永遠の前の日
「ねぇ、海へ行かない?」
彼女がそんな話を持ち掛けて来たのは、照りつける夏の暑さが緩み始めた、九月の第二日曜日。町がゆるゆると動き出す、朝の十時を少し過ぎた頃だった。
林墨子という名の彼女と出会って三年が、彼女が画を描かなくなって、半年が過ぎようとしている。
「海?」
椅子に腰掛けていた僕は、部屋の入り口に立っている彼女に振り向いて尋ねた。二人で簡単な朝食を摂った後、自室に戻り、僕は仕事の資料を整理していた。
「えぇ、海に」
長い黒髪と切れ長の目を持つ、簡素で優美な彼女。彼女は、風が凪いだ湖面のように静かな表情と声で、僕の問いに応じる。
空気は戸惑いに震え、一呼吸の間が置かれた。その間は、僕が作り出したものだ。何かを推し量るように、四歳年下の、目の前の女性を眺める。
彼女は一人で行動することに、どんな躊躇いもない人間だった。一人で何処へでも行き、一人で色んなことを感じ、一人で帰ってくる。
クールなのだ。まるである種の、映画の登場人物みたいに。
「駄目……かしら?」
彼女が、僅かに眉を不安に曲げる。
「え? いや……」
そんな事情もあり、僕はその唐突な提案を訝しんだものの、
「うん、いいよ」
と、理由も聞かずに承諾した。
彼女はその返事に満足すると、「そう、よかった」と微細な感情の変化を表情に滲ませ、自分の部屋へと戻った。「十一時には出ましょう」とも。
彼女の、飾っておきたい位に澄んで奇麗な、同時に儚げな声が僕に音楽を残す。ブラインドカーテンを開き、じっと窓の外を眺めた。
空は墨を垂らしたような色の雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだった。まさか泳ぐ訳でもないよなと思いながら、海へ出かける支度をした。
限りない停滞感を表したような空の下、都内の2LDKの賃貸マンションから肩を並べ、電車を乗り継いで、人込みを避けるようにして海の街へ向かう。
彼女は着古した細見のブラックジーンズと、絵の具から搾ったばかりの青色のような色をした、形のいい、半袖シャツを着ていた。
肩には、僕が彼女の二十七歳の誕生日にプレゼントしたばかりの、カーキ色のショルダーバック。そして頭には、無地の、いつもの黒いキャップを被っている。
電車で移動中、隣に腰かける彼女は、終始無言で外の景色を眺めていた。僕はその無言にも慣れていたので、漠然と彼女のことを考えていた。
手で梳くと心地よい、長く直線的な黒い髪。小さな額。涼しい瞳。中学生みたいに華奢な、だけどクラシックバレエの踊り手のような細長い手足。
感情の見えない顔は、ともすれば怒っているように見えることもある。
でもそういう訳ではないのだ。彼女が張り巡らせた有刺鉄線を抜けると、そこには素顔の彼女がいる。一個の震えた魂を持つ、彼女が……。
そんな彼女は、国内では「異端の水墨画家」と呼ばれることもあった。
彼女の描く画は、普通のものとはスケールが異なる。縦横数メートルの幅を持つキャンバスに、墨を用いた繊細な水墨画風の画を、ダイナミックに描く。
伝統的な山水や竹林を始め、動物、景色、現代的なイラスト風の人物画など、幅広い題材を扱う彼女。
幼い頃から正統派な水墨画を描き、高校生の若さで、全国公募の水墨画展で文部科学大臣賞まで戴き、水墨画界の期待の新人とも言われていた彼女。
そのような経歴を持つ彼女が、およそ一般的ではない巨大なキャンバスに向き合い、画を描く姿。その姿に人は魅了され、出来上がった画のスケールに感嘆する。
都庁に勤め、仕事の一環として、東京都の現代美術館の催し物で彼女のライブアートを初めて見た僕もまた、その一人だった。
和紙を組み合わせて出来た、二階建てビルの壁面に相当する程の大きさを持つキャンバス。それが床に敷かれた、美術館のエントランスに設置された特設ステージ。彼女は衆人環視の中、東京の町を題材にした画を七時間たらずで書き上げた。
『私は、こうやってしか自分を表現できないから』
水墨画を単なる水墨画としてでなく、制作過程も含めて作品にしてしまった彼女。ニューヨークの雑誌で、「世界の現代アーティスト百人」にも選ばれた彼女。
