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我ら文芸秘密クラブ縦型サイクロン式

作者: 亞沖青斗

【秘を曝して密となる覚悟のある者以外、固く立ち入りを禁ずる。文芸秘密クラブ部長より、愛をこめて】

 愛をこめて、の一文は必要なのだろうか。

 閉め切られた旧会議室扉前の案内用紙を前にする夏美は、着ているグレースーツやらハーフテールを手直ししながら思った。

 文芸秘密クラブなる活動が催されているはずの室内からは、異様な振動と衝撃音が今も断続的に、通路側で二の足を踏む夏美の腹までをも脅かす。

 やわらかい陽光が、まだ不安な背を励ます五月半ば。専門学校卒業後、地元大阪枚方市の食品会社に入社したばかりでまだ日も浅く業務に慣れないながらも、志賀夏美は内気と自戒する性格を打破するために、どこにでもある文芸部を新たな挑戦の場に選び勤務時間後とうとう訪れたわけなのだが、中ではどうも文芸部らしからぬ騒々しい活動が行われている。

 ダン、ダンと激しく地を踏んでいると推測に足る物音。一本の廊下には、他に人はおらず積み重ねられたダンボール箱が端に寄せられているだけ。

 社会人文芸クラブとは、小説や短歌、または詩など、文章を嗜む、比較的おとなしい者が集う場ではないのか。つまり、夏美は静寂と癒やしを期待していたのだ。学生時代の友人も新たな世界で忙殺される一方、体力は貧弱で日頃から外出を控える夏美は最近になって社会人ジャンルの文芸小説を嗜むようになっていた。

 しかし、好奇心も旺盛。生唾を飲み込んだ夏美は、意を決してのノック後「はいよー」との了承を聞いてやっと扉を開け放った。

 夏美は、仰天してビジネス鞄を取り落とす。

 上半身裸体となる汗だく男性二人だけが、来客を迎えるに相応しくない荒い息遣いで、揃って珍妙な姿勢をとっていたのだ。

 貼り紙だらけのホワイトボード、長机が三台とパイプ椅子が雑に押しやられていて、彼らがズダンと踏み込む後部のみジョイントマットが敷かれてダンベルやキックミットまでが転がる。

 低い姿勢の二人は、肘を前に突き出し、次に物凄い勢いで回転しての震脚から背中で宙を叩いた。

 一つの窓から差し込む夕焼け色に照らされ、息も上がる彼らは、未だ立ち尽くす夏美に手招きする。

「何してるかって? 裡門頂肘からの鉄山靠だよ」

 毛量の多い巻き茶髪が白く美しい顔に似合う。その小柄な男性の口から鋭く出た。女の子のような顔立ちである。

 てつざんこう? と呟き、小首を傾げる夏美。

「八極拳の練習や」

 一方の背が高く雄々しくも精悍な男が、ホワイトボードに書かれた『文芸秘密クラブ、四カ条』を読み上げる。

「一、まずは体力。適度な運動こそが、血行を高め、精神の健康、更に脳細胞の稼働率を上げる」

 確かに、文芸とは真逆の行為でいて、彼らの様子とも当て嵌まるが、何故に八極拳なのだろうかという疑問にも達する。

「二、経験こそが信憑性を生む。すなわち取材力である。未経験の事柄をネット検索した内容のみ、創作物に反映してもつまらん。だから、実際に足を運んで調査する」

 夏美は手を打って得心した。つまり、彼ら二人のどちらかが、八極拳を題材にした創作物を書きたいのだ。

「察しがええな」背の高いもう一方の男が言う。

 そこで遅蒔きながら、名刺交換も一緒に、彼ら文芸部員と自己紹介を交わす。たじろぐ夏美を、素肌あらわのまま囲う彼らは二十代後半らしい。可愛い女の子風味の先輩は、開発部の米田優吾。彼が四カ条を続ける。

「三、文芸秘密クラブにとってコミュニケーションこそが基柱。実際の人間と生で討論すべし。相手の顔を見よ。目の色を確認しろ。癖を観察して、会話を楽しみ、インプットせよ」

 そこで夏美は、黒板の貼り紙『部員リスト』に目を向ける。このクラブには六名が所属しているはず。しかし、今は二人だけ。

 ふむ、と背の高い先輩、監査部の佐神英治が頷いた。

「週二の活動でその時に、取材した活動内容を報告して情報共有するだの、創作物を発表して互いに意見を出し合うなどに主体をおくゆえ、ここで読書やら文芸執筆活動をすることはない。みんな自宅や図書館で、独りで黙々と励む」

