婚約破棄されたパン屋の店員は、愛されるかわりに、願い事を叶えてもらいました。
「ああー! もう! どうして、浮気されたのかなあ!」
ガツン! 顔を真っ赤にした女が、飲み干したジョッキを飴色のカウンターに叩きつける。ランプの薄明るい光の下で、鳶色の目はすっかり泣き腫らし、金髪はぼさぼさに乱れていた。
幸いにして、たった4席のカウンターに、客はアリスひとりのみ。この酷い顔を、人に晒すことは避けられる。
しかし、そんなこと気にもできないくらい、アリスの心は荒れていた。
「割れちゃうわよ。悲しいのはわかるけど、丁寧に扱って」
「ごめんなさい。……悲しいっていうか、悔しいの。酷いのよ。ハンスの奴、可愛い女の子に少し言い寄られたら、もう私とはやっていけないなんて。私との3年間の思い出は何だったの! 婚約までしたのに!」
「ひどいわねえ、アリスちゃんはこんなに可愛いのに」
「そんなこと言ってくれるの、イライザさんだけよー……」
「ふふ、みんな見る目がないのね」
カウンターに突っ伏すアリスを見て穏やかに笑う、銀髪碧眼の美女。この小さなバーの店主であるイライザは、カウンターからジョッキを優しく取り上げると、縁に人差し指をかざす。
「水よ」
簡単な詠唱で指先から水が溢れ、ジョッキを綺麗に洗い上げる。乾いた布でジョッキを拭きながら、イライザは「まだ何か飲む?」とアリスに聞いた。
「うん……なんか、甘いのが欲しい」
「甘いのね。なら、とっておきを作ってあげる。失恋の傷を癒す、ホットココア」
「ココア? お酒は?」
「飲み過ぎよ、アリスちゃん。ほら、飲んで心を落ち着けなさい」
カウンターに置かれたマグカップから、ふわ、と甘い香りが漂う。まだ飲みたそうにしながらも、アリスは、素直にマグカップを手に取った。
カップを包むと、両手がふわっと温まる。イライザの言う通り、ささくれた心が少しやわらいで、アリスはほっと息を吐いた。
濃厚な、とろりとした舌触り。
意識を強引に奪っていく、強烈な甘さ。
そして飲み込んだあと、ほのかに残る香ばしい匂い。
「……美味しい」
その優しさが、甘さが、温かさが、ゆっくりと胃を温め、全身に染みる。
「アリスちゃんには、誰かもっと良い人がいるってことよ」
イライザが、そう言って宥める。
カラン、とベルの鳴る音がした。
「どこかに、私だけを愛してくれる人はいないかなぁ!」
「……あら、いらっしゃい」
イライザは飲んだくれるアリスから視線を離し、今しがた入ってきた客に笑顔を向ける。
「いつもの」
「わかったわ」
隣に座る人の気配がして、突っ伏したままのアリスは、目だけを向けて確かめた。
黒い服。なんだかつやつやして、触り心地の良さそうな生地だ。そこから覗く肌は、いやに白い。
見たことのない客だ。顔を上げると、ちょうどこちらを向いた彼と目が合った。
美しい藍の瞳に、吸い込まれた。
黒い髪と白い肌と、そのコントラストの中で輝く深い夜の瞳。
「こんばんは」
「こ……こんばんは」
声は高めで、優しげな響きを持っていた。なんとなく緊張して、アリスは背筋を伸ばす。
「……僕に、あなたを愛させてくれませんか?」
「えっ?」
蕩けるような笑顔で発された言葉の意味が、頭に入ってこなかった。戸惑うアリスの頭に、男が手を載せる。
「ですから、僕の愛する人に、なってくれませんかということです」
「リュートさん、どうしたの? 突然。アリスちゃんが驚いてるじゃない」
私も驚いたけど、と言いながら、イライザはリュートの前にグラスを置く。白ワインには、氷がたっぷり浮かんでいた。
「僕は、誰かを愛したいんです。そしてアリスさんは、誰かに愛されたいんですよね? ……ああ、キンキンに冷えててうまい」
リュートは、流れるような手つきでグラスを唇に寄せて、冷え切ったワインを口にする。その流れのまま、またアリスに視線を向けた。
「僕は、あなただけを愛すると誓います。だから、僕の愛する人になってくださいよ」
「ええ……」
助けを求めるように、アリスはイライザを見る。口をぽかんと開けていたイライザは、アリスの視線に気付くと、肩をすくめた。
「いきなりどうしたの、リュートさん。初対面の相手に愛を誓うなんて、あなたらしくないじゃない」
