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三人の令嬢と奇跡の馬たち

作者: 星村 流星
掲載日:2026/03/19

春の社交シーズンが開幕すると、|王(おうと)の競馬場には貴族たちの笑い声が満ちる。


 今年もそうだった。


「ごらんなさいよ、あの馬たちを」


 観覧席の上段、白いレースのパラソルを傾けた伯爵夫人が扇子で口元を隠しながらつぶやいた。

 隣に座るご令嬢たちがくすくすと笑いをこらえ、それからためらいなく声を立てた。


「公爵家の馬、ですわよね。あいかわらず……どっしりしていること」

「農耕馬、と申し上げましょうか」

「いいえ、荷車引きと言った方が正確かしら」


 笑い声は扇の陰から波紋のように広がった。


 馬場の柵の向こうで、五頭の|牝(ひんば)が静かに立っていた。

 |鹿(かげ)と|栗(くりげ)が入り混じる彼女たちは、確かに他の馬とは異なっていた。


 肩の高さは隣の|厩(きゅうしゃ)の馬より頭ひとつぶん高く、骨格は岩盤のように分厚く、(ひづめ)は大地に根を張る古木の根のごとく太い。


 今シーズン流行の「細腰で首の長い、絵のように美しい馬」とは、対極に位置する姿だった。


 観覧席の端、他の令嬢たちとはわずかに距離を置いた場所に、一人の少女が立っていた。


 ヴィオレット=エターナ=ローゼンクランツ。


 西方統合王国に三百年続く名門、ローゼンクランツ公爵家の一人娘。


 十七歳。


 |漆(しっこく)の髪は緩やかに結い上げられ、深紫のドレスには家紋——薔薇と|時計草(とけいそう)が絡み合った意匠——が金糸で刺繍されている。


 その瞳は落ち着いた茜色で、|嘲(ちょうしょう)の声が聞こえているはずなのに、一切揺れていなかった。

 彼女はただ静かに、柵の向こうの牝馬たちを見つめていた。


「ヴィオレット」


 すぐ隣に、凛とした声が降りてきた。


 グリゼルダ=マルティナ=フォン・アイゼンシュタイン。


 侯爵家の令嬢で、ヴィオレットの幼馴染だ。


 短く整えられたプラチナブロンドの髪と、一点の曇りもない銀灰色の瞳が、彼女の|武(ぶもん)の血筋を物語っていた。


「聞こえているだろう。腹は立たないのか」


「立てても意味がないもの」


 ヴィオレットは微笑んだ。

 涼しげで、しかしどこか深い微笑みだった。


「グリゼルダ、あの子たちの祖母を知っている? 今から百五十年前、この王国がまだ七つの|領(りょうほう)に割れて戦っていた頃、ローゼンクランツの騎兵隊を支えたのはあの血筋의馬たちよ。


 冬の山道を荷を背負って越え、騎士を乗せて戦場を駆け、飢えた民に乳を与えた。極東の島国ヤシマから伝わった『|黒鋼馬(クロガネウマ)』の骨格を受け継いだあの子たちが——」


 彼女はゆっくりと視線を移し、観覧席の令嬢たちを見た。


「——あの方々に、農耕馬と笑われている」


 グリゼルダは短く息をついた。


「だからこそ腹が立つと言っている」


「わかっているわ」


 ヴィオレットの声は静かだったが、その奥に何か硬いものが宿っていた。

 鋼のような、あるいは数百年かけて堆積した岩盤のような、そういう硬さだった。


「でもね、グリゼルダ。薔薇というのは、一年で咲いて一年で散るものではないのよ」


 彼女はドレスの胸元に刻まれた家紋に、そっと指を触れた。


「時計草と絡まって、年ごとに枝を伸ばして、百年後も二百年後も咲き続ける——そういうものなの。


 今日笑っている人たちは、百年後には(ちり)になっている。でも、あの子たちの血は続く。

 だから私には、焦りも怒りも必要ない」


 グリゼルダはしばらく無言だった。


 それからぽつりと言った。


「……お前の言葉は時々、年寄りの賢者みたいだぞ」


「三百年分の家訓を丸暗記させられたもの」


 二人は顔を見合わせ、今度は本物の笑い声を立てた。


   ◇ ◇ ◇


 その手紙が届いたのは、社交シーズンが閉幕してすぐのことだった。


 差出人の|封(ふうろう)には、曲刀と三日月を組み合わせた紋章。


 暁の砂漠帝国——シャームからの使者だった。


 文面はこうあった。


 遊牧の民が嘆願いたす。疫病が羊を奪い、水源が枯れ、子どもたちが飢えておる。かつてローゼンクランツ家より賜った薬草の処方を今一度ご恵贈いただければ、砂漠の神に誓い、永遠の|友(ゆうぎ)を結ばん。