 そして、優吾が立て続けに言う。

「四、部活メンバーに秘密をさらけ出すこと。決して非難したり迎合があってはならない。ただし、他人の秘匿する要素であるからこそ、自分なりに解釈して、客観的な視点で物語に落とし込める。我ら文芸秘密クラブは、秘密にするのではなくて、辺り一帯に散らばっているあらゆる要素を吸い上げて収束し、物語の糧にするのだ」

 一は、維持と効率性。

 二は、主観視点での材料収集。

 三は、報告能力の向上、そして主観と客観目線の比較。

 四は、客観的要素をより強くし、想像と潜考を養う。

 これは創作論などではなく、クラブ活動の環境システムをいかにして活用するかという、基本的心構えである、と英治が厳めしい面様で言い添えた。一見は変態的な彼らの様相はともかく、真っ当な説明であると納得した夏美は、純粋に心躍った。しかし、杞憂もある。入部はしたいが、自分にとくべつ秘密など無い。

 シャツを羽織る英治が掘り深い顔に薄笑みを浮かべ、鷹揚な口調で言う。

「重大な秘密とかやなくても別にええんやで。最初は人に言い難い趣味とか、青春時代の好きだった人のタイプとか、そういうのでええ。誰も否定や馬鹿にしたりもせえへん」

「ただし、それをセクハラだとか喚いて批判するなら、最初から来んなってことだ。勿論、コンプライアンスに反することもしない。クラブ会員の秘密を外部に漏らすおこないも禁ずる。ここに、人間関係の軽視があってはならない」

 対照的に、優吾の態度は冷ややかだった。裸で肉迫された程度で恥じる夏美に、覚悟はあるのか、と試す物言いだ。イントネーションからして、優吾に限って関西出身ではない。世を拗ねた態度が、恵まれた容姿に不釣り合いだとこのとき思った。何かしら、他者に曝し難い過去を秘めている、と。

 彼らの正体を知りたい。小説を書きたいと奮起しようにも、何も思い浮かばない凡庸な自分には、うってつけの場ではないか。夏美は、重厚な小説を書きたいのだ。それを面と向かって意見し合うこのコミュニティに属したい。

 決意した夏美は、丁寧に頭を下げる。

「改めまして、今年入社したばかりの志賀夏美です。入部したいです。よろしくお願い致します!」

 と、優吾が代わりに言った。


 入会から三日後の金曜日、季節に構わず冷たい雨が降りしきる中、最寄り駅前の大衆居酒屋にて文芸秘密クラブの歓迎会が執り行われた。昭和風内装の座敷席でテーブルを取り囲む面子は、夏美含む以前の三人に、一人の女性が加わっていた。

 焼鳥肉を箸先で串から細かく外す彼女は三十半ばの年齢で、営業第二課の課長代理だという。最初こそ身なりにそれ相応の堅さがあったが、酒が到着するや、砕けた態度で緊張する夏美に接した。

 名は、八田友里という。

「まあ、秘密なんてだいそれたことやなくてもええんよ。物事に対する人の考え方を、自分の創作物に練り込めれたらいいだけ。妄想だけやったら限界があるしね。ちなみに、いま私は日曜日だけラーメン屋でバイトしてんねんで」

「うちの会社は、副業オーケーやから」と英治が付け足す。「俺も仕事終わりにジムでトレーナーやってんねん」

 執筆活動に割り当てる時間はあるのだろうか、さすがに禁欲的過ぎやしないか、とレモネードの夏美は思わず呻いてしまう。

「一ヶ月くらいの短期間だけだよ。その中でも、人にいえない失敗が起こる。本来ならそれも秘密だけど」

 文芸秘密クラブは、そんな新たに生まれる秘密までも情報共有する方針だと、優吾は胸を張る。しかしこうなると、クラブメンバーを満足させる秘密という秘密が思い浮かばない夏美には、多少なりとも焦りが生まれてしまう。テーブルに肩ひじついた友里が察して言う。

「まあ、秘密というのも種類があるやん、夏美ちゃん。一般的に秘密といって安直に思い浮かぶんは、過去の犯罪、黒歴史、あと性的なおこないがあるよね。それだけやなくて、もっと日頃の生活に対する感性に比重をおいていい。たとえば、秘密は自覚あってこそやけど、自分では気づいてへんことも広義の意味で秘密としてもええんちゃう」

