世界よ!私は帰ってきた!
「…コちゃん!ユミコちゃん!」
…なんだ…?誰かが私を呼んでいる。やけになれなれしい呼び方だ。
瞼を開くとまぶしい日差しで目がくらんで周りの景色がよく見えない。どうやらここは外で、私は地面に寝転んでいるらしい。頭がはっきりとせず、自分が直前まで何をしていたかよく思い出せない。クソ、はしゃいで飲みすぎたのだろうか。
「よかった、目を覚ました!後ろで物音がしたから振り返ってみたら君が倒れてるんだからびっくりしたよ。」
だんだんと目が慣れるにつれて目の前にいるのが年若い美少年だとわかる。優しげな目元がいかにも王子様という雰囲気を醸し出していて、若い少女ならすぐに恋に落ちてしまいそうだ。
むこうは私のことを知っているようだが私には少年の顔に覚えはないし、30ほども離れているであろうガキに舐めた口をきかれて正直腹が立った。
「なんだいお前?」
……あれ?なんかおかしいな。
「お前⁉いや…俺のこと忘れたの⁉」
「あんたのことなんて知らないよ」
「ええっ⁉」
やっぱりおかしい。
自分の口から出る声に違和感を感じる。50近い女にしては声が若すぎる。私の声は新兵に恐怖を抱かせる鬼の雄叫びと評判だったはずだ。失礼な、私はうら若き乙女だぞ、と反論すると騎士団の連中に爆笑されたが。
冷静になってあたりを見渡す。もうすっかり視界は正常に戻り、周囲の風景を完璧に捉えることができる…はずなのだが、私の頭はその視覚情報を処理できずにいた。
なぜならこの景色はどう見ても長年過ごしてきた王国の景色ではなかったからだ。どうみてもこの灰色の舗装された道路やそこを行きかう鋼鉄の乗り物は転移前の世界の産物ではないか。
戸惑いながら必死で状況把握に努めようとする。まずは自分自身の状態を確認しなければ。戦士たるものいかなる環境下でも十全のパフォーマンスを発揮しなければならない。ダリル団長の教えである。
視点を下げ自分の胸元あたりを見つめる。
……そこには数々の闘いの中で鍛え抜かれた戦士の肉体はなく、どうしようもなく貧弱な少女の肢体と明らかに騎士団のものではない紺色の制服があった。
「はぁぁぁぁぁっぁ⁉なんだこりゃああああ!!!」
「ほんとどうしたのさユミコちゃん!」
私が長年鍛え続けた完璧な肉体美が……。50が目前に近づいてきてもそれはそれで老成した筋肉の美しさがあると思って絞ってきてたのに……。
いや冷静になれ。身体もそうだが問題の本質はそこじゃない。ここはどう見ても私が転移する前の世界、この服は確か当時通っていた学校の制服のはず。
さらになんだこのナヨナヨした身体は。頭も馬の尻尾のような長い髪の毛が左右からぶら下がっていて非常に鬱陶しい。顔を触ると肌は柔らかく、まだきめ細やかなツヤを残しているではないか。
以上のことから私は10代までいた元の世界に戻ってきていると推測できる。そしてさっきからオロオロしている情けない優男は確かマサト。
そうだ、だんだん思い出してきたぞ。私は魔族の残党の毒爪にやられて死んだはずだ。確かに全身の感覚が麻痺して意識が遠のいていったのを覚えている。しかし、昔さんざん調べても見つけることができなかった帰り方がまさか死ぬことだったなんて……
いや、待て!そんな都合のいい話よりこれは何者かが幻術を使っていると考えた方が自然だ!きっとそうに違いない!
この王国騎士団長の私が幻術なんかにかかるとは……。魔族の四天王のうちの一人、幻惑のザグリファと戦った時に永遠の地獄巡りをさせられた以来だな。だがこれが現実とわかったからには抜け出すのは容易い。へそのあたりに気を集中させて……
「フンヌァッ‼」
幻のマサトがびくっとする。
あれ?何も起きないな……?魔族最強の幻術使いを破った私の気合が効かないだと⁉かくなるうえはこれだっ!
ドバキィ‼
17歳の細腕から繰り出される拳が自身の顔面を強打する。幻覚から覚めるには強いショックだと相場が決まっているのだ。
「さっきから何やってるの……?救急車呼ぼうか……?」
なんでまだお前がいるんだマサト‼さっさと消えろよ!この幻!
拳がヒットした鼻先の痛みを堪えつつ、思わずマサトを睨みつけてしまう。
「ひいぃっ!ユミコちゃん、今日本当に様子変だよ?さっきも倒れてたし……。あっ、さては寝不足?」
「うるさいよ!どっかで高みの見物決めこんでるんだろうが、さっさと姿を現しな!3秒で沈めてやるよ!」
正体不明の幻術使いに対してそう叫ぶ。
「言動が意味不明な上にバイオレンス!」
涙目になっているマサトは無視して思考を巡らせる。これだけやっても抜け出せないということは、まさか本当に幻術ではないのか?
よくよく考えてみれば、幻術の効果には術者の細かなイメージが大きく影響するはずだ。あちらの世界の住人がここまで完璧に私の通学路の街並みや同級生の顔を再現できるとは考えにくいし、何より自分には確かに魔族に殺された感覚がある。一人の戦士として、あれは間違いなく「死」の感覚だと断言できる。
「じゃあ……本当に戻ってきたのか……?」
信じられない。それでも目に移るすべてが再び世界を転移したという事実を物語っている。かつて世界を渡る方法を血眼になって探したこともあったが、それが今現実となってしまった。
いきなり通学路から異世界に飛ばされて戦士としての素養を見出されただひたすらに戦い続けること30年。
10代のころは元の世界のことを思い出し枕を濡らしたことも少なくなかったが、血みどろの日々の中でそのうち家族の顔さえも曖昧にしか思い出せなくなってしまった。しかし今は不思議と両親も兄の顔もはっきりと思い出すことができる。その記憶が論理的な思考よりも私に「帰ってきた」と訴えかけていた。
今まで諦めて、捨てて、強さに変えてきたもの、かつて取り戻したいと願っていたものが今は近くにある。
仲のいい友達などいなかった。はじめの10年は生き残るために必死で己の肉体と技術を鍛え上げた日々だった。
女の楽しみなんて知らない。年頃の少女のように着飾る余裕はなかった。身に付けるものは簡素な軍服と全身鎧、その下はいつも傷だらけだった。
平和な日々は最近になってやっと手に入った。そのために尽力し続けた30年だったのに私の心は最後まで休まらなかった。
遠くでバイクのエンジン音が聞こえた。何十年ぶりだろうか、涙がこぼれた。