1話 異世界転性!
ここは数多ある世界の中のひとつ。
それも、勇者や魔王がいたり、国同士で利権争いをするなどといった、殺伐としたものが一切ない平和な世界『フェアリスタ』。
そんな世界のなか。大きな森を抜けた先に建つ家で、ある日一人の女の子が産まれました。
女の子は「エマ」と名付けられ、優しい両親と豊かな自然に囲まれ、すくすくと成長していきました。
そして、春の陽気に包まれた今日は、エマがこの世界に誕生してちょうど16年目の日。
彼女は、長く結われた黒髪のポニーテールを揺らしながら、上機嫌に庭のお手入れをしていました。
◇
「よ〜しよし、今日も綺麗だね〜」
暖かい日差しを身体全体に感じつつ、花壇に咲く花に水をやっていく。
すっかり日課となった庭の手入れだけど、今日はそれがなんだか嬉しくなって、ついつい張り切ってしまう。
「エマ~? 機嫌が良いのはいいけど、後で森に果物を採りに行くの、忘れてないでしょうね~?」
名前を呼ぶ声が聞こえて、俺はその方向に向かって手を振りつつ返事をする。
それと同時に、お気に入りの白のワンピースも風にはためいた。
「エマ……か」
先ほどの声の主である彼女には聞こえない声で、小さく呟く。それと同時に、嬉しさなのか懐かしさなのか分からない、不思議な気持ちが胸に浮かんだ。
「エマ」……それが俺、榎本優真の今の名前。
そして今日は、俺がエマとして生まれて16回目の誕生日。
時が経つのは早いもので、あの日女神様に導かれ、このフェアリスタで女の子として生まれ変わってから、16年も経った。
いやぁ、ランダム生成を願ったときには、来世で生きる世界は前世とは異なる可能性もある、程度のことは考えていたけど、まさか性別まで変わってしまうとはなぁ……。
そのことを認識し始めた頃は、それはもう困惑しまくったのを今でも覚えている。
そもそも今の俺は、本当に転生を果たした榎本優真自身なのか……なんて哲学的なことを考えるほど悩んだ時期もあったり。
しかしながら、リリスのおかげで前世の記憶はちゃんと残っているわけで。
それに、この世界に導いてくれたリリスを責めるなんてことは的外れだって分かってたし、絶対にしたくなかった。
だったら……くよくよ悩んでいるよりも、今はこの女の子の姿で、この世界を謳歌することの方がよっぽど建設的だと思えた。
……なんて、俺がこんなにも明るく、前向きに開き直れたのは、俺をここまで大切に育ててくれた、優しい今の両親あってこそなんだけど。
「……エマ? エマってば! なにボーッとしてるの、服が濡れちゃってるわよ」
「え? わわっ」
再びかけられた声に気づいたのはしばらく経った後だったか。
気づいた時には手に持ったジョウロからは水が滴り落ちていて、濡れた服が足に張り付いていた。
「ひゃー。あはは、やっちゃった」
「んもう、何度も声かけたのに〜」
呆れ気味に言いつつも、顔には笑みを浮かべている彼女。先ほどから会話をしている彼女こそ、俺の今の母親のユキさん。
ユキさんは、俺が16歳になった今でも、母親離れなんて考えたこともないくらいに、容姿も性格も素敵な「お母さん」である。
そして、わりと今でもしっかり男の意識が残る俺が、少しは女の子らしくなった……と自分では思うのは、彼女の教育の賜物だったりする。
その昔、女の子である自覚が薄かった頃は、自分のことを平気で「俺」と呼んだり、結構粗雑なことをしていたのだが、それがユキさんに見つかった日にはニコニコ笑顔のまま朝から夕暮れまでお説教されたのを今でも覚えている。
彼女無しに、今のエマの姿は存在しないといっても過言ではないのだ。
「そうだ、私、このまま森まで行ってくるね。走っていけば多少乾くだろうし」
「またすぐそうやって男の子みたいなこと言う」
「う……だって着替えるのめんどくさいだもん、行ってきます!」
そう言いつつ、彼女の元から逃げるように走り出す。
一人称も私にしたし、女の子らしくなった自覚はあるけど……根っこの部分は変わらないし、変えたくないものだから。
◇
「よい……しょっと! うん、美味しそうなのが採れた」
家から小川を挟んですぐのところにある、通い慣れたいつもの森。
木々には多くの果物が実っているが、小柄な俺にとっては収穫するのが少し大変だったり。
目いっぱい背伸びをして、なんとか採れた果物を持ってきた袋に入れていたところに、草木の間から薪を背負った男性が近づいてきた。
「おっ、エマも来てたか。……なんだ、果物くらい言っといてくれりゃ俺が採ってきてやったのに」
「だって、お父さんに任せると何採ってくるか分かんないし。この前変な色したやつ採ってきたの、忘れてないからね?」
目の前の男性……俺の父親のローグさんは、気まずそうに頬をかいた。
「お前も母さんに似て根に持つタイプだよなぁ。いいじゃないか、アレ結構うまかったし」
「いやいや、味だけで決めていいものじゃないんだってば。それにこれ、私の誕生日ケーキ用なんだから」
