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フッサールの現象学 を 読み解く  「ウアドクサをエポケーして純粋意識だけを残せ」 知の基礎学としての現象学 フッサール試論

作者: 舜風人

前説   私とフッサールとの出会い






さて、

今からおよそ40年以上前、そんな昔のことだった。

私は当時、大学生で、、山深い、いなかの県の貧農の倅が、はるばる哲学者になりたくて?

花の大東京に出てきて哲学科に入学していたのだった。


だが現実は厳しかった。私が住んでいたのは三畳一間の古びた下宿で

築50年以上は立っていようかというボロ下宿、廊下を歩くとミシミシ軋んだものだった。

カビ臭がいつも廊下にも部屋にもたち込めていたっけ、、。

ただ寝るだけの部屋です。ガスも水道も何もありません。

正に今でいうところのカプセルホテルである。カプセルホテルほどきれいではないが、、。

確か下宿代は月に4500円だった(と記憶している)


貧乏学生の私は食うものも節約して食事は学食のBランチ、あとはもっぱら図書館で読書に明け暮れるというマジメな生活

図書館はタダだからそこが唯一のわたしの居場所だったのだ。、

そうして4年間があっという間に過ぎて、、、

指導教授のZ教授は「君。大学院へ行ったらどうかね?」と誘ってくれたのだが

いかんせん、そんな学資金はなくて、私は就職選択。



結局、、私は哲学者にはなるという夢は放棄して、、

、就職氷河期のあの頃50社以上受験してやっと合格、

見ず知らずの地方勤務へ、、それから有為転変の生涯をたどり

引っ越しも15回もすることになるなんて、、思いもしませんでした。

山坂いくつ超えただろう、今こうして老残の身を片田舎にさらしているのです。

まあ、でも振りかえれば、、これも私の天命だったんでしょう?

まあ、言い訳めきますが、今でもそこらの三流大学の哲学教授には負けないくらいの哲学の知識は持ってると自負しているのです。



ただ運命は私を大学教授にはしなかった?

そして15回もの引っ越し人生を負わせた?

ということなのでしょうね?



ところで、、授業のない日は神田の古書店街を渉猟するのも楽しみだった。

店頭の露台に1冊どれでも100円の古本が無造作に置いてあってそこから選び出すのが

楽しみでしたね。

けっこう探すと拾い物(掘り出し物)があるんですよ。


たとえば今でも持っていますが、、、


箕作源八の    仏蘭西革命史上下        図版が多くてきれいな本です。

ヘルダー(ヘルデル)の    歴史哲学            分厚い本です。

田辺元の     自然科学概論 最近の自然科学  これで自然哲学に目覚めました。

石原純の     相対性理論

北伶吉が訳した  『近世哲学史』(上・下)へフディング著  分厚い本です。

茅野蕭蕭の    独逸浪漫主義        ドイツロマン主義にかぶれました。


などなど、、、、がありました。

私にとってはまさにお宝本です。

さてそんな中で神田の古書店街の一角に

文庫専門の古書店があったのです。

そこには

絶版岩波文庫が結構な高値で並んでいましたね。


ノヴァーリスの「断章」が確か?上中2冊で3000円


全知識学の基礎   フィヒテ  2000円


カントとマルクス   フォーアレンダー


唯一者とその所有 シュチルナー(スチルネル)


などなどが結構高かったと記憶しています。


さてその中に


こんな岩波文庫がありました。

それは


純粋現象学及現象学的哲学考案   フッセル  池上謙三 訳 1941年


田舎哲学少年のわたしが知るわけもないようなこの哲学書


聞いたこともありませんでした、


だって当時スマホがあるわけじゃなし

インターネットがあるはずもないし、

始めてみる名前でした。


フッセル??って誰??


そしてこの長ったらしい、こむずかしそうな書名


純粋現象学及現象学的哲学考案  


一目で私はとりこになってしまったのです。

それが私とフッサール哲学との初めての出会いだったのです。


当時は「フッセル」  って言ってましたよね?

