【短編】悪役令嬢は断罪回避のためにお兄様と契約結婚をすることにしました
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「ひぎゃああああああああ‼」
わたしは、自分が発した奇声で目を覚ました。
赤紫色の瞳をカッと見開き、覚醒と同時に雷に打たれたように微動だにしなくなったわたしに、部屋の中でわたしが目覚めた後の準備を整えていた侍女のヴィルマが、花瓶を抱えたまま大慌てでベッドまで駆け寄って来る。
「お嬢様どうしました⁉ まさか十年ぶりにおねしょですか⁉ お任せくださいこのヴィルマ、今からこの花瓶をぶちまけておねしょの証拠を隠滅してさしあげま――」
「なんでそうなるのよおねしょなんてしないわよ‼」
証拠隠滅どころか、花瓶をひっくり返してわたしごと水浸しにしようとしていたヴィルマのおかげで、わたしはちょっとだけ冷静さを取り戻した。
あくまでちょっとだけだが、我に返らなくてはヴィルマに「十七歳にもなっておねしょをしたお嬢様」というレッテルを貼られるあまりか、壺のような大きな花瓶に入った水で頭からびしょぬれにされかねない。
ヴィルマはわたしの頭上で今にもひっくり返そうとしていた花瓶を、どこか名残惜しそうにベッドサイドのテーブルにおいて、チッと舌打ちした。
……こいつ、もしかしなくてもわざとかしら?
ヴィルマはわたしより一つ年上の大変優秀な侍女だが、いかんせんおふざけが過ぎるところがある。
いやだが、わたしのような、後に「悪役令嬢」と呼ばれるような女の侍女は、このくらい図太い神経をしていなくては務まらないのだろう――ってああ‼ そうだったよ‼
わたしは両手で頭を抱えると、ごろんごろんとキングサイズも鼻で嗤えそうなとんでもなく大きなベッドの上を左右に転がり出す。
「え? ちょっとお嬢様、本当にどうしたんですか? まさか昨日のアレを、今頃になって後悔しはじめたんですか? でもアレはいつものことじゃないですか? 今にはじまったことじゃないですし、厚顔なお嬢様があの程度で恥ずかしがるなんて――」
「ヴィルマ、三分黙って」
わたしが言うと、ヴィルマは腰に巻いていたエプロンのポケットからさっと懐中時計を取り出す。
これで三分は静かになるはずなので、わたしはむくりと上体を起こすと、はーっと長いため息を吐き出した。
ああ、もう、なんで今になって、こんな重要なことを思い出すかな?
いや、逆に思い出してよかったと言えるべきかもしれないけれども、もっと早くに思い出したかったよ‼
わたしは行儀悪くもベッドの上に胡坐をかいて、膝の上に頬杖をつく。
わたしが奇声を上げて飛び起きたのは――何を隠そう、前世の記憶を思い出したからである。
世界の中心はわ・た・し、とばかりのお花畑思考のわたしマリア・アラトルソワは、昨日、通っているブルーメ学園でこのポルタリア国の第一王子から手ひどくあしらわれたにも関わらず、上機嫌で眠りについた。
それは何故か。
簡単なことである。
昨日までのおバカなわたしは、王子に道端のゴミを見るような目で見つめられようとも「いやーん、殿下ったら照れちゃって♡」と超ポジティブ思考を発揮できるとってもイタイ子だったからだ。
そして、「殿下ってばわたしの美貌に照れちゃって可愛いんだから~」と、うふうふ笑いながら眠りについたわたしは、夢を見た。
いや、夢と言うよりは記憶だろう。
わたしは、マリア・アラトルソワとして生まれる前の前世の三十年分の記憶を、まるで走馬灯のように夢として見たのだ。
そして気づいた。
