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顔も知らない旦那様に間違えて手紙を送ったら、溺愛が返ってきました

作者: ラム猫
掲載日:2025/11/23


 セシリアが、ハンベルク侯爵家の一員となってから、まる三年が過ぎた。

 結婚式の三日前。夫である侯爵アルフォンス・ハンベルクは、国境を脅かす大規模な戦争に対応するため、前線へと旅立った。それ以来、一度も領地へは帰還していない。セシリアは夫の顔を一度も見たことがない、という状態なのだ。


 セシリアは屋敷で、静かな日々を送っている。侯爵家の人々も、使用人も、彼女を憐れむような目で見ていた。「忘れられた花嫁」「飾りだけの侯爵夫人」——それが、この三年間でセシリアが手に入れた肩書のすべてだ。


 ある日の夜。彼女は親友のソフィアへ手紙を書いていた。唯一の心の吐き出し口、それが親友への手紙だ。


「——ソフィア、聞いてちょうだい。このつまらない日々は、わたくしが石になってしまうのではないかと思うほどよ」


 そう書き始めると、三年の間に募った不満と寂しさが、堰を切ったように溢れ出した。

 



 侯爵様は、わたくしと結婚したことすら覚えていらっしゃるのかしら? 政略結婚だったから元々愛情などは期待していなかったけれど、まさか顔すら見ることもないなんてね。


 彼は稀代の軍略家だとか、英雄だとか、世間では称えられているけれど、わたくしにとってはただの冷たい旦那様よ。稀にわたくしに送られてくる手紙は、いつも彼の側にいらっしゃる別の方からの事務的な報告書ばかり。無事かどうかの知らせは、「侯爵様はご無事です」という簡潔な一言だけ。


 わたくしは、夫の無事をただ祈るだけの飾りの妻。この退屈な生活と、戦争が終わってからももしかしたらわたくしを必要としない彼の姿を想像するだけで、寒気がしてくるわ。


 ああ、ソフィア。わたくし、少しひどいことを言ってしまうわね。彼がこのままわたくしを愛してくれないのなら、いっそ離婚でもしてしまいたい。夫の顔すらも知らないのだから……もともと、彼と会ったこともないのよねぇ。




 セシリアは興奮気味にペンを走らせた後、その悪態に自分で苦笑し、手紙を封筒に収めた。彼女が本音を共有できるのは、ソフィアだけだ。


 翌朝、彼女は手紙を屋敷の郵便箱に入れた。ソフィアに送る郵便箱と侯爵がいる戦線へ送る郵便箱は隣り合わせになっている。

 ぼんやりと立ち去ろうとしたセシリアは、心臓が凍り付くのを感じた。


(待って……今、わたくし、ちゃんと手紙を入れたかしら?)


 慌てて振り返ると、すでに使用人が手紙を集めて持っていくところだった。彼はセシリアが見ていることに気が付き、顔色一つ変えずに恭しく一礼する。


「奥様のお手紙、確かにお送りいたします」

「……ええ、よろしくね」


 確認しようにも、引き留めるのは心苦しい。使用人の後ろ姿を見つめながら、彼女は過去の自分の行為を信じることにした。ソフィアへ送る手紙と侯爵へ送る手紙を、間違えるはずなどない。


(……でも万が一、間違えていたら)


 セシリアは青ざめた。侯爵への愚痴が詰まった、侯爵夫人としてあるまじき内容の手紙が彼本人に届いてしまうなんて。彼に喧嘩を売ってしまうようなことを多々書いている。冗談のつもりで書いた離婚という言葉を真に受けられて離縁してしまったら、実家にも迷惑がかかる……。


 その日から、彼女の心は氷のように冷たくなった。手紙の返信が届くのを、ひやひやしながら待つしかできなかった。




 ◇ ◇




 アシュレイ侯爵は、前線の陣営で淡々と軍略を立てていた。彼は常に冷静沈着で、周囲の人々はそれを心強く思うとともに、彼の表情筋は固まってしまっているのではないかと心配している。


「閣下。お手紙が届いています」


 彼はいつものように机の上を睨んでいたが、部下に声をかけられて顔を上げる。領地からの手紙が多数届いており、執務長からの報告書、物資の請求書、そして政務の進行状況などに目を通す。それらを冷徹な機械のように処理していく。

 その時、彼は書類の束の中に、見慣れない封筒が紛れ込んでいることに気づいた。少し上品な、淡いクリーム色の封筒。


(これは……私的な手紙か?)