だが出会いは一目ぼれでも?


純粋現象学及現象学的哲学考案   フッセル 岩波文庫 1941年


この本は相当手ごわくて青二才の私には到底理解不能だったと記憶していますね。

歯が立たずに投げ出してしまった、、、、ということです。

訳文も訳語も戦前のものですから、、相当、違和感?があるものです。

ずっと後に刊行された1970年ころの、みすず書房版の「イデーン」は。訳語もわかりやすいですね。



だがこのやたらこむずかしい書名はいつでも私の頭にこびりついていて、

時折ふと脳裏によみがえってくるのでした、

が、、日常生活に追われてじっくりと再読することなど不可能でしたね。


その後、私が40歳を超えてから、、


あの純粋現象学及現象学的哲学考案   フッセル  1941年


というのは実は


「イデーン」という大著のごく一部の部分訳だったと知ってから改めて研究してみるとやっとおおよそのフッサール哲学の全貌がおぼろにみえてきたのでした。

そのころになると結構フッサールの研究書もたくさん出てきていたのでそれもあります。

ところで、最近もう一つ。フッセルのこの本の部分訳が戦前にあることをネット検索で知りました。


それは、世界大思想全集75 フッセル 純正現象及現象學的晢學觀  鬼頭英一、訳 1932年

です。岩波文庫よりこちらが古いですね。この本は最近まで知りませんでした。


さて

この「イデーン」はみすず書房から1970年代に全訳が出ています。これは訳がこなれていて良いですね。



さてだいぶ前置きが長くなりすぎましたね?



それでは、、、、







本論   フッサールの現象学を読み解く




その1



フッサールのフェノメノロジー(現象学)についての小論



まずはじめにフッサールの現象学とは。すべての現象を意識に還元するということです。



つまり意識が先か、現象が先かという次元でいえば




意識が先だということです。




なぜならそもそも現象は、、意識の指向性によってその都度意味づけされるべき現象であり、



現象の先の「物自体」などというのはあくまでも意識の仮想でしかないからです。




現象を現象足らしめるのは、意識であり意識の指向性です。




しかし科学とはそもそも、その研究対象である「事象」を意識の外に実在すると仮定して



定立することを大前提にしているわけです。




しかし、フッサールは



「それは意識の思い込みにすぎない」と断言する。




純粋に思惟すればそもそも意識の外に対象が実在しましてや



「物自体」というような客体が実存するというのは



いかにしても証明することは不可能なのである。




なぜなら?我々は意識の外部で現象を考察することができないからである。




だからすべての思い込みを捨象して



現象そのものから。再吟味しよう。




これがフッサールの「現象学」の出発点、原点なのである。




現象がすべて実在するという思い込み。




現象の背後には「物自体」が実在するという思い込み。




それを今、捨象しよう。




そして意識の側から再検討しよう。




そうすると、




現象とは、現象自体として実存するのではなく




私の意識の指向性の範疇で意味づけされて




初めてそこに、現象しているという事実に気が付くだろう。






第一定理




「現象は意識の指向性の意味づけに於いてのみ存在する」






その原点からフッサールは改めて諸現象の再吟味をすると、




まず、現象の実在性をいったん「保留」エポケーするべきだとフッサールは言う。




そして現象が意識にどう働きかけるのかを再吟味するべきだと主張する。




このコペルニクス的還元によって




フッサールは、現象が実在するという定見を保留して




意識の方からの現象への指向性によって現象がどうとらえられるかという




現象への能動性を、、指向性を




「現象学的還元」と名付けた。




ここにいわゆるフッサールの「現象学」が、定礎されたのである。





第2定理




「意識の側からの現象学的還元をせよ」






ここからフッサールはさらに進めて




科学の客観性と人間の生活世界の乖離についても疑問を投げかけるのです




すなわち人間の主観はあくまでも、ただの幻想であり




科学の客観性と事物の実存こそが真理だという科学的態度こそが




そもそも誤謬なのではないか?というテーゼ。




桜を科学的に分析してじゃあ、さくらは美しいという結論が得られるだろうか?