わたしは、マリア・アラトルソワ。
この世界の悪役令嬢だと。
どうやらわたしは、前世ではまっていたスマホゲーム「ブルーメ」の中に転生したようなのだ。
わたしが通っている学園と同じ名前を冠したゲームは、その名から想像できるように学園物の恋愛シミュレーションゲームである。
そして、スマホ配信の怖いところは、終わりがない。
いや、一応のエンディングはあるのだが、次々に追加されるし、キャラは増えるし、課金でプレイできるサブイベントもあるし、とわたしが死ぬ前ですら、攻略対象者は二十人もいて、それぞれに本編、続編、○○編……などなど、たくさんのストーリーが展開していた。つまり大人気ゲームだ。
そして、そのすべてのキャラに関わる悪役令嬢、それがわたしだった。
やばいやばいやばいマジやばい‼
この「ブルーメ」の世界のわたしの役割と言えば、ゲーム中盤までの当て馬的悪役令嬢と言い換えることができるだろう。
わたしはすべての攻略対象のルートにおいて、ヒロインの恋路を邪魔する役割として登場する。
そしてわたしの活躍(?)によって、ヒロインと攻略対象は愛を深め合うのだ。
そんな陰の立役者(?)であるわたしは、どの攻略対象ルートでも悲しいほどあっけなく断罪されて、国外追放されたり修道院送りにされたりする。一番ひどいのはこの国の第一王子ルートで、刺客を使ってヒロインを殺そうとしたわたしを、第一王子が正当防衛とばかりに斬り殺すというものだ。それはもう正当防衛じゃなくて過剰防衛である。ひどすぎる。
……ピンチだわ。人生どころか前世の人生も含めた中での最大のピンチ‼
このままでは断罪まっしぐら。
ヒロインが登場するのは来年なのでまだ一年あるが、わたしはすでにいろいろ各方面でやらかしまくっている。
というのも、「ブルーメ」の初期の攻略対象が四人いるのだが、わたしはすでにこの四人に対して熱いを通り越して暑苦しい、自己主張の過ぎるアピールをしまくっているのだから‼
くそぅ! マリア! あんた、なんでこんなに気が多いの! えへ、それは悪役令嬢だからよ♡ って脳内劇場してる場合じゃないわー‼
「お嬢様、三分経ちました」
「あと二分」
「いったいいつまでぼーっとしてるんですか?」
ヴィルマがあきれ顔をしつつも、また懐中時計に目を落とす。
ヴィルマは主を主とも思っていないようなおふざけの過ぎる困った侍女だが、こういうところは素直に言うことを聞いてくれるいい侍女だ。ただし、あとあと「今日のお嬢様」とわたしの両親に報告されるのはいただけない。きっと今朝のことも「お嬢様の奇行」として事実に尾ひれをつけて面白おかしく語られることだろう。いつか覚えてろヴィルマ!
ただまあ、わたしに激甘の両親は、わたしの奇行なんていつものことなので、たいていは「もう、困ったマリアちゃん」と微笑ましく聞いているのだが。
……うちの両親の頭もたいがいお花畑だわね。
わたしは残された二分で今後のことを考える。
ゲーム「ブルーメ」のプロローグは、来年の春。
今が春だからまだ丸一年ある。
つまりこの一年で何らかの対策を取ることができれば、わたしは「悪役令嬢」にはならない、はずだ。
もうかなりがっつりやらかしている感は半端ないが、猶予があるのはいいことである。
あとは、当て馬的悪役令嬢ポジをどうやって返上するかだが――
わたしはそこで、ハッとした。
悪役令嬢は、当て馬である。
ヒロインの恋のライバルだ。
では、物理的にヒロインのライバルになり得ない立場になっておけば、わたしは晴れて当て馬的な役割からは解放され、悪役令嬢にはならないのではあるまいか!
