深淵の洋館
ルーマニアにある、とある街の噂話。
満月の夜に街外れにある、丘の上の古城には近づいてはいけない。
さもなくば、城に喰われてしまうよ。
永遠に続く夜に囚われたくはないだろう。
一寸先も見えぬ濃霧の中に、男は立っていた。
深い闇のような黒い外套で身を包んだ、怪しげな男だ。
その外套の下からは、カチカチと金属同士が擦れ合う音がする。
白髪の上には、西部劇の保安官のような帽子が乗せられており、顔には黒い眼帯をしていた。
年齢は若く、二十代前半といったところか。
キィキィ、と夜の冷たい風に当てられて、金属製の錆びた柵が音を響かせる。
男の隻眼が見据えるのは、古びた洋館。
その三階建ての大きな屋敷は、吸血鬼の住処のような雰囲気を醸し出してはいるが、外壁に蔦が絡み付いていたり壁の至る所が崩壊しているところから、廃墟であることは敷地外からでも見て取れる。
男が洋館に向かって歩き始めた。
その時――、
「――っ!!」
風を斬る音がした。
男が後ろに飛び退くと、先程まで彼がいたその位置に、刀が振り下ろされる。
「……へぇ、完全に不意打ちだと思ったんだけど?」
凛とした女の声だった。
そこにいたのは、黒髪黒目の、幼く見える顔立ちの女性だ。
歳は十代後半といったところ。
少し小柄ではあるが、その身から放たれる気迫は、一般人のそれではなかった。
「東洋人か」
「だったら何?」
女は一つに結んだ黒髪をはためかせながら、男に向かう。
彼女の瞳に宿るのは、純粋な敵意。
それを感じ取った男は、外套の中から散弾銃を取り出し、引き金を引く。
しかし、それを予測していたかのように女は避け、一拍で男の懐へ潜り込んだ。
一閃。
女の刃は、男の喉を切り裂き、鮮血を散らせる。
男は倒れ、少し痙攣した後、動かなくなった。
「あら、これだけで倒せたのね。だとしたら本当に人間だったのかしら……」
女は少し考えると、
「まあ、いいわ。どうせこんないわくつきの場所にいるのなんて、碌なヤツじゃないのは確かだもの」
そう結論付けて、洋館へと歩き出す。
金属製の柵に手をかけたところで――、
「止めろ!!」
「――えっ」
女の背後から人の声が聞こえたと思うと、突如として風が吹き、濃霧に体が包み込まれてしまう。
「……一体、何が……」
絶句。
その後に言葉は続かなかった。
何故なら、そこには洋館があったからだ。
――廃墟ではなく、光の灯った、今も使われていると思われるような状態で。
女は眩暈に襲われるような感覚を覚えた。
まるで時間が巻き戻ったようだ。
「だから、止めろと言ったのだ」
ビクリ、と女の肩が揺れ、勢い良く声のする方向へ振り替える。
そこには、黒い外套に身を包む、怪しげな男が立っていた。
「アン、タ、死んだはずじゃ……」
「俺は不死だからな。あの程度では死なん」
もう一度斬りかかるべきか、そのような考えが女の脳内を駆ける。
「再び俺を殺すのは止めておけ。時間の無駄だ」
「……!」
「それよりも、我々は既に屋敷に喰われている。後ろを見てみろ、敷地内だ」
一度刀の柄から手を離し、言われるがままに見てみると、確かに通過した覚えのない柵が背後にあった。
「……出れないの?」
「だろうな。外から見た時と、内から見た時、屋敷の様子が明らかに違う。隔離空間に囚われたと見ていいだろう」
「……解決法を見つけないといけないってわけね」
「そうなるな」
女はため息をつくと、
「まあ、いいわ。それが私の仕事だもの」
「そうか……っ、来るぞ」
複数の足音。
その正体は、多数の狼だ。
ただし、体の半分程が何らかの骨で覆われている。
「――こいつらも不死だ、っていうんじゃないでしょうねぇ?」
「試してみたらどうだ?」
「上等!!」
男の呆れたような声に、女は口元を歪ませて答えた。
狼が一斉に二人に向かって襲い掛かる。
しかし、男にしてみれば、隣にいる先程の女の動きの方が遥かに速く、冷静に対処が可能だった。
一体一体を、散弾銃で吹き飛ばしながら、一撃もくらわずに軽々と乗り切る。
女に至っては、狼たちの倍以上の速さで動き、まるで骨の鎧を着ているかのような狼を、一刀のもとに切り捨てていく。
ほんの数分もしないうちに、その場で動くものは二つの人影を残して他にはいなかった。
「さて、と。こうなりゃ一蓮托生か」
女が腰に下げている鞘に刀をしまいながらそう呟くと、
「私の名前は、神裂火向。職業は魔術協会の始末人。アンタは?」
男に向かって尋ねる。
「……俺の名前はメイザース。職業は狩人だ」
霧が晴れて、露になった夜空には、満月のみが輝いていた。