答えは否である。




そうではなく、意識の側からの指向性途意味づけこそが




桜を美しいと意識するのではないのか?




そういう意識世界こそがむしろ




正しいのではないのか。




フッサールはそういう現象への意識付けを





「生活世界」と名付けて本来の現象認識の正しい姿としたのである。





第3定理




「生活世界からの現象の再吟味をせよ」





晩年のフッサールは




哲学を人間の生の学問といちづけて




すべての現象を人間の生に還元しようとしたのである。






第4定理




すべての現象は人間の生に還元される」






こうしたフッサールの研究は




後の心理学




社会学




精神医学などに





多大な影響を及ぼしているのである。




その2、 知の基礎学としての現象学



そもそもフッサールの哲学(現象学)とは「知の基礎」の定礎です。


つまりヘーゲルのような総合的な体系哲学ではありません。


(注)ヘーゲルの現象学とフッサールの現象学は似て非なるものです。(別物です)


フッサールが跡付けようとしたのは


知の方法論です。


つまり一種の方法論


というか、認識論です。



私たちの認識とは、私たちの意識に現象するということです。


そして直ちにわれらの意識のありように応じて現象が変化します。


現象は意識に現れて、意識に認識される。


ということは意識は常に現象にかかわり働きかけている、、ということです。


このように現象に向かって働くということをフッサールは


「志向性」と呼びます。


意識は現象を志向しその都度現象を意味づけして理解する。


つまり意識によって意味づけられない限り現象には意味がないのです。


だが意識の外に実在者が存在してあらかじめ意味を持っている


というのが今までの、見方だった


これを自然的態度という



だがそうではないと、、フッサールは言う。


意識づけられない限り存在者は存在しないのだ、


そういう新しい観点からの見直しのこそ学問の基礎として重要なのではないか?


フッサールはそういう新しい見方を「現象学的還元」という。



われらの認識は本当に存在を客観的に把握しているのだろうか?


言い換えれば今わたしが見ているそこの「椅子」は本当に椅子なのだろうか?


ということだ。



ふつうは椅子がそこに存在して私がその現象を認識していると思い込む。


だが?待てよ?


本当に椅子はそこにあるのだろうか?


一旦保留して、対象が意識にどう表れるか検討した方が良いのではないか?


これが現象学的還元である。


見え方によっては椅子は必ずしも実在しないのではないか?


こんなあやふやな態度で果たして


「厳密な学としての哲学」が成立するのだろうか?



フッサールは言う



「世界がこのように見えているのは世界がこのようだからではない。


認識している意識がそう意味づけしているからである」



こういう「自然的見方」をしている限り


学の厳密性は担保されないのだ。



フッサールはこういう自然的、、伝統的な見方を「ウアドクサ」と名付けた。



純粋意識によって裸にされた現象をとらえない限り


我々は、客観的に見ていると「思い込み」だけである。



いや、だれに聞いてもみんながそう見える、、、って言ってるよ。



でもそれはもしかしたら「共同幻想」かもしれないじゃないか?



つまり我々が真理と思い込んでることも実は


「思い込み」にすぎないかもしれないのだ。


そのように、フッサールは言うのである。



ではどうしたら厳密な学の基礎は出来るのだろうか?



まず思い込みを排除するためにいったん「判断を中止」しなさい。



「エポケー」しなさい。とフッサールは言う。



そして意識を裸にして「純粋意識」だけを残しなさい。




そうして「事象そのものへ帰る」のです。



そうした作業を経て初めて


学の基礎ができるのです。







以上が私が読み解いた、ごく簡単なフッサール哲学の見取り図です。



もちろんこれはフッサール哲学のほんのサワリにすぎません。












(注)あくまでも私の個人的な解釈であり学術的に正当性があるかどうかは保証できません。





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