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婚約破棄されたパン屋の店員は、愛されるかわりに、願い事を叶えてもらいました。

作者: 三歩ミチ

「ああー! もう! どうして、浮気されたのかなあ!」


 ガツン! 顔を真っ赤にした女が、飲み干したジョッキを飴色のカウンターに叩きつける。ランプの薄明るい光の下で、鳶色の目はすっかり泣き腫らし、金髪はぼさぼさに乱れていた。

 幸いにして、たった4席のカウンターに、客はアリスひとりのみ。この酷い顔を、人に晒すことは避けられる。

 しかし、そんなこと気にもできないくらい、アリスの心は荒れていた。


「割れちゃうわよ。悲しいのはわかるけど、丁寧に扱って」

「ごめんなさい。……悲しいっていうか、悔しいの。酷いのよ。ハンスの奴、可愛い女の子に少し言い寄られたら、もう私とはやっていけないなんて。私との3年間の思い出は何だったの! 婚約までしたのに!」

「ひどいわねえ、アリスちゃんはこんなに可愛いのに」

「そんなこと言ってくれるの、イライザさんだけよー……」

「ふふ、みんな見る目がないのね」


 カウンターに突っ伏すアリスを見て穏やかに笑う、銀髪碧眼の美女。この小さなバーの店主であるイライザは、カウンターからジョッキを優しく取り上げると、縁に人差し指をかざす。


