最初の勝利と、村の灯り
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迷宮の入り口を越えた瞬間、空気が変わった。
重たい湿気が肌にまとわりつく。
どこからか、ポタリ……ポタリと水滴が落ちる音が響き、淡い青緑の光が足元を照らしている。
薄闇の中で、ルークは木剣を両手で握りしめた。
「落ち着け……怖がるな。ガルドさんに教わった通りだ」
小さく息を吐く。
それでも、心臓はうるさいほど暴れている。
ガルドはすでに一歩前を進み、背中を預けられる位置を保っている。
「ルーク、気を抜くなよ。スライムは見た目ほど甘くねぇ」
「わかってる」
歩を進めた、その時だった。
ずるんっ
何かが、地面を滑るような音がする。
視線を向ければ、ヌラリとした何かが地面に這い出してきた。
それは、半透明の青いゼリー状の……スライムだった。
「一体……スライム、か」
ルークは喉を鳴らす。
ゲームの知識はある。弱いモンスターだと知っている。でも……
実際に目の前に現れたそれは、不気味で、異様で、ただの「経験値」なんかじゃない。
「いけるか?」
「……やるしかない」
スライムが跳ねた。
思ったよりも素早く、低く飛んでくる。
反射的に、ルークは木剣を振り下ろした。
べしゃっ!
鈍い音と共に、スライムの身体が地面に叩きつけられる。
だが、すぐに形を戻し、再び跳ねた。
「くそ、やっぱり硬い!」
ルークは後ろに跳んで距離を取る。
呼吸が浅くなり、手のひらに汗がにじむ。
だが――
(冷静に……直感を信じろ!)
ルークの頭に、微かな光が差し込むようにイメージが浮かぶ。
スライムが跳ねる瞬間、わずかに動きが遅れるタイミングがある。
そこだ。
「はああああっ!」
踏み込み、一気に斬りつける。
木剣が、スライムの核――小さな赤い光に当たった。
ピシッ!
スライムの身体がひび割れ、ぐしゃりと崩れ落ちた。
静寂が戻る。
ルークは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
自分の呼吸音だけが、耳に残る。
「……倒した、のか」
木剣がまだ震えている。
けれど、その震えは恐怖だけじゃない。
ルークは、スライムが残した小瓶大の粘液を拾い上げた。
「これが……ドロップアイテム?」
冷たい瓶の感触が、現実を確かに教えてくれる。
「よくやった!」
後ろからガルドの声が飛んできた。
振り返ると、ガルドは嬉しそうに親指を立てている。
「今のは見事だったぞ、ルーク。ちゃんと急所を狙ったな」
「……偶然かもしれないけど」
「偶然でも、次に繋げりゃ実力だ」
その言葉に、ルークは小さく笑った。
胸の奥で、何かが確かに変わり始めている。
自分の手で、命を守り、自分の力で、前に進んだという実感。
(……もっと、強くなれるかもしれない)
そう思った時、遠くで別のスライムが跳ねる音が聞こえた。
「行くぞ、ルーク。次だ」
「うん!」
迷宮の空は変わらない薄闇のままだったが、ルークの心には確かな光が灯っていた。
自分の手で、命を守ったという実感。
そして、自分でも信じられないほどの「成長」。
ガルドは戦いを終えたルークを見つめながら、何度も頷いた。
「やるな、ルーク。お前、本当に村人か?」
「……まだ、自信はないけど」
ルークは木剣を眺めながら、ぽつりと答えた。
さっきの戦いの余韻で、手のひらはまだ震えている。
恐怖も、緊張も、そして……どこか高揚感さえも残っていた。
「戻るぞ」
「うん」
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二人は迷宮から出ると、村への道を歩き始めた。
空はオレンジに染まり始め、遠くで鳥の鳴く声が聞こえる。
風は冷たくも心地よく、ルークは深呼吸をした。
村が見えてくる。
それは、ボロボロの柵で囲まれた小さな集落。
畑は荒れ、家々は歪み、ほとんどの村人は疲れた顔で作業をしていた。
それでも――それでも、ルークには違って見えた。
(……帰る場所なんだ、ここが)
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「おい! ガルドが帰ってきたぞ!」
村の見張り役が叫ぶと、数人の村人が集まってきた。
その中心にいるのは、ルーク。
彼が木剣を持っていることに、最初に気付いたのは少年だった。
「ルーク兄ちゃん、まさか……!」
「ああ。迷宮に行ってきたんだ」
「怪我はないのか!? おい、医者呼ぶか!?」
「だ、大丈夫だよ、そんなに大ごとじゃ――」
村人たちの反応は、予想以上に大きかった。
なにせ、今まで迷宮に入った者はほとんど戻ってこなかったのだから。
「本当に……戻ってきたんだな……」
年配の男が目を潤ませながら、ルークの肩に手を置く。
「それだけで……十分だ。お前は村の誇りだ」
(誇り……か)
ルークは、何も言えなかった。
だけど、胸の奥が熱くなる。
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ルークは、その夜、村の焚き火の前でガルドと並んで座っていた。
小さな囲炉裏には煮物の鍋がかけられ、香ばしい匂いが漂ってくる。
村人たちもぽつぽつと集まり、ささやかな宴が始まった。
「ルーク、お前、スライムをいくつ倒した?」
「たぶん、五体かな?」
「そのうちのドロップアイテム、持ってるか?」
「あ、えっと……これ」
ルークは、スライムの粘液を入れた小瓶を取り出した。
ガルドがそれを手に取り、じっと観察する。
「こいつは……薬屋のレイナに持っていけ。傷薬に使えるかもしれん」
「そんなことまでできるのか?」
「ああ。迷宮で手に入れた素材は、どれも村にとっては貴重だ」
ルークは改めて、ドロップアイテムの意味を考えた。
戦うためだけじゃない。
村を生き延びさせるための資源でもある。
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夜が更けていく中、ルークは一人、星空を見上げていた。
村の外れ。
かつて自分が「ただの村人」として過ごしていた場所。
そこに腰を下ろし、そっと画面を呼び出す。
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【ステータス】
■名前:ルーク
■職業:村人 → 無限迷宮の試練者
■レベル:3
■HP:100/100
■MP:30/30
■力:15
■防御:13
■素早さ:18
【スキル】
・戦闘直感(E)
・剣技・斬撃(D)
・勇気(E):戦闘時、自身と味方の士気を高める
【特殊スキル】
・運命を超える者(???):詳細不明
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「誰にも、これ……話しちゃいけないよな」
ルークはつぶやいた。
他の村人はスキルの存在すら知らない。
この表示も、ルークだけにしか見えない。
自分の中で、まだ整理がつかないこの力。
でも、確実に――これは「世界を変えられる力」なのだ。
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その時、不意に背後から声がかかった。
「一人で何を考え込んでる?」
ガルドだった。
鍛えた体で歩いてくると、隣に座り込む。
「……明日、また迷宮に行くよ」
「そうか」
「もっと強くなりたいんだ」
「お前は、もう十分だ。……でも、止めはしない」
ガルドは、星を見上げながら続けた。
「俺も、お前がどこまで行けるか見届けたいからな」
ルークは小さく笑った。
それは、転生して初めての、心からの笑顔だったかもしれない。