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あなたしかいません

「思い出して、しまったのか」

 彼の声音に滲んでいたのは、明らかな悲しみだった。彼の手が、私の頬へとまた触れてくる。輪郭を辿るように、長い指が肌を伝う。

 私の胸はきゅうと軋んだ。そうか、彼はやはり思い出して欲しくなかったのか。

「忘れたままでいた方が、幸せだっただろうにね」

 そんな風に告げられて、私は静かに彼を見上げた。彼は眉根を寄せて、皮肉そうな微笑を浮かべていた。琥珀色の瞳はかすかに揺れている。どこか苦しそうに見えるのは、きっと演技ではないのだろう。

「かわいそうに。憎んでいる男に、抱かれるなんてね」

 彼はそう続けて肩をすくめた。その言動に、自嘲気味な色が強くなった。

 やはり思い出したら恨まれるのだと、彼はそう思っているらしい。いや、恨まれようとしていたはずなのだから、そうなると少し予想とずれてしまうのか。彼の本当の望みがわからずに、私は瞳を瞬かせた。

「私は、あなたを憎んでなどいませんけれど」

 彼の本心はわからない。でも何にせよ、恨んでいると思われるのは困る。

 私は寝首をかくつもりもないし、のし上がろうとも思っていない。故国を取り戻すために躍起になったりもしていない。

 私は自分がいかに無力であるかを知っている。己の力のみでなし得ることが、いかに小さいのか。これまで嫌と言うほどに思い知らされてきた。

「そう言わないと捨てられるとでも思っているのかい? そんな狭量な男だと思われるのは心外だなぁ」

 と、彼は意地悪く微笑んだ。まさか、そう来るとは思わなかった。どうしてそう捻くれた受け取り方をするのだろう。どこまでもずれているのはわかるのに、それを訂正できない。私は困惑するしかなかった。

 ここは彼の言う通り、捨てられるのを恐れている振りでもした方がよいのだろうか? それは彼の傷を広げるだけだろうか? どうすれば彼が安心してくれるのか、道が全く見いだせない。

「そうではありません。ただ、私にはもうここしかありません。あなたしかいません」

 仕方なく、私は事実だけを告げる。この点だけは、どこまでいっても動かしようがなかった。すると頬を撫でていた彼の手が、不意に止まる。彼の眉根も、さらにきつく寄せられた。

「かわいそうなシフレソア。幸福の娘は、どうして皆こうなるんだろうね」

 彼はあらゆる感情がない交ぜとなったような目をして、再び私へと顔を寄せた。額へと冷たい口づけが振り落ちてきて、私はそっと目を瞑る。目蓋の裏で、また青白い光が幾つも弾けていく。

「己の幸福を犠牲にでもしているのかな」

 彼の唇が、私の目蓋にも押しつけられた。いっそう青い光が強く感じられて、私は恐る恐る彼の背へと腕を回す。

 このままでは精霊に連れて行かれてしまうような、そんな気がして仕方なかった。ぎゅうとしがみつけば、彼の舌が私の頬を這う。

「かわいそうにね。せめて、優しくしてあげようね」

 嘆く彼の声が、私の肌へとじんと染み込んできた。哀れんでいるようでいて、その実全く違う。彼はそうやって自らを傷つけているのだ。そう思えてならない。

 私はうっすらと目蓋を持ち上げて、震える唇を開いた。

 彼の持つ刃は全て、彼自身を傷つけるためのものだ。そう気づいてしまうと、私にはどうしようもない。

「優しく、してください。不慣れ、なので」

 そう答えた途端、彼の笑い声が鼓膜を揺らした。どこか楽しげで、それなのに苦いもの飲み込んだような声が、そっと耳穴へと吹き込まれる。

「憎んでいる者に、優しく愛されるのも、かわいそうな君にはお似合いかもしれないね」

 自嘲気味なその言葉を否定する間もなく、耳朶を食まれて私の身は跳ねた。

 彼は恨まれたいのだろうか? そうやって己の罪悪感を打ち消したいのだろうか? 恨んであげれば、彼は楽になれるのか?

