垢バレ(笑)
師匠が部屋を出ていってから、残された俺と咲美は思慮に沈み、沈黙が流れた。
このままあのヴァンパイアを野放しにすれば犠牲が増えるかもしれない。脅威を座して見過ごすのは退魔師の戒律に反する。だがあのヴァンパイアと再び戦って勝てる保証もないし、それ以前に奴がどこに居るかすら分からない。奴はまだ近くに居るのだろうか?
俺は確かに見ていた、咲美が斬り裂いたヴァンパイアが無数の蝙蝠に変わり燃え尽きる中、飛び立っていく1羽の蝙蝠の姿を。あれは負傷したヴァンパイアが小さく化けて逃げ出したのだろう。そして死んではおらずどこかに潜み、今なお残る呪いで俺の体を蝕み続けている。
そう思うと血が煮えたがり、腹の奥から生じたドス黒い炎で全身まで焼き尽くす程に熱くなる。巡る血によって傷口はズキズキと疼きだし、鈍い痛みが頭の奥に響き、それがまた怒りの炎に変わる。
俺は傷口を掻き毟りたい衝動に駆られて腹に手を置いた。
血管が浮き出るほど力を込めると、その掌にそっと咲美の掌が添えられた。
落ち着きなさい、と目が言っていた。咲美の慈しみの瞳に間近に射抜かれて、全身から力と怒りが抜けていく。回復呪文を掛けられたわけでもないのに傷の痛みが引いた気がした。
学校の奴らが言うように、咲美は本当に聖女か天使なのかもしれないと思った。
咲美がやおらに口を開いた。
「あいつは私が倒す」
決意のこもった目が遠くに据えられている。その覚悟に気圧されて、咄嗟に言葉が出てこなかった。一人で戦うのは無茶だ、というの簡単だ。だが咲美も命を賭して戦う退魔師であり、その覚悟を軽んじるのは侮辱にもなる。
「お前は安静にしていろ」と慈悲の目でこちらをみる。だが今の俺には咲美の優しさが苦しかった。
戦うどころか、満足に動くこともままならない今の俺には、咲美を励ます言葉も止める言葉も持てなかった。
無力だ。
何もできないことがこんなに悔しいとは思わなかった。
「そろそろ学校行くよ」と言って咲美が立ち上がる。
学校か……。
またも忘れていたが、俺達は退魔師であると同時に学生でもある。でもこんな時にも学校を休まないのは真面目な咲美らしかった。
制服の皺を伸ばし、歩きながら居住まいを整え、部屋を後にしようとする。だが、襖に掛けられた手がピクリと止まった。
「……前にさ、教室で黛が勉強なんかしても将来の役に立たないって言ったじゃない。実はアレ、私も同じことを思ってたんだよね」
こちらを見ずに襖に話しかけている。
「退魔師として生きることが決まっている私が勉強なんかして意味あるのかな。なんで学校なんかに行ってるんだろうって」
黛の言葉は俺も思っていたことだった。しかし、成績優秀で部活や行事にも率先して参加している模範生な咲美までが同じことを思っていたとは意外だった。と思うと同時に「やっぱりか」とも思った。
「でもあのヴァンパイアと戦って死ぬかもしれないと思った時に、思い出したのは学校のことだったんだ」
咲美が振り向く。
「絶対に死にたくない。友達にまた会いたい。まだやりたい事がたくさんある……ってね。そうしたら恐怖もちょっとだけ収まったんだ」
咲美は照れくさそうにはにかんでいた。
「師匠に厳しい修業を受けながら、でも学校に行って普通の人生の尊さを知ることを説いていたのも、今ならちょっと分かるよ」
それは……今の俺なら分かる気がする。あの戦いで死線を彷徨った今の俺なら。
師の口癖を思い出す。
人生を楽しめ。
退魔師はその人の数だけある人生と呼ばれるものを守るべく戦っている。その人生を知りもしないで、守るべきものの本当を知りもしないで戦えるはずがない。
あの時、ヴァンパイアとの戦いで死ぬかもしれないと思った時、咲美のことを思った俺には力が湧いてきた。それを咲美も同じだったんだ。
その事を理解させるために、師匠は俺達に修業を課すとともに、普通の生き方も学ばせたのかもしれない。
「だから傷が治ったら、また一緒に登校しよう」
思わず、という風に咲美が言う。俺はえ?とか呆けた声を出すと、咲美の咲美の顔が見る間に赤くなる。
ツンデレの幼馴染がデレた瞬間だった。
思春期特有の男女間の機微は、退魔師である俺達にも例外なく襲い掛かり、少し前から疎遠になっていた。また一緒に登校していたいと思っていたのは俺だけではなかったらしい。その申し出を断る理由は俺には皆無で、こっちから頼みたいぐらいだ。
俺達は、15歳の時に師匠の元を、つまり今俺達がいる屋敷を出た後に、拠点兼自宅で2人で住んでいた。
同じ学校に通い、同じクラスで、同じバス路線で、さらに同じ家に住んでいるとなれば、家を出る時間を時間を変えるのは結構なストレスだった。最近は家庭内別居みたいだったからな。
「ば……!」
また鋏を投げられるかと思ったが、今度は飛んでこず、家庭内別居という言葉にますます顔を赤くした顔をプイッと横に向けた。
うーん、かわいい。
「……ここにいる間は暇だろう?今日、学校が終わったら差し入れでも持ってきてやる。何か希望はあるか?」
