異世界マキロン 〜治癒のスプレーで世界を救うなんて聞いてません!〜
槇原真紀子。ごく普通の高校二年生。成績は中の下、運動神経は下の下。唯一の特徴といえば、小さいころから擦り傷や切り傷をすぐ手当てしていたせいで、「マキロン」というあだ名がついたくらい。そう、あの消毒薬のマキロンだ。いじられキャラの域を出なかった彼女が、どうして異世界で英雄と呼ばれるようになったのか。その始まりは、ほんの些細な事故だった。
放課後、図書館からの帰り道。自転車で坂道を下っていた真紀子は、前輪に挟まったビニール袋に気づく間もなく宙を舞った。視界が白く弾け、意識が遠のいていく中、彼女の耳には確かにこう聞こえた。
あなたのスキルは、「マキロン」です。
……は?
目を覚ましたとき、そこは土と草の匂いが混じる見知らぬ草原だった。空は二つの太陽に照らされ、風には魔素の粒子が混じっている。少女は戸惑いながらも、目の前のステータスウィンドウに釘付けになった。
【名前】マキロン(Makiron)【種族】ヒューマン【スキル】全身除菌LvMAX/万能外傷治癒/精神安定噴霧/抗菌浄化フィールド/範囲回復スプレッド/異常耐性ブースト/防腐結界・香料入り
どう見ても薬じゃないか。本人もそう思った。けれど、このスキルが、戦乱と病が蔓延る世界でどれほどの奇跡を起こすのか、まだ誰も知らなかった。
最初に出会ったのは、瀕死の冒険者パーティだった。ゴブリンの毒矢に倒れた剣士。膿んだ傷を抱えて苦しむ弓使い。恐怖に凍える魔術師。真紀子はとっさに、なけなしの勇気で叫んだ。
マキロン、噴霧しますっ!
指を引くような感覚とともに、彼女の手から光のスプレーが放たれた。シュッという音とともに空気が清浄化し、仲間たちの傷が見る間にふさがっていく。熱も、毒も、恐怖さえも洗い流すその力に、冒険者たちはただ呆然とした。
それからというもの、彼女の名は瞬く間に広まっていった。マキロン様、と呼ばれ、神官より尊ばれ、時に聖女と崇められた。
街に疫病が流行れば、彼女が現れてスプレーをひと吹き。魔物の瘴気に村が覆われれば、彼女が結界を張って除菌。戦場では、負傷兵を片っ端から回復して軍の士気を爆上げ。果ては不死の王に「お前の呪いは菌類だ」と言い放ち、抗菌スプレーであっさり浄化。
もちろん、順風満帆ではなかった。回復だけじゃ世界は救えない。時に彼女の力を利用しようとする者もいた。魔法学会からは「スプレー魔法は魔法ではない」と揶揄され、聖教会からは「その力は異端」と断罪された。
だが、彼女は屈しなかった。マキロンという名前を、傷ついた誰かを癒す力として誇ることを選んだ。たとえそれが、もとはただの消毒薬の名前だったとしても。
気がつけば、彼女の周囲には仲間が集まり、王国も、帝国も、彼女に頭を下げるようになった。騎士たちは鎧の内側にマキロンを常備し、魔法使いたちは魔法陣に「ベンザルコニウム」と刻み、さらには錬金術師が「マキロンパッチ」の開発に成功し、冒険者ギルドで配布が始まる始末。
その日、少女は王都の塔に立ち、空を覆う黒い霧に向けて言った。
これが、マキロンの最後の一吹きよ!
空が割れ、光が降り注ぎ、世界がリセットされた。
マキロンは、神でも聖女でもなかった。ただ、自分の名前と力を信じて、傷ついた世界を「治した」だけだった。
そして彼女は今も、どこかで誰かにスプレーしている。
あの日、自転車で転んだだけの少女は、いつしか世界の消毒係になっていた。
その名は、マキロン。
異世界最強の回復系女子。
完治するまで、彼女は止まらない。