 侯爵宛ての私的な手紙が届くことは珍しい。不思議に思いながら、彼はその封筒を手に取った。差出人を見ようとしたが、封筒には記されていない。しかし、侯爵家の事務方からの書類と一緒に紛れ込んできたということは、屋敷内の誰かが書いたもので間違いはないだろう。


 ふと、アシュレイの脳裏に、一度も顔を見たことのない妻、セシリアの存在がよぎった。

 三年前の結婚。それは、ハンベルク侯爵家の地位を固めるための、あくまで政略的なものだった。そして彼女を屋敷に残し、そのまま戦場へ。以来、彼が彼女に送ったことのある手紙は、「事務的な生活費の送金報告」と「自身の無事を知らせる簡潔な報告」のみ。そのどれも、彼が直接手紙を書いたことはない。それは彼女の方も同じようで、彼女から届く手紙も淡々と日常の報告がなされているだけである。


(これは、彼女からの手紙?)


 いや、違うだろう。彼女は自分を必要としていないはずだ、と彼は考える。


 彼女は侯爵夫人という地位を与えられ、安寧な生活を送ることができている。それ以上、彼女は自分に求めていないと、アシュレイは信じ込んでいた。そう信じ込むことで、彼女を一人にしている罪悪感から逃れていたのだ。


 彼は封蝋を破り、封筒から紙を取り出した。それは、優雅な筆跡で書かれた、長い手紙だ。


「親愛なるソフィアへ」


 その文を読んだ時、彼は納得した。


(これは、私宛ではない。誤配だったのか?)


 彼は読むのをやめて部下に手紙を返そうとしたが、彼女が友人にどのようなことを書いているのかという興味から、最初の数行を読んだ。

 そして、彼は背中に氷を当てられたような衝撃を受けた。



 侯爵様は、わたくしと結婚したことすら覚えていらっしゃるのかしら? 政略結婚だったから元々愛情などは期待していなかったけれど、まさか顔すら見ることもないなんてね。彼は稀代の軍略家だとか、英雄だとか、世間では称えられているけれど、わたくしにとってはただの冷たい旦那様よ。



「……冷たい旦那、か」


 アシュレイは、その言葉を反芻した。冷徹な軍人、無感情な戦略家、感情を排した木偶。戦場で彼に与えられてきた称号は数あれど、妻本人から「冷たい旦那」だと言われることは、なかなか心臓を抉りにきている。


 この手紙は、彼女の本音だ。顔も知らない夫への、三年間の孤独と失望に満ちた、純粋な本音。彼は少し躊躇し、心の中で彼女に謝罪してからすべての文に目を通した。




 ……アシュレイは、読み終えると同時に深々と息を吐いた。彼の冷たい青い瞳は激しい感情に揺れている。


 長年感じることのなかった強烈な衝撃と、罪悪感。そして高揚感だった。

 彼の元に届く彼女からの報告書は、すべて形式的で淡々としたものばかりだ。だが、この手紙には、セシリアという生きた女性の感情が満ち溢れている。その感情が、彼の心を温めた。


 彼女は、自分を「冷たい旦那」と書いた。ならば、自分はその評価を変えるために動く必要がある。


(……残念ながら、離婚はしてやれないな)


 アシュレイは、ペンを手に取って新しい紙を用意した。




 ◇  ◇




 二週間後。執事が丁寧にセシリアを訪れてきた。


「奥様。侯爵様からのお手紙が届いております」

「……侯爵様から、お手紙?」


 いつも通り単調な報告が行われる手紙ではないのだろうか。彼女は不思議に思いながら、執事から手紙を受け取る。封蝋は、紛れもなくハンベルク侯爵の印章。


(まさか、ソフィア宛の手紙を読んだ侯爵様からの叱責のお言葉……?)