 ヴィオレットは読み終えると手紙をたたんだ。


「父様、私が参ります」


 |執務室(しつむしつ)の向こうで、ローゼンクランツ公爵は眉を上げた。


 白髪交じりの威厳ある男だったが、娘の顔を見て、反論する気が失せたらしかった。


「……護衛をつけろ」


「もちろんですわ」


 こうしてヴィオレットは、三頭の馬と十名の護衛を連れ、砂漠への旅に出た。


   ◇ ◇ ◇


 シャームの大地は、想像以上だった。


 地平線まで続く砂の海。

 熱風が肌を灼き、空の青は突き刺さるように鮮烈で、夜になると星が手の届きそうな高さに降りてきた。


 遊牧民の集落に着いたとき、ヴィオレットの目に最初に映ったのは、子どもたちの顔だった。


 痩せていた。しかし目は生きていた。


 砂漠の子どもは、星のような目をしているのだとヴィオレットは思った。


 持参した薬草と処方を届け、井戸の掘り方を指南し、王国の医師団に後続の支援を依頼する書状を書いた。


 十日間、ヴィオレットは休まず動いた。


 集落の長老——白い布を纏った、深い皺の刻まれた老人——は最終日の夕暮れに、ヴィオレットを|天(てんまく)の外へ誘った。


 水平線に沈む夕陽が砂漠を黄金に染めていた。


「ローゼンクランツの令嬢よ」


 老人は言った。

 声は低く、砂漠の風のように乾いていた。


「我が一族に伝わる言葉がある。命を救った者には命で返せ。それが砂漠の誓いだ」


「長老、そのようなお気遣いは——」


「見よ」

 老人が手を上げた。


 砂丘の向こうから、一頭の馬が現れた。

 夕陽の中を歩いてくるその馬を見た瞬間、ヴィオレットは息を呑んだ。


 鹿毛——と言うには黄金に近い毛色。


 |四(しし)は細く、しかし(けん)は鋼のように張り詰めている。

 首の付け根から肩にかけてのラインが、弓を引いたときの弧のように美しく湾曲していた。


 |体(たいこう)はローズ・メアより低い。


 だがその低さが、恐ろしいほどの機動性と柔軟性を示していた。

 砂を踏む蹄の音が、まるで音楽のようだった。


「デザート・ソレイユ」


 老人が静かに言った。


「砂漠の太陽、という意味だ。我が先祖が三代をかけて育てた、純血の砂漠馬。この大地で最も速く、最も遠くを走れる|牡(ぼば)だ」


 その馬は近づいてきて、ヴィオレットの前で止まった。


 大きな目でヴィオレットを見た。

 夕陽を映したその瞳は、琥珀のように温かかった。


「我が孫娘よりも大切にしてきた馬だ」と老人は言った。


「しかし彼はあなたに渡されるべきだと、砂漠の神が言っている」


 ヴィオレットはゆっくりと手を伸ばした。

 デザート・ソレイユは逃げなかった。


 その黄金の額に、ヴィオレットの掌がそっと触れた。

 温かかった。命の熱が、掌を通じて伝わってきた。


「——ご恩は、必ず継いでまいります」


 ヴィオレットは深々と頭を下げた。


 砂漠に夜が来た。


 満天の星の下で、黄金の牡馬は静かに息をしていた。


   ◇ ◇ ◇


 王都に戻ったヴィオレットを待っていたのは、社交界の新たな嘲笑だった。


「公爵令嬢が砂漠から馬を連れて帰ったそうよ」


「あの農耕馬たちと掛け合わせるつもりかしら」


「いっそ砂漠に移住すればよかったのに」


 ヴィオレットは聞こえていないふりをして|馬(ばてい)と厩舎の手配を進めた。


 デザート・ソレイユはローズ・メアの群れに加えられた。


 最初、牝馬たちは互いに警戒し合った。


 砂漠育ちと島国由来の血。水と大地ほど異なる出自。


 しかしその夜——厩舎の当番が不思議そうに報告した。


「お嬢様、デザート・ソレイユ様が、ローズ・メアの中で最も年老いた牝馬のそばで寝ているのでございます。なんとも……|仲(なかむつ)まじゅうございまして」


 ヴィオレットは厩舎に足を運んだ。


 藁の上に寄り添う二頭の馬——黄金の砂漠馬と、白い鼻面の年老いた大柄な牝馬。


 その光景を見て、ヴィオレットはひとりほほ笑んだ。


 時計草の針が、静かに動き始めた音がした。


   ◇ ◇ ◇


 グリゼルダ=マルティナ=フォン・アイゼンシュタインが初めて馬に乗ったのは、三歳のときだった。


 父親に鞍の上へ抱え上げられ、馬の背の高さに泣きわめいた——という話は、アイゼンシュタイン侯爵家の食卓で長年の笑い話として語り継がれている。


 しかしその翌朝、幼いグリゼルダは一人で厩舎に忍び込み、父の馬の足元に立って背中を見上げ、小さな拳をぎゅっと握りしめていたという。


 泣いたことが悔しくて、眠れなかったのだ。


 六歳で乗馬、九歳で模擬剣、十二歳で実戦訓練。


 アイゼンシュタイン侯爵家は王国北方の守護を担う武門の家柄であり、「令嬢だから」という言い訳はその家では通用しなかった。


 グリゼルダもそれを望まなかった。


 今、十八歳になった彼女は、北方国境に展開する王国軍の視察団に同行していた。


 名目は「侯爵家令嬢による従軍見聞」。


 しかし実態は、父アイゼンシュタイン侯爵が老齢を理由に赴けない視察の代役だった。


 父は書状にこう記した。


 『武門の誇りは戦場の空気を知ることにある。見て、聞いて、嗅いで帰れ。それだけでいい。』


 グリゼルダは書状を折りたたんで懐に入れ、翌朝には出立していた。


 王国の北方国境は、荒涼とした丘陵地帯が続く。


 隣国との間に横たわる|係争地帯(けいそうちたい)は、三十年にわたる小競り合いの傷跡を至るところに残していた。


 焼け落ちた集落の廃墟、耕作を放棄された畑、街道沿いに立てられた名もなき兵の墓標。


 視察三日目の午後、グリゼルダは先遣隊の指揮官から報告を受けた。


「令嬢、昨夜の小競り合いで敵軍の一部が撤退いたしました。|残置物(ざんちぶつ)の回収に向かっておりますが——」


 指揮官は言葉を切った。


「何か?」


「その……生きた馬が一頭、残されております。敵軍の軍馬と思われますが、負傷しており動けない様子です。始末するべきか、と」


 グリゼルダは馬上で静止した。


「始末」


 彼女はその言葉を口の中で転がした。


「案内しなさい」


 丘の裏側、転倒した輸送荷車の陰に、その馬はいた。


 黒かった。


 漆黒というよりも、光を吸い込むような深い黒の牡馬。

 馬体は大柄で、肩の筋肉は鎧の装甲板を思わせるほど厚く盛り上がっていた。


 四肢は太く、蹄は岩を割りそうなほど|堅(けんろう)だ。

 しかし今、その馬は右前脚を庇うように地に伏せていた。


 |側(そくふく)の皮膚が浅く裂け、乾いた血が黒い毛並みに縞模様を作っている。


 兵士が二人、槍を構えて近くに立っていた。


「近づくな。気性が荒い。さっきも一人蹴り飛ばされました」


「下がりなさい」


 グリゼルダは馬から降り、槍を持つ兵士の前に立った。


「令嬢、危険です。敵軍の——」


「下がれと言っている」


 声のトーンは変わらなかった。

 しかしその一言で、兵士たちは二歩退いた。


 武門の令嬢の声には、理屈を超えた何かが宿っていた。


 グリゼルダはゆっくりと、黒い馬に近づいた。


 馬は顔を上げ、グリゼルダを見た。

 黒い瞳だった。

 深くて、怒りと恐怖と、それから——|疲(ひへい)が混じった瞳。


 幾度もの戦場を生き抜いてきた目。


 人間というものを何度も裏切り者として見てきた目。


「怖くないわ」


 グリゼルダは言った。


 馬に向かってではなく、自分自身に言い聞かせるように。


「あなたは——」


 彼女は一歩、また一歩と近づいた。

 馬は唸るような息を吐き、前脚を動かそうとして、傷の痛みに身を震わせた。


「痛いのね」


 グリゼルダは膝をついた。

 石と泥だらけの地面に、迷いなく。

 馬と視線を同じ高さに合わせた。


 しばらく、ただそうしていた。


 風が吹いた。


 北方特有の、鉄の匂いを含んだ冷たい風。


 グリゼルダの金髪が頬に張り付いた。


 黒い馬は鼻を鳴らした。

 それからゆっくりと、頭を下げた。


「令嬢……もはや手に負えません。これほど荒い馬は見たことがございません」


「私が担当します」


「なりません! 令嬢の御身に何かあれば——」


「私が担当すると言っています」


 グリゼルダはそれ以降、オブシディアン・アレスの世話を自ら行った。

 餌を運ぶのも、水を替えるのも、傷の包帯を巻き直すのも、全て彼女がした。


 アレスは最初の三日間、グリゼルダが近づくたびに激しく抵抗した。


 二度、腕に嚙みつかれた。


 一度、肩を蹄で打たれた。


 それでもグリゼルダは怯まなかった——怯まなかったのではなく、怯えても退かなかった。


 夜、焚き火の側でグリゼルダは懐の書状を取り出し、父の文字を目で辿った。


 『見て、聞いて、嗅いで帰れ。』


 父はきっと馬のことなど想定していなかっただろう。


 しかしグリゼルダは思った——今ここで退いたら、自分は何のために武門に生まれたのか。


 強さとは、無傷であることではない。

 傷ついても向き合い続けることだ。


 四日目の夜明け前。


 輸送用の荷台の中にいるアレスに、グリゼルダが水桶を持って近づくと、彼は嚙みつかなかった。


 ただ黒い瞳で、じっとグリゼルダを見た。


 グリゼルダは水桶を置き、膝をついて馬の傷の様子を確かめた。


 |化(かのう)は落ち着いていた。

 熱も引きつつあった。


「少しずつ、よくなっているわ」


 独り言のように言いながら、慣れた手つきで包帯を替えた。


 アレスは大人しくしていた。


 それが始まりだった。


   ◇ ◇ ◇


 王都のアイゼンシュタイン侯爵邸に着いたとき、ヴィオレットが出迎えに来ていた。


「グリゼルダ、腕……!」


「大したことないわ」


「大したことある傷でしょう、それは。馬にやられたの?」


「そう」


「何故そんなに平然としているのよ」


「平然としていない方が変でしょう。もう塞がっているし」


 ヴィオレットは呆れた顔をしたが、すぐに荷台の向こうを見た。

 格子の向こうに、漆黒の馬体が見えた。


「……大きい」


「そうでしょう」


 グリゼルダの声が、わずかに柔らかくなった。


「この子の骨格を見て、最初に何を思う?」


 ヴィオレットは荷台に近づいた。


 アレスがこちらを向いた。

 鋭い目だった。


 しかしヴィオレットは動じず、その目を正面から受け止めた。


 彼女はしばらく黙って馬を観察した。


 肩の厚み、脚の骨格、胸の奥行き——それから不意に、何かを思いついたような顔になった。


「グリゼルダ」


「何?」


「この馬の骨格……ローズ・メアに似ている」


 グリゼルダは目を細めた。


「私もそう思った」


「黒鋼馬の血が入っているんじゃないかしら。


 骨の太さ、脚の角度——同じ系統の骨格をしているわ。


 遥か昔、ヤシマの島から渡ってきた黒鋼馬の血が、どういう経路かはわからないけれど、この大陸の各地に散らばったとしても——」


「不思議ではないわね」


 二人は顔を見合わせた。


「ということは」


 ヴィオレットが静かに言った。


「この馬は、私のローズ・メアたちと——遥かな昔に別れた、血の兄弟かもしれない」


 荷台の中で、アレスが低く鳴いた。

 それはこれまでに聞いたことのない声だった。


 怒りでも警戒でもなく、ただ——何か遠い記憶に触れたような、そんな声だった。


   ◇ ◇ ◇


 翌日、グリゼルダはヴィオレットの案内で、公爵邸のローズ・メアの厩舎を訪れた。


 デザート・ソレイユが好奇心旺盛に鼻を伸ばし、他の牝馬たちが挨拶するように頭を振る中、グリゼルダはその厩舎の広さと清潔さ、そして馬たちの毛並みの艶を黙って観察した。


