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エイベルギアの聖旗  作者: 狼煙
序章
22/22

22話 オルガの烽火2

 二日ほど前、カインとエメルダはモンテダールへの偵察から帰還すると、それまでの出来事をログナーをはじめ集まっていた傭兵仲間や町の主だった面々に伝えていた。

 モンテダールを陥落させた謎の軍勢の正体や目的は今だに不明ではあったが、いずれは次なる標的としてこのオルガに押し寄せてくる可能性は高く、これ以上は逃げ場の無い状況とモンテダールが一日も経たずして陥落した事実は集う者たちに悲壮感を漂わせることとなった。すでに傭兵仲間にも死傷者が出ており、特に仲間内でも頼りにされていたホランドの死は、部隊を率いるログナーとしても痛手だったようで、ため息とともに「惜しい男を失った…」と呟くしかなかった。

 この理不尽な状況に憤りを隠せない住民の中には徹底抗戦を主張するものも少なくは無かった。相手が野党や傭兵などの類いであれば堅牢なオルガ砦を盾に奮戦すれば多少の犠牲はあっても追い返すことも不可能ではなかったであろうが、多くの機巧兵を擁する相手にこの手勢だけで立ち向かうのは自殺行為に等しい。そう言ったログナーの言葉に反論することができるものは皆無であった。

 それ故、ログナーは敵をオルガ砦に引き付けている間に街道に陣取る敵を迂回して住民を避難させるべく準備を進めていた。


 翌日、敵の機巧兵と思しき機影が街道の終端にある平野に次々と姿を現すと、次いで到着した荷馬車から降りてきた兵士たちによって幾つもの天幕や柵が備えられ、そこに即席の陣地が築かれていった。そこから伸びる細い間道を登った先にオルガ砦は控えており、砦の物見から見えるだけでも相手のは機巧兵はゆうに五十を超える数だった。


 敵は大軍の余裕を見せつけるように到着したその日は動きを見せることはなかったが、翌日からは城門を攻略するための橋頭保を築くべく機巧兵で編成された小隊を幾度か出撃させてきていた。だがその都度、ログナー率いる機巧兵の小隊に蹴散らされ、イザールの機体から放たれる長弩弓にも手痛い反撃を受けると、これ以上の損害を恐れた相手は自陣に引き籠って態勢を立て直しを図っているらしく今のところは目立った動きはなく膠着状態となっていた。

 ここまではログナーの狙った通りの戦況に持ち込み、こちらの損害を最小限にしつつ時間を稼ぐことができている。

 だがログナーの読みでは、恐らく相手はモンテダールを占領している部隊が増援に来るのを待ちつつ手薄な町の東側を狙って別動隊と連携を図って攻勢に転じてくるのは時間の問題で、依然としてログナーたちにとって不利な状況が続いていることに変わりはなかった。


 明け方に比べて空を覆う雪雲も厚くなり日も暮れかけてきた頃、オルガの砦で迎撃の指揮を採っていたログナーの元には現状を報告すべくそれぞれの面々が一同に集まっていた。


「連中の様子はどうだ?」


 そう言ってログナーが報告を促すと、砦の物見台で敵の動向を監視していたイザールは肩をすくめるような素振りをしながら状況を報告し始めた。


「ああ、今のところは目立った動きはねぇな。こっ酷く出鼻を挫かれて今は慎重になってるんだろ。ちょろちょろと斥候らしき人影がこっちの様子を探りにきてるのは見かけるが、昨日みてぇに強引に攻めてくるって感じはしねぇ」

「そうか…。だが油断するでないぞ。砦の守りがあるとはいえ数ではこちらが圧倒的に不利なことには変わらん」

「分かってるよ、どっかから援軍が来るって状況でもねぇしな」


 堅牢な砦を頼りに籠城しているといっても、ログナー達に援軍の当てはない。

 唯一可能性があったモンテダールはすでに目の前の軍勢によって陥落しており、むしろ相手はそこからさらに増援を送り込んでくる可能性も否めない。そうなれば完全に包囲されてしまうのは時間の問題であった。それ故、ログナーとしてはそれまでは出来るだけ相手の主力を砦で引きつけつつ、その隙に住民を避難させようとしていた。最終的にはオルガ砦は放棄することになるであろうが、それも止むを得ないと考えていた。


