師匠
ヴァンパイアとの戦いから丸3日が経っていた。
瀕死の重傷を負った俺は咲美の手によって師の元へ連れ込まれた。
そして師と咲美の両方に介抱を受けて一命をとりとめた。
俺は丸3日間、生死の境を彷徨い、ついさっき目覚めたというのが咲美の説明したすべてだった。
ちなみにここは、俺と咲美が幼い頃に鍛錬した道場で、永く住んできた家でもあり、退魔士たちの拠点でもあった。
とは言っても、今の拠点の抱える退魔士は一人しかいなかった。かつては隆盛を誇ってたらしい我が一派も、俺の物心ついた時には両の手で足りる程に縮小し、現在は俺たちの師でもある80歳を越える予備役が一人いるのみだ。
妖魔が世界中にいるように、退魔士もまた世界中に居た。またそれを養成する機関も。
我が流派もそういった数多ある退魔士を抱える組織の一つというわけだ。組織と呼ぶのも憚られる矮小さではあったが。
俺達の流派は齢15ぐらいになると、師の元を離れて独立し、退魔の任に着くのが不文のしきたりだった。
それを過ぎても師の元に残り、己の業を磨くもの、後身を育てるものもいれば、修業の旅に出るもの、交流のある流派に渡るもの、後方支援の任にあたるもの、あるいは見込みのない者は落伍の烙印を押されて、退魔士の世界を完全に去るものもいる。
そういった者は、妖魔の手に掛かったり、あるいは悪事に手を染めて、それにより過激派の退魔士の手に掛かって――あまり長くは生きられない物が多い。
そういった落第者を一切出さない流派もあると聞く。
成人までに芽の出なかった見習いは、流派によって処分されるのだとか。
なぜ人を守るはずの退魔士が人を殺すのか、俺には全く理解できなかった。
退魔士と言っても一人に人間。わが流派はそこは寛容でたとえ退魔士の才を開花させることがなくとも、真っ当な一人の人間として生を送ることを寛容していた。
しかし、その事がわが流派を衰退させること一因にもなったらしいが、俺には理解しかねる話だし、そのつもりもなかった。
退魔士として育ててくれた恩はあったが、後を継ぐ事などまるで考えていなかったし、流派による違いなどにも興味はなかった。
ただ自分の中に揺らがぬ信念があればそれで十分だ。
明けて翌朝。
ヴァンパイアにやられた傷はいまだに癒えず、俺は寝床に縛られている状態にあった。
やることもないので、つれづれの思考を弄んでいると、襖の前に人影が立った。
襖が引かれ、湊高校の制服を着こんだ咲美が入ってくるのをみて、そうか、今日は平日の午前中なのだなと思い出す。三日前、いや四日前か――まで学校に通っていたのがもう遠い過去のようだ。
咲美の制服に戦いでの破れはなかった。予備を着ているのだろう。
憮然とした態度、手には花が握られている。庭に咲いているコスモスか。それを床の間の花瓶に生ける。差し入れならリンゴとかが良かったんだがな。
「胃に穴が開いているのに食べれるわけがないだろう」
こちらを見ずに、どこまでもぶっきらぼうに応える。以前と変わらぬ咲美の様子に安堵と苦笑が漏れる。昨日の夜、俺の胸で泣いていたのとは別人みたい――。
我知らずに呟いた刹那、目の前を超高速の物体が飛来した。俺の眉間に向かって正確に飛んできたそれを、危うくキャッチする。
咲美が、俺の顔面に目がけて生け花用の鋏を投擲したのだった。
冷汗が噴き出て、遅れて全身の傷が悲鳴を上げる。殺す気か!
「思ったより、回復しているようだな」
白刃取りなんかさせるもんだから傷口が開きそうになる。お前のせいで回復が遅れたらどうする。
つかつかと歩み寄り俺の腕から鋏をもぎとると、そう言ってまた生け花に勤しみ始めた。
だが、俺の気のせいでないのなら、ちょっと照れ隠しが見え隠れしたような……。
まったくツンデレここに極まれりと言った感じだ。
ツンデレのツンはツンツンの意だが、本当に刺してくるツンデレがいるだろうか?
いるのである。それが織部咲美という女であった。
いや刺してくるのはヤンデレと呼ぶ方がふさわしいか……。
でも……、昨日、俺のために泣いてくれた咲美、そしてその前に、告った時に泣いてくれたあいつは、今、ここにいるあいつなんだよな。
そう言えばまだ返事を聞いてないな……。あんな事が(バトルが)あった後だし聞きづらいというか、なんかうやむやにしたがっている気配が咲美から伝わる……。
思い出したら、遅ればせで俺まで恥ずかしくなってきた!
布団を頭から被って、狸眠りを決めこもうとした時、再び襖が開く音がした。
「起きとるか」と師が入ってきた。「昨日、言った通り、少々話があるでな」
急須と湯飲みが乗った盆を抱えている。長話になるのだろうか。俺は半身だけ起き上がる。
咲美が2人分の座布団を俺の寝床の左右に置き、急須を受け取って3人分の茶を注ぐ。
俺は熱い茶など飲めないが、もちろん嫌味などではなく、礼儀的なものだ。
そして重々しく座布団に腰掛け、重々しく口を開いた。
「で、お前らはもうヤッたの?」
咲美が口の中の茶を噴き出した。
それが負傷によりろくに身動きを取れぬ俺にまともに降りかかった。あちぃ!