「三百年間、ローゼンクランツが守ってきた」


「ええ」


「社交界では嘲笑されながら」


「ええ」


 グリゼルダは額に手を当て、しばらく俯いた。


 ヴィオレットは何も言わなかった。


「私は——」


 グリゼルダはゆっくりと口を開いた。


 声は低く、普段の凛とした響きよりも、少しだけ穏やかだった。


「お前がずっと言っていた意味が、今ならわかる気がする」


「何が?」


「百年後の話。薔薇は一年で枯れない、という話」


 グリゼルダは顔を上げ、厩舎に並ぶ牝馬たちを見渡した。


「アレスを見ていたとき、私はなぜかこの子たちのことを考えていた。

 戦場に置き去りにされても生き続けた馬と、嘲笑されても守り続けられた牝馬たち——似ていると思った。

 どちらも、誰かが見捨てなかったから今ここにいる」


 ヴィオレットは何も言わずに、ただ聞いていた。


「私はアイゼンシュタインの令嬢として、武門の誇りとして生きてきた。

 しかし今日まで、誇りとは何かを——本当の意味では理解していなかったかもしれない」


 グリゼルダは振り返り、ヴィオレットの目を見た。


「誇りとは、誰も見ていない場所でも守り続けることだ。

 お前が三百年の薔薇を守るように——私はこれからお前の隣に立つ。

 笑いたいやつには好きなだけ笑わせておけばいい」


 ヴィオレットは少し目を細めた。


「……以前、年寄りの賢者みたいだと言ったのは、どちらだったかしら」


「うるさい」


 グリゼルダは顔を赤くした。


 ヴィオレットは今度は声を立てて笑った。


 厩舎の中で、デザート・ソレイユが嬉しそうに鼻を鳴らした。


   ◇ ◇ ◇


 その夜、グリゼルダは一人でアレスの馬房へ行った。


 |松(たいまつ)の光の中で、黒い馬は横たわっていた。


 傷はほぼ癒えていた。

 もう立って歩けるほどに回復している。


 しかし今夜はなぜか、静かに伏せたまま目だけでグリゼルダを追った。


「ここが気に入った?」


 グリゼルダは藁の上に腰を下ろした。


「そうかしら。あなたはずっと戦場にいたのだから、こんな静かな場所は落ち着かないかもしれないけれど」


 アレスは耳を動かした。


「教えてあげましょうか」


 グリゼルダは膝を抱えた。


「アイゼンシュタインの家紋は剣よ。

 交差した二本の剣。武門の象徴。

 私はその家に生まれて、剣と馬と誇りを叩き込まれた」


 静かな夜だった。


 北方の風が屋根を低く唸らせていた。


「でもね——剣は切るためだけにあるんじゃない。父がそう言った。

 剣は、守るためにある。切るのは守れなかったときの、最後の手段だって」


 アレスがゆっくりと頭をもたげ、グリゼルダの方向に向けた。


「あなたも、ずっと戦わされてきたのね。本当は守りたかったものがあったんじゃないかしら」


 グリゼルダは手を伸ばした。


 今度はアレスが避けなかった。

 黒い額に掌が触れた。


 熱は引いていた。


 代わりに、生きた馬の体温——穏やかで、規則正しい命の熱——が伝わってきた。


「ここにいていい。逃げなくていい」


 グリゼルダは言った。


「あなたは今日から、戦うために走るのではなく——好きなだけ、ただ走るために生きていい」


 アレスは目を閉じた。


 長い(まつげ)が黒い頬に影を作った。


 グリゼルダは松明が燃え尽きるまで、その黒い馬の隣に座っていた。


   ◇ ◇ ◇


 翌朝、ヴィオレットは手紙を書いた。


 宛先は南の大都市——ガリアにルーツを持つ公爵家の令嬢、カレンシア=ソフィア=ド・リュミエールの下へ。


 文面はこうあった。


 『カレンシア、あなたに見せたいものがあります。

 急ぎではないけれど——いつかきっと、今すぐ来てほしい、と思う日が来る気がします。

 その日が来たら、すぐ知らせるわ。準備だけ、しておいてちょうだい。』


 手紙を封蝋で閉じながら、ヴィオレットは窓の外を見た。


 厩舎の庭で、デザート・ソレイユとローズ・メアの群れが朝の日差しの中で草を食んでいた。

 その隣の馬房から、オブシディアン・アレスが首を伸ばし、外の空気を嗅いでいた。


 まるで興味深そうに。

 まるで——新しい世界の匂いを確かめるように。


「三つ目は、カレンシアが連れてくる」


 ヴィオレットはひとりごちた。


 時計草の針が、また一目盛り進んだ。


 薔薇が一本、静かに枝を伸ばした。


   ◇ ◇ ◇


 カレンシア=ソフィア=ド・リュミエールという少女を形容するとき、人々はいつも「光」という言葉を使った。


 隣国ガリアにルーツを持つ名門リュミエール公爵家——「光明」を意味するその家名の通り、カレンシアは幼い頃からどこにいても部屋を明るくした。


 笑えば周囲が笑い、悲しめば周囲が心配し、怒れば——これは滅多にないことだったが——周囲は静まり返った。


 ヴィオレットが「格式と継承」を体現し、グリゼルダが「誇りと武勇」を纏うとすれば、カレンシアが持つのは「愛」だった。


 それも、見返りを求めない種類の愛だ。


 彼女自身はそれを特別なことだと思っていなかった。


 目の前に困っているものがいれば手を差し伸べる。

 それだけのことだと、透き通ったラベンダー色の瞳で、いつも当たり前のように言った。


 しかしその「当たり前」が、どれほど稀有なことか——それをカレンシアが理解するのは、もう少し後の話になる。


 ヴィオレットからの手紙が届いたのは、秋の初めだった。


 『準備だけ、しておいてちょうだい。』


 カレンシアは手紙を読んで、すぐに旅行鞄を引っ張り出した。


 侍女に「まだ呼ばれていませんよ」と言われ、「でも必要になるわ」と答えて鞄を押し入れに入れた。


 果たして、三週間後。


 ヴィオレットから二通目の手紙が届いた。


 『今すぐ来て、カレンシア。』


 カレンシアは鞄を引っ張り出しながら、侍女に向かって得意そうな顔をした。


 王都レジアナは、西方統合王国の首都だった。


 石畳が整然と続く大通り、華やかな看板を連ねた商店街、噴水の広場に集う貴族と商人と旅人——表向きは活気と繁栄に満ちた美しい都市だ。


 しかし王都には、表の顔と裏の顔がある。


 カレンシアが王都に到着した翌朝、彼女は侍女一人だけを連れて朝の市場に出かけた。


 王都の西区——裕福な貴族が決して足を向けない界隈だ。


 そこで、カレンシアは馬を見た。


 |散水車(さんすいしゃ)だった。


 荷台に大きな水桶を積んだ木製の車を、一頭の馬が引いていた。

 石畳の上を重い蹄音を立てながら、ゆっくりと、ゆっくりと進む。


 カレンシアが目を奪われたのは、馬の大きさではなかった。


 毛色だった。


 |黒鹿毛(くろかげ)——日の光を受けると赤みがかって見える、深い|濃褐色(のうかっしょく)の毛並み。


 しかしその毛並みは泥と埃にまみれ、艶を完全に失っていた。

 たてがみは|不(ふぞろ)いに絡まり、尾は地面を引きずっていた。


 体格は——本来は、相当なものだったはずだ。


 カレンシアは馬術を嗜む者の目でその骨格を見た。


 肩の幅、脚の長さ、胸の奥行き。

 どれもが「散水車引き」に収まる器ではなかった。


 骨格だけを見れば、オブシディアン・アレスに匹敵する、あるいはそれ以上かもしれない。


 しかし馬は今、痩せていた。

 肋骨の浮き出た胴体。

 力を失った眼差し。


 それでいて——その目の奥に、まだ何かが燻っていた。


 消えかけた炉の奥に残る、赤い|熾(おきび)のような何か。


「あの馬は」


 カレンシアは通りがかりの店主に声をかけた。


「ああ、あれですかい? 西区の散水業者の馬ですよ。


 異国から連れてこられたとかで、もとは相当な血統の牡馬らしいんですが——気性が荒くて誰も手懐けられないそうで。


 売り飛ばされるんじゃないですかね」


「気性が荒い?」


「ええ、扱う人間を選ぶんですよ。


 嫌なことがあると蹴るわ嚙むわ、先月も散水業者の手伝いが怪我をして——もっとも、あんな扱いをされれば当然かもしれませんが」


 店主は肩をすくめ、それ以上の関心を失った様子で自分の商品に戻った。


 カレンシアは馬を見た。


 散水車が停まった。


 御者台に座る男が手綱を乱暴に引き、馬の口元に鉄の(くつわ)が食い込んだ。

 馬は痛みに首を振ったが、男はそれを無視して荷台の水桶の具合を確かめた。


 カレンシアは一歩、踏み出した。


「お待ちなさい」


   ◇ ◇ ◇


 ヴィオレットの屋敷に到着したカレンシアは、開口一番こう言った。


「ヴィオレット、王都西区の散水業者に掛け合わなければいけないわ。今日中に」


 お茶を用意していたヴィオレットが目を瞬いた。


「……到着してまだ一時間も経っていないわよ?」


「見てしまったのだもの、しょうがないでしょう」


 カレンシアは旅塵も払わずにテーブルに着き、事情を説明した。

 聞き終えたヴィオレットは、考える間もなく立ち上がった。


「案内して」


 グリゼルダも呼んだ。


 三人の令嬢は馬車を仕立て、王都西区へ向かった。


 散水業者は初め、馬を売ることを渋った。


「あの馬は気性が荒い。買い手なんていない」


「私が買います」


「お嬢さん方、あれは厄介ごとのかたまりですよ。怪我をするだけです」


「値段を言ってください」


 業者が吹っかけてきた金額は、普通の馬の十倍だった。