「水よ」


 簡単な詠唱で指先から水が溢れ、ジョッキを綺麗に洗い上げる。乾いた布でジョッキを拭きながら、イライザは「まだ何か飲む?」とアリスに聞いた。


「うん……なんか、甘いのが欲しい」

「甘いのね。なら、とっておきを作ってあげる。失恋の傷を癒す、ホットココア」

「ココア? お酒は?」

「飲み過ぎよ、アリスちゃん。ほら、飲んで心を落ち着けなさい」


 カウンターに置かれたマグカップから、ふわ、と甘い香りが漂う。まだ飲みたそうにしながらも、アリスは、素直にマグカップを手に取った。

 カップを包むと、両手がふわっと温まる。イライザの言う通り、ささくれた心が少しやわらいで、アリスはほっと息を吐いた。


 濃厚な、とろりとした舌触り。

 意識を強引に奪っていく、強烈な甘さ。

 そして飲み込んだあと、ほのかに残る香ばしい匂い。


「……美味しい」


 その優しさが、甘さが、温かさが、ゆっくりと胃を温め、全身に染みる。


「アリスちゃんには、誰かもっと良い人がいるってことよ」


 イライザが、そう言って宥める。

 カラン、とベルの鳴る音がした。


「どこかに、私だけを愛してくれる人はいないかなぁ!」

「……あら、いらっしゃい」


 イライザは飲んだくれるアリスから視線を離し、今しがた入ってきた客に笑顔を向ける。


「いつもの」

「わかったわ」


 隣に座る人の気配がして、突っ伏したままのアリスは、目だけを向けて確かめた。


 黒い服。なんだかつやつやして、触り心地の良さそうな生地だ。そこから覗く肌は、いやに白い。

 見たことのない客だ。顔を上げると、ちょうどこちらを向いた彼と目が合った。


 美しい藍の瞳に、吸い込まれた。

 黒い髪と白い肌と、そのコントラストの中で輝く深い夜の瞳。


「こんばんは」

「こ……こんばんは」


 声は高めで、優しげな響きを持っていた。なんとなく緊張して、アリスは背筋を伸ばす。


「……僕に、あなたを愛させてくれませんか?」

「えっ?」


 蕩けるような笑顔で発された言葉の意味が、頭に入ってこなかった。戸惑うアリスの頭に、男が手を載せる。


「ですから、僕の愛する人に、なってくれませんかということです」

「リュートさん、どうしたの? 突然。アリスちゃんが驚いてるじゃない」


 私も驚いたけど、と言いながら、イライザはリュートの前にグラスを置く。白ワインには、氷がたっぷり浮かんでいた。


「僕は、誰かを愛したいんです。そしてアリスさんは、誰かに愛されたいんですよね? ……ああ、キンキンに冷えててうまい」


 リュートは、流れるような手つきでグラスを唇に寄せて、冷え切ったワインを口にする。その流れのまま、またアリスに視線を向けた。


「僕は、あなただけを愛すると誓います。だから、僕の愛する人になってくださいよ」

「ええ……」


 助けを求めるように、アリスはイライザを見る。口をぽかんと開けていたイライザは、アリスの視線に気付くと、肩をすくめた。


「いきなりどうしたの、リュートさん。初対面の相手に愛を誓うなんて、あなたらしくないじゃない」

「事情がありまして。アリスさんは適任です。愛してくれる人を欲していて、しかも美人だ」


 リュートの手がグラスから離れ、マグカップを持つアリスの手に重ねられる。ひんやりとした指が、アリスの手の甲をくすぐった。


「ねえ、良いでしょう? 僕の愛する人になってください」


 その藍色の瞳に、真っ直ぐ射抜かれて。


「……はい」


 圧に負けたアリスは、気づいたら頷いていた。


「押しに弱いんだから……」


 額に手を当てて嘆くイライザの姿は、アリスの目には入っていなかった。


***


「……ううん」


 ぱち、と目が覚めた。

 朝だった。窓から、燦々と陽が射し込んでくる。


「水よ……」


 アリスは、ベッドサイドのグラスに水を注ぎ、それを飲んだ。なんだか火照る感じがして、喉も渇いていたから、氷を出してもう一杯飲んだ。頭の奥が鈍く痛むのは、それでも治らなかった。今日は仕事を休みにしておいて良かった、とアリスは思う。


「私、昨日どうやって帰ってきたんだっけ」


 ここは、間違いなくアリスの家だった。一人暮らしをしている、小さな借家。窓に掛かった淡いグリーンのカーテンが、爽やかでお気に入りだ。

 けれど、馴染みのイライザの家からどうやって帰ってきたか、全く覚えていない。ベッドから出て立ち上がると、服は昨日のままだった。


「とりあえず、お風呂入ろう……」


 寝室の隣には浴室がある。そのバスタブに「水よ」と水を張り、「火よ」と火球を打ち込んで温める。ぬるめに温めたお湯に全身を浸けると、全身のだるさがふわりと湯にほどけた。

 湯に浸かると、頭にも血が巡る。アリスは、失われた記憶を取り戻そうと、ぼんやり昨日のことを思い出していた。


 ハンスに振られて、イライザに泣きついた。最初は常連客の皆に慰められながら、やがて誰もいなくなって、ひとりで浴びるように酒を飲んだ。

 何か驚くようなことがあった気がする。アリスはこめかみを揉んだが、その辺りからの記憶が曖昧だった。ただ、美しい瞳のイメージだけが強く残っている。深い空のような、綺麗な藍色の瞳だ。


 さっぱりした気持ちで居間に向かい、簡単な朝食を食べる。食後の紅茶を飲んでいるとき、扉をノックする音がした。


「はーい」


 扉を開けたアリスの前に、あの藍色の瞳が現れた。そう、この目だ。日が沈んだ直後の、空のような色。

 この人が、何だっけ?

 思い出そうとしたアリスの頭の奥から、昨日の記憶が引き摺り出された。


「あ! 昨日の……!」


 彼の言葉が再生される。

 アリスを愛すると言った、あの、不思議な男だ。


「おはよう、アリス。迎えに来たよ。昨日言った通り、一緒に魔導士協会に行こう」

「え?」

「……覚えてない? 君を送りながら、僕たち、話したと思うんだけど」


 アリスは首を傾げた。

 どうやって帰ってきたかは、全く記憶にない。


「イライザが、お酒のせいで君は全部忘れるかもしれないと言っていたけれど。本当みたいだね。……まあ良い、行きながら話そう」


 アリスの頭の中には、「君だけを愛すると誓う」と言った彼の言葉だけが繰り返し思い出されていた。誘われるがまま、外に出る。外は、柔らかな春の陽射しに包まれていた。


「僕の名前は覚えてる?」

「……ええと」

「リュート。リュート・リーデル・アクセンドル。しがない魔導士さ」


 ミドルネームがあるじゃない。

 アリスは驚いた。ミドルネームがあるのは、高貴な家柄の証だ。


「今日、君には、魔導士協会長に会ってもらうよ」

「魔導士協会、長に……? ええ、あのヨハンさんにですか!」

「知ってるの? 有名なんだね、やっぱり」

「もちろんです。ヨハンさんを知らない人なんていませんよ、この街で」


 魔導士協会長であるヨハンのおかげで、街はずいぶんと住みやすくなったという。魔導士の人たちは、人より多い魔力を駆使して、生活を助けてくれる。困りごとを伝えやすい仕組みを作ったのがヨハンだということで、街の人々が口々に賞賛するのを、アリスは何度も聞いたことがあった。