そして、身を捩じった事により、傷口がまたも悲鳴を上げた。いてぇ!
朝から3度目である。
「「クソジジイ!」」
身を捩じる俺と、むせる咲美が同時に叫んだ。
「え?まだなの?」
と、師はキョトンとしていた。
咲美が鼻から茶を、目端から涙を流しており、あまり美少女が、というか女の子が見せていい顔ではない。
「まだ……誰とも……してません!」
むせながら、泣きながら、そんなにムキになって、それもわざわざ本当のことを白状してまで否定する事かね?
しかし、どさくさ紛れに口走った「まだ誰ともしてない」というのは本当でいいんだよな……?
師は「全く最近の若いもんは……」などと、ジジイの常套句を口にし、
「いや、ワシの若い頃なんてそりゃあモテまくったもんだで。毎日毎晩、とっかえひっかえ、そりゃあ凄ったもんだでなぁ。若い内はもっと遊んどかないかん」
遠くを見つめる師は、郷愁に浸る風情であるが、そんな師を俺を挟んで反対から咲美が睨みつけた。
「お師匠……、その話は長くなりますか?」
冷徹に発せられた声は本気の殺意が滲んでいた。
師匠は青ざめながら「いや、ジョーダンだで、ジョーダン」などと嘯いていた。
しかし、俺は師匠の言葉が小さな引っ掛かりとなって胸に残っていた。
若い内は遊んでなければいかん。
師匠は厳しい人だった。
俺と咲美は退魔士として、妖魔を屠る業の全てを、そして生き残るための手段の全てを幼い頃から師匠に叩き込まれた。今のように軽口を叩くこともたまに、いやしょっちゅうあったが。
だが修業中に、この師匠からそんな言葉を聞いた事はなく、記憶にある限り初めてだった。
退魔士になれなかった者は、戦いの道より退かせ、普通の人間として社会に送り出すことにも寛容。
先ほど思い出した、わが流派の信念を門下の者には誰隔てなく、示しているのかもしれない。俺や咲美に対しても。
だが戦いの道を去るのも人生というならば、妖魔の脅威はどうなるのか。
魔の侵略に弱きものが晒されるのを、力あるものが座して見るのは罪ではないのか?
「いや、お前らがくっついて、その子ともどもわが流派を継いでくれればいいでな」
懲りずにジジイが繰り言を再開したので、俺は視線だけ動かして咲美を見た。
こちらもまたキレるかと思ったが、咲美は師匠の言葉を難しい言葉で聞き入っている。継承問題にはこいつも思う所があるのだろうか。
「いや、お前らが自分の選んだ道を進んでくれたらそれでええ、そうやって何人も見送ってきた。この道場も儂の代で終いだ」
師匠は目を閉じ腕を組んで、ふんふんと一人で得心いっている。
「ワシかて継ぎたくて継いだ道場じゃないし。ただの順繰りでお鉢が回ってきただけじゃ。そんで気づけばこの歳よ」
……突然の師匠の結構デカめのカミングアウトに驚いたのは俺だけではなかったらしい。咲美も目を丸くしている。
久しぶりにあった師が、今日は次々と初めて聞く事を話しまくるのはどうしたことか。まさか自分の死期を悟って……縁起でもねぇ。
師匠はズズズと茶を啜ると、「さて長くなっちまったな、本題だ」と切り出した。
「腹の傷、見せてみろ」
師匠は顎で促す。俺は上着をめくり、包帯に巻かれた腹を晒した。
師匠が手を伸ばし包帯の上から傷に触れ「ムン」と一喝した。
無詠唱魔法。
高度の術者は呪文を唱えずに魔法を使うことが出来る。これは師匠の得意とする、精霊の力を介さずに、直接相手に自身の『気』を送り込んで傷を癒す治癒の業だった。
傷が意志を持ったように蠢き、包帯越しに立ち上がった紫色の光が、師匠の気を弾いた。
ヴァンパイアに腹を刺された記憶が屈辱とともに蘇った。それは現実の感覚となり、傷口に再び痛覚をもたらした。
苦悶を悟られぬようにする俺に、師匠が「スマン、スマン」と被せた。
「じゃが、見ての通りじゃ。呪いは消えてはおらん」
師匠の険を含んだ声音に、咲美が口を挟んだ。
「直らないのですか?」
その剣幕にやや驚きながらも、師は応える。
「そうではない、呪いは消えてはおらんが弱まっておる、治癒の業は受け付けんが、自然治癒を阻害する力は残っておらん、二月もあれば呪いも消え去り、元のように動けるようになるじゃろう」
咲美の顔が明かな安堵に変わったが、だが師匠の声音を緩めなかった。
「問題はそこではない、この呪いを与えたものがまだ生きているということが問題なのだ」