 足元を見た価格だと誰の目にも明らかだった。


 グリゼルダが眉を上げ、ヴィオレットが静かに交渉しようとした。


 しかしカレンシアは財布を取り出した。


「お支払いします」


「カレンシア!」


「構わないわ」


 カレンシアは振り返らずに言った。


「これは私の|私(しざい)だもの。何に使おうと自由でしょう」


 グリゼルダが低い声で言った。「あの男、騙しているぞ」


「わかっている」


 カレンシアは業者に向き直った。


 その瞳に、いつもの穏やかさとは別の光が宿った。


「あなたが今つけた値段が不当であることは、わかっています。


 でも私はそれを払う。


 なぜかというと——」


 彼女の声は静かだったが、揺らがなかった。


「この馬に、一刻も早くここから出てほしいからです。


 それだけの理由で、私はこの金を払います」


 業者は何かを言おうとして、やめた。


 硬貨が手の中に収まった。


   ◇ ◇ ◇


 馬を引き取って屋敷の厩舎に連れ帰ろうとしたとき、問題が生じた。


 馬が、動かなかった。


 引き綱を持った馬丁が引いても、押しても、声をかけても——漆黒に近い黒鹿毛の馬は、石畳の上に四本の脚を植えたまま微動だにしなかった。


 目には怒りと疑惑が渦巻いていた。

 またどこかへ連れて行かれる。

 またひどい目に遭わされる——そう言っていた。


 カレンシアが一歩前に出ようとしたとき。


 路地の奥から、何かが飛び出してきた。

 小さな灰色の塊だった。


 猫だった。


 痩せた|野良猫(のらねこ)で、毛並みは乱れ、右の耳の先が少し欠けていた。


 しかし目だけは鮮明で、銀色がかった黄色の瞳が月のように輝いていた。

 猫は迷いなく馬の前足の間に走り込み、そこに座った。


 馬が動いた——驚いたように一歩退いた。


 猫は馬を見上げた。

 馬は猫を見下ろした。


 誰もが息を呑んだ。


 次の瞬間、黒鹿毛の馬は頭を大きく下げ、猫の頭を鼻先でそっと押した。


 猫はよろめいて、それからぷるぷると体を振り、馬の鼻先に自分の額を擦りつけた。


 カレンシアは目を見開いた。


「……友達なの?」


 侍女が呆然と言った。「まさか、野良猫が……あの馬の?」


「そうらしいわ」


 カレンシアはしゃがみ込み、猫を見た。


 猫は一瞬カレンシアを警戒したが——カレンシアが手を差し伸べると、少し迷ってから鼻先を近づけてきた。


「あなたもいっしょに来る?」


 猫は答えなかった。


 ただ馬の鼻先に体を寄せたまま、じっとカレンシアを見ていた。


「そう」


 カレンシアは立ち上がり、馬丁に言った。


「この子も一緒に連れていきなさい。籠を用意してあげて」


 その夜から、灰色の猫は黒鹿毛の馬の馬房で暮らすことになった。


 カレンシアは猫に「アッシュ」という名をつけた。


 灰色の毛並みにちなんで。


 馬に「ノワール・レグルス」という名を与えたのは、ヴィオレットだった。


「黒き獅子王、という意味よ」とヴィオレットは言った。


「この骨格を見たら、そう呼ぶよりほかないわ」


 グリゼルダは最初にノワールを見て、腕を組み、長い間無言だった。


「この馬——アレスよりも深いところに、何か眠っている」


「スタミナよ」ヴィオレットが静かに言った。


「デザート・ソレイユが風なら、アレスは炎。この馬は大地ね。


 走り始めれば、他の馬が止まっても走り続ける——そういう馬よ、きっと」


「その『きっと』を確かめるのが難しいんだが」


 グリゼルダは顎で馬房を示した。


 ノワールは馬房の隅に立ち、近づく者全員を睨みつけていた。

 アッシュだけが唯一その傍らに居られた。


 馬丁は誰一人として餌を渡せず、世話は遠くから行う他なかった。


 カレンシアだけが、怯まなかった。

 毎朝、夜明け前に厩舎へ行った。


 最初の一週間は、馬房の前に立って話しかけるだけにした。

 内容は何でもよかった。


 昨日の夕食のこと、侍女との他愛ない話、幼い頃ガリアで見た夕暮れの話。


 ノワールは壁の方を向いたまま聞いていた——聞いていないふりをしながら、耳だけ少し向けていた。


 二週間目、カレンシアは餌桶を手に持って扉を開けた。


 ノワールがこちらを向いた。


「おはよう」


 カレンシアは言いながら、一歩だけ中に入った。


 ノワールは鼻を鳴らした。

 牙を見せた。

 一歩踏み込んできた。


 カレンシアは退かなかった。


 ただ——餌桶を地面に置き、膝をついた。

 馬の視線より低い位置に、自分の目を置いた。


 ノワールは止まった。


 しばらく睨み合いが続いた。

 アッシュが馬の足元で|欠(あくび)をした。


 ノワールはゆっくりと頭を下げ、餌桶の中に鼻を入れた。

 カレンシアはその場で静止したまま、馬が食べる音を聞いた。


 涙が、頬を伝った。


 カレンシアは気づいていなかった。


 ただ膝をついたまま、馬の食べる音を聞きながら、理由もわからず泣いていた。


   ◇ ◇ ◇


 アッシュは不思議な猫だった。


 人間には滅多に心を開かなかったが、カレンシアにだけは例外だった。

 カレンシアが厩舎に来ると必ずそばに寄り、膝の上に乗り、喉を鳴らした。


 同時に、ノワールとカレンシアの間を行き来した——まるで通訳をするように。


 カレンシアがノワールに近づけないとき、アッシュが先にノワールの鼻先に行って擦りついてから戻ってきて、カレンシアの足首に体を押しつけた。


 それからまたノワールの元へ行く。


 まるで「大丈夫だよ」と伝えているみたいに。


「猫が仲介しているわ」グリゼルダが呆れたように言った。

「かわいいでしょう」カレンシアはアッシュを抱き上げながら答えた。

「かわいいは認める」


 ヴィオレットは二人のやりとりを聞きながら、アッシュの銀色の瞳を見つめていた。


 猫は賢かった。


 ノワールが怒っているとき、アッシュはノワールの足元で眠った——その小さな体が「ここは安全だ」と伝えるかのように。


 ノワールが怯えているとき、アッシュは鳴いた——か細い声で、しかし確かに。


 ヴィオレットは思った。


 誰かが傍らにいること。

 たとえ言葉が通じなくても、ただそこにいること——それが、どれほどの力を持つか。


 薔薇と時計草。


 二つは別々の植物だが、絡み合うことで互いをより高く伸ばす。


 家紋の意味を、ヴィオレットは改めて噛みしめた。


   ◇ ◇ ◇


 ノワールが初めて走ったのは、冬の終わりの朝だった。

 カレンシアが三ヶ月かけて、少しずつ、少しずつ積み上げた信頼の先に——その朝はやってきた。


 まだ日の出前。

 厩舎の庭に、薄い(しも)が降りていた。


 カレンシアはノワールを庭に引き出した。


 鞍はつけなかった。

 引き綱を外した。


 ノワールは庭の中央に立ち、冷たい空気を嗅いだ。


 アッシュが柵の上に飛び上がり、銀色の目でじっと馬を見た。


 ノワールが動いた。


 最初は歩いた。


 それから|速(はやあし)になった。

 それから|駈(かけあし)になった——そして。


 走った。


 庭の端から端へ、駆け抜けた。


 霜を蹴散らし、たてがみを振り乱し、黒鹿毛の体が夜明け前の薄闇の中を|疾(しっそう)した。

 三人の令嬢たちは、誰も言葉を発せなかった。


 ノワールは止まらなかった。


 庭を一周し、二周し、三周した——それでも息が上がらなかった。

 脚が衰えなかった。


 むしろ、走れば走るほど加速していった。


「大地……」ヴィオレットが掠れた声で言った。「スタミナが、底をついていない」グリゼルダが目を細めた。

「どこまで走れるんだ、この馬は」


 カレンシアは何も言わなかった。


 目に涙を溜めて、ただノワールを見ていた。

 走るノワールは——美しかった。


 散水車を引いていたときの疲弊した姿は、どこにもなかった。

 これが本当の彼だった。


 泥に埋もれていた|黒曜石(こくようせき)が、磨かれて初めてその輝きを現したように——ノワール・レグルスという名の馬が、今ここに生まれた。


 走り終えたノワールがカレンシアの前に戻ってきた。

 大きな頭を、ゆっくりと下げた。


 カレンシアは両手でその黒鹿毛の頬を包んだ。


「ありがとう、ノワール」


 声は震えていた。


「あなたが信じてくれて——ありがとう」


 アッシュが柵の上から飛び降り、カレンシアの足元に着地した。

 それから馬の足元に歩いていき、くるりと丸くなった。


 夜明けの光が、三人と一頭と一匹を包んだ。


   ◇ ◇ ◇


 同じ朝、ヴィオレットは手帳を取り出し、羽根ペンを走らせた。

 三頭の馬の名を書き記した。


 デザート・ソレイユ——砂漠の太陽。

 速さと柔軟性。


 オブシディアン・アレス——黒曜の戦神。

 勇猛さと力強さ。


 ノワール・レグルス——隠された黒き獅子王。

 持久力と不屈の魂。


 そしてその下に、一行書き加えた。


 『ローズ・メア——|悠(ゆうきゅう)の薔薇。三百年の骨格、黒鋼馬の血。大地の礎。』


 ヴィオレットは羽根ペンを置き、目を閉じた。


 脳裏に浮かぶのは、嘲笑の声だった。


 農耕馬。

 時代遅れ。

 流行遅れ。


 そして、それらの言葉の向こうで静かに立ち続ける、牝馬たちの姿。


 三百年間、嘲笑に耐えた血筋。