しかし、どうやって、ライバルになり得ない立場になるかであるが、わたしの頭にはひとつ名案が閃いた。
「おほほほほほほ! わたし、天才!」
十七年、悪役令嬢マリア・アラトルソワだったわたしは、高笑いが癖づいている。
そのうちこの癖も何とかしなくてはいけないなと思いながら、わたしはベッドから飛び降りると、ヴィルマの制止も聞かずに「おほほほほほほ~」と部屋から飛び出し、お兄様の部屋に向かった。
そして――
「お兄様、わたしと結婚してくださいませ‼」
聞く人が聞けばとんでもない爆弾発言を投下したのである。
「お兄様、わたしと結婚してくださいませ‼」
ばばーんとノックもせずに兄の部屋の扉を開けたわたしは、そのまま、ひうっと悲鳴を上げて固まった。
艶々の青銀色の髪に、気だるげな紫紺の瞳。
怠惰な猫のようにベッドの上に横になり、ふわりふわりとあくびをしていたのは、三つ年上の我が兄にして我がアラトルソワ公爵家の嫡男であるジークハルト・アラトルソワである。
「おおおおおおおおおお兄様っ」
わたしの顔が、ボンッと音を立てる勢いで真っ赤に染まる。
黒いシルクのナイトシャツのボタンを全開にして、なまめかしくも引き締まった胸元を惜しげもなくさらしていらっしゃるお兄様は、わたしに目を止めてうっそりと微笑んだ。
「おやおや、我が妹はそんなはしたない格好で私の部屋に夜這いにでも来たのかい? だが残念ながら今は朝だ。今夜また出直しておいで?」
この兄は妹に対してなんてことを言うのだろうかと、先ほど「結婚してくださいませ‼」と兄妹間にはあるまじきセリフをぶっぱなったわたしは自分のことを棚上げにしてううむと唸る。
くそぅ! お兄様はゲームの攻略対象でもないくせに、なんだってこんなに色気があるのかしら⁉
ジークハルト・アラトルソワは、ブルーメ学園で第一王子ルーカスと人気を二分するほどのとんでもないモテ男である。
顔よし、頭よし、スポーツ万能で魔力も高く、さらには五家しかないポルタリア国の公爵家の一つであるアラトルソワ公爵家の跡取り息子とくれば、モテないはずがないのだ。
しかも、「歩く媚薬」と呼ばれるほどのとんでもない色気をお持ちのお兄様は、ふわりと微笑むだけで失神者を出すとまで言われていた。
はっきり言って、全世界の女の敵のような男である。
そんなとんでもない色男であるお兄様が攻略対象でないのは、おそらく、現時点でお兄様が最高学年である五年生だからだろう。
ゲームのはじまりは来年なので、そのときは卒業して学園にはいないのだ。
……って、お兄様の色気に飲まれてどうするのわたし!
ついつい全開の胸元に視線が行きそうになって、わたしはぷるぷると首を横に振る。
こちとら十七年お兄様と一緒にいたのである。この程度の色気に対する耐性はついているのだ。たぶん。
「お兄様、お話があります!」
「その格好でかい?」
「ん?」
わたしはそこで自分の格好を見下ろした。
見る見るうちに血の気が引いていく。
「おにいちゃまとしても大変な目の保養で結構なことだが、淑女がそんな薄着で部屋の外に出るのはいただけないね。あとそれから、お前は寝る時には下着をつけない主義なのか――」
「みやあああああああ⁉」
わたしは自分自身を抱きしめてその場にうずくまった。
お兄様が「お前は本当におバカさんだねえ」と言いながら、ベッドの上に寝そべったまま軽く手を振る。
すると、ひとりでにお兄様の部屋のクローゼットが開いて、お兄様の瞳のような紫紺色のシャツがわたしの元まで飛んで来た。お兄様が風の魔法を使ったのだ。
わたしは素早くそのシャツを羽織り、きっちりとボタンを留めると、赤い顔のまま立ち上がる。お兄様のシャツは大きいので、太もものあたりまで隠れてくれるから助かる。
真っ赤になって震えていても部屋を出て行かないわたしに、お兄様が、「おや?」と片眉を上げた。
「どうしたんだい、マリア。まだお兄様に用事でもあるのかい? そう急がなくても朝食の席で顔を合わせるのだから、そのときでもいいのではないかな?」
「お兄様、マリアは考えました。このままだとマリアはどうやら破滅するようです。なので、わたしと、契約結婚してください!」
「……ふむ。先ほどの『結婚してください』は、私が寝ぼけていたゆえに聞いた幻聴だと思ったのだが、お前は本当にそのようなふざけた発言をしていたんだねえ」
お兄様が、ごろんとベッドの上で寝返りを打ってわたしの方を向くと、頬杖をついて頭を支えた。
「マリア、おバカさんなお前は知らないのかもしれないが、この国では兄と妹では結婚できない」
「でもお兄様は本当はわたしの従兄で、兄ではないですよね?」
「…………おやおや」