「それぞれの機体の状況はどうか?」


 次いで問いかけられたのは機巧師のゴードンであったが、些か険しい表情が状況を物語っていた。


「あまり芳しくはないぞ。従機兵の方はともかく、お主らの機体は休む間もなく迎撃に出ておるから機体の疲弊が激しい。今は目立った損害は出ておらんが、このままの状況が続けばいずれは機体が悲鳴を上げるのは目に見えておる」

「それは止むを得ん…。数の上では我らが圧倒的に不利な状況だからな」

「俺の機体なんてまだ装甲も間に合ってないところがあるぐらいだしなぁ…。まぁ、どうにか長弩級を撃つくらいはどうにかなってるが、乱戦になりゃ役に立ちそうもねぇな…」


 付け加えるようにイザールもぼやくが、実際に相手と直接剣を交えて戦える機体はログナーのグレイ・フォルダとカインのレグナ・ヴァールくらいであった。

 ログナーの率いる傭兵団には他にも従機兵が数機は控えているものの、その程度の数で機巧兵を相手にするには些か分が悪い。一定の数を揃えた上での集団戦となればそれなりの戦果を挙げることもできるが、よほど熟練の操手でない限り性能面で劣る従機兵が単独で機巧兵を相手にしても勝ち目は薄い。いたずらに損害を出すだけになることは明白だった。


「それに…これは言いにくいことじゃが整備の手が足りとらん。交代で休ませてはいるが、持ってあと二日くらいであろうな」

「…そうか」

「だが…脱出の準備が整うまでは無理をしてでも持ち堪えねばならん」

「分かっておる…じゃがどちらかと言えばそっちの準備の方が芳しくない」


 そう言ったゴードンの顔もさすがに疲労の色が濃く、その場にいた他の機巧師たちも黙って俯く他はなかった。

 ここまでログナーやカインもほぼ不眠不休で戦ってきているが、それを支えている機巧師の面々も同じ状況であることは言われるまでもないことであった。


「住民の避難が遅れているのか?」


 ログナーは町の自警団を束ねている者にそう問いかけると、ゴードンと同じくその表情を曇らせていた。


「混乱は少ないようですが、状況はあまり芳しくありません…」


 女子供や老人を中心に次々と廃坑の前に集まってきてはいるが、一度に坑道の中を進める人数は限られており、三百人近くの住民を避難させるには今少しの時間を有する状況であった。それに廃坑を抜けられたからといって安全というわけでもない。そこから即席の船や筏を使って冬の河を幾日も降っていかねばならない。幸いにして河が凍り付いてしまう季節にはいくばくかの猶予があるとはいっても、河の流れも早く凍り付くような冷たい水に落ちれば命はない。

 それに大きな問題として船や筏の数が不足しているのだ。町の男衆や鍛冶師たちを中心に夜を徹して遺棄されていた船の修理や即席の筏を作る作業も進めてはいたが、そちらはどんなに急いでもあと半日はかかるとの報告だった。

 ここまでカインは黙って皆の報告を聞いていたが、一つの懸念を口にした。


「町の東側はどうする?」

「相手も馬鹿じゃねぇから、砦を正面突破できないとなりゃ手薄なとこを狙ってくるだろうな」


 イザールも指摘した通り町の東側には回せる手勢がないこともありほぼ無防備なのである。

 敵が陣取っている場所からその場所に兵を送るにしても、岸壁によって遮られているため渓谷を大きく迂回しつつ広大な森を抜けてくる必要がある。今から別動隊を派遣したとしても到達するにはどうしても一日や二日の遅れでるとはいえ、そこから町に侵入されれば砦は内と外から挟撃されて籠城どころではなくなってしまう。