僕は彼女に魅せられて、彼女がライブアートを行う場所には、休日であれば、例え県外だろうと、新幹線や、時に飛行機を乗り継いで見に行った。
各地の城や、現代アートを扱う美術館、企業のイベント。様々な場所へ、様々な団体に招かれ、そこで彼女は巨大な画を描いた。
彼女とは現代美術館の打ち上げの際に挨拶を交わしたのだが、例えば休憩の際などに顔を合わしても、彼女は僕のことなんて覚えていない顔をした。
しかし、何度も足を運ぶ内に、風景の中から、僕を僕と認識して、挨拶をしてくれるようになった。
『あの、ありがとうございます。確か、以前も観に来てくれてましたよね?』
『あ、はい……もうずっと以前から』
そうして、いつの頃からか……。
「どうしたの?」
海へと向かう電車の中、僕は初対面の頃から変わらない、感情を表に出さない彼女の横顔を眺めていた。
僕は鼻から息を抜くと、「いいや、何でもない」と笑ってみせた。
「そう」
彼女はいつものように、素気なく言った。
「もう少しで着くのかしら」
僕は腕時計で時刻を確認すると、
「そうだね、あと十五分くらいじゃないかな」
と答えた。
「そう」
彼女は言った。
「うん」
僕も言った。
海には、正午を少し回った頃に着いた。シーズンを過ぎた曇天の浜辺、それも昼時とあれば、人は一人もいなかった。孤独を呑んだような景色が広がる。
多くの人の営みから外れた場所は、こんな風にぽつんとしている。彼女は以前から、そういう場所に訪れるのが好きだった。
もっともその事実は、にわか雨が地面を打つような、ポツポツとした彼女との会話で耳にした物で、実際にこうして、一緒に訪れたことはなかったのだけど。
砂浜を、ザクザクと音を立てて、二人で進む。ビニールシートを鞄から取り出し、適当な位置に敷いた僕は、彼女と並んで腰掛け、黒々とした海を眺めた。
「誰もいないわね」
前を向きながら、独り言を呟くみたいに彼女は言った。
「そうだね」
僕も前を向きながら言った。
湿気を伴った温い風が、僕らの間を吹き抜けた。強い潮の香りの後には、どこか無機質な、錆びた鉄のような匂いがした。
「ちょっと、泳いでくる」
彼女はそう言って立ち上がり、衣服を脱ぎ捨てた。競泳水着のようなスポーティーな水着を着た彼女が現れると、長い髪を後ろで纏め、簡単な準備運動を始めた。
僕は黙ってその光景を眺めながら、考えた。
水着の下の、例えば彼女の、小ぶりな胸のことを。例えばその感触や、尖った乳首に触れた際の甘い吐息、熱を持った性器のことを。
やがて彼女はその場から離れ、海に飛び込んで、一人、泳ぎ始めた。
一心不乱に黙々と。潜ったり、時に溺れているのではないかと思える程にフォームを崩し、でも必死に泳いでいた。
無量の寂しさが、僕の中で渦を捲く。思わず目を細めた。
彼女は今、何を考え、何に苦しんでいるんだろう……。
『今日の画、どうでしたか?』
初めて彼女と二人で食事をした際、彼女は僕にそう尋ねてきた。
僕には全く、美術的な才能がなかった。技巧を見る目も。ただ大衆的に、凄いとか、凄くないとか、そういうことを言うことしか。
『大衆的で……いえ、それで構わないんです』
そう説明すると、彼女は言った。それで構わないと。
僕は少し考え、とてもよかったと思う、と言った。感動的だった、と。
『感動的……ですか?』
『えぇ』
『それは、どういったところがでしょうか?』
僕はそれに応えるのに、暫くの時間を要した。
『例えば眼差しが』と僕は言った。
普通、作品はただ、完成されたものだけが提出される。そこには、作者が完成までの間に要した嘆きや苦悩といったものは、素人では見て取ることが叶わない。
しかし彼女のライブアートでは、その過程をありありと味わうことが出来る。
圧倒的に巨大なものに、彼女が才能一つで立ち向かう様子を――歯噛みし、筆を動かし、思案し、筆を変え、眉間に皺を寄せながら描く様子を。
『僕は、貴女が大型の脚立から画を真剣に見下ろしている姿が、とても好きです』