 どうすれば彼の重石を軽くすることができるのか、やっぱり私にはわからなかった。

 それでも今はただ受け入れるしかないことだけは確かで。私は彼の背をそっと撫でるようにと抱きしめて、もう一度固く目を閉じた。ふわりと跳ねた精霊の軌跡が、強い光を帯びて私に合図した。




 次の日、目が覚めると、妙に頭が重かった。

 体が重いのならば理解はできるのだけれど、頭まで重いのはどうにも腑に落ちない。それでも喉を潤したくてのろのろと起き上がれば、寝台の端に座る彼がこちらを振り返った。

「シフレソア、目が覚めたんだね」

 彼はふうわりと微笑んだ。窓から差し込む日差しのせいで、彼の髪も白い衣もやけに眩しく見えた。私は瞳を細めつつ頷く。少し動くだけで、妙に視界が揺れる。

「ああ、無理をしない方がいいと思うよ。あの酒は結構残るからね」

 彼がそう言い添えたのに驚いて、私は眼を見開いた。酒? 確かにお酒の匂いがするなとは思ったけれど、本当にお酒だったのか? ではこの頭痛もそのせいなのか。

「お酒、だったんですか」

「シフレソアのはね」

「……え?」

「僕のは精力を高める、まあそういうものさ。儀式だからね。こればかりは仕方がない」

 続けて彼がそう説明するものだから、私はますます喫驚した。

 儀式には、本来理由がある。それは耳にしたことがあった。そこには大抵、先人の知恵が詰まっている。けれどもいつしか、その知恵の部分が失われていくのだと。

「皆が愛し合って初夜を迎えるとは限らないだろう? しかも本来なら親族たちに見守られながらの行為だ。まあ、うまくいかないこともあるさ」

 少しばかり肩をすくめた彼は、そう答えて意地悪く微笑んだ。

 まるで自分たちは愛し合っていたと言わんばかりだけれど。それが滑稽な言動であることも理解しているような言い草だ。昨夜に引き続き、彼の言い回しは自虐的だ。

 とはいえそうした事実よりも、それをあっさりと彼が口にしたことの方が、私を驚嘆させた。身体を繋げたから、というわけではないだろうし。どういうことだろう?

「今回はトァーランの件があったのでね、遠慮してもらった。トァーランはエンヴィオンの見張りがあればいいだろうと言い張っていたけれどね。でもエンヴィオンがそれを拒んだから」

 そう言い添えた彼は、くつくつと笑った。何だか妙だなと、私は感じ始めていた。確かに彼はいつも流暢に話すのだけれど。それにしても、これだけよく喋ることはない。

「僕の噂のせいだろうね。あの兄は淡泊な人だから」

 もしかすると彼は、浮かれているのだろうか? そんな可能性に行き着いて、私はひっそりと狼狽えた。そんなはずがないのにと思う一方で、そういう発想が浮かび上がる自分にも驚いてしまう。

「長々と見せられちゃたまらないとでも思ったんだろうさ。僕としては、その判断はありがたいところかな」

 それでもこれだけよく喋る彼というのは、やはり違和感がある。

 特にそうした身内についてや、自身の心境について口にするなんて、ほとんど初めてではないだろうか。彼はそうした込み入った内情や内心を打ち明けるのを、いつも避けていた。

「おかげで君の可愛い姿を他の誰にも見せずにすんだよ」

 朗らかにそう告げる彼に、私は小さく相槌を打った。どう返事をしてよいのか、判断がつかなかった。するとそんな私を怪訝に思ったらしく、寝台へと手をついた彼はこちらへと身を乗り出してくる。

「シフレソア、どうかしたのかい?」

「いえ、あの……ディアーイン様が、いつになく楽しそうにお話されているので」

 まさか「浮かれているように見える」とまでは、言えなかった。それでも指摘せずにはいられなかった。

 彼は一つ大きな瞬きをしてから、はっとしたように手を口で覆う。それから気まずげにそっと目を逸らした。その仕草が、今までの態度が「装い」ではなかったことを示していた。