 すでに、ソフィアからの返信の手紙で、彼女に送る予定であった手紙を間違って侯爵宛に送ってしまったことを知っている。つまりこの手紙は、アシュレイ侯爵があの愚痴だらけの手紙を読んだ返信ということだ。


 意を決して封を開ける。中には、お手本のように美しい筆跡で書かれた手紙が入っていた。ゆっくりと、文字を追う。



 拝啓、セシリア嬢へ。

 まず、君が友人へと送る予定だった手紙を読んでしまった私の無礼を許してほしい。

 私は、君の文章を読み終えた後、長い時間動くことができなかった。今では、君の正直な感情を知れたこと、そして君の本音が私の元へ届いたことに心から感謝している。


 君の言葉は痛烈だった。私は確かに、君にとって「冷たい旦那」であった。君が痛く不満に思うことは、すべて私の罪だ。私は、君という美しい花を、孤独の中に閉じ込めてしまったのだろう。


 しかし、君のその怒りや失望の裏にある、純粋で、生き生きとした君の心に、私は深く心を打たれたのだ。君の言葉を全て受け止める。私は、軍人として、国のため、多くの戦術と作戦を練ってきたが、君の夫としてどう振る舞うべきかという正しい手段は知らなかったようだ。


 どうか、君の気が向けば、もう一度私に手紙を書いてほしい。

 どんなに些細なことでも構わない。君の心からの言葉が、私が求めていたものだとはっきりと理解したのだ。


 近いうちに、私は必ず君のもとへ帰る。君が待つ、その場所へ。

 敬愛を込めて アシュレイ・ハンベルク。




 手紙を読み終えたセシリアは、床に座り込んだ。


(な、何……?)


 叱責されるどころか、罰を受けるどころか、受け入れられたなんて。

 アシュレイは、愚痴を妻からの初めての愛情表現のように受け止めているのだろうか。あるいは、長年放置した夫への当然の訴えとして受け入れ、償おうとしているようにも見える。冷酷な軍人という噂とはかけ離れた雰囲気が、この手紙から伝わってきた。

 セシリアは強く混乱した。


(侯爵様は、わたくしの手紙を求めている……? もしこのまま以前のような関係に戻ったら、わたくしはずっと、お飾りの妻のままだわ)


 彼女の胸に、ある感情が沸く。それは、三年間も会っていないアシュレイ侯爵へのかすかな憧れだ。


(彼は、わたくしが書いた汚い愚痴を、受け止めてくださった。なら、わたくしも、本当のわたくしを彼に見せ続けてみましょう)


 こうして、セシリアとアシュレイの”夫婦としての”文通が始まった。




 セシリアは、アシュレイからの返信を読むたびに胸が高鳴った。彼からの二通目の手紙には、こう書かれていた。



 君は最初に、私を冷たい旦那だと書いたね。君の言う通りだ。しかし、君が私のことを旦那だと思ってくれていることが伝わってきて嬉しかった。その通り、私は君の夫だ。君が望むものを、私が叶えてやろう。私の全ては、君のためにある。


 君が私に伝えてくれる、庭の薔薇の色や使用人との些細な会話、そして君の読む本の内容……その全てが、戦地で私を人間として繋ぎ止めている。

 これは、君の文才なのだろうか。君の言葉が私の心を奮い立たせる。もし私が帰還したら、まず君を抱きしめたい。



 三通目、四通目と手紙が重ねられるにつれ、手紙からにじみ出るアシュレイの愛が熱を帯びていった。彼はセシリアの書いた冗談にも心から付き合い、彼女の抱く不安には真摯に向き合ってくれる。



「君は、私が心から欲しいと思った女性だ。早く君に会いに行きたい」

「君の顔を知らないというのは、私の生涯の不覚だ。だが、手紙のやり取りを通し、私は君を愛した。君が今どのような姿をしていようと、私が愛するセシリアは君だ」



 セシリアは、手紙の中の夫に、深く深く恋をした。顔も知らない夫の優しさに、三年間の孤独が癒されていくような気がしたのだ。アシュレイからの手紙が届くと、彼女の日常はまるで色を取り戻したかのように輝く。彼女は、彼が既に「冷たい旦那」ではなくなりつつあることに気が付いていた。


(わたくしは、手紙の中の彼を愛している。でも、現実の彼は……わたくしを疎ましく思うかもしれない)