彼女は一つの作品を完成させるために、抜き身の日本刀を手にした武士のように、キャンバスに斬りかかる気迫を、周りに漲らせる。
時に箒のような大きな筆で、ダイナミックに線を取るかと思えば、普通のサイズの筆で、屈み込み、細かく書き込んだりもしている。
――おれはひとりのしゅらなのだ。
その姿は、ある詩人の言葉を、僕に思い起こさせる。
『他にも、休憩時間にテントでうつ伏せになって、体は休めているのに、それでも目は作品に向いている姿を見るのが、とても』
僕がそこまで言って言葉を止めると、彼女は臆するように口を開いた。
『あ、あの……』
『はい』
『大変、参考になりました』
そう言って彼女は、顔を少しだけ綻ばせた。
今覚えば、あれが彼女が僕に向けてくれた、最初の笑顔だった。
僕はそうやって一人、過去の景色に思いを馳せながら、彼女が海から上がって来るのを待った。
彼女は遠くの方へと、海の深淵に誘われるように泳いでいった。それがある地点で潜り、姿を消す。人間そのもののような寂寥が、海の上に広がった。
僕はシートから立ち上がり、黙って彼女の消えた海を眺めていた。
彼女が海面から顔を出すと、堪らない安堵を覚えている自分を見つける。
彼女は海の中でこちらを暫く眺めた後、ゆっくりと戻って来た。海から上がった、無愛想な人魚のような彼女を、僕はタオルで包み丁寧に水を拭った。
「自分で、出来るわ」
彼女は少しだけ照れたように言うと、僕からバスタオルを奪った。
体を一通り拭き終えると、彼女はシートの上に腰を下ろし、膝を抱えた。
彼女のそんな姿を確認した僕は、海とは反対の方角に視線を向けた。
「何処へ行くの?」
その声に振り返ると、彼女が眉の根元を寄せ、深刻そうな瞳で、僕を見上げていた。不安を表面に押し出した、見たことのない、彼女の顔だった。
「いや、飲み物でも買ってこようと思って。喉、乾いてない?」
僕が少し気後れしながら問うと「いい、いらない」と、彼女は言った。
「だから、ここにいて」
「え?」
彼女は前を向き、抱えた膝の間に顎を埋めると、
「何処にも……行かないで」
と、弱々しい声で言った。
言葉を無くした僕は、彼女の隣に腰を下ろした。
「海の中から」
姿勢を変えずに、彼女が口を開く。
「海の中から、あなたが私を待っている姿が見えたわ」
「そう」
僕は出来るだけ何でもない風に、でも愛想が悪くならないように応えた。
「えぇ。私、その姿を見て、とても安心したの」
「うん」
「それで……」
やがて彼女は、躊躇いを息遣いに滲ませた後、言った。
「沖で潜った時、お爺様の顔を海の中で見た気がしたの。変な話よね」
僕は何と答えれば良いか分からず、言葉を持て余した。
彼女の祖父は、水墨画の世界では、名の知れた人だった。会ったことは無いが、多忙な両親を親に持つ彼女に画を教えたのも、その人だったと聞いている。
彼女は幼い頃からその祖父に懐き、彼の得意とする緻密な筆を教わっていた。だがある時から、彼女は彼女に目覚め、奔放な筆を見つけてしまった。
『緻密な筆と、奔放な筆。二つを使い分けたいと思っているんです』
彼女は付き合いだして暫くした頃、筆の使い方には二種類あると言った。
一つは緻密な筆。筆にしろ、墨にしろ、紙にしろ、あらゆる材料、あらゆる技術を取り込み、筆を完璧に自分の統制下に置く技法。
彼女は幼い頃から筆を握り、筆に馴染み、その緻密な筆を自分のものとしようとして、毎日のように、祖父から筆使いを学んだ。
『でも、筆をコントロール下に置いてしまうことで、筆は自由を失ってしまう。技術だけの画になる。すると表現は、自分を超えることが出来なくなってしまうんじゃないか……ある時、そう思ったんです』
『自分を超えることが出来ない?』
僕の問いに彼女は、えぇと言った。
『表現は、そんな小さなものではないと思うんです。上手く言えませんが、自分自身を超えた先にあるもの。私は、高校の頃に大きな水墨画展で入選を果たした時、そう思ってしまったんです。何故だか分かりません。とても名誉なことで、嬉しい筈なのに……自分の画が、とても小さく見えて……』