 砂漠の遥かな草原から来た速さ。


 戦場の炎を生き抜いた強さ。


 虐待の影の中で守られた持久力。


 今、四つの血が、ここに揃った。


「ヴィオレット」


 グリゼルダの声がした。


「次は何をする?」


 ヴィオレットは目を開き、手帳を閉じた。


 微笑んだ。


 薔薇と時計草が絡み合う家紋と、まったく同じ形の微笑みだった。


「百年後の王国のために——始めましょうか」


 時計草の針が、また一目盛り進んだ。


 そして薔薇は、ゆっくりと、しかし確かに、次の花芽を育て始めた。


   ◇ ◇ ◇


 春の社交シーズンが、また巡ってきた。


 王都の競馬場に令嬢たちの笑い声が満ちる季節。


 噴水広場の白いパラソル。

 レースのグローブと羽根飾りの帽子。


 馬上の紳士たちが見せびらかすように厩舎の新馬を引かせ、細腰で首の長い「今年の流行馬」を競い合う。


 今年の話題は、ひとつに集中していた。


 ローゼンクランツ公爵令嬢のことだ。


「聞きまして? 砂漠から馬を連れ帰ったと思ったら、今度は戦場の廃馬と異国の散水車引きを引き取ったそうよ」


「もはや令嬢の趣味というより、廃物回収業ですわね」


「あの農耕馬の群れに、廃馬と病馬を混ぜてどうするつもりかしら。廃農耕馬ができあがるだけでしょう」


 笑い声は以前より高かった。


 嘲笑は、確信を得たとき、より大きな声になる。


 競馬場の一角で、ヴィオレットはそれを聞いていた。


 グリゼルダが隣で静かに拳を握るのを、視界の端に捉えていた。


 カレンシアは何も聞こえていないかのように微笑んでいた——しかしその笑みが、いつもより少しだけ固いことに、ヴィオレットは気づいていた。


「行きましょうか」


 ヴィオレットは二人に言った。


「社交シーズンの観覧は今日でおしまいよ。これから忙しくなるもの」


「何をするの?」とグリゼルダが聞いた。


「約束したでしょう」


 ヴィオレットはほほ笑んだ。


「百年後の王国のために——始めると」


   ◇ ◇ ◇


 ローゼンクランツ公爵家の執務室に、三人の令嬢が集まった。


 長机の上に、ヴィオレットが資料を広げた。


 それは単なる紙ではなかった。


 |羊皮紙(ようひし)に細かな文字と図が記されていた——ローゼンクランツ家が三百年にわたって書き継いできた、牝馬たちの記録だった。


 何世代にもわたる誕生の記録、気性の観察、走力の計測、体格の描写。


 母から娘へ、祖母から孫へ、脈々(みゃくみゃく)と受け継がれた「血の歴史」が、幾枚もの羊皮紙に刻まれていた。


「これが——ローズ・メアの全て」


 ヴィオレットは羊皮紙の一枚を指でなぞった。


「百五十年前の祖先から今日まで、一頭も欠かさず記録してある。どの馬がどんな走りをして、どんな子を産んで、その子がどう育ったか」


 グリゼルダが眉を寄せながら資料を手に取った。


「これを……三百年間、ずっと?」


「祖先が書き始めて、代々の当主が続けた。笑われても、流行遅れと言われても——ただ記録し続けた」


 カレンシアが静かな声で言った。


「信じていたのね。いつかこの記録が意味を持つ日が来ると」


「そう」


 ヴィオレットは別の羊皮紙を広げた。


 そこには三頭の馬の名が書かれていた。


 デザート・ソレイユ。

 オブシディアン・アレス。

 ノワール・レグルス。


 それぞれの骨格、走法、気性、持久力——カレンシアたちが観察して書き留めた記録が添えられていた。


「私がこの三年間で確信したことがある」


 ヴィオレットは三枚の羊皮紙を並べ、ローズ・メアの記録と対照させた。


「ローズ・メアが持つのは、黒鋼馬の血が生んだ骨格——数百年の戦場と山道に耐えた、大地のような頑強さよ。でも彼女たちには足りないものがある。速さ。柔軟性。そして——」


「スタミナ」カレンシアが続けた。


「そう。長距離での持久力。デザート・ソレイユの風のような速さ、アレスの炎のような|瞬発力(しゅんぱつりょく)、ノワールの大地のような持久力——この三つをローズ・メアの骨格の中に織り込むことができたなら」


 ヴィオレットは目を上げた。


「百年後どころか、二百年先まで走り続ける血統が生まれる」


 沈黙が落ちた。


 グリゼルダが口を開いた。


「しかし、三頭の血を一度に入れることはできない。世代を経なければ——」


「わかっている」


 ヴィオレットは頷いた。


「だから設計図が必要なの。どの牝馬に、どの馬の血を——どういう順序で受け継がせるか。これは一代で完成するものではない。でも最初の一歩を間違えれば、百年が無駄になる」


 三人は顔を見合わせた。


 重さが、机の上の空気に漂っていた。


 三百年分の記録と、三頭の馬の命と、百年後への誓いが、全てここに凝縮していた。


「——やるわ」


 最初に言ったのは、グリゼルダだった。


「武門の剣を守るように、この設計図を守る。アイゼンシュタインの名に誓って」


「リュミエールの愛をもって、この子たちを育てる」


 カレンシアが続けた。


「ローゼンクランツの時計草は、止まらない」


 ヴィオレットは羽根ペンを取り上げた。


 設計図の頂点に、三つの家紋を並べて描いた。


 薔薇と時計草。交差した二本の剣。光の紋章。


 そしてその下に、一行書いた。


 『これは百年後の子どもたちへ贈る、時を超えたタスキである。』


   ◇ ◇ ◇


 最初の交配は、春の終わりに行われた。


 ローズ・メアの中で最も若く、走力に優れた栗毛の牝馬——ヴィオレットが「ローズ・プリマ」と呼んでいた馬——とデザート・ソレイユの組み合わせだった。


 デザート・ソレイユは穏やかだった。


 砂漠育ちの気品を纏ったまま、しかし威圧することなく、ローズ・プリマの隣に立った。


 ヴィオレットはその様子を厩舎の外から見守りながら、手帳に書き記した。


 『気性:穏和。拒絶反応なし。体格差:デザート・ソレイユは体高が低いが、肩の筋肉の密度はローズ・プリマに劣らず——。』


 馬丁の老人が隣に来て、低い声で言った。


「お嬢様、この組み合わせはうまくいくと思います」


「そう? なぜ?」


「デザート・ソレイユ様は砂漠育ちですが、あの馬は土を嫌っていない。最初に厩舎に入ったとき、石畳より土の上で足を止めて、しばらく地面を嗅いでいました。砂漠の馬が土を好む——つまり、この地の土と合う馬なんです」


 ヴィオレットは手帳から目を上げ、老馬丁を見た。


「……あなた、何年この厩舎にいるの?」


「四十二年でございます、お嬢様」


「四十二年の目に、敵いそうもないわね」


 老馬丁は皺深い顔に笑みを浮かべた。


「お嬢様の祖母君も、よく同じことをおっしゃいました」


 ヴィオレットは視線を戻し、手帳の続きを書いた。


 その目が、少しだけ潤んでいたことに、老馬丁は気づいていたが、何も言わなかった。


   ◇ ◇ ◇


 二番目の交配は、難航した。


 オブシディアン・アレスは、相変わらず人間への警戒心が強かった。


 グリゼルダだけを例外として、他の人間は馬房に近づくことさえ困難だった。


 それ自体は想定内だった。問題は、牝馬の側だった。


 ローズ・メアの中で最も体格に優れた鹿毛の牝馬——「ローズ・セクンダ」——が、アレスの気性に当てられ、激しく嫌がったのだ。


 馬同士の相性というものは、人間の都合では動かない。


「無理強いはできない」とグリゼルダは言った。


「わかっている」ヴィオレットは頷いた。


「では……」カレンシアが二頭を交互に見ながら、ゆっくりと言った。「まず友達になってもらうしかないわ。私とノワールがそうだったように」


 三人は目を見合わせた。


 それから——その日から、グリゼルダは毎朝アレスとローズ・セクンダを隣り合わせの馬房に入れ、自ら世話をし続けた。


 餌を同じ場所から与えた。水を隣り合わせの桶に入れた。


 二頭が隔たりを越えて互いの気配に慣れるまで、ただ待った。


 三週間後の朝。


 グリゼルダが厩舎に入ると、隣り合った馬房の柵越しに、アレスとローズ・セクンダが並んで立っていた。


 鼻を突き合わせるでもなく、特別に仲良くするでもなく——ただ同じ方向を向いて、静かに立っていた。


 グリゼルダは誰にも言わずに、一人でほほ笑んだ。


 (これでいい。これでいいのだ)


 武門の誇りは、力で制することではない。


 相手を認め、認められるまで——傍らに立ち続けることだ。


   ◇ ◇ ◇


 三番目の交配の前夜、カレンシアはひとりで厩舎に行った。


 ノワールの馬房の前に立った。


 アッシュが柵の上に乗って、月明かりの中で毛繕いをしていた。


「ノワール」


 カレンシアは扉を開け、中に入った。


 ノワールはこちらを向いた。もはや威嚇しなかった。ただ静かに、主人のように立っていた。


「あなたに頼みがあるの」


 カレンシアは馬の前に立ち、黒鹿毛の額に手を当てた。


「あなたの命を——未来の子どもたちに継いでほしい。あなたが虐げられ、疑い、傷ついてきた全てのことも含めて——その先に辿り着いた魂を、次の世代に渡してほしいの」


 ノワールは動かなかった。


「つらいことを経験した魂は、強い。折れない。何度転ばされても立ち上がる——そういう強さを、あなたは持っている。それはあなたが苦しんだからこそ得たものなの。その苦しみを、無駄にしないで」


