始まりは、炎
一蒼、世界を救い
二蒼、次へと蒼を繋ぐ
三蒼、いずれか一つは紛い物
――さぁ、紛い物は、誰?
――目覚めよ
どこからともなく響いた声で、消えかけていた意識はふわりと浮き上がった。
重い、瞼を上げる。
ゆらゆら揺れる視界には地面が見えた。赤黒い影がちらちらと踊っている。
浅く息をすれば、ひどく煙たい空気が入ってきて、思わず咳き込んだ。その度に体中が軋んで鈍い痛みが走る。
何を、していたんだっけ……あぁそうだ。家だ。
家が、燃えたんだ。
自分の家だけじゃない。隣の家も、その隣の家も燃えていた。大きな通りも細い路地も全て炎で覆われていた。悲鳴。泣き叫ぶ声が、怒号が聞こえた。ただ建物が焼けるだけじゃない、生臭い、鼻の奥底にこびりつく嫌な臭いがしていた。
それで、逃げて。
でも逃げても逃げても、燃え盛る炎から逃れることが出来なくて。
それから……? 駄目だ、思い出せない。
顔をしかめて、小さく身動ぎする。相変わらずの痛みと共に、背中に堅い感触がした。壁だ。壁に背を預けて座り込んでいるらしい。人事のようにぼんやり思う。顔を上げる。
今いる路地の続く先――大通では、赤い炎が狂ったように踊っていた。熱気を肌で感じる。
いずれ、自分もあの炎に焼かれてしまうのだろう。
あるいは、その前に自分が死ぬか。
「……っ」
冗談じゃない。そう吐き捨てようとして、咳き込んだ。喉から生暖かいものがせり上がってきて、思わず吐く。ズボンを濡らしたそれは、炎と同じ赤黒い色をしている。その臭いと色にまた吐いた。生きるために必要な何かが、どんどん口から出て行くような気がした。
自分は、死ぬのか。
散々吐いて、耐え難いほどの頭痛に顔をしかめて、けれど体の一つだって動かせないまま、ぼんやりと思う。
死ぬしかないのか。
このまま、ぼろくずのように地面に横たわって。
炎に焼かれて灰になるしかないのか。
何も出来ないまま。
誰にも、認められないまま。
くそったれ。
「死んじゃうの?」
笑い声は、突然降ってきた。
炎が燃え盛って空気を焼く。そんな世界には似つかわしくないほど、明るく軽やかな声。
目だけ、声の方へ走らせる。
そこに、いた。さっき見た時はいなかったはずの人影があった。
大通りで燃え盛る赤黒い炎を背に、じっとこちらの方を見つめている。若い男だ。癖のある茶髪。白い肌。口元にうっすら笑みを浮かべている。
左目は深い茶色。
そして、右目からは花が生えていた。
真っ白な、花。
「誰だ……?」
「カミサマ」
「……?」
「あぁそうか……この世界にはそういう概念がないんだったね。そうだなぁ……この世界で言うところの龍みたいなもの、かな」
龍。それには聞き覚えがあった。
この世界で最も高位な聖獣だ。原始を統べるもの。高潔にしてあまねく全てを支配する獣。ただ一人の人間と契を交わし、これを祝福して力を授ける存在。
人の姿をとることもあるのだという。そういう話も聞いたことがある。
けれど、この男が? 眉を潜めれば、男は小さく笑った。
「疑っているね?」
「……龍、にはみえない」
「ふふっ、私は龍みたいなものであって、龍ではないよ。もっとすごい力を持っている」
「力……?」
「そう。カミサマだからね」
男は笑みを深め、ゆっくりと近づいてきた。
あと一歩というところまで、だ。そこで足を止める。
見下ろしてくる。
ゆらゆらと揺れる、影が落ちた。
「ところで、君は今から死んじゃうのかな?」
最初と同じ、男の問いかけ。
微かに笑いさえ含んだそれに、思わず顔をしかめた。
「別に……お前には関係ない……だろ」
「関係はあるさ。たまたま通りがったところで、人間が死にかけてるんだから。どんな生物であれ、死というものは本当に興味深い。その現場に居合わせられるのは、貴重なことだと思っているんだよ」
「ハッ、悪趣味だな……」
「なんとでも。あぁそれとも……助けて欲しいのかい?」
「は……?」
くすくすと笑いながら、男がひざまずく。
「君は今、死にそうな訳だけれど……そうだな、私が本気を出せば、君程度の命は救えてしまうんだ。カミサマだからね」
「死ぬのを見たいんじゃなかったのか……?」
「うん、そう。でも、君が助けて欲しいと望むのなら、考えてみてもいいかもしれないと、今ふと思ってね?」
「なんだ、それ……」
顔を俯ける。
笑ってしまいそうになった。
あまりにも疑わしい。とんでもなく怪しい。男の脛を蹴飛ばして全速力で逃げ出したかった。
カミサマというのは変なヤツのことを指すに違いない。
死ぬところを見たいと言った口で、助けてやると言う。
おまけに死にかけの人間を助けるだけの力があるとまで言い出す。
頭がおかしい。正気じゃない。
そう思った。疑った。怪しんだ。
けれど。
「――君は、こんなところで死にたくはないんだろう?」
男の言葉に、思わず顔を上げる。
体中が痛んだ。
煙たい空気を吸い込み続けた肺が軋む。
息が苦しい。
気を、抜いたら死んでしまう――そんな中で、男を見上げて。
その顔に向かって、唾を吐き捨てた。
「……哀れみなんか、要らない」
掠れた息に決意を滲ませて、男を睨みつけた。
男の目に落胆の色が浮かんだ。呆れたように肩をすくめる。
「命が惜しくないと? ご立派なことだね。死ぬ間際の言葉の中で、一番つまらない理由だ」
「そうは言ってない」
「言ってるようなものだろう! 生きる機会を容易く諦める姿勢はどうかと思、」
「哀れみは、要らないと言ったんだ」
「……どういうことかな?」
男の瞳に興味深げな光が宿った。
その茶色の瞳を睨みつけて、口を動かす。
「取引だ」
「取引?」
「お前は俺を助けろ。それから……そうだ、なにかすごい力があるんだろう。それも寄越せ」
「へぇ! これまた大胆な要求だね。それで?」
「代わりに、お前の望みを俺が叶えてやる」
「私に望みなどないよ。全部自分で叶えられるからね」
「じゃあ、お前が自分で叶えられない望みを考えろ」
荒く息を吐き出す。
口角を釣り上げる。
男に向かって、號外不遜に笑ってやった。
「どんな願いでも構わない。叶えられるほどの力を俺は手に入れてやる。俺は、お前にとって、助けるだけの価値がある人間だ」
「……その言葉の根拠は?」
「根拠なんて必要ない。俺はこの手の嘘はつかないからな」
「取引というより、博打だねぇ」
「そう考えるなら、それでいい。俺は俺の全てを賭ける。さぁ、お前はどうする?」
「――カミたる私に賭けを挑むと言うのか」
男の声音が、僅かに堅いものになった。
空気がひやりとしたものに変わる。
男のまとう雰囲気が冷たいものになる。
ふと思った。
目覚めよと、響いたあの声の主は、もしかすると彼なのかもしれないと。
でも……そう。思っただけ、だった。
「博打は、嫌いか?」
臆すること無く、男をまっすぐに見つめてニヤリと口角を釣り上げる。
男が目を光らせた。
左目を細めて、嬉しそうに笑う。
「君は、賢い子供だ」
そう言って、男の細い指が頬に触れる。
ぱちりと音を立てて炎が爆ぜる。
それが、全ての始まりだった。