お兄様が驚いたように紫紺の目を見開いた。
そう、お兄様とわたしは本当の兄妹ではない。
前世の記憶を取り戻したときにその事実に気が付いたからこそ、わたしは手近なところで身を固めてしまおうと、お兄様に結婚話を持ち掛けたのだ。
……ふっふっふっ、いくらなんでも、人妻になってたらヒロインの恋のライバルにはなり得ないものね‼
一人ほくそ笑んでいたわたしは、お兄様がベッドから起き上がりこちらに近づいてくることに気が付かなかった。
ハッとしたときにはお兄様の麗しいご尊顔がすぐそばにあって、びくりとしてしまう。
お兄様はわたしについて来ていたヴィルマに廊下に控えているように言うと、部屋の扉をぱたんと閉ざしてしまった。
……な、なんてことかしら⁉ 扉を閉めただけなのに、お兄様のほんのり甘いスパイスのような香りでむせ返りそうだわ‼
前世でも勉強はいまいち、今世でも悪役令嬢っぽく(?)成績は下の下なわたしは、ただ単にお兄様がすぐ近くにいるから香りを強く感じると事実に気が付かない。
これが媚薬効果があるのではないかと噂の「歩く媚薬」の香り……!
いえ、知っていたけど、お兄様の香りをこんなに強く嗅いだことはなかったわ‼
お兄様は別に香水を使っているわけではないのだが、お兄様の好むシャンプーの香りが、この甘いエキゾチックな香りなのである。
お兄様がわたしの顎に指をかけて、くいっと上向かせる。
ひやあああああああ‼
イケメンが、イケメンの顔がこんなに近くに‼
ゆでだこのように赤くなるわたしに構わず、お兄様がわたしの赤紫色の瞳をじっと見下ろして、探るような目つきになった。
「お前はずっと私とは本当の兄妹だと思っていたとはずだが、いったいどこで気づいたんだい?」
「わ、わたしの研ぎ澄まされた洞察力と観察眼をもってすればこのくらいの謎など容易いのですわ」
「偉そうなことを言っているが、この事実は別に誰も隠していなかったよ。むしろお前が気づかないのはなんでなんだろうとも思っていたくらいだし。お前は昔から、あちこちに落ちていたはずの真実の欠片を、どういうわけかスキップで飛び越えていくという妙な特技を持っていたようで、ある意味お前のおバカさんなところは才能ではないのかと思っていたんだが、ようやく洞察力が人並み程度に戻ったのかな? いや、驚きだ」
ガーン‼
そうだったの⁉
わたしはてっきり、わたしがショックを受けないようにみんなが巧妙に隠していたんだと思っていたわよ‼
あまりの衝撃にぱかっと口を開けて固まるわたしの頭を、お兄様は「お前は本当におバカさんで可愛いねえ」と全然褒めていなさそうな口調で言いながらなでなでする。
「それで、お前は私が実の兄ではないと、ようやく気が付いた。ここまではわかったが、そこからどうして結婚してくださいという言葉が出てくるんだろうねえ? しかも契約結婚と来たものだ。お前の冗談はなかなかウィットに飛んでいると思うが、その冗談を本当にできる男の前に、そのような扇情的な格好で現れて言うセリフではないよねえ?」
「もちろん、冗談ではありませんわ‼」
「ふぅん、そう?」
お兄様は探るようにわたしを見下ろして、それからニッと口端を持ち上げた。
あ、やばい。
わたし中で警報装置がぴーぽーぴーぽーと音を立てる。
だが、わたしはお兄様が言う通りおバカさんなので、いつも逃げられない状況になってようやく危険を察知する。つまり、もうすでに逃げられる状況にない。
お兄様がわたしを壁際に追い込んで、トン、と両脇に手をついて囲い込んできた。
「つまり昨日までわたしの妹だと疑っていなかったはずのお前は、今朝になって急に私とあんなことやこんなことやそんなことがしたくなったと、そう言うことでいいのかな。おにいちゃまとしては、可愛い妹にあんなことやこんなことやそんなことをするのはいささか良心がいたむが、お前が望むのであればやぶさかではないよ」
「ひぎゃああああああああ‼」
わたしは大声で叫ぶと、お兄様から逃げ出そうと試みた。
が、背が高く、瞬発力も高く、わたしより何倍も賢いお兄様から、わたしが逃げられるはずもない。
「こらこらこら、待ちなさい」
あっさり手首が取られて、壁に縫い留められる。
自慢じゃないが、前世の三十年、わたしは恋とは無縁に生きてきた。
スマホの乙女ゲームをやりこんで、それで恋を知ったような気になっていた、実践未経験の超のつく初心者である。
今世は今世で、悪役令嬢ポジションのわたしは、男性を追い回すことはすれど、わたしを相手にしてくれる男性は一人も現れなかった。
つまり、経験値ゼロのずぶの素人相手であるわたしが、色気だけで言えば他に追随を許さないようなお兄様に勝てるはずもないのだ。
早まったー!