 それでもセシリアは、この甘い文通を終わらせることができなかった。もし文通が終わり、彼が帰ってきたら、この愛が終わってしまうのではないかという恐れもあったのだ。




 ◇ ◇




 アシュレイは、妻からの手紙を日々の楽しみとして待っていた。彼女は愚痴のような手紙を何度か送ってくれ、彼はそれに喜びを感じるのだ。


「君の正直な心を知れたこと、そして君の言葉が私の元へ届いたことに、心から感謝する」


 何度もこの文を手紙に書いた。彼にとって、嘘偽りのない言葉だ。彼の人生で、ここまで無防備に感情をぶつけてくる人間はいなかった。それも相まって、彼の心に面白いという感情が芽生えたのだ。


 セシリアからの二通目の手紙は、明らかに戸惑いが透けて見えた。しかし、彼女は彼の望み通りに日常の描写を綴ってくれた。手紙を重ねるごとに、彼女の文章は生き生きと熱を帯びていく。


 アシュレイはそれを面白く思うと同時に愛おしく思い、徐々に一途な夫へと変わっていった。冷たい男という印象を払拭するために、自身の心にはちゃんと血が通っていることを何度も告げた。

 手紙の終わりには、必ず愛の言葉を伝えた。少しは彼女も気恥ずかしく思ってくれているだろうか。


 彼はセシリアの手紙の言葉一つ一つから、彼女の性格、好み、それらすべてを読み取ろうとした。常に緊張感が張り詰めた戦場で、彼が唯一心を休められるのが、彼女の手紙を読むことになっている。


 君に会いたい。君を愛している。その言葉一つ一つに、自身の心からの気持ちを込める。最初は暇つぶしや面白さもあったが、今では本音でその言葉を書いている。

 自分の妻が、顔も知らない夫にこのような言葉をもらって戸惑いながらも、かすかに期待を抱いて返信を待っているのではないか。そういう姿を思い描いては、彼の愛がさらに募っていく。


「君に会いたい、セシリア」


 彼は小さく呟いて、口元に笑みを浮かべた。

 その様子を見た彼の部下は、手に持っていた書類を落としたり水を零したりと、皆が驚きの表情を浮かべていた。




 ◇  ◇




 冬が終わり、春の訪れを告げる頃。待ち望んでいた報せが届いた。

 終戦。そして、アシュレイ・ハンベルク侯爵の帰還。


 屋敷は一気に活気づいた。セシリアも準備を整えていたが、彼女の心は不安と恐怖に支配されていた。


(終わる……終わっちゃいます。彼が帰ってきて、わたくしの顔を見て、手紙の相手が実につまらない者だと知られてしまったら……)


 アシュレイが手紙で示した愛は、きっと今まで放置されていた妻への償いの一環だったに違いない。もしくは、手紙の中の理想の妻を愛してくれたのか。


 セシリアは、アシュレイが屋敷に到着する直前、最後の覚悟を決めた。部屋を出ようとする前、鏡に映った自分の姿を見た。顔立ちは悪くない方だとは思うが、際だって良いわけでもない。大きく息を吐いて、玄関前に立つ。


 しばらく待っていると、扉が開いた。

 目に入ったのは、美しい男性だ。噂通りの威圧感はあり、どこか冷たさを纏っているが、とても美麗。黒い軍服に身を包んだ彼は、長身で、光を吸い込むような深い青色の瞳を持っていた。


(この方が……わたくしの、夫?)


 その、冷徹なまでの美しさに、セシリアは息をのんだ。同時に、こんなにも美しく冷たい威圧を放つ人に自分は様々なことを言ってしまったことを自覚し、膝から崩れ落ちそうになった。


 彼は、一歩、セシリアに向かって歩み寄る。彼の視線は、彼女の顔から離れない。

 セシリアは、震える唇を開いた。


「お、お帰りなさいませ、侯爵様……」


 動揺しながらも頭を下げると、アシュレイは彼女の目の前で立ち止まった。そしてその無機質だった顔に、優しい微笑みを浮かべる。


「ようやく会えた、セシリア。三年間、君を待たせてしまい、本当に申し訳ない。頼りない私を、許してくれないだろうか」


 その声は、低く、優しい。彼女は耐え切れず、涙を流しながら床にひざまついた。


「侯爵様! お許しください、わたくしは……! あなた様に、無礼なことを何度も述べてしまいました! わたくしは、侯爵夫人としてあるまじき行為を……侯爵様に対して不満を書き連ねてしまい……」