話題を変えるように咲美が言ったが、その台詞こそ無自覚な世話焼きの幼馴染みたいだった。だが口にはしないでおく。鋏を投げられるかもしれないから。
差し入れか……。一緒に住んでいるとは言っても、お互いの部屋は不可侵条約を結ばれていて、俺の部屋にはあんまり入って欲しくない。エロいもんもあるし。……そうだな、差し入れなら音楽がいいな。
音楽という言葉に咲美がピクッと反応した。
「音楽?じゃあCDを何枚か……」
枕元にあったスマホを手繰り寄せて動画サイトを開く。履歴のトップにあった曲をタップした。
その仕草に咲美は初めて訝る目をしていたが、俺のスマホから流れだした曲を聞いて、分かりやすくビックリした。そして顔面、耳、首、掌と、白い肌だがさっき以上に茹で上がっていった。
「差し入れするなら新曲をアップしてくれ」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
咲美が縮地の字のごときの速さで詰め寄り、俺の掌からスマホを奪い取ろうとする。
俺はバンザイしてそれを阻止する。咲美が負傷した肩に手を置いてなおも奪おうとするもんだから、鼻先が咲美の胸に埋もれ、負傷をした俺の肩に激痛が走る。4度目である。何をやっているんだ俺達は。
なおものしかかられるものだから俺は背中から倒れ、俺は咲美に布団に押し倒された格好になった。
頬を朱に染めた咲美の顔と顔が合った。
静まり返った部屋に天音の――咲美の歌声だけ響いている。
そこで咲美は正気を取り戻したのか、俺の上から降りていそいそと乱れた髪と制服を直し始めた。
「……聴いたのか?」
うん、全部。
「……いつから知ってた?」
んー、開設して割とすぐ?
「……誰かに言った?」
誰にも。
「……なんで気づいたの?」
だって同棲なんかしていれば、家人の変化には敏感にもなるよ。コンピュータ部や合唱部の活動だって、この活動と関係しているんだろ。
「う~~、隠せていると思ったんだけどなぁ」
むしろなんで気付かないと思った? それに『天音』って名前もお前の本名のもじりなんだろ?
そう指摘すると、咲美はジロリという感じで一瞥し、悪戯がバレた子供のような顔をしてそっぽを向いた。照れる所なのか?
俺の方こそなぜ内緒にしていたのか、なぜ歌い手になろうとしたのかとか訊きたかったんだけどな。
「こ、これは違うの! 合唱部の練習で録音したのを聞き返すのに動画サイトに保管していたんだけど、匿名で公開すれば偏見なしの感想も聞けるかなと思って、それで……」
と、まるで垢バレした時のために用意していたような言い訳を早口で語り始めた。
俺は思った。そもそもの順序が逆で、咲美が合唱部とコンピュータ部を兼部しているのも歌い手のためにだったんじゃなかろうか
でもなんで歌なんだろう?
昼間は真面目な優等生を演じている女子が、その仮面の下に募った鬱屈した承認欲求をこじらせて、裏垢で大胆なアレソレを披露する……というのはよく聞く話だが、こんな身近に現れるとは思っていなかった。
……何かを残したくなったのかもしれないな。自分が生きて、この時間、この場所に確かにいたという証拠を。
ヴァンパイアとの戦いで死線を潜り抜け、そしてさっきの師の言葉を聞いて、ますますそう思うようになった。
「曲……良かったぞ」
そう言うと咲美はからかわれたと思ったのか一瞬キッと鋭い一瞥をくれたが、もじもじと下を向きながらぼそりと言った。
「ありがと……」
付き合いも長くなると、こっ恥ずかしさもあって面と向かって(面と向かってないが)礼を言う機会も減る。久しぶりに聞いた気がする礼を言う咲美の姿はとてもかわいかった。でも、いつも曲を聞かせてくれて礼を言いたいのは俺の方だ。
「え?」と咲美がこちらに顔を振り上げた。思わずクサいセリフを吐いた自分に気づいて、こっちまで恥ずかしくなってきた。
「……もう行かないと」
取り繕うように言って咲美は立ち上がる。襖をくぐり、振り向いてはにかむ笑顔を見せた。
心臓に剣を突き立てられたようなかわいさだった。でもその甘さの中に、どこか、心の奥の方で一抹の苦みがよぎったのを、俺は感じた。
布団に寝転んで瞼を閉じ、去り際の咲美の笑顔を瞼に焼き付けようとする。
そういえば告白の返事を聞きそびれたな。あんな話をしたからうやむやにされたような気がする。まぁ天音の話を振ったのは俺だが。
咲美への告白と、さっきのやり取りを思い出したら、一人残された部屋でまた恥ずかしさが蘇ってきた。
しかし、俺はなぜ、閉じる襖の向こうに隠れる咲美の笑顔に、不吉さを感じたのかを考えた。
昨晩見た悪夢のせいだ。
自分の脈絡のない思考を追い出そうとする。が、出来なかった。
もう俺は、あの笑顔を見る事はない。
そんな事を思った自分を殴りたくなる。
布団を頭から被り、真っ暗な布団の中できつく目を閉じて、悪夢が消え去るように念じる。だが俺を心の奥で生じた不安は、靄のように拡がって俺の思考にへばりついて離れなくなった。