「事情がありまして。アリスさんは適任です。愛してくれる人を欲していて、しかも美人だ」
リュートの手がグラスから離れ、マグカップを持つアリスの手に重ねられる。ひんやりとした指が、アリスの手の甲をくすぐった。
「ねえ、良いでしょう? 僕の愛する人になってください」
その藍色の瞳に、真っ直ぐ射抜かれて。
「……はい」
圧に負けたアリスは、気づいたら頷いていた。
「押しに弱いんだから……」
額に手を当てて嘆くイライザの姿は、アリスの目には入っていなかった。
***
「……ううん」
ぱち、と目が覚めた。
朝だった。窓から、燦々と陽が射し込んでくる。
「水よ……」
アリスは、ベッドサイドのグラスに水を注ぎ、それを飲んだ。なんだか火照る感じがして、喉も渇いていたから、氷を出してもう一杯飲んだ。頭の奥が鈍く痛むのは、それでも治らなかった。今日は仕事を休みにしておいて良かった、とアリスは思う。
「私、昨日どうやって帰ってきたんだっけ」
ここは、間違いなくアリスの家だった。一人暮らしをしている、小さな借家。窓に掛かった淡いグリーンのカーテンが、爽やかでお気に入りだ。
けれど、馴染みのイライザの家からどうやって帰ってきたか、全く覚えていない。ベッドから出て立ち上がると、服は昨日のままだった。
「とりあえず、お風呂入ろう……」
寝室の隣には浴室がある。そのバスタブに「水よ」と水を張り、「火よ」と火球を打ち込んで温める。ぬるめに温めたお湯に全身を浸けると、全身のだるさがふわりと湯にほどけた。
湯に浸かると、頭にも血が巡る。アリスは、失われた記憶を取り戻そうと、ぼんやり昨日のことを思い出していた。
ハンスに振られて、イライザに泣きついた。最初は常連客の皆に慰められながら、やがて誰もいなくなって、ひとりで浴びるように酒を飲んだ。
何か驚くようなことがあった気がする。アリスはこめかみを揉んだが、その辺りからの記憶が曖昧だった。ただ、美しい瞳のイメージだけが強く残っている。深い空のような、綺麗な藍色の瞳だ。
さっぱりした気持ちで居間に向かい、簡単な朝食を食べる。食後の紅茶を飲んでいるとき、扉をノックする音がした。
「はーい」
扉を開けたアリスの前に、あの藍色の瞳が現れた。そう、この目だ。日が沈んだ直後の、空のような色。
この人が、何だっけ?
思い出そうとしたアリスの頭の奥から、昨日の記憶が引き摺り出された。
「あ! 昨日の……!」
彼の言葉が再生される。
アリスを愛すると言った、あの、不思議な男だ。
「おはよう、アリス。迎えに来たよ。昨日言った通り、一緒に魔導士協会に行こう」
「え?」
「……覚えてない? 君を送りながら、僕たち、話したと思うんだけど」
アリスは首を傾げた。
どうやって帰ってきたかは、全く記憶にない。
「イライザが、お酒のせいで君は全部忘れるかもしれないと言っていたけれど。本当みたいだね。……まあ良い、行きながら話そう」
アリスの頭の中には、「君だけを愛すると誓う」と言った彼の言葉だけが繰り返し思い出されていた。誘われるがまま、外に出る。外は、柔らかな春の陽射しに包まれていた。
「僕の名前は覚えてる?」
「……ええと」
「リュート。リュート・リーデル・アクセンドル。しがない魔導士さ」
ミドルネームがあるじゃない。
アリスは驚いた。ミドルネームがあるのは、高貴な家柄の証だ。
「今日、君には、魔導士協会長に会ってもらうよ」
「魔導士協会、長に……? ええ、あのヨハンさんにですか!」
「知ってるの? 有名なんだね、やっぱり」
「もちろんです。ヨハンさんを知らない人なんていませんよ、この街で」
魔導士協会長であるヨハンのおかげで、街はずいぶんと住みやすくなったという。魔導士の人たちは、人より多い魔力を駆使して、生活を助けてくれる。困りごとを伝えやすい仕組みを作ったのがヨハンだということで、街の人々が口々に賞賛するのを、アリスは何度も聞いたことがあった。
「協会長に、僕の愛する人として会ってほしいんだよね。僕は副協会長に推薦されているんだけど、愛する人がいない者には務まらないって、ヨハンさんに反対されて」
「……うん?」
「僕自身は立場にはあんまり興味ないんだけど、魔導士としての力を最大限に発揮するには、愛する人の存在が不可欠なんだってさ。そう言われると、気になるじゃない。だから、誰かを愛してみたかったんだ」