それ以来、彼女は無自覚的に奔放な筆を練習するようになったという。
奔放な筆。自分の統制下から筆を少し外し、そのことでもって表現を豊かにする。筆の走りや勢いを生かした、再現不可能な筆使い。
『昔は、そんな筆使いをすると、お爺様に叱られました。温和な人でしたけど、画には厳しくて。人が筆を使うことはあっても、その逆があってはいけない、と』
そこで彼女は一度、顔を俯かせた。
『でも……』
そして顔を上げ、寂しそうに笑った。
『私の筆は、表現を求めました。大学に入って、大きなキャンバスに向き合った時、筆は私という統制を離れてしまったんです。夢中で大きいキャンバスに、筆を走らせる。墨だらけになって……久しぶりに笑いました。とても楽しかったんです。それ以来、私は今のスタイルを追求するようになりました』
僕は嬉しそうに悲しそうに語る彼女に向け、ただ『はい』と言った。
『でもお爺様は……そんな私の筆を認めてはくれませんでしたけど』
それはとても静かな、透明な声だった。
誰かに長い間、聞いて欲しがっていたような。
現実の世界で僕はまた、彼女の横顔をじっと眺めていた。
彼女が憧れながらも、いつか離れた祖父が、半年前に亡くなった。
その時から彼女は、突然、筆を握れなくなった。生活能力が欠如し、僕と暮らし始めた。彼女は、燃え尽きた灰のような白さで続けた。
「お爺様が、海にいたの。初めて水墨画を教えてくれた時のように、優しい顔で私を見ていたわ」
「うん」
僕はやっぱり、何でもないように努めて言った。
「でもそのお爺様の顔は、徐々に何か、黒いもので覆われていくの。気付くと目の前には、黒々とした海底だけ。それで怖くなって、顔を上げると……あなたの姿が、岸に見えたの」
彼女はそこで、親和を込めた表情で僕を見た。
僕もまた、同じような表情で彼女の顔を見返した。
「そう」
「えぇ、そうなの」
海風が吹き。再び僕等は、どちらからともなく前を向いた。
目の前の景色は、フィルターを通して世界を眺めたときのように、あるものは実際以上に鮮やかに輝き、あるものは、生気を失った灰色の中に沈み込んでいた。
太陽は、あたかも永遠の闇に閉ざされたように、姿を見せないでいる。
気付くと彼女が、僕の肩に体を預けていた。
「なんだか、私、とても疲れてしまったわ」
僕は何も言わずに、肩を貸した。
その中で考えた。唐突に、しかし予め準備されていたように。
果たして彼女は、僕がいなくてもやっていけるだろうか、と。
果たして僕は、彼女がいなくてもやっていけるだろうか、と。
苦笑が口の端に刻まれる。答えは明白だった。
死ぬ程の切なさで手を繋いでも。お互いの存在で、どれだけ一杯になっても。そしてそんな存在が、ある日、いなくなっても。
人間はそれでも、生きていける。
肉体的に言えば、僕の性器は、どの女性の性器にも収まるだろうし、彼女の性器もまた、どんな男性の性器をも納めるだろう。
その紐帯が作用した精神の働きを、きっと人は……。
本質的な、絶対的な存在など、この世にはいない。
その言葉は、僕の中から悲しく零れた。自分の物かと疑う、涙のように。
彼女の傍に居続けることが彼女の為になると、僕は信じていた。彼女を妻に迎える、現実的な準備もあった。
しかし、それが彼女の幸せになるのかは、分からない。
それは彼女にも分からないことだろうけど、そうすることで、彼女は画の世界から遠ざかり、筆を失ってしまうだろう。
――絆とも、人の心を縛る絆しとも読める、彼女と祖父を今でも繋いでいる筆を。
彼女と暮らす中、確信に近い、そんな予感を抱いていた。
遣りきれない寂しさに覆われた僕は、海に視線を転じた。人類が消滅しても存在を止めることのない海が、太古の静けさで二人を眺めていた。
今は曇っているが、明日には再び太陽が支配し、この海岸を灼き始める。すると中天の黄金は、寂寥広がる藍色の上にも、その乾いた光を浴びせるだろう。
夏の終わりの日。
「ずっと」
「ん?」
「ずっと、こうしていたい……」
僕たちはそうやって、少しずつ失いながら、それぞれの幸せを生きていた。