「今の我らにはそちらに兵を割くだけの余力はない…」

「町の東側から敵が来るなら、俺とレグナ・ヴァールがそっちを抑えるか?」

「いや、お前には儂やイザールと共に正面の敵に当たってもらう」

「俺一人には任せられないってことか?」

「そうではない。東側に迫っている手勢が機巧兵だけならお前を向かわせれば足止めも叶うだろうが、恐らく別動隊は歩兵も引き連れている。それだけの手数で突破を図られるとどのみち東側を守り切ることは難しい…」

「…………」

「それに砦が突破されれば街中で乱戦になる。その時はそれを突破して誰かが退路を確保せねばならない。お前にはそれに備えて遊軍として儂の傍に控えてもらう」


 ログナーの返答にカインは些か憮然とした表情を浮かべる。

 だがこの状況にあってはログナーの指摘が正しいことも理解はしており、これといって打開策がないカインとしては押し黙ってしまうしかなかった。


「でもよ、そのまま何もせずに放っておくわけにもいかねぇんじゃねぇか?」

「万全とは言えぬが手は…」

「そちらは私から説明いたしましょう」


 イザールの問いかけにログナーが答えようとした時、ふいに扉の外から声を掛けてくる者がいた。

 その声に集まっていた面々が一斉に目を向けると、開いた扉の前には濃緑色の外套を纏った呪法師エメルダの姿がそこにあった。


「あんた…こんな所で何をしてるんだ!?」


 明け方から姿が見えないと思っていたので町の住民と一緒に避難しているものだとカインは思っていたが、どうやらそれは勝手な思い込みであったのだろう。驚いて問いただそうとする素振りを見せたカインをエメルダは軽く手で制すると、そのままログナーの元へ近づいて報告を始めた。


「今のところ東の森にはまだ敵の気配らしきものはございませんでした」

「そうか…それで頼んでいたことの首尾はどうか?」


 その問いにエメルダの白い仮面が小さく頷く。


「森に《惑いの結界》を仕掛けて参りしました。これで多少なりとも時間は稼げましょう」

「うむ…手間をかけさせたな」

「我が主にも万一の時はログナー殿に加勢するよう申し使っております」


 オルガの町や鉱山は断崖の上部に位置しており、そこへ至る道筋は町の南側にあるオルガ砦によって守られている。町の東西側も崖や断崖によって簡単に敵の侵入を許すことはないが、東側の断崖に関しては街道を大きく迂回して森や丘陵を抜けさえすればたどり着くことは難しくない。いささか足場は少ないものの機巧兵でもそこから町へ侵入することは難しくはない。敵が砦の正面を突破することが難しいと考えれば、遅かれ早かれ別動隊によって手薄な町の東側を狙ってくるのは明白だった。

 それ故、ログナーとしては最初から町の東側に兵を割いて死守することを諦め、呪法師エメルダの力を借りて森に人を迷わせる結界を張りめぐらした上で、相手の侵攻を遅らせつつも即座にそれを察知できるように手を打っていたようだった。


「俺には良くわかんねぇけど、その《惑いの結界》とやらで敵を防げるのか?」

「さて…どうでしょう」


 イザールの懸念は尤もなものであったが、エメルダとしても万全であるとは答えようがない。

 漠然と町の東側といってもその範囲は広大なもので結界術も万能ではない。呪符の張られた木々を目にした者は軽い暗示をかけられたような状態になって、方向感覚が狂ったり錯覚してしまったりするものであって、意識を奪われてしまうようなことはない。ましてや呪術に心得がない者であっても、それなりに耐性のある者やそうした修練を積んだ者であれば潜り抜けてしまう可能性がないわけでもない。加えて相手方に呪法師がいれば結界を解呪されてしまう可能性も否めない。