なんだか雲行きが怪しい、とアリスは思った。
「一目惚れとかではないんですか?」
「誰が?」
「あなたが、私に」
「美しいとは思うよ。でも、惚れるってよくわからないから」
「それじゃあ、愛するっていうのもよくわからないのでは……」
「そうだけど、大丈夫」
頷くリュートがなぜか自信ありげで、それがアリスには不思議だった。
「とりあえず、愛する人として協会長に会ってよ。見てもらって、それで考えるから」
「見てもらう、んですか?」
「そう。この人が僕の愛する人でいいですか、って。今まで2人連れてったけど、『愛する人じゃないだろ』と言われて駄目だったんだ。君は認められるといいなぁ」
「それ、たぶん今回も駄目だと思いますよ」
「どうして?」
本気でわからない顔をするリュートに、アリスは戸惑った。そんなこと、わかりきっている。
「だってリュートさん、私を愛してないじゃありませんか」
「そんなこと言わないでよ。嫌なら、君の願いをひとつ叶えてあげるから、僕に着いてきて」
「いいですけど、たぶん無駄ですよ」
半ば強引に押し切られ、魔導士協会の門をくぐる。受付を通り抜け、協会長室まで真っ直ぐに向かう。
「協会長! リュートです!」
「どうぞ」
中から渋い声がして、リュートとアリスは入室した。協会長室の真ん中に大きなテーブルがあり、そこにいるのが魔導士協会長、ヨハンであった。
灰色の髪をオールバックに撫でつけ、凛とした佇まい。きりりとした眉は厳しげだが、僅かに垂れた目尻に優しさが滲んでいた。
「どうした、リュート。また別の女性を連れてきて」
「この方が、僕の愛する人です!」
「はあ……」
深いため息をついて、ヨハンが額に手を当てる。
ほら、やっぱり駄目じゃないか、とアリスは思った。
「あのな、俺が言っていることは、そういうことではないんだよ」
「では、どういうことですか?」
「だからな、自分がこの人のためなら頑張れるというような、そんな愛する人を、君にも見つけてほしいというだけのことで」
「ですからこの方が、僕の愛する人です!」
堂々と言われてしまい、アリスは肩身が狭い。アリスは、ヨハンの言いたいことが何となくわかった。「この人のためなら頑張れる」そんな人がいると、自分は最大限に努力できる。アリスだって、ハンスのために、仕事も自分磨きも頑張っていたのだ。
「ごめんな。困ったろう、こんなところへ連れて来られて」
「アリスは、僕に望んでついてきてくれたんです!」
「今回は、どんな願いを叶えたんだ?」
「それはこれからですが」
ヨハンは、柔和な微笑みでアリスを見た。
「うちの阿呆が、すまないね。願いはしっかり叶えて貰いなさい。人に迷惑がかからないものだとありがたいが」
「あ……はい」
「リュート。何度も言うが、別に俺に、愛する人を見せに来る必要はない。お前が副協会長になることにも、全く反対していないから。これ以上、一般の方に迷惑をかけるなよ」
「ですが」
「もういい。もういい。とりあえず、彼女をお送りしなさい。後でゆっくり話そう」
ヨハンにあしらわれ、リュートは協会長室を出た。
「やっぱり駄目だった」
「当たり前じゃないですか」
アリスがそう返すと、リュートは、どこかすがるような眼差しを向けてくる。
「どうして君は、駄目だとわかっていたんだ?」
「誰だってわかると思いますけど……」
「いや。君は、愛というものが何か知っているんだな。なら教えてくれないか。僕に、愛というものを」
アリスはどう返事したら良いのかわからなくて、曖昧に笑った。すると、戸惑うアリスの手を、リュートはがしっと掴む。
「頼む。どんな願いでも、必ず叶えるから」
真っ直ぐな青い目に射抜かれ、アリスはものがうまく考えられなくて。
「……はい」
つい、頷いてしまった。
アリスは、押しに弱いのだった。
***
「──で、どうして二人でここに来るわけ?」
呆れ顔のイライザを前に、アリスとリュートは顔を見合わせる。
「本当の愛を教えるって言っても、私にはどうしたらいいのかわからなくて」
「いつも僕たちの相談に乗ってくれるイライザさんなら、何かヒントをくれるかなと」