 アッシュが欠伸をしながら柵から飛び降り、カレンシアの足元に来た。


 それからノワールの足元に行き、くるりと丸くなった。


 ノワールはゆっくりと頭を下げ。


 カレンシアの肩に、黒鹿毛の馬の頭がそっと乗った。


 馬の体温が、肩から首へと伝わった。


 カレンシアは目を閉じた。


「ありがとう」


 月明かりの中で、令嬢と馬と猫が、ただ静かに寄り添っていた。


   ◇ ◇ ◇


 三頭の東方馬との交配を経て、季節は二度巡った。


 最初の子が生まれたのは、早春の|払(ふつぎょう)だった。


 ローズ・プリマとデザート・ソレイユの仔——牝馬だった。


 その仔馬を見た瞬間、老馬丁が静かに帽子を脱いだ。


 体高はローズ・プリマに近い——大柄だ。


 しかし四肢の線は、デザート・ソレイユから受け継いだ弓弦のような引き締まりを持っていた。


 骨格はローズ・メアの頑強さを確かに宿しながら、その骨の上に纏う筋肉は、砂漠の馬の持つ柔軟な密度を示していた。


 立ち上がった仔馬が、最初の一歩を踏み出した。


 その|歩(ほよう)を見て、ヴィオレットは息を呑んだ。


 軽かった。


 大柄な体格に似合わない、羽のような軽やかさで、仔馬は厩舎の床を踏んだ。


 まるで黄金の砂漠を走るデザート・ソレイユの歩みが、ローズ・メアの岩盤のような脚の上で踊っているようだった。


「……融合している」


 グリゼルダが低い声で言った。


「二つが、一つになっている」


 カレンシアは仔馬に近づいた。


 仔馬は逃げなかった。鼻を近づけ、カレンシアの掌を嗅いだ。それから小さく鳴いた。


「なんて名前をつける?」とヴィオレットに聞いた。


 ヴィオレットはしばらく仔馬を見つめてから、答えた。


「ローズ・オーロラ」


「曙光の薔薇」


「そう。これが——夜明けの始まりだから」


   ◇ ◇ ◇


 そこから三年間、三人の令嬢たちは記録し続けた。


 生まれた仔馬の全てを書き記した。


 体高、体重、毛色、気性、走力の傾向——ヴィオレットの手帳は一冊、また一冊と増えていった。


 グリゼルダは各馬の鍛錬記録をつけた。


 カレンシアは気性と感情の記録をつけた——馬が何を怖がり、何を喜び、どんな朝に一番よく走るか、細やかに観察した。


 この三年間、社交界の嘲笑は止まなかった。


「ローゼンクランツの令嬢、今年もあの農耕馬で来るらしいわよ」


「招待状を断り続けているそうよ。よほど見せられないものがあるのかしら」


「廃馬と病馬を集めたって、できるのは廃馬の群れだけよ」


 ヴィオレットは聞こえるたびに、手帳に一本、線を引いた。


 線は少しずつ増えていった。


 しかし彼女の表情は、最初の春から何一つ変わらなかった。


 三年目の秋、ヴィオレットは手帳を閉じ、グリゼルダとカレンシアを呼んだ。


 三人は厩舎の庭に立ち、馬たちを見渡した。


 ローズ・オーロラをはじめとする第一世代の若馬たちが、夕暮れの中で草を食んでいた。


 大柄な体躯に、東方馬の血が宿した|躍動感(やくどうかん)。ゆっくり歩く一頭一頭の動きに、かつてのローズ・メアにはなかった軽さと張りが宿っていた。


「見て」


 ヴィオレットが言った。


「あの子たちの歩様を——ローズ・プリマと見比べて」


 グリゼルダは目を細めた。


「……脚の回転が違う。同じ一歩でも、前に進む距離が長い」


「デザート・ソレイユの柔軟性が、ローズ・メアの大きな歩幅に乗ったの」


「アレスの子も同じだ」グリゼルダが別の一頭を指した。「ローズ・セクンダの子——あの馬は発進が早い。瞬発力が段違いだ」


「ノワールの子は」カレンシアが静かに言った。「三周走っても息が上がらない。試しに長距離を走らせたら、他の馬が止まった後も走り続けたわ」


 三人は沈黙した。


 それは単純な喜びではなかった。


 数百年の記録と、三年間の献身と、三頭の馬の命が結晶したものを——目の前に見ていた。


「ヴィオレット」カレンシアが言った。「あなたが言っていた通りだった」


「まだ途中よ」ヴィオレットは首を振った。「これは第一世代。本当の答えは、もっと先にある」


「でも」グリゼルダが言った。「答えの形は、見えた」


 ヴィオレットは答えなかった。


 ただ夕暮れの中で馬たちを見つめながら、胸の内で三百年分の声を聞いていた——記録し続けた先祖たちの、無言の声を。


   ◇ ◇ ◇


 翌年の春。


 王都から一通の書状が届いた。


 差出人は王宮の|馬事局(ばじきょく)。文面はこうあった。


 『王国建国百五十周年を記念し、王都において|未曾有(みぞう)の大競走を開催いたします。全ての貴族家に参加資格を付与いたします。この競走は長距離の厳しいものとなりますが、これこそが王国の|馬(ばさん)の真価を問うものと考えております。ご参加の栄誉を——』


 グリゼルダは書状を読み終え、ヴィオレットに渡した。


「長距離戦だ」


「ええ」


「つまり」


「ええ」


 ヴィオレットはほほ笑んだ。


「私たちの子たちのために、あつらえたような舞台ね」


 カレンシアが書状を覗き込み、それから顔を上げた。


「出るの?」


「当然よ」ヴィオレットは答えた。「三百年と三年の答えを——あの笑い声に届けに行く」


 グリゼルダは一瞬だけ口元をほころばせ、すぐに武門の令嬢の顔に戻った。


「鍛え上げる。一年、時間をくれ」


「もちろん」


 厩舎の庭で、ローズ・オーロラが夕暮れの中を駆けていた。


 その蹄の音は、地を揺らすほど力強く——しかし一頭一頭の足捌きは、砂漠の風のように軽やかだった。


 時計草の針が、また一目盛り進んだ。


 薔薇は、最後の花芽を開き始めていた。


   ◇ ◇ ◇


 グリゼルダが「一年、時間をくれ」と言ったとき、それは約束ではなく宣言だった。


 翌朝から、アイゼンシュタイン侯爵家の鍛錬が始まった。


 夜明け前の厩舎。まだ星が残る空の下、グリゼルダは若馬たちを庭に引き出した。


 一頭一頭の歩様を確かめ、呼吸の乱れを聞き、脚の着地を目で追った。武門の令嬢が幼い頃から培った「馬を見る目」が、観察するたびに深くなっていた。


 ローズ・オーロラは、群れの中でも際立っていた。 デザート・ソレイユとローズ・プリマの間に生まれた四歳の牝馬。


 体高は大柄なローズ・メアの血を引いて高く、しかし四肢の回転は砂漠馬の血が与えた柔軟さで驚くほど軽い。


 グリゼルダが初めて彼女に長距離を走らせたとき、速歩から駈歩へ、駈歩から全力疾走へと移行する際の加速が、あまりに滑らかで思わず息を呑んだ。


「大地の上を、風が走っている」


 グリゼルダは誰にも聞こえない声でつぶやいた。


 オブシディアン・アレスとローズ・セクンダの間に生まれた牡馬——ヴィオレットが「ローズ・ノクターン」と名づけた漆黒の若馬——は、瞬発力に特化していた。


 発進の一歩目が他の馬と別次元だった。止まっている状態から全力疾走に至るまでの間が、まるで存在しないかのように。


 そしてノワール・レグルスとローズ・メアの三番仔から生まれた牡馬——「ローズ・エテルナ」——は、走っても走っても息が乱れなかった。


 長距離を走るほどに、他の馬との差が開いた。まるで走ることが、彼にとって呼吸と同じくらい自然なことであるかのように。


 三頭の若馬が、三人の令嬢の四年間を体現していた。


 グリゼルダは毎日記録をつけた。走行距離、タイム、脚の状態、気性の変化。


 ヴィオレットの手帳が血統の記録ならば、グリゼルダの手帳は鍛錬の記録だった。


 カレンシアは若馬たちの心の記録をつけた——何を怖がり、何を喜び、どんな朝に一番よく走るか。


 三冊の手帳が、一頭の馬を三方向から照らしていた。


 夏の終わり、カレンシアがヴィオレットに言った。


「ねえ、ヴィオレット。デザート・ソレイユに会いに行ったの?」


「昨日も行ったわ」


「元気だった?」


「年をとったけれど、目は変わらない。琥珀色のまま」


 カレンシアは少し間を置いた。


「アレスも、ノワールも——彼らがいなければ、今日はなかった。大切にしてあげたいわ」


「わかっている」


 ヴィオレットは静かに言った。


「彼らの命が、オーロラたちの中に生きている。それを——必ず、証明する」


   ◇ ◇ ◇


 大競走の前夜、王都は祭りの空気に満ちていた。


 建国百五十周年を祝う旗が大通りを彩り、貴族たちの馬車が石畳の上を連なった。


 競馬場周辺の旅籠は満室で、王都中の人間が翌日のために早寝しようとして眠れずにいた。


 三人の令嬢は、それぞれひとりで過ごした。


 ヴィオレットは執務室に灯りをともし、三百年分の羊皮紙を広げた。


 一枚一枚、先祖たちの筆跡を指でなぞった。数百年前に誰かが書いた牝馬の記録。百年前の当主が書き留めた気性の観察。五十年前の祖母が書いた、走力への期待。


 そして自分の手帳——砂漠で出会った夜から今日まで、書き続けた全ての記録。


 ヴィオレットは羽根ペンを取り、手帳の最後のページを開いた。


 そこに一行だけ書いた。


 『明日、答えが出る。どうかこの血筋を、時の流れが証明してくれますように。』


 それからペンを置き、家紋を見た。 薔薇と時計草が絡み合う意匠。時計草の針は、今もどこかで進み続けている。


 グリゼルダは厩舎に行った。


 三頭の若馬は眠っていた。 ローズ・オーロラは横たわり、ゆっくりと腹を動かしていた。ローズ・ノクターンは立ったまま目を閉じていた。ローズ・エテルナは藁の上に頭を乗せ、深い呼吸を繰り返していた。