「どのみち防ぎきれると思っておらん。さしあたって町の東側に迫ってくる敵を正確に察知できればそれで良い」


 ログナーとしても差し当たっては正面の敵に注力せざるを得ず、避難が完了するまでの時間さえ稼げれば良いと考えていた。


「どこまで足止めできるかは分かりませんが、幾つか《発火》や《偽音》の術も罠として森に仕掛けてあります」

「そいつに気付いて警戒した敵の足が少しも鈍ってくれりゃあ御の字ってわけか…」


 イザールのその言葉にエメルダは小さく頷くと、苦笑いを浮かべたイザールは軽く肩を竦ませてみせる。

 さしあたって避ける兵力がない以上、確実性はなくとも打てる手は打っておくべきだった。


「だが砦からは町の東はほとんど見えねぇ。少なくとも誰かが見張ってねぇと敵が近づいてきても分らねぇぞ」

「そちらも私がお引き受けしましょう。結界に何者かが侵入しても私であれば即座に察知することができます。さすれば狼煙で砦に報せることもできましょう」

「でも、さすがにあんた一人じゃあ危険すぎやしねぇか」

「いえ…一人の方が都合が良いです。それとも私の監視役が必要でしょうか?」

「べ…別にあんたを信用してねぇってわけじゃねぇけどよ…」


 エメルダの直截的な返答に、いつもは図々しいぐらい厚顔なイザールもやや鼻白む。

 得体の知れない呪法師なる存在をにわかには信じきれないということもあるが、町の東側に敵が迫っている報せは戦局を大きく左右する。ここを敵に突破された場合、砦で正面の敵と対峙しているログナー達は無防備な背後から挟撃されて逃げ場を失ってしまう。そうなる前に砦を放棄して撤退する必要があるのだ。


「そいつのことなら心配ない。自分の身くらいは守れるだろうし下手な護衛がいても足手まといになる。それにこいつを信用しないとどのみち東側は無防備なままになるだけだ」

「そりゃそうだけどさ…」


 肩を並べて戦ったカインがそう言ったこともあり、イザールや他の傭兵たちはそれ以上の懸念を口にすることはなかった。


「それより、敵の機巧兵が森を抜けてきたらどうするつもりだ?」

「その時は諦めて撤退いたします。それに…」

「言いかけて何だよ」


 カインの問いかけにエメルダは押し黙ると、その続きはログナーが引き継いだ。


「そちらが本命ではないやも知れぬ」

「まさか、西の崖から潜入してくると?」


 カインのその一言に集まっていた者たちも同様の疑念にざわつき始める。


「あくまで可能性ではあるが、我らがあり得ないと油断していると足元を掬われる。先だってお前がどのような相手と戦ったのか思い出してみよ」

「あいつか…」


 カインは森で対峙した異形の殺手のことを思い返していた。

 正規の騎士団や傭兵のようにある意味で真っ当な相手であれば危険を冒して西側の断崖から侵入しようなどとは考えないであろう。だが今カインたちが対峙している敵はこれまでとは違う相手であると考えざるを得なかった。


「いずれにせよ、オルガの町に敵の侵入を許してしまえばこの砦を死守したところで意味はない。その時はこの砦を放棄して逃げ出すほかあるまい」

「逃げ出すっていってもどこへ逃げりゃいいんだよ」

「廃坑の前まで撤退して機体を放棄する。そのまま坑道の入口を崩して塞いでしまえば奴らも簡単には追ってこれまい」

「せっかく機巧兵の操手になったと思ったのによ~、ついてねぇぜまったく!」


 イザールのぼやきに集まっていた面々も緊張を解いてどっと笑う。絶対的に不利な状況にあって皆の表情も曇りがちではあったが、こうした時にイザールの陽気さは少なからず皆を前向きにさせていた。

 それからそれぞれの持ち場での細かなやり取りをした後、集まっていた面々に向けてログナーから最後の伝達があった。

 

「改めて皆に伝えておくが我らの目的は敵を打倒すことではない。この砦で敵を食い止め、少しでも町のものが避難する刻を稼ぐことが目的だ。あと一日ほど持ち堪えることができれば住民の避難は概ね完了する。あとは手筈通り敵を引きつけつつ我らも撤退する」


