった念はポレン光となって剣を輝かせた。
「ああああああああ!」
振り下ろさえた剣は、熊蜂の眉間に刺さり、毒針は脳幹にまで達した。剣が纏う光、毒が熊蜂の脳天から全身に駆け巡る。返り血にビィの騎体が染まった。
突き刺ささったアキュリアスは炎のような光が収まると輝きを失い、錆びた剣のように柄から崩れ折れた。
指令部位を破壊された熊蜂は、しかしまだ死んではいなかった。
肉体の形態反射、敵を排除しようとする生物の本能が、肉体を動かす。熊蜂は身を丸め、尾部を前面に突き出す。先端にある針が黒い光を纏い始める。
相対するキバチは力を出し尽くし、回避はおろか動く気配もない。 この至近距離であの毒針の雨を喰らえば……。
「セトーーーーー!」
ブランビィが、熊蜂の背後から突進するのを、セトは薄れゆく意識の中で見ていた。
ブランビィはアキュリアスを掲げ、熊蜂の巨躯を薙ぎ払い、胴部と尾部を繋ぐ括れを断ち切った。
断面を挟んで、セトとタルテの視線が交わう。
体液が空に繁吹き、黒いポレンを霧散させながら、上半身と尾部に分かれた熊蜂の体が錐揉みになる。切り刻まれ、二つに切り離された熊蜂の体は、もはや元のシルエットを殆ど留めておらず、二つの黒い物体となって、放物線を描きながら落下した。小さくなる黒い影はやがて雲に吸い込まれ見えなくなる。
セトのキバチは満身創痍の騎体を夜空に佇ませて居る。
騎体が纏うポレンの灯火が完全に消え去り、キバチは騎体の本来の色に戻る。普力を失った騎体は糸の切れた人形のように体を頽らせ、虚空に墜ちていった。