 グリゼルダは一頭ずつの前に立ち、その寝顔を見た。


 ローズ・ノクターンの額に手を当てた。 アレスと同じ、漆黒の毛並み。しかし気性はアレスほど荒くなかった。戦場の傷を持たない命は、こんなにも穏やかなのだと思った。


「あなたのお父さんは——」


 グリゼルダは低く言った。


「ずっと戦ってきた馬だった。でもあなたは戦うために走るんじゃない。ただ、走るために走る。それでいい」


 ローズ・ノクターンは眠ったまま、耳だけ少し動かした。


 グリゼルダはほほ笑んだ。 武門の令嬢が夜の厩舎でひとり笑った顔を見た者は、誰もいなかった。


 カレンシアはノワール・レグルスの馬房へ行った。


 ノワールはもう老いていた。毛並みの艶は以前ほど鮮明ではなく、立ち姿に若い頃の緊張感はない。 しかし目の奥の熾火は——消えていなかった。


 アッシュが馬房の隅で丸くなっていた。 カレンシアが近づくと、薄目を開けて尻尾の先だけ動かした。


「アッシュ」


 カレンシアはしゃがんで猫を撫でた。アッシュは喉を鳴らした。 ノワールがゆっくりと頭を下げ、カレンシアの肩に顎を乗せた。


「あなたのお子さんが明日、走るわ」


 カレンシアは言った。


「ローズ・エテルナ。あなたの持久力を受け継いだ子。散水車を引かされていたあなたが、明日、王国中の人の目の前で——走る」


 ノワールは動かなかった。 ただ重い頭をカレンシアの肩に預けたまま、夜の厩舎で息をしていた。


 カレンシアは泣かなかった。 泣くのは、明日の後でいいと思った。


   ◇ ◇ ◇


 競馬場は、夜明けから人で溢れていた。


 建国百五十周年の大競走。全貴族家への招待。長距離という過酷な条件。 そのいずれもが、この競走を王国史上最大の馬事となす要素だった。


 観覧席は華やかだった。 色とりどりのドレスとジャケット、宝石と羽根飾り、高らかな笑い声と評論。 今年の流行馬を引っ提げた名門の当主たちが、互いに馬自慢に花を咲かせていた。


 出走馬が馬場に入場し始めると、観覧席がざわめいた。


 細腰で首の長い流行馬たちが、磨き上げられた毛並みを日の光に輝かせながら歩いていた。馬上の騎手たちも鮮やかな色の勝負服を着ており、壮観だった。


 そこへ、ローゼンクランツ家の馬たちが入ってきた。


 ローズ・オーロラ。ローズ・ノクターン。ローズ・エテルナ。 観覧席に、笑い声が起きた。


「あら、まだあの農耕馬の系列が来ているわ」


「しかも三頭も。懲りないこと」


「大きいのね……。あの体格で長距離を走るつもり? 途中で倒れるんじゃないかしら」


 笑い声は波のように広がり、重なり合い、競馬場の空気を満たした。


 三人の令嬢は観覧席の端に立っていた。


 ヴィオレットは笑い声を聞きながら、馬場を見つめていた。 その表情は——三年前の社交シーズンから、何一つ変わっていなかった。 凪いだ水面のように静かで、しかし底に何か確かなものが沈んでいる目だった。


「聞こえているか」グリゼルダが言った。


「聞こえている」


「腹は」


「立てても意味がないもの」


 グリゼルダは鼻から息を吐いた。


「……三年前と同じことを言う」


「でも意味が変わったわ」


 ヴィオレットは言った。


「三年前は——怒りを隠すためにそう言っていた。今は本当に、腹が立たない」


 カレンシアが二人の間に立ち、馬場のオーロラたちを見た。


「あの子たちを見ていたら」


 彼女は静かに言った。


「笑い声なんて、もう聞こえないわ」


   ◇ ◇ ◇


 出走馬は十七頭。 長距離戦——王都の競馬場を囲む丘陵地帯を一周半する、過酷なコースだった。


 平地から始まり、緩やかな上り坂、急なS字カーブ、そして長い直線の下り坂を経て、競馬場に戻ってくる。 距離は王国の競走史上、かつてない長さだった。


「流行馬には酷なコースですな」と老馬丁が言っていた。「細腰で首が長い馬は、見映えはよろしいが体積が少ない。長距離になれば、心肺の容量がものを言います」


 ローズ・オーロラの鞍に乗る騎手は、アイゼンシュタイン家の信任する若い騎手だった。 グリゼルダが一年間ともに鍛えた青年で、オーロラの癖を掌の上で転がすように知っていた。


「出過ぎるな」グリゼルダは出走前に言った。「前半は後ろに控えろ。この馬が本当の力を出すのは、他の馬が消耗し始めてからだ」


「はい」


「信じろ。この馬を信じろ。脚を信じろ」


「はい」


 騎手は頷き、オーロラの首を一度だけ叩いた。 オーロラは耳を立て、大きな目で前を向いた。


 号砲が鳴った。


   ◇ ◇ ◇


 前半、ローゼンクランツ家の三頭は後方に控えた。


 先頭集団は流行馬たちが占めた。細腰の馬たちが軽やかに飛び出し、観覧席から歓声が上がった。 貴族たちは贔屓の馬の名を呼び、旗を振った。


「やはり速い、あの馬たちは」


「ほら、後ろを見てごらんなさい。農耕馬は早くも離されているわ」


 確かに、前半のうちはそうだった。 ローズ・オーロラたちは中段よりも後ろを走っていた。


 しかし——観察眼を持つ者が見れば、気づいたはずだ。 三頭の呼吸が、他の馬と全く違うことに。


 前を走る流行馬たちの脇腹が、すでに激しく動いていた。 速いペースに対応しようと、心肺が悲鳴を上げ始めていた。細く美しい四肢は、確かに速かった——しかしその速さを維持するためのコストが、すでに体を蝕んでいた。


 ローズ・オーロラの脇腹は、規則正しく動いていた。 まるで散歩でもするように。


 丘陵地帯に入り、上り坂が始まった。 変化は、そこから起きた。


 先頭を走っていた流行馬たちの脚が、目に見えて重くなった。 一頭、また一頭と速度が落ちた。細腰の馬体は上り坂への適性が低く、脚力の消耗が平地の倍になっていた。


 そのとき、ローズ・ノクターンが動いた。


 グリゼルダが厩舎で見続けてきた、あの「別次元の瞬発力」。 上り坂の途中で、漆黒の馬体が弾かれたように加速した。一気に五頭を抜き、三頭を抜き、先頭集団に取りついた。


 観覧席がざわめいた。


「何だ、あの馬は」


「農耕馬の子が——」


「坂で上がっていくのか?」


 S字カーブを曲がる頃には、展開は完全に変わっていた。


 先頭に立ったのはローズ・ノクターンだった。 後ろにローズ・オーロラが控え、そのまた後ろにローズ・エテルナが、まるで疲れを知らないように走り続けていた。


 流行馬たちは失速し始めた。


 一頭が完全に止まった。騎手が脚を庇うように馬を止め、コースを外れた。それを機に、他の馬たちの速度低下が連鎖した。 |豪(ごうしゃ)な勝負服の騎手たちが、鞭を入れ、叫び、それでも脚は動かなかった。


 体積が少ない馬体は、長距離の消耗に耐えられなかった。 見映えは完璧でも、骨格が細く、心肺の容量が足りなかった。それはどれほど鍛えても、血統が持つ構造の限界だった。


 観覧席が静まった。


 長い直線の下り坂。 先頭のローズ・ノクターンと二番手のローズ・オーロラが、横並びで駆け下りてきた。


 その光景を見て、観覧席の笑い声は完全に消えた。


 二頭の脚の運びは、どこかで見た覚えのある動きだった——砂漠の馬が風を切るような柔軟さ、しかし踏み込む力は大地を揺らすほどの重さ。 軽さと重さが、一頭の中で矛盾なく共存していた。


「あれは……」誰かが呟いた。「何という走りだ」


 ローズ・エテルナが最後方から上がってきた。


 他の馬たちが消耗の中で速度を落出す中、ローズ・エテルナだけが加速し続けていた。まるで後半になるほど力が溢れてくるように、黒鹿毛の馬体が下り坂を疾走した。


 三頭が一つの塊になって直線に入った瞬間——


 ヴィオレットは、気づかぬうちに柵を握りしめていた。 グリゼルダは腕を組んだまま唇を引き結んでいた。 カレンシアは両手を口に当て、目を見開いていた。


 三頭が競馬場に戻ってきた。


 他の馬は——遥か後方にいた。 大差だった。


 それは単純な勝利ではなかった。比べる土台に、もはや立っていなかった。 流行馬たちが必死に脚を動かす中、三頭はすでに観覧席の前を通過していた。


 ローズ・オーロラが先頭で駆け抜けた瞬間、その大きな目が一瞬、観覧席に向いた。


 琥珀色の目だった。 デザート・ソレイユと同じ、琥珀色の目が——三百年の骨格の上で輝いていた。


 ゴールした瞬間、競馬場は数秒間、完全に沈黙した。


 それからどこかで一人、拍手が起きた。 また一人、また一人と続いた。


 やがて観覧席全体が、割れるような拍手に包まれた。


 嘲笑していた伯爵夫人が、扇子を取り落としたまま立ち上がっていた。 昨年まで「農耕馬」と笑っていた令嬢たちが、言葉を失ったまま口を開けていた。あれほど強かった笑い声が、どこにも聞こえなかった。