前世の記憶を取り戻したばかりで混乱していたからって、早まりすぎたわたしー!
いくらなんでも相手が悪い‼
本気で涙目になったわたしを見て、お兄様が「やれやれ」と肩をすくめる。
「お前はおバカさんだけど、理由もなく兄に結婚してくださいなんていう子でもないだろう。何か理由があるんだろうねえ」
わたしは涙をいっぱいにためた目で、こくこくと頷く。
理由があるんです!
だから手加減してください!
するとわたしの心の声が通じたのか、お兄様がベッドまで戻って、その縁に足を組んで座った。
そして、意地悪な顔をして笑う。
「そうだねえ、お前が私を楽しませることができたら、一考してやろうじゃないか。ほら、三回回って、可愛らしくわんわんって鳴きなさい」
「…………」
心の声が通じたかもと思ったわたしの感動は、あっという間にひゅるり~と心の中の木枯らしに攫われていった。
こ、この、くそ兄‼
そうだった。
そうだったよ‼
お兄様はこういう人だ。
顔面偏差値も頭脳偏差値も高くて、加えて魔力も高くてスポーツ万能でただ事ではない色気をお持ちのミスターパーフェクト人間なお兄様は、(主に妹のわたしに対して)とんでもなく意地悪なのだ‼
くそー! 足元見やがって‼
早まったと思ったけれど、今のわたしにはお兄様しか縋る人がいない。
というより、前世も今世でも「おバカさん」の部類に入るわたしの頭脳では、この先いくら考えたところで、素晴らしい悪役令嬢回避策が思いつくはずもないのだ。
そして、まさか前世の記憶を持っていてこのままだと破滅するからと、他の人に協力要請することもできない。そんなことを言えば、まず頭の中を心配されるだろう。
……わたしはもともとおバカさんだから、そんなことになれば絶対におかしくなったと思われて病院とかに入院させられる! そんなの絶対にいやあ!
ゆえに、ものすごく不安で仕方がないが、わたしはお兄様に契約結婚してもらって、ヒロインと攻略対象が無事にくっつくのを見届けるのだ。ヒロインと攻略対象の誰かがくっつきさえすれば、わたしの悪役令嬢ポジは必要なくなるはずだからである。
それまでは、何としても人妻ポジにいなければならない。
わたしは羞恥でぷるぷる震えながら、やけくそになってその場で三回回った。
「ワンワン‼」
「うん、恐ろしく色気がないな。やり直し」
嫌そうな顔をしたお兄様が、無情にもやり直しを要求する。
悪魔だ! この男は悪魔だ! でも、背に腹は代えられない‼
「ワンワン‼」
「もう一回」
「ワンワンッ‼」
「だから可愛らしくと言っているだろう?」
「わ、わんわん?」
「ダメ」
「わんわんわん!」
「わんは二回だ」
なんだそのこだわりは‼
わたしは恥ずかしさを通り越してだんだんイライラしてきた。
結局何がダメなのか、「三回回ってわんわん」を二十回もさせられて、わたしはぜーぜーと肩で息をする。
それなのにお兄様は微妙な顔をして、はあ、とため息を吐き出した。
「お前は顔だけはものすごくいいのに、致命的に色気がないな。頭も悪いし運動音痴だし、魔力もたいしたことない。つまりはお前の長所はその顔だけだな。はっはっは!」
殴ってもいいだろうか?