「協会長に、僕の愛する人として会ってほしいんだよね。僕は副協会長に推薦されているんだけど、愛する人がいない者には務まらないって、ヨハンさんに反対されて」

「……うん?」

「僕自身は立場にはあんまり興味ないんだけど、魔導士としての力を最大限に発揮するには、愛する人の存在が不可欠なんだってさ。そう言われると、気になるじゃない。だから、誰かを愛してみたかったんだ」


 なんだか雲行きが怪しい、とアリスは思った。


「一目惚れとかではないんですか?」

「誰が?」

「あなたが、私に」

「美しいとは思うよ。でも、惚れるってよくわからないから」

「それじゃあ、愛するっていうのもよくわからないのでは……」

「そうだけど、大丈夫」


 頷くリュートがなぜか自信ありげで、それがアリスには不思議だった。


「とりあえず、愛する人として協会長に会ってよ。見てもらって、それで考えるから」

「見てもらう、んですか?」

「そう。この人が僕の愛する人でいいですか、って。今まで2人連れてったけど、『愛する人じゃないだろ』と言われて駄目だったんだ。君は認められるといいなぁ」

「それ、たぶん今回も駄目だと思いますよ」

「どうして?」


 本気でわからない顔をするリュートに、アリスは戸惑った。そんなこと、わかりきっている。


「だってリュートさん、私を愛してないじゃありませんか」

「そんなこと言わないでよ。嫌なら、君の願いをひとつ叶えてあげるから、僕に着いてきて」

「いいですけど、たぶん無駄ですよ」


 半ば強引に押し切られ、魔導士協会の門をくぐる。受付を通り抜け、協会長室まで真っ直ぐに向かう。


「協会長! リュートです!」

「どうぞ」


 中から渋い声がして、リュートとアリスは入室した。協会長室の真ん中に大きなテーブルがあり、そこにいるのが魔導士協会長、ヨハンであった。

 灰色の髪をオールバックに撫でつけ、凛とした佇まい。きりりとした眉は厳しげだが、僅かに垂れた目尻に優しさが滲んでいた。


「どうした、リュート。また別の女性を連れてきて」

「この方が、僕の愛する人です!」

「はあ……」


 深いため息をついて、ヨハンが額に手を当てる。

 ほら、やっぱり駄目じゃないか、とアリスは思った。


「あのな、俺が言っていることは、そういうことではないんだよ」

「では、どういうことですか?」

「だからな、自分がこの人のためなら頑張れるというような、そんな愛する人を、君にも見つけてほしいというだけのことで」

「ですからこの方が、僕の愛する人です!」


 堂々と言われてしまい、アリスは肩身が狭い。アリスは、ヨハンの言いたいことが何となくわかった。「この人のためなら頑張れる」そんな人がいると、自分は最大限に努力できる。アリスだって、ハンスのために、仕事も自分磨きも頑張っていたのだ。