「確かに……そういえば似てるわね、あなた達。何かあるとすぐここに来るところなんてそっくり」
考え込むイライザをよそに、二人は揃ってワインを飲む。美味しい、という声も息が合った。
「とりあえず、長い時間を共にするところから始めたら良いんじゃない? 愛ってのは、時間が育むものよ」
「なるほど!」
多分、というイライザの声をかき消したのは、喜色満面に立ち上がったリュートであった。
「なら僕、これから毎晩、アリスの家に行くよ!」
「えっ?」
「長い時間を過ごすには、それが一番だろう? 大丈夫、寝る時は寮に帰るよ。それならアリスも困らないだろう? あれ、君どこで働いてるんだっけ」
「パン屋ですけど……」
「なら、夜はそんなに遅くないよね。よし、決まり」
既に話は終えたという勢いで、リュートがグラスを手に取る。
「……いいの? アリスちゃん」
「まあ……困ってるみたいなので」
やはりアリスは、押しに弱いのだった。
***
「そろそろかな」
仕事終わりは、全身からパンの匂いがする。自分から漂う甘い匂いにくらくらしながら、アリスは食卓に買ってきたパンを並べた。
香りに飽きても、お店のパンは美味しい。
食卓に並べるのは、二人分のパンであった。
「やあ! アリス、ただいま!」
予想通りの時間に入ってくるのは、リュートである。
あれからリュートは、本当に毎晩やってきた。
「これ、良かったら食べよう」
「ジャム? 美味しそうですね」
「うん。八百屋の屋根が壊れたから修繕したら、お礼に貰ったんだ」
貰ったオレンジのジャムは、早速食卓に並べる。
アリスは、意外と不快感のない生活に驚いていた。
魔導士として働くリュートの話は面白い。毎日、知らないところで、街のいろいろな場所で様々な事件が起きている。魔法の力でそれを解決しようとする魔導士達の奮闘は、聞いていてとても興味深いものだった。
「まあ、僕は大したことはしてないんだけどね。屋根の強度を上げるのには、魔法は適さないからさ。風で持ち上げている間に、大工を呼んで直して貰っただけでさ」
「屋根を風の魔法で持ち上げるなんて、私にはできません。やっぱり凄いです」
「それはそうさ。そのための魔導士だから」
有り余った魔力を使う場所があってありがたい。そう言うリュートは、意外と謙虚なのだった。
「もっと大きな魔法が使えたら、もっと大きなことができるんだけどね。ハリケーンの被害を食い止めることだって」
「ハリケーンの被害を、魔法で食い止められるんですか?」
「そうだよ。僕たちは、そのために研究をしている。もっと強力な風魔法が使えれば、ハリケーンの風を打ち消せるんだ」
リュートの青い目が、きらりと光る。
「だから僕は、さっさと人を愛して、魔力を高めたいんだよね」
「ああ、なるほど」
リュートが愛する人を見つけたいのは、魔力を高めるため。
それは、魔導士として出世するためではなく、天変地異で困る人を減らすため。
誰かのためになることに、ひたむきで、真っ直ぐなリュートに。
「……素敵ですね」
アリスが絆されるのも、仕方のないことだった。
***
アリスとリュートは、それからも毎日、夜には食卓を共にした。
「今日は、雨だからお客さんが少なくて。リュートさんのお好きな白パンが余りましたよ」
「お、嬉しいな。パンに合うベリージャムを買ってきたよ。アリス、好きでしょう」
互いの食の好みを知り。
「あ、その服、良いね」
「リュートさんが前褒めてくださったので」
「ああ、それなら僕も。ほら、君が好きだって言ってたネクタイを着けてきたよ」
互いの服の好みに合わせるようになり。
「あなたたち、今日も二人で来たのね。すっかり仲良くなったじゃない」
「イライザさんが僕たちにアドバイスをくれたおかげです」
「そう」
イライザにも認められるような、親しい雰囲気を纏うようになった。
「それで、『本当の愛』とやらはわかったのかしら」
「それは……まだですね。協会長の言う、『愛する人のためなら能力以上の力を発揮できる』のを、実感できてはいないので」
涼しい顔をして答えるリュートを見て、アリスの胸はちくりと傷んだ。
結局リュートは、アリスに対して特別な感情など抱いていないのだ。
口では「愛する人」と言うけれど、なんの実体も伴っていない。
