風は、留まらない
雷の余韻が完全に消えた迷宮で、
最初に異変に気づいたのはアリスだった。
「……風が、変です」
彼女の足元で、
見えないはずの気流が、わずかに渦を巻く。
セレスティアは顔を上げ、周囲を見渡した。
「雷じゃない……今度は」
ルークも、無意識に剣に手を伸ばす。
迷宮の奥。
静寂の中に、音のない風が吹き始めた。
それは冷たくもなく、荒くもない。
ただ、すべてを通り抜けていく――
拒まない風。
「……来る」
アリスが、はっきりと言った。
次の瞬間、
風が“形”を持った。
淡い緑の光をまとった少女が、
風の中心から姿を現す。
長い髪、穏やかな表情。
その姿は――アリス自身。
「……私?」
影のアリスは、柔らかく微笑んだ。
「ううん。
私は、あなたが“置いてきた私”」
風が、静かに広がる。
「あなたはいつも、周りを優先した。
ルークさんのため、
セレスティアさんのため、
誰かのために、後ろに下がった」
影の声は責めていない。
だからこそ、刺さる。
「でもね」
影のアリスは、一歩前に出る。
「そのたびに、
あなた自身は、どこへ行ったの?」
風が迷宮を満たす。
攻撃ではない。
圧迫でもない。
――奪う風。
アリスの胸が、きゅっと締め付けられる。
「私は……」
言葉が、続かない。
影のアリスは、優しく告げた。
「大丈夫。
無理に戦わなくていい」
風が、アリスを包み込む。
「あなたは、いつもそうしてきたでしょう?」
その瞬間、
アリスの足元から、地面の感覚が消えた。
落下感。
風にさらわれ、
一人だけ、別の空間へと引き離される。
「アリス!」
ルークの声が届く前に、
彼女の姿は風に溶けた。
残されたのは、
静かに回る風の渦。
影のアリスの声だけが、
遠くから響く。
「ねえ。
あなたは――
本当は、何を失うのが怖いの?」
こうして始まる。
雷とは違う。
剣でもない。
癒しの風が、最も残酷な試練になる。