「ちょっと違うかもしれないけど、会社の教育担当とかもさ、こういうのいるよな。僕ぜんぜん固いこと言わないし、むしろゆるいほうだからゆっくり仕事しようぜ、だって今のやり方には疑問しかないじゃん。とか、優しいこと言いながら、実は目茶苦茶熱心に仕事してて、だから人一倍他人の仕事の捗り具合にも細かくチェックしてるし、不満もある。けど、教育する本人に直接文句を言わないから余計にタチが悪いんだよな」

 表面上の寛容な言葉を鵜呑みにしたら痛い目にあう、と優吾がうんざりと言う。まさに教育担当の発言が思い当たり、夏美は何度も頷いた。あるある、友里も手を叩いて破顔した。

「他に、部長ムカつくわー、あの政治家殺したいわー、人気あるラーメン屋やけど全然好みちゃうやんけー、何がアイドルやねんブサイクやんけ、とか他人に共感を求めにくい少数派の感想でもええねん」

「まあ、それに関してはちょっと面白いことがあったんだけど」

 と、優吾が嘆息する。

「文芸秘密クラブの会員の一人、昨日辞めたんだ。WEB小説のアマチュアでたいした実績もないのに、SNSで切り込んだ自己満足創作論を投稿して、それが一つのジャンルを揶揄する内容だったから、プロ作家やら出版社を敵に回してプチ炎上。病んじまったわけだ」

「小さな枠内だけの秘密にしてたら良かったんや。WEB小説利用者あるいは信奉者の多くから指示を得てインフルエンサー扱いされたいがために、WEB小説人気ジャンルの擁護目的で他ジャンルの批判に繋がる創作論をネットで発信したら、さしずめ自分の作品も注目浴びて、出版社の目に止まるとかいう魂胆やったんやろけど、結果的に多くの関係者から反感を食らった。自分を賢いと勘違いしてもたんやな。気いつけなあかんな」

 コーラと刺身を同時に咀嚼し、飲み下した英治も残念そうに首を振る。

「どっちにしろ露骨過ぎた。ちなみに、夏美ちゃんはどんな小説読んで、自分も書きたいとおもたん」

 そこで夏美は、ビジネス鞄から一冊の単行本をおずおずと取り出した。予め質問を想定して、持参してきたのだ。

 目にした友里が、箸を止めて感心する。

「ハードボイルド任侠もんか。なかなか渋いな」

「おお、ギャップやな。夏美ちゃん、それも秘密らしくてええやんか。アウトローもんを書きたいんやな。そういうのが欲しかったんや。俺もチェックしとくわその本」と、英治も広い背中を揺すって喜んだ。

 気持ちが満ち足りた夏美は、照れを誤魔化すために、ハーフテールが乱れるまで頭を掻きむしる。

「とはいえだ」

 そこで優吾が麗しい顔に難色を示した。

「任侠もんは、さすがに体験はできないよな。ヤクザの世界でバイトするわけにもいかないしよ。アウトローっぽい格好して、街を練り歩くってのもちょっと違うよな」

 入ったばかりのクラブ会員の創作までも真剣に考えてくれるのか、と最早胸まで熱くなってしまう夏美の様子など気づかぬ他三人は、俺ならこうする、私はこの社会背景に着目する、僕はこんなテーマを打ち出したら面白いと思う、との議論に火をつけていた。

 下唇を噛み締めて感極まる。二十歳となり仮にも社会に進出した自分は、もっと前に踏み出なければならないのに、家族以外の人間から嫌われることを恐れて、いつまでも本音を出せないでいる。

 英治は言った。メンバーの秘密を否定しない。受け入れて、共有し、消化しようとする。

 文芸秘密クラブメンバーの討論は、小説の執筆を通して人間観察や臨床心理などの分析力、ひいては自身の人間性までも培われるのだと、これまで歯痒い思いをしてきた夏美に証明しているようだった。

 その深夜、実家に帰った夏美は風呂上がり、この春から高校三年生となる弟の部屋に乗り込み訊ねた。反社会的勢力に加担している知り合いはいないか、犯罪めいた噂は知らないか、危険性を承知で取材はできないか、などなど。

 志賀道秀はサッカー部キャプテンを担うだけに、姉とは対照的に社交的で周囲の人間から注目を浴びる。夏美にとって、自慢の弟でもあり、羨望と妬みの対象でもあった。道秀は、姉想いではあるがゆえに専門学校卒業してからの夏美を、特に心配していたようで、だからこそ内容が内容であるだけに要望を簡単に受け入れられないと答えた。