どうしたらリュートの気持ちを動かせるのか、アリスには全くわからなかった。
「アリスちゃんは? 願いは何を叶えてもらったの?」
「あ……そういえば、まだでした」
「もったいないわよ。これでもヨハンさんに次ぐ、素晴らしい魔導士様だからねえ」
「それは言い過ぎだけど、僕にできることなら何でも叶えるよ」
それなら、本当の意味で私を愛してくれたらいいのに。
そう言いたかったけれど、言っても実現しないのは分かりきっている。だからアリスは何も言わずに、曖昧に微笑んだ。
***
露天で、目張り用の板が売り出され始めた。人々は保存食を買い込み、窓に板を打ち付ける。庭の物は室内にしまい、川辺には土嚢を高く積み上げる。
どことなく、ものものしい雰囲気が漂い始めた。ハリケーンがやってくるのだ。
見慣れた光景だけど、この時期はなんだか落ち着かない。
予報では、今夜にもハリケーンが来るとのことだった。日が落ちる前に帰りたい。帰路についたアリスも、足早に家に向かう。
「ママがいないよぉ」
か細い声が聞こえた気がした。アリスは、辺りを見回す。忙しく歩く人々の間に、立ち尽くす、腰の高さほどの小さな子供がいた。
両手を目に当て、ひっく、としゃくりあげる。
「どうしたの?」
話しかけている場合じゃないと思ったが、つい、声をかけてしまった。
「ママがいないの」
舌ったらずな言い方。
迷子だ。
「困ったねえ、どうしよう……」
周囲の人々も、もう帰りたい時間帯だ。周囲を見回すアリスと、目を合わせないようにして歩いていく。
露店を片付けている女性と、目が合った。
「魔導士協会に連れて行けば良い。困った時は魔導士様に頼みゃいいんだ」
「ありがとうございます」
「さっさと行きな。ハリケーンが来ちまう」
しゃがれた声で言われ、アリスは頷いた。
「ママを探しに行こうか。私と一緒に、魔導士協会に行こうね」
「……うん」
涙を拭いた小さな手で、子供はアリスの手を掴む。
怪しげな、生温い風が吹き始める中を、アリスと子供は二人で歩く。魔導士協会へは、先日一度歩いた道だから、迷わずに着くことができた。
協会の窓も、しっかり目張りがされている。いくら魔導士達が集まる場所でも、ハリケーンの大風には勝てないのだ。
「こんばんは」
「うん? どうしましたか、こんな日に」
建物の中は、思いの外静かで、穏やかだった。出てきた魔導士に、アリスは事情を話す。
「ああ、この子の保護者の方から、先程連絡がありました。買い物をしている最中、どこかへ行ってしまったそうで。こちらで親御さんに引き渡します」
「良かったです。ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございます。……ああ、そうだ」
アリスが子供の手を離すと、子供は魔導士のそばへ寄った。その子の手を取った魔導士が、思い出したように付け足す。
「リュートに会って行きますか? ハリケーンの備えをしているので、その辺りにいますが」
「え? どうしてですか」
「どうして、って。……いえ、差し出がましいことをしました。何でもありません」
にこ、と笑う魔導士に見送られ、アリスは外に出る。
「うわ、空の色が変……」
もう夜になるというのに、空は妙な桃色に染まっていた。それでいて厚い雲に覆われている。雲は、見たこともないような速さで動いていた。
「ちょっと、まずいかも」
通りには誰もいない。この街の住人は、ハリケーンがやってくる日には、あらゆることを投げ置いても家に帰る。ハリケーンの強烈さを、よく知っているからだ。
この街で生まれ育ったアリスも、それをよく知っていた。小さな頃から「ハリケーンの日は真っ直ぐに帰れ」と言い含められ、それを実践してきたから、こんな時間に外にいたことはない。
ぽつ、と小粒の雨が肩に当たった。
と思うと、ざあ、と遠くから音が迫ってくる。
瞬間、アリスの顔に激しい雨がぶつかった。
「うわっ」
うめいて開いた口に、水が入り込んでくる。あまりの勢いに、目を開けられない。強い風が前から吹き付け、歩くことも難しい。
魔導士協会に戻るべきだと思ったが、もう動けなかった。風に煽られ、転んでしまいそうだ。アリスはじりじりと体勢を落とし、地面にうずくまる姿勢になる。
どうしよう、どうしよう!