「ケーキか……エマもすっかり女の子らしくなったよなぁ……。昔はあんなに俺と外で遊びまわってたってのに」
またいつものか、と呆れる俺とは対照的に、しょんぼりとした表情を見せる彼。
そのガタイの良い褐色の身体には絶望的に似合わない。
ローグさんもまた、いかにもお父さんって感じの風格ではあるが、先ほどのセリフからもわかるように、俺を溺愛している節がある。
実際のところ、昔の俺はローグさんと共に、毎日外を駆け回っては全身を汚して帰るという、野生男児のような生活をしていたこともあった。
前世があんなだったぶん、元気な身体で過ごせる喜びからくる欲求は、頭じゃ抑えられないのものなのだ。
まあこれも案の定、ユキさんに「女の子らしくしましょうね~」と"矯正"されたというエピソードを持つ、良き思い出の1つである。
「それでも可愛らしく育ってくれたことは嬉しいもんだ……。まあ、母さんが可愛いからその子供が可愛いのも当たり前か! ガッハッハ!!」
「……あの、お父さん? もしかしてその恥ずかしいセリフ、余所では言ってないよね?」
改めて、うちの父親は俺を相当溺愛している。
……なんだか猛烈に嫌な予感がした。
「何言ってやがる、娘を自慢するってのは父親の仕事みたいなもんよ! この前も旅行屋の兄ちゃんに『最近娘のおっぱいが母さんに似て大きくなってきてよう』なんて言ったら、兄ちゃん顔真っ赤にしちゃって……」
そこまで聞いて、顔が熱くなった俺は我慢出来なくなって駆け出す。
せっかく収穫した果物が何個か足元に落ちたが、今はそれを気にする余裕もなかった。
「あれ? おいエマ、もう帰るのか? 急に走り出すと危ないぞ」
「うるさいセクハラ親父! 知り合いになんてことを言いふらしてんだ!」
可愛いとか言われるのはまだしも、む、胸とかいざ他人に指摘されると結構恥ずかしいんだぞ!
「あーもう最悪! 絶対お母さんに"お説教"してもらうんだから!」
「待て、お説教だと!? た、頼む、それだけは!」
「ちょ、その巨体で追いかけてくるな変態ぃー!」
……なんて慌ただしい日々を送りつつも。
俺はこの優しい世界で、女の子として幸せな日々を過ごしている。
少し心残りなのは、あれからリリスには一度も会えていないことだ。
リリスには是非、こうして幸せになれた俺を見てもらいたいものだが。感謝の言葉も伝えたいし。
まあ女神だって暇じゃないだろうから、俺の事を覚えててさえくれれば、それでいいのかもしれない。
◇
「「エマ、誕生日おめでとう!」」
「ありがとう、お母さんお父さん!」
日は沈み、星が輝く夜。
あの後、結局ローグさんは俺へのセクハラをユキさんにこってり絞られ。
かつて無いほど静かになった彼を放置しつつ、俺とユキさんで誕生日パーティの準備をし、今はその祝いの席だ。
俺は未だに嬉しさで涙が出そうになるのを堪えつつ、二人の祝福を受けていた。
ユキさんの作った美味しい料理と、採れたての果物を使ったケーキを堪能した後。
「まずは俺からだな! ほれ、お前が欲しがってた本だ。探すのに苦労したんだぜ?」
すっかり元気を取り戻したローグさんから、誕生日プレゼントの本が渡される。
ローグさんは昔からこうして俺に多くの本を読ませてくれて、そのおかげで読書は俺の新たな趣味となった。
本の題名は『言語の歴史』。
フェアリスタの言語は、当然と言えば当然だが前世のそれとは異なるものだったので、こっちの言語の勉強のついでに、記録として残しておきたかったのだ。
「私からはこれね~、気に入ってくれるといいけど」
ユキさんからは掌サイズの箱が渡される。開けてみると、中にはピンクのバンドが可愛らしい腕時計が入っていた。
「二人ともありがとう! この腕時計、明日から早速付けちゃおっかな~」
愛情を感じるプレゼントに喜ぶ俺を、二人は笑顔で見つめていたのだが、やがてその表情が真剣なものに変わっていることに気づいた。
「……? どうしたの、二人とも」
俺を不安にさせないようにか、もう一度優しげに笑みを浮かべる二人。
そして彼らはお互いを見つめ、その意思を確認するように頷きあった後。
俺を正面に見据え、ローグさんはどこか気持ちを落ち着けるように紅茶を一口含んだ後、話を切り出した。
「エマ、大事な話があるんだ。よく聞いてくれ」
低いトーンの声に、思わず背筋が伸びる。思えば、彼ろこんな風に真剣に話をするのは初めてかもしれない。
「うん……分かった。いいよ、お父さん」
「ああ……」
と、彼はそこで言葉を切って一呼吸した後。
「単刀直入に聞くぞ。……エマ、旅に出てみる気はないか?」
「……えっ?」
左腕にはめようとしていた腕時計が、小さな音を立ててテーブルに落ちた。
あまりにも予想外で、衝撃的だったその一言。
俺は落とした腕時計にではなく、発言者である彼と、その隣に座るユキさんを交互に見つめることにしか意識を向けることが出来なかった。