10話 銀月亭の夜
町の通りに面した路地を一本入ると二階建ての木造の大きな建物が目に入る。
建物はだいぶ古びているようだが手入れが良く行き届いているのか、玄関先にある小さな花壇も綺麗に整えられている。目の前には民家にしてはやや大振りな木製の扉があり、そこには赤茶けた銅板に三日月と楓の葉の模様が施された看板がぶら下がっている。
――銀月亭。
オルガの町に唯一ある宿屋で、アリシアの養母であるケーラが営んでいる店だ。
二階部分は町を訪れた商人や旅人が宿泊するための大小の部屋が幾つかあり、一階の食堂は夜になると酒場としても営業している。すでに多くの客で賑わっているのだろう。扉の向こうから賑やかな声が漏れ聞こえている。
イザールが扉を開けるとカラコロと来客を告げる鈴の音が鳴り、二人に届く店の喧騒がいっそう大きくなる。
「おぉ!今日はえらく繁盛してんな」
夕刻をわずかに過ぎたばかりだというのに、テーブル席はほぼ満席となっている。
店内を見回すといくつか見知った顔の常連も見かけるが、この辺境ともいえる町の酒場がここまでの賑わいを見せるのは珍しい。かろうじて厨房近くのカウンターの席が空いているので、カインとイザールはそこに腰掛けた。
「おや、アンタたちかい。今日は見ての通りの混雑でね。注文が決まってるならさっさとお言い」
そう言って給仕に来てくれたのはこの店の女将であるケーラだ。
いつもは雇っている女給に接客は任せて彼女は厨房を取り仕切っていることが多いが、ごらんの混雑ではそれだけでは手が足りないのであろう。
「じゃあ、俺はいつものやつ。それと食いもんは女将に任せるわ。とにかく腹減ってるんで急いでくれよな」
「俺は酒はいい。食い物はコイツと同じもので。」
「あいよ。イザールは麦酒でいいね。あいにくと料理は少し時間がかかるよ。急に大所帯が押し掛けてきたもんで厨房も手いっぱいでね」
「景気が良くていいじゃねぇか。祭りでもねぇとこの店がこんなに繁盛するこたぁねぇだろ?」
「イザール、あんたいい度胸だね。しばらくこの町でパンと水だけで暮らすつもりかい?」
そう言って睨みつけるケーラの静かな怒気に、いつもは傲岸不遜なイザールの顔もみるみる青ざめていく。
自炊の苦手な若い男衆にとってまっとうな食事にありつけるのはこの店くらいで、いわずもがなイザールはこの店では常連の一人であった。
「じ…冗談だって。ケーラの飯はここいらでは一番旨いって評判なんだぜ。それに女将も含めて器量よしの看板娘も多いってな」
「こんな辺境で酒場をやってるのはアタシんところだけだからね。比べる店が他に無いんだから一番になるのは当然じゃないのか。調子のいいことばっかり言うんじゃないよ」
イザールはじろりとケーラにひと睨みされると、「モウシワケゴザイマセン」と小さくなって謝るしかできなかった。
「それにしても客が多いな」
「あんたが助けたっていう商人さんらが店に押しかけてきてるのさ」
「それでこんなに混んでやがんのか」
「今朝がたログナーの旦那から使いが来てね。砦の宿舎にいつまでも逗留させるわけにはいかないから、アタシん所で面倒見てくれて言われたんだよ」
「まぁ、それで儲かるっていうなら結構なことじゃねぇかよ」
「まぁね。だけどおかげで厨房も大忙しなのさ。すぐに出せるメニューは限られちまうけど勘弁しておくれよ」
「へいへい、わーってるよ」
「そういやカイン。あんたと話したがってる御仁がいたっけね。ほらあそこのテーブルの…」
「俺に?」
そう言ってケーラが指し示したテーブルの客にここらでは見慣れない西方風の服を来ている者が居る。従者と思しき男たちに混じって酒を飲んでいるようだが、絹で作られた上等な服の者を着ているのところを見る限りそれなりの身分のものなのであろう。
「確かトマスさんって言ったかな…。この隊商を取り纏めている御仁でね。何でもどこかの商家の大旦那さんらしいよ」
「お前の知り合いか?」
「いや…知らないな」
「昨日の礼がしたいって言ってたから、アタシがあんたのことを話しておいてやったんだよ」
「…別に礼なんていらない。こっちも仕事だしな」
「まぁまぁ、そんなこと言うなよ相棒。たんまりお礼を貰えるかも知れねぇんだから無下にすんなよ。それにその旦那と顔合わせる時は俺を呼ぶのを忘れんなよ。このイザール様の活躍もしっかり聞いて貰わねぇといけないからな」
「お前の活躍って…」
「男なら細かいことは気にすんな。話を盛り上げるにはちょっと大袈裟なくらいで丁度いいんだよ」
「フン、どうせ調子の良いこと言って、アンタも分け前に与ろうって魂胆だろ」
「うるせぇな…一応俺だって戦ったんだから、それぐらいはいいだろうが」
「はいはい、アンタも無事で良かったよ。常連のアンタがおっ死んだら、店の売上が下がっちまうからね」