「ごめんな。困ったろう、こんなところへ連れて来られて」

「アリスは、僕に望んでついてきてくれたんです!」

「今回は、どんな願いを叶えたんだ?」

「それはこれからですが」


 ヨハンは、柔和な微笑みでアリスを見た。


「うちの阿呆が、すまないね。願いはしっかり叶えて貰いなさい。人に迷惑がかからないものだとありがたいが」

「あ……はい」

「リュート。何度も言うが、別に俺に、愛する人を見せに来る必要はない。お前が副協会長になることにも、全く反対していないから。これ以上、一般の方に迷惑をかけるなよ」

「ですが」

「もういい。もういい。とりあえず、彼女をお送りしなさい。後でゆっくり話そう」


 ヨハンにあしらわれ、リュートは協会長室を出た。


「やっぱり駄目だった」

「当たり前じゃないですか」


 アリスがそう返すと、リュートは、どこかすがるような眼差しを向けてくる。


「どうして君は、駄目だとわかっていたんだ?」

「誰だってわかると思いますけど……」

「いや。君は、愛というものが何か知っているんだな。なら教えてくれないか。僕に、愛というものを」


 アリスはどう返事したら良いのかわからなくて、曖昧に笑った。すると、戸惑うアリスの手を、リュートはがしっと掴む。


「頼む。どんな願いでも、必ず叶えるから」


 真っ直ぐな青い目に射抜かれ、アリスはものがうまく考えられなくて。


「……はい」


 つい、頷いてしまった。

 アリスは、押しに弱いのだった。


***


「──で、どうして二人でここに来るわけ?」


 呆れ顔のイライザを前に、アリスとリュートは顔を見合わせる。


「本当の愛を教えるって言っても、私にはどうしたらいいのかわからなくて」

「いつも僕たちの相談に乗ってくれるイライザさんなら、何かヒントをくれるかなと」

「確かに……そういえば似てるわね、あなた達。何かあるとすぐここに来るところなんてそっくり」


 考え込むイライザをよそに、二人は揃ってワインを飲む。美味しい、という声も息が合った。


「とりあえず、長い時間を共にするところから始めたら良いんじゃない? 愛ってのは、時間が育むものよ」

「なるほど!」


 多分、というイライザの声をかき消したのは、喜色満面に立ち上がったリュートであった。


「なら僕、これから毎晩、アリスの家に行くよ!」

「えっ?」

「長い時間を過ごすには、それが一番だろう? 大丈夫、寝る時は寮に帰るよ。それならアリスも困らないだろう? あれ、君どこで働いてるんだっけ」

「パン屋ですけど……」

「なら、夜はそんなに遅くないよね。よし、決まり」


 既に話は終えたという勢いで、リュートがグラスを手に取る。


「……いいの? アリスちゃん」

「まあ……困ってるみたいなので」


 やはりアリスは、押しに弱いのだった。


***


「そろそろかな」


 仕事終わりは、全身からパンの匂いがする。自分から漂う甘い匂いにくらくらしながら、アリスは食卓に買ってきたパンを並べた。

 香りに飽きても、お店のパンは美味しい。

 食卓に並べるのは、二人分のパンであった。


「やあ! アリス、ただいま!」


 予想通りの時間に入ってくるのは、リュートである。

 あれからリュートは、本当に毎晩やってきた。


「これ、良かったら食べよう」

「ジャム? 美味しそうですね」

「うん。八百屋の屋根が壊れたから修繕したら、お礼に貰ったんだ」


 貰ったオレンジのジャムは、早速食卓に並べる。


 アリスは、意外と不快感のない生活に驚いていた。

 魔導士として働くリュートの話は面白い。毎日、知らないところで、街のいろいろな場所で様々な事件が起きている。魔法の力でそれを解決しようとする魔導士達の奮闘は、聞いていてとても興味深いものだった。