 ヴィオレットは柵から手を離した。 震えていた。 三百年間を想って、震えていた。


   ◇ ◇ ◇


 表彰が終わった後、ヴィオレットのもとに人が集まってきた。 競走の後援者。馬産の名家。昨年まで嘲笑していた当主たち。彼らは口々に言った。


「公爵令嬢、あの馬の血統を教えていただきたい」


「どのような配合で、あの走りが生まれたのか」


「我が家の牝馬にも、ぜひ——」


 ヴィオレットは全ての言葉を、静かに聞いた。


 かつての嘲笑の声を覚えていた。農耕馬。時代遅れ。廃物回収業。 それらの言葉を口にした人々が、今、同じ口でこちらに頭を下げていた。


 しかしヴィオレットの胸には、怒りも優越感もなかった。 あったのは——ただ、深い静けさだった。


 三百年分の先祖たちが、今ここで報われたという静けさ。


「お答えする前に」


 ヴィオレットは言った。


「一つ、見ていただきたいものがあります。明後日、ローゼンクランツ公爵邸へいらしてください。全てのご質問に、そこでお答えします」


   ◇ ◇ ◇


 二日後、公爵邸の大広間に、王国中の馬産家と貴族が集まった。


 長机の上に、羊皮紙の束が置かれていた。 ヴィオレットが立ち上がり、広間を見渡した。


「三百年間、ローゼンクランツ家はこの記録をつけ続けました」


 彼女は羊皮紙の一枚を持ち上げた。


「ローズ・メアの全て——何代にもわたる牝馬たちの誕生、気性、走力、その子と孫と曾孫まで。血がどのように受け継がれ、どう変化し、何を保ち続けたか。それを、一頭の欠落もなく、記録しています」


 広間が静まり返った。


「笑われ続けた牝馬たちです。時代遅れと言われた骨格です。しかし私の先祖は、その骨格の中に百年先を見ていた。私はその視点を継ぎ、三頭の東方馬の血を、この骨格と合わせました」


 ヴィオレットはグリゼルダとカレンシアを見た。二人は静かに頷いた。


「今日ここに、この記録を——初めて、公の書として刊行します」


 机の上の羊皮紙が、一冊の本として製本されて現れた。 表紙には、薔薇と時計草の意匠が金で押されていた。 そして題名が記されていた。


 『悠久の薔薇血統譜——エターナル・スタッドブック 第一巻』


「この書には、ローズ・メアの全ての記録と、デザート・ソレイユ、オブシディアン・アレス、ノワール・レグルスの三頭の来歴が記されています。そして彼らの間に生まれた子どもたちの、全ての記録も」


 ヴィオレットは本を机に置き、広間の一人一人を見渡した。


「この書に記された血統を持つ馬を、私は『サラブレッド』と呼ぼうと思います。徹底的に管理された血統——時を超えて受け継がれた、確かな証明を持つ馬たちのことを」


 広間に、また沈黙が落ちた。


 それから今度は、拍手ではなく——深い、静かなざわめきが広がった。 人々が互いに顔を見合わせ、手の中の意味を|咀(そしゃく)するような、そういう音だった。


 グリゼルダが小声でヴィオレットに言った。


「サラブレッド、か」


「血統を徹底的に管理された、という意味よ」


「……よい名だ」


 カレンシアは本の表紙をそっと撫でた。


「三百年と四年の記録が、ここに」


「ええ」


 ヴィオレットは答えた。


「これは終わりではなくて——始まりよ。この書が続く限り、血統という時を超えたタスキは、ずっと渡り続ける」


   ◇ ◇ ◇


 大広間が人々で賑わう中、三人の令嬢はいつの間にか外へ出ていた。 公爵邸の庭。夕暮れが空を橙と紫に染めていた。


 厩舎の方から、蹄の音が聞こえた。 ローズ・オーロラが馬丁に引かれて庭に出てきた。夕暮れの光の中で、その栗毛に近い黄金の毛並みが輝いた。 デザート・ソレイユの血が、確かにその毛色の中に生きていた。


 三人は何も言わずに、その馬を見た。 やがてカレンシアが口を開いた。


「ノワールに報告してこようかな」


「私はアレスに」グリゼルダが続けた。


「デザート・ソレイユにも」ヴィオレットが言った。


 三人はそれぞれの馬の元へ歩いていった。


 ヴィオレットがデザート・ソレイユの馬房に入ると、黄金の牡馬は横たわっていた。


 年をとっていた。体高は変わらないが、たてがみに白いものが混じり、立ち上がるのに少し時間がかかるようになっていた。 しかし目は——琥珀色のまま、少しも曇っていなかった。


「オーロラが勝ったわ」


 ヴィオレットはその前に膝をついた。


「あなたの娘が、王国中の人の前で走った。誰よりも速く、誰よりも美しく」


 デザート・ソレイユは頭をもたげ、ヴィオレットの髪を鼻先でそっと押した。 ヴィオレットは馬の額に額を触れさせた。


 温かかった。 砂漠の夕暮れの熱を持ったまま、その命はここで息をしていた。


「ありがとう」


 ヴィオレットは言った。


「あの夜、砂漠で私の手に触れてくれて——ありがとう」


 カレンシアがノワールの馬房を開けると、アッシュが出迎えた。


 灰色の猫は老いていた。毛並みはかつてより薄く、動きに若い頃の軽さはない。 しかしカレンシアの手に額を押しつける仕草は、王都西区の路地で出会ったあの夜と何一つ変わらなかった。


「アッシュ」


 カレンシアはしゃがんで猫を抱き上げた。 猫を抱いたまま、ノワールの前に立った。ノワールは頭を下げ、カレンシアの肩に顎を乗せた。


「エテルナが走ったわ、ノワール。あなたの息子が——走り切った。誰も追いつけなかった。散水車を引かされたあなたの、息子が」


 ノワールは何も言わなかった。 ただ重い頭をカレンシアの肩に預け、夕暮れの厩舎で息をしていた。


 アッシュが腕の中で喉を鳴らした。


 カレンシアは今度は、泣いた。 声を上げずに、ただ涙が頬を伝った。


 散水車の陰で消えかけていた熾火が、今、王国中の目の前で燃え上がった——その事実が、じわじわと全身に沁みてきた。


 グリゼルダはアレスの前に立ち、しばらく何も言わなかった。


 戦場の廃馬と言われたあの日から、何年が経っただろう。アレスの黒い毛並みに白いものが混じり、傷を庇っていた右前脚は今も微かに不自然な角度で立っていた。


 しかし目は——あのときのまま。深くて、怒りと、疲弊の向こうに何かが宿った、あの目。


「ノクターンが走った」グリゼルダは言った。「坂を上がっていった。あなたのように——後ずさりせず、まっすぐに」


 アレスは鼻を鳴らした。


「武門の誇りとは、守ることだと——今でもそう思っている。あなたが教えてくれたことだ」


 グリゼルダは手を伸ばし、黒い額に触れた。


「……ありがとう」


 武門の令嬢が、馬に礼を言うのは初めてのことだった。 アレスは逃げなかった。


   ◇ ◇ ◇


 夜、三人は再び庭に集まった。


 星が出ていた。 王都の星は砂漠ほど多くはないが、それでも澄んだ秋の夜空に、いくつもの光が瞬いていた。


 しばらく誰も言葉を発しなかった。 それでよかった。


 三人の間には、もう言葉を尽くさなければ伝わらないものが、何もなかった。 ヴィオレットが先に口を開いた。


「今日から」


「ん?」


「今日から、エターナル・スタッドブックの第二巻を書き始める。今日の記録から——また、続けていく」


 グリゼルダは腕を組み、空を見た。


「私も手帳の新しいページを開く。オーロラたちの次の世代の記録を」


「私は」カレンシアが言った。「気性の記録を、もっと細かくつけようと思うの。馬の感情が、走りにどう影響するか——まだわかっていないことがたくさんあるから」


 三冊の手帳が、また新しく始まる。 ヴィオレットは家紋を見下ろした。ドレスの胸元で、薔薇と時計草が金糸に輝いていた。


「三百年前の先祖が書き始めた記録が、今日、一つの答えを出した」


 彼女は言った。


「でもこれは終わりじゃない。今日の私たちがつけた記録が、百年後の誰かの答えになる。その誰かがまた記録を続けて、さらに百年後の誰かへ渡していく」


 グリゼルダが言った。「タスキは、渡り続ける」


「そう」


「永遠に?」


「時計草の針が止まらない限り」


 カレンシアが笑った。 それにつられて、グリゼルダも笑った。ヴィオレットも笑った。


 三人の令嬢の笑い声が、秋の夜の庭に広がった。


 厩舎の方からデザート・ソレイユが一度だけ(いなな)いた。 アッシュが屋根の上で伸びをした。 ローズ・オーロラが蹄を鳴らした。


 それらの音が重なり合い、夜の空に消えていった。


 時計草の針は、今も進んでいる。 薔薇は、今日も枝を伸ばしている。 そして血統という名のタスキは——百年先へ、また百年先へと、時を超えて渡り続ける。

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