そう言ってケーラは注文を片手に厨房の奥へ戻っていった。
「うう…俺の命は銀月亭の飯と同じ価値しかないってかよ…」
「…そう気を落とすな。お前の墓には俺が花ぐらい手向けてやる」
「まだ死んどらんし、死ぬ気もないし、そんな慰めいらんわ!」
カインの隣で「恋人もいない、嫁もいない、おまけに金もない…」とぶつぶつ陰気に呟くイザールは放っておいて、カインはそれとなく厨房の奥や店内を見まわす。
(シアは店にいないのか…)
昼に砦の食堂でケーラと話したときには店の仕込みで朝からこっちに居ると聞いていたがその姿は見当たらない。
「今日はアリシアちゃんは店にはいないみたいだな」
こんな時だけ目ざといイザールがにやにやと茶化すようにこちらを見ながら言ってくる。
「別に…あいつに用があるってわけじゃないぞ」
「ふ~ん? まっ、俺は別にいいけどよ」
二人の話が聞こえていたのだろう。厨房から戻ったケーラは麦酒の酒瓶やチーズや木の実などを盛り合わせたものをカウンターに並べながら声をかけてきた。
「何だい、シアに用事かい? あの娘なら今は買い出しに行ってるよ。この客入りなんで食材やらなんやら足りなくってね」
「もう外は暗くなってきてるぜ」
「ちょいと通りの先にある店だから心配いらないよ。まぁ、結構頼んじまったから難儀してるのかもしれないねぇ」
「アンタのちょっとは料理と一緒で山盛りだからなぁ。アリシアじゃあ持ちきれなくて立ち往生してんじゃねぇの?」
「そりゃ、アタシはがさつだって言いたいのかい?」
「イエ…メッソウモゴザイマセン」
「あんたは一言余計なんだよ」
ごつりと鈍い音とともに、家事と賄いで鍛えあげられた鉄拳がイザールに振り下ろされる。
「けど食材がないとアンタらに食事も作ってやれないしねぇ。まぁ、もうじき帰ってくると思うからそれまでは大人しく待ってな」
殴られた頭をさすりながらイザールは思い出したようにケーラに問いかける。
「そういやよ、噂の美人の楽士様ってのは…?」
「ああ、その客の話は聞いてるけどまだ宿には来てないね。なんでも用事があるとかでまだここには来てないね」
「おぉ! …ってことはこの宿に泊まるのは間違いないってわけだ」
「アンタ…うちの客に変なちょっかい出すんじゃないよ」
「いやあ…俺の場合さ、こう何もしなくても相手が寄って来るっていうかさ…こう、黙っててもモテちまうっていうかさ」
「でもお前、独り身だよな」
「うぐっ…。なんかお前に言われっとムカつくな」
「何でだよ」
「うるせぇ!可愛い幼馴染みがいるってだけでムカつくんだよ!」
「盛り上がってるとこ悪いけどね、アンタが言うその美人の楽士さんは宿には泊まらないよ」
「何!? まさか用事って…他に男が…!!」
「うちのお客に変な勘繰りするんじゃないよ。ちょいと個人的な事情があるって話だから、この町にいる間はアタシん家の離れに泊まって貰うつもりなのさ」
ケーラは「客に手出しするような不埒なやつが居るといけないからね」とイザークをじろりと睨みつけて言う。
「まじかよ…ついてねぇな」
「そもそもお前は飯を食いに来たんだろう。好きな酒でも飲んでゆっくりすればいいだろう」
「それよりも大事なもんがあるんだよ!美人からしか得られない栄養ってもんがあるんだよ!!」
「…………」
「何だよ、言いたいことがあるなら言えよ」
「いや、別にいい」
「こんな片田舎で楽しみなんて酒か女くらいだろ~。危険と隣り合わせの荒んだ日常を忘れさせてくれる癒しが必要なわけよ」
「ほぼ毎日ここで酒を飲んでるんだろ。それなら十分じゃないのか?」
「こちとら流れ者の傭兵なんで、お前と違って毎日家で飯を作ってくれる幼馴染なんていねぇんだよ」
「ま、毎日ってわけじゃねぇ!」
「せっかく店にきたっていうのに、噂の美人の楽士さまには会えないし、看板娘のアリシアちゃんも居ねぇし、もう酒飲むくらいしか楽しみねぇじゃんよ~!」
「看板娘っていうならアタシで十分だろ?」
「俺が癒しに求めてるのはゴツイ看板じゃない…」
「へぇ…そりゃ悪かったね!」
再びごつりと鈍い音とともにケーラの拳が唸ると、イザールはそのまま机に突っ伏すように倒れ込んだ。
(こいつ、戦ってるときは慎重で用心深いくせに、それ以外ではどうしてこんなに迂闊なんだ?)
カインは半ば本気で疑問に思っていると、殴られた頭をさすりながらイザールがむくりと起き上がった。
「い、痛って…俺が死ぬとしたら戦場じゃねぇな…」
「自業自得だろ」
「うるせぇ…。それよか俺は腹減って死にそうだ」
「シアもそろそろ戻ってきてもいい頃なんだけどねぇ…」
「カイン、お前ちょっと迎えに行ってやれよ」
「アタシも店を空けられなしねぇ…悪いが頼めるかい?」
「……分かった」