「まあ、僕は大したことはしてないんだけどね。屋根の強度を上げるのには、魔法は適さないからさ。風で持ち上げている間に、大工を呼んで直して貰っただけでさ」

「屋根を風の魔法で持ち上げるなんて、私にはできません。やっぱり凄いです」

「それはそうさ。そのための魔導士だから」


 有り余った魔力を使う場所があってありがたい。そう言うリュートは、意外と謙虚なのだった。


「もっと大きな魔法が使えたら、もっと大きなことができるんだけどね。ハリケーンの被害を食い止めることだって」

「ハリケーンの被害を、魔法で食い止められるんですか?」

「そうだよ。僕たちは、そのために研究をしている。もっと強力な風魔法が使えれば、ハリケーンの風を打ち消せるんだ」


 リュートの青い目が、きらりと光る。


「だから僕は、さっさと人を愛して、魔力を高めたいんだよね」

「ああ、なるほど」


 リュートが愛する人を見つけたいのは、魔力を高めるため。

 それは、魔導士として出世するためではなく、天変地異で困る人を減らすため。


 誰かのためになることに、ひたむきで、真っ直ぐなリュートに。


「……素敵ですね」


 アリスが絆されるのも、仕方のないことだった。


***


 アリスとリュートは、それからも毎日、夜には食卓を共にした。


「今日は、雨だからお客さんが少なくて。リュートさんのお好きな白パンが余りましたよ」

「お、嬉しいな。パンに合うベリージャムを買ってきたよ。アリス、好きでしょう」


 互いの食の好みを知り。


「あ、その服、良いね」

「リュートさんが前褒めてくださったので」

「ああ、それなら僕も。ほら、君が好きだって言ってたネクタイを着けてきたよ」


 互いの服の好みに合わせるようになり。


「あなたたち、今日も二人で来たのね。すっかり仲良くなったじゃない」

「イライザさんが僕たちにアドバイスをくれたおかげです」

「そう」


 イライザにも認められるような、親しい雰囲気を纏うようになった。


「それで、『本当の愛』とやらはわかったのかしら」

「それは……まだですね。協会長の言う、『愛する人のためなら能力以上の力を発揮できる』のを、実感できてはいないので」


 涼しい顔をして答えるリュートを見て、アリスの胸はちくりと傷んだ。


 結局リュートは、アリスに対して特別な感情など抱いていないのだ。

 口では「愛する人」と言うけれど、なんの実体も伴っていない。


 どうしたらリュートの気持ちを動かせるのか、アリスには全くわからなかった。


「アリスちゃんは? 願いは何を叶えてもらったの?」

「あ……そういえば、まだでした」

「もったいないわよ。これでもヨハンさんに次ぐ、素晴らしい魔導士様だからねえ」

「それは言い過ぎだけど、僕にできることなら何でも叶えるよ」


 それなら、本当の意味で私を愛してくれたらいいのに。


 そう言いたかったけれど、言っても実現しないのは分かりきっている。だからアリスは何も言わずに、曖昧に微笑んだ。


***


 露天で、目張り用の板が売り出され始めた。人々は保存食を買い込み、窓に板を打ち付ける。庭の物は室内にしまい、川辺には土嚢を高く積み上げる。

 どことなく、ものものしい雰囲気が漂い始めた。ハリケーンがやってくるのだ。


 見慣れた光景だけど、この時期はなんだか落ち着かない。

 予報では、今夜にもハリケーンが来るとのことだった。日が落ちる前に帰りたい。帰路についたアリスも、足早に家に向かう。


「ママがいないよぉ」


 か細い声が聞こえた気がした。アリスは、辺りを見回す。忙しく歩く人々の間に、立ち尽くす、腰の高さほどの小さな子供がいた。

 両手を目に当て、ひっく、としゃくりあげる。


「どうしたの?」


 話しかけている場合じゃないと思ったが、つい、声をかけてしまった。


「ママがいないの」


 舌ったらずな言い方。

 迷子だ。


「困ったねえ、どうしよう……」


 周囲の人々も、もう帰りたい時間帯だ。周囲を見回すアリスと、目を合わせないようにして歩いていく。

 露店を片付けている女性と、目が合った。


「魔導士協会に連れて行けば良い。困った時は魔導士様に頼みゃいいんだ」

「ありがとうございます」

「さっさと行きな。ハリケーンが来ちまう」


 しゃがれた声で言われ、アリスは頷いた。


「ママを探しに行こうか。私と一緒に、魔導士協会に行こうね」

「……うん」


 涙を拭いた小さな手で、子供はアリスの手を掴む。

 怪しげな、生温い風が吹き始める中を、アリスと子供は二人で歩く。魔導士協会へは、先日一度歩いた道だから、迷わずに着くことができた。

 協会の窓も、しっかり目張りがされている。いくら魔導士達が集まる場所でも、ハリケーンの大風には勝てないのだ。


「こんばんは」

「うん? どうしましたか、こんな日に」


 建物の中は、思いの外静かで、穏やかだった。出てきた魔導士に、アリスは事情を話す。


「ああ、この子の保護者の方から、先程連絡がありました。買い物をしている最中、どこかへ行ってしまったそうで。こちらで親御さんに引き渡します」

「良かったです。ありがとうございます」

「こちらこそ、ありがとうございます。……ああ、そうだ」


 アリスが子供の手を離すと、子供は魔導士のそばへ寄った。その子の手を取った魔導士が、思い出したように付け足す。


「リュートに会って行きますか? ハリケーンの備えをしているので、その辺りにいますが」

「え? どうしてですか」

「どうして、って。……いえ、差し出がましいことをしました。何でもありません」


 にこ、と笑う魔導士に見送られ、アリスは外に出る。


「うわ、空の色が変……」


 もう夜になるというのに、空は妙な桃色に染まっていた。それでいて厚い雲に覆われている。雲は、見たこともないような速さで動いていた。


「ちょっと、まずいかも」


 通りには誰もいない。この街の住人は、ハリケーンがやってくる日には、あらゆることを投げ置いても家に帰る。ハリケーンの強烈さを、よく知っているからだ。

 この街で生まれ育ったアリスも、それをよく知っていた。小さな頃から「ハリケーンの日は真っ直ぐに帰れ」と言い含められ、それを実践してきたから、こんな時間に外にいたことはない。


 ぽつ、と小粒の雨が肩に当たった。

 と思うと、ざあ、と遠くから音が迫ってくる。

 瞬間、アリスの顔に激しい雨がぶつかった。


「うわっ」


 うめいて開いた口に、水が入り込んでくる。あまりの勢いに、目を開けられない。強い風が前から吹き付け、歩くことも難しい。

 魔導士協会に戻るべきだと思ったが、もう動けなかった。風に煽られ、転んでしまいそうだ。アリスはじりじりと体勢を落とし、地面にうずくまる姿勢になる。


 どうしよう、どうしよう!