……いや、落ち着けわたし。ここでお兄様の機嫌を損ねてはならない。笑っていると言うことは、それなりにご機嫌な証拠だ。あともう少し。もう一押し‼
わたしはお兄様のそばまで寄ると、くるくるくるとその場で三回回る。
「わ、わんわん……」
くそう、恥ずかしいよう!
お兄様はじっとわたしを見つめて、ふっと笑った。
「まったくもってだめだが、面白かったから許してやろう。それで、契約結婚だったか。話を聞くくらいはしてやるから座りなさい」
わたしはひとまずほっとして、お兄様の隣に座ると、拳を握り締めてお兄様と契約結婚したい理由を力説した。
悪役令嬢とか、転生という単語を使わずに、いかに今のわたしの置かれている状況が最悪であるかを説明するのは大変だったが、意外にも、お兄様は疑問も持たずに頷いてくれた。
「ふむ、まあ確かに、お前は学園に入学してからというもの目も当てられないくらいにバカな真似ばかりしていたからね。すでに悪評が立っているし、良縁なんて望めまい。公爵家の令嬢がなんて無様なことだとあきれるしかない状況だ」
「うぐっ」
「お前の言うところの破滅と言うのはわからないが、このままでは一生独身なのは間違いないだろう。公爵令嬢が独身のまま一生を終えるなんて、ポルタリア国の長い歴史の中でも例を見ない珍事だろうな。そういう意味では確かに破滅だ」
「うぐう!」
「加えて、このままでは王子殿下のお相手に意地悪なことをしてあまつさえ殺害計画まで立てそう、か。そんなことしなければいいだけの話だと思うが、お前は救いようのないおバカさんだから、確かに誰かが手綱を握っておいてやらないと何をしでかすかわからないな。理解した」
「ぐはあ!」
先ほどからお兄様の容赦のない言葉の攻撃がわたしの胸に突き刺さる。
わたしの少ないHPはもう残り一桁だ。次に攻撃されたら確実に死ねる。そんな気がする。
「そこで私と契約結婚という妙な方向に思考回路が飛ぶのは解せないが、この国でお前を一番理解しているのは間違いなく私だろう。その意味では人選は悪くない。ただ、何故『契約』にこだわるのかは理解できないがね」
……それは、お兄様と一生夫婦でいたらわたしの精神力が持たないからです。
とは言えない。
お兄様にこの先ずっと意地悪したおされるのは勘弁である。
一生揶揄われて、一生遊ばれて、おもちゃにされる人生なんてまっぴらだ。
そのため、わたしは「契約結婚」にこだわりたいのだ。
「だがまあ、お前の気持ちはわからなくもない。お前は少なくとも、破滅の危機を察知したから私と結婚したいのであって、私と生涯を共にしたいわけではない、そういうことだろう」
さすがお兄様、よくわかっていらっしゃる。
うんうん、とわたしが頷くと、お兄様はどこか面白くなさそうな顔をした。
「それで、その契約結婚とやらは、私にどんなメリットがある?」
そ、そうきたか!
「私はお前が満足するまで、お前の手綱を握る人間としてお前の契約上の夫となる。だが、それでは私にはちっともメリットがない。面倒ごとを押し付けられるだけだ。せめて対価が必要だな」
じっとお兄様がわたしの胸元に視線を向けたので、わたしは思わず後ろに下がった。
「け、契約結婚においては、こ、こここ、恋のABCはなしでお願いします‼」
「なるほど。つまりお前は、お前と契約結婚をしている間、私はほかの女性にも手を出さず、契約上の妻であるお前にも手を出すなと、そう言いたいわけか。ふむ、ふざけているとしか思えない」
た、た、確かにその通りかもしれないけれども!