 だかしかし、夏美の熱意に負けて渋々という様子で「友達にそういうのいないか聞いてみるから、ちょっと落ち着いてや」と眠気まなこでスマートフォンを機動したのだった。


 女子大学生の隣で女子大学生に扮した優吾が言うには、文芸クラブを辞めてしまった会員は女性らしく、しかしSNS上では「俺」と自身を称していた。

「ちょっとしたミスくらいあるだろうに、会社でも酷く落ち込んでんだよ。僕もどうにか、立ち直らせたいんだけど、ただじゃおさまらないだろうしな」

 助手席の夏美は、そんな後部座席の異様な光景に言葉も尽くせず思案に暮れる。セダン車を運転する英治はというと、余裕ある低音声でこう補足した。

「優吾は、せやからそいつを小説で励ましたろと思ってんねんな、性格悪い女を鉄山靠でぶっ飛ばして制裁する、っていう架空の物語で今回の騒動にオチをつけようとしてんねや。まあ、底辺を吸い上げる滑稽な笑い話にしよ、ってこと」

 そんな会話を横にして──今回の重要人物は、後部座席で気分の落ち着かぬ様子の正真正銘女子大学生。彼女は、志賀道秀の紹介となる梶本弥生という名で、要するに反社会的勢力に加担していると疑惑ある人物の情報提供者ということで、調査のために現在行動を共にしている。

 梶本弥生曰く、交際男性の行動が最近になって特に怪しいと感じるようになったらしい。

「シンヤとは、高校の頃からの付き合いなんです」

 ことの発端は一年前のこと。

「二人で遊びにでかけたときに不良に絡まれて、彼まじめで凄く臆病なのに怪我しながらも守ってくれたんです。けど、そのちょっとした後から急に彼の目つきが変わって、あと大学でもガラの悪そうな人たちとやり取りしてたり、ていうの見かけて」

 不安と疑いが積もり、何かしら良からぬ事変が巻き起こっているのではないか、と問い詰めるも、彼は味気なく「誰かて変わるもんやろ」と返答を濁すばかりだった。

 地味だった服装も変わり、態度にも自信が現れ、会う機会も減り、夜は連絡がつかなくなる。大学構内でも、彼を噂する派手な女性を時おり見かけるらしい。清楚な弥生とは明らかに正反対の種類となる彼女らの会話を端から聞きつけた限りだが、恋人の彼は「Tempest Bar」なる夜間だけ開店されるバーに顔を見せる。とはいえ、弥生一人では調査する勇気もないし、ましてや未成年で酒も飲めないのにバーに入るなども恐ろしくて無理である。

 そこで夏美の取材申し出が、渡りに船と利害が一致し、こうして初顔合わせからさっそく該当の地に向かっている。

「結婚の約束もしてるのに」と弥生は泣きそうな顔で赤裸々に語る。「でも、自分でどうしたらいいのか、尾行なんかしたら嫌われるかもしれないし」

 隣の変装優吾が余りにも似合い過ぎて、夏美の頭にはあまり話しの内容が入ってこなかったが、とにかく成人男性が護衛として付き添うなら表立ってバーにも入店可能だ。

 それから数十分後、大阪港区域へと車は入っていく。

「シンヤはこんな顔です」

 弥生はスマートフォンで撮影したという、大学構内を歩く斜め後方からのシンヤの顔写真を、皆に見せて回った。

「私がいないと、あの人だめなんです」と、さっきからロングスカートに手のひらをひっきりなしに擦りつけている。

 駅前パーキングのセダン車から降りた一同は、予め調べていた情報通りの道順で、人影も疎らとなる夜道を歩いた。曲がりくねる路地裏を進むにつれて、案の定、粗暴な輩が目につくようになる。

「あ、彼です」

 電柱影から弥生が指差す先には、確かに「Tempest Bar」なる電光掲示板とガレージ風建物がある。リュックを背負う彼の近くに女性の影はないがしかし、頻繁に訪れているからか周りの来店客から親しげに声をかけられてもいた。

 辺りにたむろし遠慮ない下品な笑い声を響かせるほとんどの者が、顔や露出した肌にタトゥーを施していて、とても平和を望む人種には思えなかった。少しでも状況を描写しようと必死にメモする夏美の目の前で、弥生はしおしおと凋んでいく。彼は建物の裏口扉に消えていった。

