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初夜の儀

 けれどもそれからしばらくもしないうちに、ディアーインはいっそう忙しい日々を送るようになった。兄のことで王宮内が騒がしくなったせいでもあるし、政争がさらに激しくなったためでもあるようだ。

 多くの人間が関わる場というのは難しい。それは私も過去に母から見聞きしている。

 しかしそんな諍いから、相変わらず私は遠巻きにされていた。役に立たない女だと、従者たちの間では噂されている様子もあった。

 傷つかないと言えば嘘になるけれど、異を唱えることはできなかった。実際そうした争いごとにおいては、私は無力だ。

 それでも私は私なりに彼の力になりたいと、再び精霊を見るための試みを始めた。海や湖といった場所には行けないけれども、水はここにもある。

 湯殿を借りる度に、私は頭まで浸かって、目を瞑って心を澄ませてみた。子どもの頃のことを思い出しながら。

 けれどもやっぱりあの光を見ることはあたわなかった。私が忘れてしまったことで、精霊も拗ねてしまったのだろうか? それともそれは子どもでなければ見えないものなのだろうか?

 書庫でエアンダルや精霊、滅びた大陸について調べるのも怠らなかった。ディアーインが顔を出さないのをよいことに、あれこれと本を読みあさった。

 タガンツールの言葉の勉強も始めた。彼が差し出してくれたあの本が読めるようになりたい。それが原動力となった。

 そうやって過ごしていると、あっと言う間に時は流れていった。そうして婚礼の儀を迎えるにまで至ってしまった。

 もしや何かあるのではないか? そうやって気構えていた割に、あっさりと式は終わった。

 私は豪勢なドレスを着せられて、お人形よろしくただただ式の間中椅子に座っているだけだった。婚儀の参加者は大勢いたけれども、その中に、やはり父の姿はなかった。

 式が呆気なく終わったことで、正直私は拍子抜けしてしまった。けれども、問題はそこからも続いていた。

 婚礼の儀の次は、初夜の儀式だ。そう聞かされた私は、今さらながら躊躇を覚えた。

 彼はおそらく、私に嫌われようとしている。婚儀の前のささやかなやりとりでも、それは感じられた。ならば初夜でも同じなのではないか? そう思うと、胸騒ぎがして仕方なかった。

 このところはずっと、彼とはまともに顔を合わせていない。婚儀の際とて、向き合っただけ。あれはほとんど儀式だったから、彼と私的な言葉を交わすことはなかった。

 それからも彼は忙しくしていたから、二人きりになるのは本当に久方ぶりのことになるだろう。

 幼い日のことを思い出したと告げてもよいものなのか。恨んでいないと伝えてよいものなのか。私はいまだにその答えを出せないままでいる。

 彼の心に重石を乗せたいわけではない。でもただ率直に伝えるだけでうまくいくとは、何故だか思えなかった。

 そうやって逡巡しているうちに、初夜に向けての準備が始まってしまった。

 私は頭の先から爪の先まで、磨かれる羽目になった。

 他人に体を洗われる経験というのがほとんどなかったので、これは正直くたびれた。よくわからない水のようなものを全身に塗りたくられると、もしや私は食べられてしまうのではないかと、そんな空想まで湧き上がってくる。

 初夜は、大きな月が空高く昇る日と決められているらしい。真円へと近づきつつある月を見上げて、私はひっそりとため息を吐いた。

 心が決まらないから動じてしまうのだ。そしてそうやってあれこれ思い悩むくらいに、彼の存在は気づけば大きくなっている。

 そうしてついに、その日を迎えることになった。

 朝から仕上げとばかりにたっぷり香油をつけられて、果物やら果実酒やらといった甘いものばかりに制限されて。夜を迎えるまでに、私はもううんざりとした心地になっていた。何でもいいから早く終わって欲しい。そんな投げやりな気分にもなった。

 けれども布地の少ない夜着を身に纏った途端に、忽然と不安が込み上げてきた。私はこんな姿でディアーインを迎えなければならないのか? そう思うとにわかに緊張してくる。

 青い地に金の縁取りが施されているそれは、一目見ただけでも高価であることがわかる。それなのに身を包む衣服としてはずいぶんと心許なかった。普段はほとんど肌を見せない分、余計にだ。

 初夜は髪を結うのが一般的だと聞いたけれども、彼の希望でそれは今回はしないのだという。何から何まで彼の好みに合わせてあるということは、この夜着もそうなのだろうか? 確かにこの色は、青の式で見た海を彷彿とさせる。

 寝台の上で彼を待つ時間は、とてつもなく長く感じられた。時折窓の外を見ては、月の位置が大して変わらぬことに落胆した。知らぬ間に終わっていればよいのにと、そう何度も考えた。

 この部屋はそのために用意されたものらしく、寝台はとてつもなく大きかった。はじめから明かりは絞られていて、窓の外の丸い月がよく見えるようになっている。

 部屋まで広いのは、「二人きり」ではない場合があるからか? それを想像して、今さらながら震えた。

 部屋の隅では香が焚いてあった。嗅いだ覚えのない香りだ。寝台脇の台には、よくわからない液体が入った瓶が幾つも置かれている。知識の乏しい私にとっては、それら全てが恐怖の対象でしかなかった。一体ここで何をされるのか。そう思うと心臓が縮む。