でもわたしは、「歩く媚薬」と称されるお兄様のお相手ができるような、恋愛上級者ではありませんからね‼
悪役令嬢として破滅する危険の前に、お兄様の色気で息の根が止まる可能性大ですよ‼
無理無理無理、わたしにはハードルが高すぎる‼
自分でも我儘を言っていると思うけれど、ここは曖昧にしてはならない部分だ。何故なら曖昧にしたが最後、お兄様にいじられなし崩しにあれこれされる未来しか見えない。
うぅ、対価、対価と言われても、わたしに支払えるようなものは何もありませんけども!
するとお兄様は、にっこりと悪魔的な笑みを浮かべて、こうおっしゃった。
「よし、では、その契約結婚において私からも条件を付けよう」
「じょ、条件……?」
どうしよう、嫌な予感しかしない。
お兄様が、とん、とわたしの肩を押す。
ころんとベッドに仰向けに転がったわたしの横に手をついて、お兄様は扇情的で蠱惑的な微笑みを浮かべてささやいた。
「契約結婚の期限は、お前が学園を卒業するまで。そして、その間にお前が結婚相手を見つけられなければ、お前は契約ではなく、本当の意味で私の生涯の妻だ。どうだ、悪くないだろう?」
悪いに決まっている‼
だが、至近距離で見つめられ、ささやかれて、心臓がばっくんばっくんと大きな音を立てて壊れそうになっていたわたしは、パニックになりながら叫んだ。
「それでいいですから、早く離れてください――‼」
やっぱりわたし、早まったかもしれない。
お兄様は楽しそうに手を伸ばすと、人差し指でわたしの鼻を、ふにっと押す。
「よしよし、ならばお前が最後に私のお願いを聞いたら、契約結婚とやらを引き受けて上げようかね。ほら、可愛らしく、ぶひっと鳴いてみなさい」
なんでだーっと心の中で泣きながら、わたしは叫んだ。
「ぶひーっ‼」
☆
マリア・アラトルソワを一言で表すなら、可愛らしいおバカさんだ。
ジークハルトは、先ほどのマリアの顔を思い出して、ふっと笑った。
(私の妹は、本当におバカさんだね)
マリアは、ブルーメ学園に入学した去年から、あっちにふらふらこっちにふらふらと、端正で身分の高い男性を見つけては言い寄っていたどうしようもない尻軽である。
両親から甘やかされて育ったマリアは、世界で一番自分が尊い存在であると勘違いしていた、ものすごく痛い子だった。
それを否定せずにただただ眺めていたジークハルトにも責任はあるが、マリアの勘違いも、あながち的外れではないと思っていたのも事実である。
マリアは、顔立ちだけなら、ここポルタリア国で一、二を争うほどの美人だろう。
艶やかな金色の髪に、赤紫色の大きな瞳。玲瓏とした美貌。
物心ついたときから「美」に対して並々ならぬ関心のあったマリアは、己の美しさを磨くことに余念がなく、そうして出来上がった彼女はまさしく神々に愛された美貌と称してもいいほどのものだ。
顔立ちだけではなく、ほっそりとしていながらも出るところは出ている抜群のプロポーション。
黙って微笑んで立っていれば、百人が百人振り返る。
が――
幼いころから可愛い可愛いと甘やかしすぎたのがいけないのか、それともマリアの関心が美と男にしか向かなかったのがいけないのか、マリアは顔と体以外は欠点だらけの女の子に育ってしまった。
昔から「王子様と結婚するのー」と夢見がちなことを言っていた子ではあるけれど、さすがのジークハルトも、学園に入学するや否や、まるで発情期の猫のように、あっちにふらふらこっちにふらふらと男を追いかけるとは思わなかった。
それなりに身分もあり良識のある人間であれば、マリアのような多情な女は相手にしないだろう。
ただし、中には一時の遊び相手としては都合がいいと、マリアにちょっかいをかける男がいなかったわけではない。
そんな男はジークハルトが裏から手を回してことごとく潰して、おバカさんなマリアが馬鹿な男に引っかからないように大切に見守って来た。
だからだろうか。
学園に入学して丸一年が経過した春。
学園に通うめぼしい男が誰もマリアのことを相手にしないことに焦ったのだろう。