「もしかしたら、バーの店員かもしれへんで」

 弥生をやんわり諭した英治がまず先陣きって、バー建物へと向かっていく。周りからは物珍しそうな視線が、真面目な装いの夏美や弥生、または優吾にまでも刺さっていた。

 来客で群れる店内は一階と吹き抜けの二階に客席が分かれて、トランス・ミュージックのリズムに支配される。カウンター席やテーブル席に標的の彼はおらず、英治が気休めに言った「スタッフ説」も見る限り否定された。

 冷めた目つきの優吾が言う。

「女が多いな。俗物風の」

 確かに、と夏美も同感とする。季節がら露出の高い服装、というだけではなく、異性を煽情的に誘う目的が明らかなトップスランジェリーまでも隠さぬ、乱れた装いだ。男性も昨今はインターネット動画で露出の増えた、血気盛んな喧嘩自慢風の筋肉隆々とする者ばかりで、殺気立っているようにも見える。襲われたらば絶対に生きて帰れないだろう。たとえて魑魅魍魎とする中に紛れて立ち眩みする夏美は、英治に背をしっかりと支えられながら奥へと進んだ。

「あれだ」優吾が顎を向ける。

 特に密集地帯となる壁際には、若い女性らの肌色ときつい香水で隠されるようにもう一つの出入り口があった。色めき立つ彼女らが、口々に言う人物の名前とは──

「前にシンヤとヤッたやつ、病みつきになってさ今日また来てるって」

「シンヤ、相手選ばないよね」

「前なんかさ、もう床がグチャグチャに濡れしきるくらい」

「あたしも、シンヤがいいわ。他の男、口ばっかで早すぎ。楽しめなーい。今日も乱れたーい。彼女いんのかなー」

 弥生は顔面蒼白だった。おぼつかぬ足取りで、暗がりの階段を四人で真っ直ぐ降りていく。

 壁に手をつけねばまともに歩けない夏美は、ふと二人の文芸秘密クラブの顔を確認する。果敢な英治も、女装する優吾も、平然としている。地下からは、地上のフロアとは比較にならぬくらい、乱れ狂う叫喚が漏れ聞こえているというのに。

 学校の教室ほどもある、人だかりに埋め尽くされた地下スペースは、一見ライブハウスのような内装であったが、それも興行が奮ってか奮わずか、主役は広場中心のオクタゴンケージで執り行われる別の見世物に取って代わられていた。

「シンヤー!」

 ケージをぐるっと囲う観客席では女性群が甘く叫び、数多くの男性らが鼓舞同然に足踏みする。白いマットが天井ライトから輝き受けるそのケージ内には、一人の男が威風堂々と立っていた。

 細いがバランス良き筋肉をその身にまとう上半身裸の男は、手首から拳までグローブ同然に麻縄を巻き付け、準備万端と肩を回す。手練れを彷彿させる実に不敵な笑みが、汗で濡れる顔面に宿る。

「シンヤ」

 面食らう弥生。夏美はまさかの事態に度肝抜かれて、腰まで抜かしかける。一方の、英治と優吾は飄々とした感じで、既に最後部の観客席を我が物としていた。

『待たせたなみんな! 行くぞ! 今夜はぁー、シンヤの五人抜きチャレンジだ! しかも、相手は猛者になるぜ! 最初は、タツジだ!』

 DJらしき女性の甲高いアナウンスがなされて、地下闘技場はどっと湧き上がった。苛烈する大歓声が累々と重なり、そして反響しては夏美の慣れぬ鼓膜を震わせた。

 控室から一人目の男が現れるや、その勢いでケージに駆け込み、いきなりゴング開始合図を鳴らされる。タツジとシンヤは最初こそ見合って距離を計っていたが、上がる熱気に応えて牽制のジャブや前蹴りから、徐々に激しい打ち合いへと展開されようとする。

 アナウンスが吠える。

『左右のフックを奮う猛虎のタツジが、押しているか!』

 と思いきや、一瞬の間隙を縫ったシンヤの首投げが決まってケージごとが振動する。

『シンヤが、あっさりマウントポジションを奪取だ!』

 そのまま、腕十字固めでシンヤのタップ勝ち。

 次に現れた屈強な体格の男は、観客に名を覚えられる前に、一合目の見事なクロスカウンターで崩れ落ち、勝者のシンヤが雄々しくも遠吠えで勝ち名乗り。

『失神ケーオーだあ! 三人目は、ユメト!』

 ユメトは舌を出しての挑発とダンス風の動きからトリッキーな攻撃を混ぜて奇策を計るも、正攻法のシンヤに金網端へと追い詰められ、容赦なき膝蹴りラッシュにより血濡れ床に突っ伏す。

