夜明け、穴が空いた。
午前四時、窓の外は暗く静まり返っていた。中学生の亘は小柄な体を静かに起こすと、するりと布団から抜け出した。
亘の住むこの家は小さなアパートで、畳敷きの寝室は三人川の字で寝るには窮屈だった。今春新しい家に引っ越そう。と、母親とあの人が楽しそうに話していたのを思い出し、亘は渋い顔で小さく舌打ちした。
ふと視線を足元に向けると母親の寝顔。その下には大きく膨らんだ腹がある。この中には、亘とは父違いの弟だか妹だかがいるらしい。
自転車の鍵と家の鍵はダウンジャケットのポケットにいつも入っている。少し大きいそれをパジャマの上から羽織って亘は家を出た。
頬にあたる風には質量がない。なのに当たると擦り傷ができたようにピリピリと痛む、まるで氷の破片が皮膚を掠っているように。
亘は自転車をこいで灯の少ない住宅街をがむしゃらに駆け回った。心臓の鼓動が爆音になって耳をふさぐ。毎晩のようにこうして外を走ると、少し胸が軽くなる。あの家は息が詰まる。それは狭さのせいだけではなかった。
一時間ほど走ると決まって最後は学区外の小さな公園にたどり着く。煌々と光る自販機ではちみつレモンの温かい飲料水を買った。
亘はそれを半分ほど一気に飲むと大きく息をついた。これで大丈夫。今日一日、自分は自分として過ごせるはずだ。
その公園にはドーム型の穴の開いた遊具とブランコがあるだけだ。亘はそのブランコの一つを占拠している。
きっと昼間は子供の声が響くであろうそこに今響くのは、亘が小さく揺らすブランコの金属音とため息だけだった。
はずだった。
「こんばんわ」
頭上から聞こえた少女の声に亘は顔を上げた。慌てたものだから少しバランスを崩し、こぼれたはちみつレモンがズボンに染みを作る。
ドーム型遊具の上に亘と同じ年恰好の少女が立っていた。二つに結んだ髪がすこし癖を帯びている。瞳の大きな少女だった。
「最近よく見る顔ね。こんなところで何しているの?」
「おまえには関係ない」安らぎのひと時を邪魔された亘は不機嫌だった。
「関係無くは、無いわ、私はここに住んでいるのよ」そう言って彼女はつま先でドーム型遊具を叩いた。
「嘘つけ」
「…………ばれたか」少女は悪びれぬ顔で首を傾けた。
少女は遊具から軽い足取りで駆け降りる と亘の目の前までやってきた。
「なんで嘘だと思ったの?」
「ホームレ スの中学生がそんな恰好なわけないだろ」
少女の身なりは遠目に見てもかなり整っていた。ファー付の真新しい白のジャケットは汚れがなく、ミニスカートの下からのぞく太ももは無防備すぎた。
「嘘をつくならもっとまともにつけよな」
「少しくらい興味持ってくれてもよくない?」
「俺は現実主義者だから。そんなお遊びに付き合ってらんないの」
「現実主義者、ねぇ……。私から見たら、君は現実から逃げてここに来ていたように見えたけど?」
ギギ……っと、亘の体に入った力でブランコが軋んだ。
「私の家、ここの近所。窓からよく見える。」
「なんでちょっと片言っぽいの……」
「学区の子ではないみたいだし、いつも思いつめた感じだったから、ちょっと気になったのよ ね」
「おせっかいなことで……。もし俺が変質者とかだったらどうすんのさ」
「そのときは……全力で逃げるわ。ふふふ」
「ばっかみてぇ……」
少女のおどけた態度に、なんとなく肩の力が抜けるような気がした。
「母さんが一年前に再婚したんだ」
「それでそれで? 君は反対しなかったの?」
「……俺のせいで苦労かけてたし、ちょっと嫌だったけど、我慢できると思って」
いつの間にか亘は少女に、これまでにあったことを根掘り葉掘りしゃべらされていた。
亘の隣のブランコに少女が腰をかけて揺れている。ちらちらと視界の端に移る太ももに罰が悪くなって、亘はまともに目を合わせられなかった。逆にそれが独白にちょうど良かったのかもしれない。
母親の再婚相手であるその人は優しかったし、亘を邪険に扱うでもなく、実子のように世話を焼いてもくれた。だからこのまま上手くやっていけると思った。
しかし、夏の終わりに母親の妊娠が発覚して、 それは大 きな思い違いだったと確信した。
「気持ち悪い、汚いって思っちゃったんだ。この家で、もしかしたら俺の寝ている隣で起こっていたかもしれないことを想像しちゃって……」
「……ホテル行ってしたに決まってんじゃん。……ばかなの?」
「そういう問題じゃないんだよ……っていうかそういう生々しい言い方やめてくれ」
「君だってそうやって生まれてきたのに。何を今さら?」
「わかってる……わかってるけどさ……。眠れないんだ。家の中にいたくないんだ」
クラスの中心にたむろって下品な話題を振りまく同級生の女子達みたいに、自分の母親も結局女なんだと、今さら突きつけられた現実が亘を苛めた。
「現実主義者気取りが聞いてあきれるね」隣の少女は苦笑交じりに息をついた 。
亘には言い返す言葉がなかった。
少しの静寂が二人の間に落ちた。空の端が青灰色に滲んでいく。
「なんでそんな気持ちになるか教えてあげよう」少女は勿体ぶって言う。
「それは君が知らないからだよ。その行為を、意味を」
少女の顔は青灰色に照らされて目には薄暗い光が宿っている。
「知ってるみたいな言い方して……」憮然と射返すその顔に、少女の唇が唐突に触れた。
「知ってるもの。……教えてあげようか?」
「ばっ……かやろ……!?」
混乱した頭で彼女の顔から視線をそらすと思わず無防備な太ももが目に飛び込んだ。大きくのけぞると後頭部から背中をしたたかに地面に打ち付けた。
「現実主義者なんでしょ? なら現実を知らなくちゃ・・・ね」
青 灰の空が薄紫に色づき、こちらに歩み寄る少女の輪郭を染め上げる。その様を呆然と地面の上から眺めていた。
「明日も待ってるわ」
「ちょっと待てよ……名前……!」
少女は現れた時と同じ唐突さで亘の前から姿を消した。明日の約束を残して。
亘は行きとは違いゆっくりと家路についた。街を彩る朝焼けの色がいつもより鮮やかに感じた。
そっと鍵を開けて家に入ると、二人とも亘がいないことに気付いた様子もなく眠っていた。
背中についた砂を静かにはたいて自分の寝床に歩を進める。
その足元には無防備な母親の腹。
「行為と……意味……か」少年は布団にもぐる。
疑いつつも、明日の夜明け前、自分はまたあの公園へ行くだろうと、亘は確信していた。
少女の大きな瞳とドーム型の遊具に穿たれた穴が重なる。
そこは暗い暗い深淵が空いているようだった。