 彼女は涙を拭いながらも言葉を重ねる。彼の顔を、見ることはできなかった。


「わたくしは、あなた様に愛される資格はありません。どうぞ、わたくしに罰をお与えください……。離縁されても、構いません」


 セシリアは頭を垂れた。いくら妻とはいえ、侯爵に無礼な行為をしたことには変わりない。どんな罰も受け入れようと目を閉じると、彼が大きく息を吐く音が聞こえた。


「君は、まだ……いや、まあいい。セシリア、顔を上げるんだ」


 温かな声が頭上に降り注ぎ、彼女は目を丸くして顔を上げる。アシュレイは曖昧に笑みを浮かべながら手を差し伸べる。彼女が恐る恐るその手を掴むと、彼はぐいっと強く手を引いて、彼女を抱き寄せた。


「私は、君の手紙の心に惹かれた。あれらの手紙の差出人が私の妻であることに、私は強く感謝したものだ」

「ですが、わたくしは……」

「君にとって、私はまだ冷たい旦那のままか?」


 アシュレイは、優しくセシリアの頬を撫でた。彼の瞳は、宝石のように美しい。


「君があのような手紙を送ってくれなかったら、恐らく私はずっと冷たい男のままだっただろう。君が私を、ただの人間へと変えてくれた。私は、君の純粋さに惚れ込んだのだ。戦場で君の手紙を読むたび、君に会いたいと切に願った。私の言葉は、すべて本心なんだ」


 彼の言葉を聞いて、セシリアは再び涙を流した。彼の胸に額を押し当てる彼女を、彼は優しく抱きしめる。


「私が今最もしなくてはならないことは、君の心を取り戻すことだ。私は、君という美しい妻を、二度と孤独にさせない。君が私を心から愛してくれるまで、毎日愛の言葉を囁き続けよう」


 セシリアは、顔を真っ赤にする。冷徹だと言われていたあの侯爵が、愛の言葉を囁くと言っている。彼女が俯いていると、アシュレイは彼女の髪を優しく撫で始めた。


「悪いが離縁は、してやれない。君にそんな発想が出ないほど、今後君を大切にすると誓う。……よければ、私のことはアシュレイと、名で呼んでくれないだろうか?」

「……は、はい。アシュレイ様」

「ありがとう、セシリア。愛しているよ」


 甘い笑みを浮かべたアシュレイを見て、セシリアは林檎のように頬を赤く染めた。




 セシリアの三年間続いた孤独な生活は終わりを迎えた。アシュレイ侯爵は、軍人としての冷酷な噂とは裏腹に、セシリアに対してはどこまでも甘く、一途な人だった。

 彼は離れて過ごした三年の空白を埋めるように常に彼女を気遣う。


「今日も君は美しい。会えて嬉しいよ」


 そう言って毎日、セシリアはアシュレイを自室に迎え入れ、他愛のない言葉を交わす時間を設けた。時折屋敷を訪れる彼の部下が侯爵の甘すぎる行動に困惑しても、彼は一切意に介しない。


 夜。セシリアが寝台に座っていると、アシュレイは彼女の隣に座る。


「君と離れていた間の三年間の愛を育もう」


 彼はセシリアに会うたびに、三年間の空白を埋めるように、優しく情熱的なキスをした。


「どうだ、セシリア。君の夫の顔は、もう覚えてくれたかい?」


 彼が甘く囁くたび、セシリアは心が満たされる。手紙の中で愛したアシュレイと、目の前にいる彼が完全に一致していることを強く実感したのだ。

 彼女はアシュレイの胸に顔を埋め、心から幸福を噛みしめる。


「はい。アシュレイ様は、わたくしのかっこいい旦那様です」

「……嬉しいことを言ってくれるね。愛しているよ」


 アシュレイは笑みを浮かべ、セシリアに口づける。

 そして、ハンベルク侯爵と彼女の愛に応える侯爵夫人の甘い日常が広がるのだった。




 ◇  ◇




 戦争が終結し、帰還命令が下された時。アシュレイの心には、戦勝の喜びよりもセシリアへの渇望が満ちていた。


(やっと君に会える、セシリア)


 長距離の移動中も、彼女のことだけを考える。

 屋敷に到着し、足を踏み入れた時。彼の目に飛び込んできたのは、可憐なワンピースに身を包んだ美しい女性だった。


(彼女が、私のセシリア……)