 そうやってひたすら彼を待ち続けて、どれほど経っただろう。静かに扉が開く音に、私はびくりと肩を揺らした。

「ディアーイン……様?」

 恐る恐る顔を上げれば、明かりによって生み出された彼の影が揺れた。

 音もなくこちらへと近づいてきたのは、穏やかに微笑する彼だった。見たこともない白い艶やかな衣を身につけているのは、そういう決まりなのだろうか。

「待たせたね、シフレソア」

「いえ」

「緊張しているのかい?」

 悠然と近づいてきた彼は、からかうような笑みを深める。いつもよりも目鼻立ちが通っているし、くっきり陰影が浮かんでいるのは、この明かりのせいだろうか。

 私は固唾を呑む。取り乱さないようにするのが精一杯だった。

「すみません、不慣れで」

 用意していた言葉のほとんどが、ちっとも喉を通らなかった。彼が寝台の端に腰を下ろしても、ほとんど身動きがとれない。彼はくすりと笑うと、私の方へと手を差し出してくる。

「おいで、シフレソア」

 そう呼ばれて、私の心臓は跳ねた。相変わらずの甘やかな声だった。いつもと同じはずなのに、ますます緊張が高まっていく。

 だけども彼の言葉を無視するわけにもいかない。私はおずおずと、彼の方へ寄った。短い夜着がふわりと揺れる感触がする。かすかに衣擦れの音もする。

「思った通り、よく似合っているね。可愛いよ」

 彼は滑らかにそう告げながら、私の髪へと触れた。そういう言の葉を、彼はいつも当たり前のように口にしているのだろうか。本気だと受け取ってはいけないと思うのに、それでも動揺してしまう。

「ありがとうございます」

 かろうじてそれだけを述べて彼を見上げれば、彼の瞳に妙な光が宿るのが見えた。びくりと私の体に力が入る。これは彼にも筒抜けだろうか。彼はその点には指摘もせず、傍にある台へと手を伸ばした。

「まずはこれを、お互い飲ませ合うのだけれど、できそうかい?」

 彼はそう問いかけながら、水色の瓶を手に取った。小さなそれには、透明な液体が入れられていた。少しばかり酒の匂いがするのは気のせいだろうか?

「あの、飲ませ合うって」

「当然口移しだよ」

 もしやと思い尋ねてみれば、彼はそう言って笑った。私は目を丸くした。口づけは何度かされているけれど、口移しというのはまた別の気恥ずかしさがある。

 何よりお互いということは、私からもしなければならないという意味だ。私の喉はひとりでに鳴った。

「が、頑張ります」

 できるとは、とてもではないけれども言えなかった。しかしできないとも言えない。故にそう答えれば、また彼はくつくつと笑う。

「君は素直だね」

 そんな感想を述べて、彼は小瓶の中身を自らの口へと注いだ。いや、そう思った次の瞬間には、私の肩を引き寄せていた。

 はっとした時には、彼に唇を塞がれていて。慌てて口を開くと、生ぬるい液体が注ぎ込まれる。甘ったるい味と共に、喉が焼かれる。飲み込みきれぬものは、顎を伝って落ちていった。

「さあ、次はシフレソアの番だよ」

 喉から腹にかけて、じわじわと熱が広がっていく。体がかっとする。なるほど、夜着が薄手なわけだ。私は妙なところで納得した。

 けれども彼から次の小瓶を手渡されて、はっと我に返った。今度は私が同じことをしなければならない。どんなに楽観的に見積もってみても、うまくいく気がしない。

「ゆっくりでいい。ああ、そのままでは高さが足りないだろう? 膝に乗ってごらん」

 しかも続けて彼がそう言うものだから、私はますますたじろいだ。心臓が胸から飛び出しそうだった。――とはいえ、これから肌を合わせるのだから、こんなところで狼狽しているようでは駄目なのだろう。

 私はぐっと意を決して、瓶を手にしたまま彼へと身を寄せる。と、彼の手が私の腰を捕まえて、膝の上へと誘ってくれた。

「ほら、ちょうどいい」

 確かに、私からでも口づけはしやすくなった。でも瞳を細める彼を間近からは見ていられなくて、私は慌てて瓶を口元へと持って行く。そうしてそれを口に含んだ。それだけのことなのに、頭の中がかっと熱くなる。