 ログナーはそこでいったん言葉を区切ると集まっていた面々の顔を見る。

 そこには緊張した面持ちを浮かべる者もいたが、少なくとも諦めや悲壮感に打ちひしがれた様子の者はおらず、生き残るためにすべきことを知っている傭兵たちの姿があった。


「我らは傭兵、あざとくとも恰好が悪くても良いゆえ生き延びろ!」


 その掛け声と共に、砦に残っている兵士や機巧師たちがそれぞれの持ち場に戻っていった。



 一方、町の北側にある採掘場の前には多くの住民が避難のために集まってきていた。

 この先にある坑道は今は閉鎖されたものではあったが、街道が整備される前は採掘した鉱石を船によって運んでいたこともあり坑道の奥には川べりの古い桟橋へつながる道が残されたままであった。そこから船や筏を使って渓谷を流れる川づたいに町から避難していくという話であった。

 既にオルガ砦で戦端が開かれてから二日ほど経過しており、町の自警団や有力者たちの先導で女子供や老人などから次々と廃坑の奥へと避難を開始していた。


「何でこんなことになっちまったんだろうねぇ、まったく…」


 そう言いながらケーラは手にしていた荷物を地面に置くと溜息をつきながら周囲を眺めていた。

 つい数日前まではどこにでもある小さな鉱山町の平穏な暮らしであったはずだが、今は突然の戦火に住み慣れた土地を追い出され生活はおろか故郷さえも失おうとしている。

 周囲に集まる人々の顔もケーラが感じているものと同じなのであろう。やり切れない憤りや哀しみが交じり合い悄然とした表情のまま静かに俯くことしかできない。混乱して騒ぎ立てたり自暴自棄になっている者がほとんどいないのがせめてもの救いである。


 ケーラはまたも溜息をつこうとしていた自分に気付いて小さく頭を振ると、自分の傍らで不安そうに俯いたままのアリシアにことさら陽気な調子で声をかけた。


「そんな顔しなくても大丈夫さ。戦が終わればまたここに戻ってくることもできる。今はとにかく逃げなきゃね」


 そう言って逞しい微笑みを向けられたアリシアであったが、掌に乗せた銀華の髪飾りを見つめるその表情は曇ったままであった。


「カインのことが心配なのかい?」

「…………」


 ケーラのその問いかけにアリシアは顔を俯かせたまま無言で小さく頷く。


「あいつならきっと大丈夫さ。ログナーの旦那もいるし、小癪だけどイザールも一緒だからね」


 そう言ってまた陽気に笑うと、傍らのアリシアの和栗色の髪を愛おしそうに撫でる。


「それにカインはいつだってシアの所に帰ってきただろう? 心配なのは仕方ないけど、あんたは信じて待っていてやんな」


 ケーラはそう言ってアリシアの手から優しく髪飾りを受け取ると、そのまま彼女の髪を結い上げて髪飾りで留める。


「うん…良く似合ってる。アタシの若い頃より別嬪さんだよ。こりゃあ…この髪飾りに合わせて花嫁衣裳も用意しておかなきゃなんないねぇ」


 ことさらいつもの調子でそう言ったケーラの言葉に、アリシアも泣き笑いになりながら今度は嬉しそうに頷いた。


「おぉ!お主らここにおったか!?」


 そう声を掛けてきたのは、先日より銀月亭の客として知り合ったトマス老であった。

 一介の行商人から始まり、一代でエストリア商会を大陸でも有数の商家に育て上げたこの老人は、頭取となった今でも商会を息子たちに任せたまま、若かりし頃と同じように行商の傍ら大陸中を旅して周っている。その経験からこのように戦火に巻き込まれたことも少なからずあるのか、ログナーから町の状況を聞かされても取り乱すようなこともなく、むしろ町の商工会の重鎮の説得から避難の準備まで進んで買って出てくれていた。