 その瞬間に、アシュレイの心にあった僅かな理性も崩壊した。

 彼の妻は、想像していた以上に繊細で、守ってやりたい存在。彼女が震えながら罰を求めた時、彼はもはや冷静でいられなかった。


 アシュレイは妻を強く抱きしめる。この抱擁こそが、彼にとって、最高の戦果のようにも感じられたのだ。


(ありがとう、セシリア。私に愛を教えてくれて)


 彼は、人生で初めて浮かべるような、幸せそうな笑みを浮かべた。




 セシリアの髪が柔らかく広がり、月明かりを吸い込んでいる。その瞳は、羞恥と微かな熱を帯びて、アシュレイを見上げていた。


 彼らの間に多くの言葉は必要ない。アシュレイは、セシリアの小さな手をそっと包み込む。彼女の肌はまるで花のように繊細で、彼の心を揺さぶった。


「セシリア」


 アシュレイが名を呼ぶと、彼女は小さく震えるが彼に身を寄せる。その反応一つ一つが、彼にとってこの上ない喜びだ。戦場で冷徹な指揮官として振る舞う日々の中で、アシュレイは感情というものを長い間忘れていた。しかし、彼女の存在が、彼の中に再び人間らしい温かさを取り戻させてくれたのだ。


 彼女は想像した通り、いやそれ以上に愛らしかった。幸福に潤んだ目元は、彼が失っていた感情をも取り戻すようだ。


「疲れていないかい?」


 アシュレイの問いかけに、セシリアは首を横に振る。そして、淡く微笑んだ。


「いいえ……とても、幸せです」


 その声は、囁くように細かったが、アシュレイの耳には遥かに大きく響いた。彼の喉の奥で、熱いものがせり上がる。

 彼は、セシリアの額にそっと唇を落とした。彼女の吐息が、温かく彼の頬を撫でる。


「君が間違って手紙を送ってくれなければ、君と私は、形式だけの夫婦として過ごし続けたかもしれない。誤配を感謝するのは変な気もするが……ありがとう。私は、君のすべてを愛している」

「アシュレイ様……」


 セシリアの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。彼女は安心したように、アシュレイの胸に顔を埋める。 彼は彼女の柔らかな髪を優しく撫でる。その小さな体を腕の中に抱きしめると、何よりも大切な宝物を手に入れたような、深い満足感が彼を満たした。


(私は、この腕の中に、私の世界を抱いているのだ)


 彼はセシリアの潤んだ瞳を見つめた。彼女の顔は、羞恥と期待でほんのり赤く染まっている。その小さな口元が、わずかに開かれ、アシュレイを誘っているかのようだった。アシュレイは、セシリアの白い頬にそっと手を添えた。肌の温かさが、彼の手のひらにじんわりと伝わってくる。

 彼は、ゆっくりと顔を近づける。セシリアはゆっくりと目を瞑る。


 そして、二人の唇がそっと重なった。

 最初は優しく、まるで触れるか触れないかの吐息のようなキスだった。アシュレイは、セシリアの唇の柔らかさに息を呑む。彼が戦場で感じてきたすべての冷たさや孤独が、この温かさによって溶かされていくのを感じた。


 彼は、キスを深くした。彼の舌がそっと彼女の唇をなぞると、セシリアは驚いたように小さく息を漏らしたが、拒否することなく、彼のキスを受け入れている。


 セシリアの腕が、ゆっくりとアシュレイの首に回される。彼女の指先が彼の髪に触れた瞬間、アシュレイの理性の最後の砦が崩れた。


 彼は彼女の腰に手を回し、さらに強く抱き寄せた。二人の体が密着し、心臓の鼓動が重なり合う。アシュレイの情熱が、セシリアへと注ぎ込まれていく。


「セシリア……」


 唇を離した時、アシュレイは彼女の名を囁いた。セシリアの顔は、完全に真っ赤に染まり、息を切らしている。その瞳は蕩けるように潤み、アシュレイだけを映していた。




 ——月明かりが二人の体を優しく包み込む。アシュレイは、愛しい妻の寝息を聞きながら、静かに誓った。


(私は、二度と君を離さない。愛しているよ、セシリア)


 温かく甘い夜が、ゆっくりと更けていった。

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