アリスは焦ったが、どうにもならなかった。生温い雨が服に染み込み、だんだんと重く、冷たくなる。
ぶわっ、と強風が吹いた。
うずくまるアリスの体の下にも風が入り込み、大きく持ち上がる。
まずい、飛ばされる!
掴むものを探して手を伸ばしたが、指先は宙をかいた。その瞬間、アリスの体は、風に飲み込まれた。
「きゃあぁ──」
叫んだつもりだったが、自分の悲鳴よりも、風の音が大きかった。
「──アリス」
聞き慣れた声が響く。
「大丈夫?」
リュートの声だ。
もう、風も雨も感じない。
これは死ぬ前の走馬灯だ。アリスは覚悟して、目を開けた。死ぬのなら、最後にリュートの顔を思い出したい。
「協会で待っていれば良かったのに。危ないだろう、こんな時に外に出て」
優しいリュートの顔。気付けば、雨も止んでいた。こんな短時間でハリケーンが収まるはずはないから、やはり、これは。
「走馬灯、なの──」
「不吉だなぁ。死ぬみたいなこと、言わないでくれよ」
「本当に、リュートさんなの?」
「他の誰に見えるんだい」
茶化すような言い方は、リュートのそれ、そのもの。苦笑する顔も、あまりにもリアルだ。
「だって、おかしいわ。こんなに早く、ハリケーンが止むなんてありえない」
「うん? ……あれ、本当だ。いや、違うな。僕たちの周りだけ、風が収まってる。ほら」
「……本当だ」
不思議な光景だった。
リュートとアリスの周りの空気は、穏やかに凪いでいる。しかしその向こうには、荒れ狂う風雨が見えていた。まるで見えない壁に遮られているかのように、二人の周りだけを、雨は避けていく。
「……というか、僕の魔法だな、これ」
リュートの、独り言。
「リュートさんって、本当に凄い魔導士なんですね……」
そう言う他ない、アリスの声。
「いや。僕には、こんなことできない。ハリケーンの風を食い止めるほどの、風の魔法だよ? そこまでの力はないさ」
「なら、どうして?」
「わからない? 愛の力だよ」
額に張り付くアリスの髪を、リュートの手が整える。その優しげな手つきは、愛おしさすら感じさせた。
「ようやくわかった。僕は君を守るためなら、実力以上の力を発揮できるんだ」
雨に濡れて冷えた手に、リュートの手が重なる。じんわりとした温かさが、沁み通るようだった。
「ねえ、アリス。これが愛なんだね」
その手に引かれて立ち上がったアリスを、リュートは胸で受け止める。
信じられない気持ちだったけれど、アリスの胸は、確かに震えた。
願っても、叶わないと思っていたこと。
本当に欲しかったものが、手に入った喜びだった。
「──願い事をひとつ、叶えてくれるんですよね」
アリスが囁くと、リュートは僅かに表情を曇らせる。
「うん、そうだけど──今?」
「はい。私は、本当の意味で、リュートさんが本当の意味で愛する人に、なりたかったんです」
はっ、と息を呑む音。一瞬硬直したリュートは、その後、満面の笑顔を浮かべた。
「なら、願いは叶ったじゃないか!」
胸が圧されるほどのきつい抱擁を受けて、アリスはくしゃりとした笑顔を浮かべた。
それは、ハリケーンに襲われた、暴風雨の街の中。
轟々と響き渡る風の音の中で、確かに交わされた、愛の告白であった。