今朝唐突に部屋に突入してきては、マリアはあろうことかこう宣った。
「お兄様、わたしと結婚してくださいませ‼」
はっきり言おう、ジークハルトは、鴨が葱を背負って来る状況とはこういうことを言うのかと思ったほどだ。
マリアの思考回路は理解できないが、このままではまずいと思いはじめたマリアはタイミングよくジークハルトが実の兄でないことに気が付いて(というより今までよく気が付かなかったものだ)、手近なところで手を打とうと考えたらしい。
が、それがどうして「契約結婚」に落ち着くのはジークハルトとしてはよくわからなかったが、まあいい。
マリアが学園を卒業するまでの間に、どうやってからめとってやろうかと考えていた可愛い可愛いおバカさんな妹が、自分からこの手に落ちてきたのだから。
「ふふふ……」
ジークハルトがマリアの兄になったのは、彼が三歳のときだ。
ジークハルトの父はマリアの父の兄だった。本来、ジークハルトの父がアラトルソワ公爵家を継ぐはずだったのだ。
けれども、両親は、旅行中に魔物に襲われて命を落とした。
父が命懸けで守ったジークハルトだけが生き延び、そして、叔父の家の子になったのだ。
ジークハルトが引き取られた時、マリアはまだ母親の腹の中にいて生まれていなかった。
だからマリアがジークハルトを実の兄だと思い込むのは仕方のないことだ。
だが、養父である叔父は、ジークハルトがマリアの実の兄ではないことを隠してはなかったし、むしろ、堂々と邸の中にジークハルトの実母の肖像画を飾っているほどだった。
使用人に口止めをしているわけでもない。
図書館に行けば我が家の家系図があり、それを見てもジークハルトがマリアの父の兄の子であることはわかったはずである。
少し注意深く観察すれば、いくらでもヒントは落ちていた。
そのヒントに今まで一度も気づかず、そして何の違和感も覚えずにきたマリアはある意味天才なのかもしれない。鈍感にしてもひどすぎる。
養父は昔からジークハルトをアラトルソワ公爵家の跡取りとする予定であったし、「なんならマリアを娶ってくれていいんだよ」とも言っていた。
娘を溺愛している養父は、マリアを他家に嫁がせようなんてこれっぽっちも思っていなかったからだ。
そしてジークハルトも、昔からバカで可愛いマリアに対して、妹以上の感情を抱いていたことも事実だ。
だからこそ、どこかで自分が兄ではないことを伝えて、退路を塞ぎ、この腕の中にからめとってやろうと虎視眈々と機会を狙ってきたのである。
学園で男を追いかけまわすマリアの奇行を止めなかったのもそのためだ。
公爵令嬢の結婚相手となれば身分が限られる。
その中の誰からも相手にされなかったとなれば、マリアは簡単に自分の手に落ちるとそう踏んでいた。
マリアをもらってくれるのはジークハルト以外はいないと思わせ、縋り付かせる。
ここまでがジークハルトの計画だったが、その前に、マリアはよくわからない悟りを開いたらしい。
このままでは破滅するとは、またなかなか愉快な方向に考えたものだが、この機会を逃すジークハルトではないのだ。
納得いかないのは「契約」といういらない修飾語だが、言質は取った。
マリアが学園を卒業するまでにほかの結婚相手を見つけられなければ、マリアはこのまま一生涯ジークハルトのものだ。
そしてすでに一年、高飛車にふるまって男を追いかけまわしていたマリアが、結婚相手なんて見つけられるはずがない。
マリアは今二年生。
今が四月なので、卒業まで約四年。
ちょっとしたゲームだと思えばいい。
(そして、この四年間の間に、私が何もしないとは言っていないよ)
可愛いマリアは、四年後、どんな顔をしてジークハルトの腕の中に落ちてきてくれるだろうか。
その日のことを想像すると、ぞくぞくとした愉悦が背筋に這い上がって来る。
可愛いマリア――
お兄ちゃんはね、君を妹だと思ったことは、一度もないんだよ。
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