 こういう彼を、一度見たことがある。今のは酔った時の彼の言動を思い起こさせた。

「酔ってらっしゃるわけでは、ないのですよね?」

 だから私は思わずそう率直に問いかけた。彼の飲んだものはお酒ではないという話だけれど、全く入っていないとは限らない。混じっていたとしても不思議はない。

「君もなかなか意地が悪いね」

 すると今度は苦々しい声が返ってきた。表情は変わらないけれども、彼が少しばかり悔しげなのは伝わってくる。

 私が頭を傾ければ、ふわりと揺れた青い布が太腿の上を滑った。彼が丁寧に脱がしてくれたおかげで、この繊細な夜着にはほつれ一つない。

「そうでしょうか」

 私は返答に窮した。どうにも困ったことになった。どうしてだか彼は、いつでも責められているように感じてしまうらしい。

 私が当惑していると、彼は深々とため息を吐いた。そうして寝台についていた手を離し、私の方へと伸ばしてくる。

「すっかり忘れそうになっていたよ。君が妙に素直な人だってことを」

 彼の長い指が、また私の髪に触れた。何故だかわからないが、彼は私の言動から、勝手に色々と読み取っているようだ。それで一喜一憂しているようにも見える。

 その事実が導き出す結論に、私は再びむずむずとしたものを覚えた。彼はそんなに私のことを考えているのだろうか? 一体いつから?

「困った妻だね」

 彼は大袈裟に肩をすくめた。探り合いながらの政争に長らく浸っていたせいなのかはわからないけれども、もしかすると私は余計なことをしない方がよいのかもしれない。

 ――私が彼を恨んでいないと、伝えたいのならば。

「こんなにひどい目にあっているのに、まだ懲りないんだね。シフレソア」

 瞳を細めた彼へと、私は首を縦に振った。私が思い出してしまったことがもう伝わったのならば、そこを偽る理由はない。

「懲りる理由がありませんから。あなたの目に、私はかわいそうに映るのかもしれませんが」

 髪を梳く彼の手に、私はそっと触れてみる。優しい手だ。少なくとも、私にとっては。すると彼の指先に、わずかに力が入るのが感じ取れた。

「私は自分がかわいそうだとは、もう思っていません」

 そう続けて私が頬を緩めれば、彼は眉根を寄せた。

 幸福と不幸は、実は主観的なものだ。そう言っていた母の言葉を、私はふと思い出していた。

 国が滅びて、ただただ「幸福の娘」という役割のために娶られた娘。それだけならばかわいそうなのかもしれない。

 でももっと辛い道を歩んでいる人はいるし、過去と今を比べてどちらが苦しいのかと問われたら、考え込むくらいには今の暮らしにも安泰がある。

 だから私はさらに微笑む。ふわりと天井のあたりで、青い光が瞬くのが見える。

 どうやら長らく私に愛想を尽かしていた精霊は、機嫌を直してくれたみたいだ。いや、彼らはもしかすると、私を案じて姿を隠していてくれたのかもしれない。もう私が溺れないようにと。

 真実がわからないなら、捉え方次第で心持ちなどいくらでも変わる。悪意を持って考えれば、世界は全て敵だ。

「本当に君って人は困った人間だな」

 再び彼は嘆息した。そうして私の手を握り、それをぐいと己の方に引き寄せた。

「手加減をしてあげたかったのに」

「……手加減?」

「初夜の儀の翌日は、公務が一切免除されているんだ」

 もう一方の手で私の腰を抱いて、彼は口角を上げた。公務が免除されている。その言葉の意味を考えるよりも早く、彼の手のひらがつっと私の腰から背をなぞり出した。

 薄い布越しに感じる感触に、私の肌は再び粟立つ。昨夜のことが急に思い出されて、頬が熱くなった。

「そ、それって」

「できる限り速やかに子をもうけて欲しいというのが、国としての方針だからね。理にかなっているだろう? 君の身体のことを思えば大事にしてあげたいところだけど、どうも君は幸せらしいからね。ならば僕も容赦はしない」

 彼がさらに意地悪く笑うのを見上げて、私は喉を鳴らした。何だか妙な意地の張り方をされてしまった気がして仕方がなかった。

 ――彼の素直な言葉を聞けるのは、まだまだ先のことになりそうだ。それでもいつかは必ず打ち明けてもらえる。そう信じられるくらいには、彼のことがわかってきた気がする。

「もう優しくしては、くださらないんですか?」

 だから私はそう答えて、おずおずと彼の胸に手を添えた。眼を見開いた彼の向こう側で、精霊がひらりと羽を揺らし、踊るのが見える。

 まるで彼らが背を押してくれているかのように感じられて、私の胸に安堵が広がっていく。

 私はそっと彼の胸に頭を寄せ、その鼓動へと耳を澄ました。そうして青の式で初めて聞いた潮鳴りを、静かに思い出した。

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