 それが些か慌てた様子で白布に包まれた荷物を大事そうに抱えて二人の元に駆け寄ってきたのだ。


「そんなに慌てて一体どうしたんだい?」


 あちこちと走り回っていたのであろうか肩で息をしているトマスの背中に手をやると、ケーラは手にしていた水筒を差し出した。トマスもそれを受け取ると目だけで礼を言って口をつけると、ようやく落ち着いたのか事情を話し始めた。


「お主ら、マリエルの姿を見なかったか?」

「いや、あたしらもついさっきここに来たばかりだけど。シアは見かけたかい?」


 その問いかけにアリシアが小さくかぶりを振り、ケーラと怪訝そうに顔を見合わせる。


「そうか、やはり一緒ではなかったか…」

「あの娘さんなら用事があるからといって昨晩から出かけたきりだったけど…アンタらと一緒じゃなかったのかい?」

「いや、儂らも昨日から見かけておらん。そなたの家の離れに間借りしておったから、もしかしたら一緒に逃げてきているかと思ったのだが…」

「ここに来る前にあたしらも他に逃げ遅れた客がいないか確かめて来たけど、宿にも家の離れにも誰も居なかったよ」


 トマスは落胆したようにため息を付くと、抱えていた荷物に挟まれていた手紙をケーラに手渡す。

 そこには盲目とは思えないほどの丁寧に整った字で「勝手なお願いで申し訳ありませんが、故あってこの地で為すべきことがあります。必ずお受け取りに参りますのでそれまでこの《七楼弦》をお預かりくださいませ」と記されていた。


「こんな大事なものを儂に預けて、いったい何をしとるのか…」

「ここがもうじき戦場になるって知らない訳じゃないだろうに…」

「…………」


 傍らで手紙を覗き込んでいたアリシアであったが、避難用の荷物をその場に置くとケーラの服の裾を強く引っ張った。

 その手は僅かに震えているものの、真っすぐに自分を見返しているその瞳が何を言わんとしているのかケーラはすぐに理解した。


「まさか…あんた町に戻ってマリエルさんを探そうって言うのかい?」

「馬鹿なことを言うでない! もうじき町は戦場になるかもしれんのだぞ!」

「…………」


 さすがに血相を変えた二人だったがアリシアはそれを黙って見つめ返している。

 ケーラもその瞳をじっと見つめ返すが、そこに宿る意志が揺れることはない。

 幼い頃から控えめで聞き分けも良い性格ではあったが、誰かが傷つくのを黙って見過ごすことができるような娘ではないことは、養母であるケーラが一番良く分かっていた。


「シア…自分が何をしようとしているか分かっているのかい?」


 真っすぐとアリシアを見返しながら問いかけるケーラに、アリシアも小さく頷く。

 その手はまだ小さく震えているようだが、その決意に変わりは無いようであった。


「まったく…この強情なところは誰に似たのかね…」


 ケーラは大きく溜息を漏らすと、自分も抱えていた背中の荷物をその場に下ろした。


「私も一緒に行くよ。だけど危ないと思ったらすぐに引き返すよ…いいね?」


 それにはアリシアも神妙に頷いた。

 傍らにいたトマスもじっとそのやり取りを見つめていたが、近くに居た従者に自分やケーラたちの荷物を預けると手短に指示を与えて自分も同行を申し出た。


「儂も行こう。二人にだけそんな危険な真似はさせられんでな…」

「アンタは商会のお偉いさんだろう? それに避難の準備も手伝ってるみたいだし、ここはアタシらに任せて…」

「なぁに、マリエルは儂の客人でもある。それに美人に貸しを作る良い機会というものじゃ」

「まったく…どうりであのイザールと気が合うわけだね」


 そう言ってケーラに揶揄されたトマスであったが、「あの者も見どころはあるが、まだまだあんな若造には遅れはとらんよ」と言って笑い飛ばすと、三人はこれから戦場になるかもしれないオルガの町へ向かって行った。

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