 アリスは焦ったが、どうにもならなかった。生温い雨が服に染み込み、だんだんと重く、冷たくなる。


 ぶわっ、と強風が吹いた。

 うずくまるアリスの体の下にも風が入り込み、大きく持ち上がる。


 まずい、飛ばされる!


 掴むものを探して手を伸ばしたが、指先は宙をかいた。その瞬間、アリスの体は、風に飲み込まれた。


「きゃあぁ──」


 叫んだつもりだったが、自分の悲鳴よりも、風の音が大きかった。


「──アリス」


 聞き慣れた声が響く。


「大丈夫?」


 リュートの声だ。


 もう、風も雨も感じない。

 これは死ぬ前の走馬灯だ。アリスは覚悟して、目を開けた。死ぬのなら、最後にリュートの顔を思い出したい。


「協会で待っていれば良かったのに。危ないだろう、こんな時に外に出て」


 優しいリュートの顔。気付けば、雨も止んでいた。こんな短時間でハリケーンが収まるはずはないから、やはり、これは。


「走馬灯、なの──」

「不吉だなぁ。死ぬみたいなこと、言わないでくれよ」

「本当に、リュートさんなの?」

「他の誰に見えるんだい」


 茶化すような言い方は、リュートのそれ、そのもの。苦笑する顔も、あまりにもリアルだ。


「だって、おかしいわ。こんなに早く、ハリケーンが止むなんてありえない」

「うん? ……あれ、本当だ。いや、違うな。僕たちの周りだけ、風が収まってる。ほら」

「……本当だ」


 不思議な光景だった。

 リュートとアリスの周りの空気は、穏やかに凪いでいる。しかしその向こうには、荒れ狂う風雨が見えていた。まるで見えない壁に遮られているかのように、二人の周りだけを、雨は避けていく。


「……というか、僕の魔法だな、これ」


 リュートの、独り言。


「リュートさんって、本当に凄い魔導士なんですね……」


 そう言う他ない、アリスの声。


「いや。僕には、こんなことできない。ハリケーンの風を食い止めるほどの、風の魔法だよ? そこまでの力はないさ」

「なら、どうして?」

「わからない? 愛の力だよ」


 額に張り付くアリスの髪を、リュートの手が整える。その優しげな手つきは、愛おしさすら感じさせた。


「ようやくわかった。僕は君を守るためなら、実力以上の力を発揮できるんだ」


 雨に濡れて冷えた手に、リュートの手が重なる。じんわりとした温かさが、沁み通るようだった。


「ねえ、アリス。これが愛なんだね」


 その手に引かれて立ち上がったアリスを、リュートは胸で受け止める。


 信じられない気持ちだったけれど、アリスの胸は、確かに震えた。

 願っても、叶わないと思っていたこと。

 本当に欲しかったものが、手に入った喜びだった。


「──願い事をひとつ、叶えてくれるんですよね」


 アリスが囁くと、リュートは僅かに表情を曇らせる。


「うん、そうだけど──今?」

「はい。私は、本当の意味で、リュートさんが本当の意味で愛する人に、なりたかったんです」


 はっ、と息を呑む音。一瞬硬直したリュートは、その後、満面の笑顔を浮かべた。


「なら、願いは叶ったじゃないか!」


 胸が圧されるほどのきつい抱擁を受けて、アリスはくしゃりとした笑顔を浮かべた。


 それは、ハリケーンに襲われた、暴風雨の街の中。

 轟々と響き渡る風の音の中で、確かに交わされた、愛の告白であった。

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[良い点] 面白かったです。
[良い点] とっても素敵でした!! 最後のシーンでニヤニヤが止まりませんでした!! すっごいキュンキュンしました!!!!(語彙力無くてすみません)
[一言] 短編として綺麗にまとまっているのですが、 主人公2人がとても可愛らしく魅力的で、だからこそ読後感はすっきりしつつも、もっともっとこの2人の話が読みたくなってしまいました。 素敵な話をありがと…
2021/08/10 19:15 退会済み
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