魔王が最期に見る風景
人生の終わりに見る風景は綺麗じゃなくてもいい。けれども自分が好きなものであってほしい。
生き物の声がしなくなった魔王城の玉座に座る魔王はそう思った。
身に纏う漆黒の衣装の裾からは、吸収しきれなくなった血がポタンと落ちて広がっていく。
聖なる剣で胸を貫かれたのにすぐに死なないあたり、勇者に加護を与えた神様とやらは実に性格が悪いようだ。神聖がどうの、清廉さがどうのなどと、人から称えられている彼の神は、その実誰よりも人らしい感性を持っているらしい。
そう思ったら魔王は何だかおかしくなってきて、くつくつと笑った。
「まおーさま」
ふと自分を呼ぶ声が聞えて顔を上げると、猫のような形をした丸くて白い綿毛がふわふわと、魔王の周りを飛んでいた。
魔王が、まだ魔王と呼ばれる前に魔力で作り上げた、ささやかな力しかもたない使い魔だ。魔王の眷属――生き物ではないことが幸いしてか、どうやら勇者の聖なる剣は、この使い魔を敵だと認識できなかったらしい。
とは言え魔王の魔力で作られたこの使い魔は、魔王が死ねば一緒に消える。だからうっかり残されたとしても、結果としては大して変わらない。
魔王は緩慢な動作で腕を持ち上げると、手のひらを天に向けた。するとそこへ使い魔がふわりと降り立つ。
「まおーさま、おわかれ?」
「ああ、そうだな……。そろそろお別れになるだろうな」
「まおーさま、かなしい?」
「どうだろうな。悲しいよりは、寂しいの方が強いかもしれない」
「どうして? どうして?」
「んー……世の中には、私がまだ見たことのないものが、たくさんあるからだろうか」
軽く天井を見上げて魔王はそう言った。
魔王になる前の魔王は旅行が趣味だった。故郷の国のあちこちへ足を運び、時には姿を隠して人間の国も見に行ったことがある。綺麗な風景、美味しい料理、そして自分達と何一つ変わらぬ人の温かさ。そういうものを肌で感じて、知らないことを見て知って、そして学ぶのが魔王は好きだった。魔王にならなければきっと、魔王は今も学者を続けていたことだろう。
「みたことのないけしき」
「ああ、そうだ」
「きれい? きれい?」
「綺麗じゃなくてもいいな。そこを好きになれたなら」
霊峰の山頂から見る夜明けのような、涙が出るほどに美しい景色。あれはとても良かったが、そこまで強烈に心を動かされるものでなくても魔王は良かった。
雨でぐしゃぐしゃになった道の両脇に広がる、収穫の終わった田園。
愛嬌のある雪像が寄り添うように立つ小さな家。
一生懸命に手入れされた、興味深い形の低木の立つ町はずれの丘。
――そういう誰かの日常を感じられる風景が魔王は好きだ。
変わらぬ自然は綺麗だ。けれども誰かが生きた風景もまた同じくらい美しいと魔王は思っている。ああいう風景を眺めながら迎える最期なら悪くないと思ってしまえるくらいに。
「みにいこ」
「今からかい?」
「そう」
「それは魅力的なお誘いだ。でも残念、私の体はお休みを欲しているんだ。ここしばらくずっと働いていたから、ゆっくりさせてあげないとね」
「まおーさま、わーかーほりっく」
「誰にその言葉を教わったのかじっくり聞かせてもらいたいところだけど、まぁいいか。皆もゆっくりさせてやらないと」
「ふぉすだよー」
「すごい、普通に教えてくれた。よし、フォスには後でお説教をしよう」
「まおーさま、おせっきょうながーい」
「そうだよ、長いんだよ。フォスは覚悟しているといい……」
使い魔と話しているうちに、魔王は自分の瞼がだんだんと重くなっていることに気が付いた。先ほどまで感じていた体の痛みも、今ではすっかり鈍いものになっている。はっきりと感じ取れるのは、手のひらに座った使い魔の温もりだけだ。
「お前は温かいね」
「ねこのたいおんといっしょ」
「そう言えば、そこだけ妙にこだわった覚えがあるな……」
「まおーさま、のじゅくおおい。ときどきかぜっぴき」
「あー、そうだったそうだった。だから使い魔で暖を取ろうと思ったんだ」
「おやくだち」
「うん。とってもお役立ちだった。ありがとう、お前のおかげだ」
「えっへん」
使い魔は誇らしげに胸(?)を張ってみせた。その仕草が可愛らしくて魔王はくすりと笑う。
思い返せば、どの風景もずっとこの使い魔と一緒に見てきた。
「最期に見る風景にお前がいて良かった。ありがとう、私の唯一」
心からの感謝を込めて魔王は言う。
――そうして、その使い魔の姿すら霞んで見え始めた。
いよいよ人生に別れを告げる時かと魔王は心の中でつぶやく。
こうなると不思議なもので、まぁいいかと思う自分とは別に、もう少し生きてみたかったと後悔する自分が現れる。
愛しむような人生を歩めたのだなと、他人事のように魔王は思った。
「じんせい、もっかいしたい?」
そんな魔王に使い魔はそんなことを訊いた。
「人生は一回だから楽しいんだよ」
「そっかー」
「そうそう。もう一回じゃなくて、延長戦ならアリだけどね」
「そっかー、それならそうするー」
「え?」
妙なことを言い出した使い魔に、魔王は怪訝な顔になった。するとほぼ同時に使い魔の体が眩く光り始める。とたんに魔王の体から魔力が急激に吸い出され、使い魔へと注がれ始めた。
「ええ……何してるの?」
「まおーさま、えんちょうする」
「延長って」
「からだをあげる。ふぉすがおしえてくれた。だから」
使い魔はにこっと笑った。
「えんちょうせん、いっぱいすきなもの、みてきて!」
魔王が目を見開く。待って、と言いかけた言葉を掻き消すように、使い魔の体が――光が弾けた。
* * *
「ねぇ知ってる? 光る猫があちこちに現れているんですって。この間、泥濘にはまってもがいていたそうよ」
「あらまぁ。あたしも何か聞いたことあるわね。確か……去年の冬頃だったかな、マイヤさんのお子さんが作った雪像の隣に並んでいたんですって」
「えー! いいな、見たかった! かわいー! うちも雪像作ったら来てくれるかなー」
「ちょっとユニークに剪定された庭木をじっと見ていたって話も聞いたことあるわ」
「そういうの好きなのかしらね? 賢い猫ちゃんなのかも」
「賢い猫ちゃんが泥濘にはまるかしらねー。……そう言えば思い出したけど、ずっと昔、泥濘に足を突っ込んで慌てている人を見たことがあったわ」
「あらまぁ、おっちょこちょいねぇ。その人どうなったの?」
「そのまま地面に座り込んで、じっと風景を眺めていたわねぇ。きっと何か素敵なものがあったんでしょうね」
おしまい