『盛り上がってきたぞ! 四人目は、マイケル・ベアマン!』

 白人のマイケルは、見るからにテコンドーベース。ネリチャギ、ティットラチャギ、連続ヨプッチャギ、多彩な蹴り技でシンヤを翻弄しようとするも、大胆な右オーバースイングを受けて早速よろめいてしまう。

『決まったあ! つなげる流れで、シンヤの高速跳び膝十字葬! タアップアウトオ!』

 一ヶ月はまともに歩けぬだろうマイケルは、セコンドの肩を借りて退場した。

『最後は、前回覇者のリュウヤだあ!』

 全身タトゥーだらけで最早、何の形なのかも視認できぬ身体のリュウヤは、確かに今までと違って強敵の雰囲気を背負う。予想を覆す期待も大きく、歓声の質も変わる。連戦で息が上がるシンヤだが、それでも死角なしとばかりの圧倒的人気ぶり。

『かつてのライバル勝負の行方はいかに!』

 いきなり組み合った二人は、数十秒の膠着状態となり、夏美含めて観客ら皆に固唾を飲ませる。しかし、勝敗は一瞬だった。

 組みしかけたリュウヤを捌き切る、シンヤの閃くショートアッパー。

『そして、ハイキック一閃んん! シンヤ無双!』

 シンヤ、シンヤ、と観客が掛け声を揃えて賞賛する。

『シンヤ選手!』マイクを手にした女性がケージに駆け込み、主役たるシンヤにヒーローインタビューを求めた。『今回の賞金、二百万、どう使われますか!』

 シンヤは汗と返り血に濡れる満面の笑みで言った。

『彼女との結婚資金に貯めておきます!』

「シンヤ」

 感極まった弥生が、椅子から尻を浮かせかけたその時だった。

『シンヤー! あたしも愛してるう!』

 と、アナウンスの女性がシンヤに飛びついた。辺りは一斉に祝福の拍手に包まれる。粗暴そうな男性らも、シンヤ狙いの女性たちも、皆が二人の熱烈な接吻を目にして、幸せそうに笑っていた。


 悄然とした弥生の背中は、駅の改札口に群れる雑踏に虚しく飲み込まれて消えた。

「ちなみに、あいつは会員復帰するらしいで。SNSでの失言ごときで当たり前や」

 英治がスマートフォンを操作しながら、やれやれ、と嘆息する。場所をファミレスに移した残る三人は、テーブル席中央に置かれるポテトフライ大盛りをつまみながら今件の総括に入っていた。優吾が冷淡に言う。

「あの女はストーカーだよ」

「はあ」夏美は意味が分からず咀嚼を止める。

「恋人なんて大嘘。写真のアングルからして、隠し撮りだろ。車中で隣に乗ってて分かってたけど、あの弥生って女、スカートの中にサバイバルナイフ隠してたわ」

 英治は苦笑する。「これに関しては、優吾やから分かるんや」

「僕は、ストーカー女に監禁されて糞まみれの檻の中で、一年間耐え抜いた地獄の過去があるんでね。ああいう病的な類いには鋭いんだ。ちなみに、お前もな」

 男性用衣服に着替えた優吾の鋭い視線は、対面する夏美に刺さって動かない。

「私は別に、そんな、や、ヤバくは」

「さあ、どうやろな。まあ、性格悪くても俺らは受け入れたるけどな」腕組む英治も、見透かした目つきである。「夏美ちゃんの秘密はどんなかな」

「わ、わた、私の」

 その時、夏美のスマートフォンが鳴る。懐から取り出すや、優吾にひょいと取り上げられた。慌てる夏美を差し置き、優吾は無礼にも他人の端末を操作し、英治が横から興味深げに除き込む。

「どれどれ。お、例の弟からのメッセージか。姉ちゃんは自覚すべし、とな。ほう」

 英治が画面をタップした途端、女性のがなり声がレストラン内に響き渡った。

『みちひでえ、おどれ姉ちゃんの命令がきけんっちゅうんかいボケゴラアホ! 肩や! 風呂上がりやねんから、はよ肩もまんかい! あと、レモネードや起きろカス! アホか、こうやって足おいたら裏を指圧すんねやろ、ワレ誰の舎弟やとおもて今まで生きてきたんじゃい、おお? それより、さっさと知り合いにアウトローおらんか調べたれや、なんのためにスマホ持ってぼうっとしとんねん。指詰めたろかあっコラア!』

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