 しかしこれで終わりではない。ここからが本番だ。自分で飲み干してしまわないようにと気をつけながら、私は静かに彼へと顔を寄せる。

 自分から口づけるのは、初めてのことだった。少しばかり開いた彼の口内へと、私はどうにかこうにかこの甘い液体を注いだ。

 こぼさないようにと懸命になっていると、彼の手が私の背中へと回される。ようやっと注ぎ終えて唇を離そうとしても、背を包むよう押さえ込む彼の腕が、それを阻んだ。

「んっ」

 首まで触れられると、私にはどうにもならない。彼の舌が私の口内を探り出す。甘ったるい熱で既に焼かれていたそこを舐められて、ぞくりと背筋が粟立った。

「シフレソア」

 ようやく彼の顔が離れた時には、私の呼吸は既に乱れていた。頭がくらくとして、視界がぼんやりとしている。早鐘のように打つ心臓が痛い。どこもかしこも熱い。

「よくできたね」

 それなのに彼は余裕の表情だった。ほくそ笑んだ――としか見えなかった――彼の唇が、私の顎に触れてくる。

 そのまま首筋へと舌を這わされると、頬がますます熱くなるのを感じた。こぼれたものを舐められているのだとはわかっても、羞恥までは消せない。

 彼は私をひどく扱うのではないか。そんな危惧を覚えていたのが、馬鹿みたいだった。

 おそらく、この行為ですべきことは決められているのだろう。彼は慣れているからそう感じさせないだけで、形式的なものに違いなかった。でも愛されたいわけではないから、今はそれでいい。

 それでも彼の唇が首筋や耳朶に押しつけられる度に、大きな手で背を撫でられる度に、私は段々と不安になった。

 頭がぼうっとしてきて、思考がまとまらなくなってきている。このままでは漏らすべきではないことまでこぼしてしまうのではないか? そんな予感が内から込み上げてきた。

 彼が何か話しかけてこなければよいのだけれど。

「シフレソア」

 不意に、体が持ち上がる感覚があった。あっと思った時には、私は寝台の上へと沈められていた。ふかふかの椅子とまではいかなくとも、彼に力をかけられるとまるで閉じ込められたかのような錯覚に陥る。瞳をすがめた彼に見下ろされて、私は息を呑んだ。

「これで君は正式に僕のものだ」

 まるで酔ったような調子で、彼はそう述べた。私は小さく頷いた。

 しかし今さらの話でもある。私は既に彼のものだ。私にはあらゆることの決定権がない。それなのに彼は一体何を言っているのだろう? 何を、恐れているのだろう。

「私はもうあなたの妻でしょう?」

 婚礼の儀も終えた。だから対外的には既に私は彼の妻だ。タガンツールの中では、もしかするとこの初夜を終えなければそう扱われないのかもしれないけれども。

 すると彼は口の端を上げて、私の髪へと触れてくる。

「横取りを狙う人がいるものだからね」

 彼の声には、皮肉の色が滲んでいた。それは次兄トァーランのことだろうか? しかし青の式の騒動で、ずいぶんと勢力が削がれたとも聞いている。それとももしや、初夜を迎える前に私を傷物にする目論見でも企てていたのだろうか?

 そう考えると、ディアーインが私を部屋から出したがらなかった理由が腑に落ちた。私を襲わせるだけならば、別に次兄本人でなくともよいのだ。月のしきたりを考えると、初夜がいつかは予想できる。だからその前にと企んでいても不思議はなかった。

 ――そんなに私が欲しかったんですか?

 問いかけたくても問いかけられない言葉を、私は胸中で唱える。口にしたところで「もちろんさ」と大袈裟に頷かれるのは目に見えている。「幸福の娘」が欲しいのだということを隠す振りをして。

 ここには私と彼しかいないのだから、そんな風にうそぶく必要もないのに。

 彼の手がそっと、私の髪を梳く。その眼差しが私の頭からゆっくり下がっていく。途端、急にまた羞恥が込み上げてきた。肌がほとんど露わな様相であることを、今さらながら思い出す。

 そのまま彼の手が私の肩を撫で出した。彼に触れられると、自分の体が熱を持っていることも突きつけられてしまう。これは先ほど飲んだ何かのせいなのか? それとも、私自身が高揚しているのだろうか?

 わからなくとも居たたまれなくて、私はきゅっと目を瞑った。その瞬間に、目蓋の裏に青い光が瞬いた。ぶわりと光が広がるように散っていくのに驚いて、私は再び目を開ける。

「シフレソア?」

 彼が不思議そうに名を呼ぶ。けれども私は声を出せなかった。彼の目映い髪の向こう側に、青白い光が瞬いていた。ふわりと浮かび上がるように揺れながら、淡い軌跡を描いては消えていく。そうした光が幾つも、天井を背に踊っている。

「せい……れい?」

 思わず私は口を開いた。それは朧気な私の記憶の中にある、精霊の姿に似ていた。はっとした彼が私の視線を追うようにと振り返る。その向こう側では、やはり青い光が踊り続けている。

「シ、シフレソア、何かが、見えるのかい?」

 困惑した彼の声が、怖々と振り落ちてきた。再び彼が私を見下ろしたところで、私も恐る恐る彼の方を見た。

 彼と目を合わせてみても、その向こう側で踊る精霊の光は消えなかった。あんなに努力しても見えなかったものが、何故突然に? 状況がわからないながらも、私は訥々と口を開いた。

「……青い、光が」

「僕には見えないけれど」

「たくさん、踊っています」

「踊る?」

「あれは精霊が踊っているのだと、教えてくれたのはあなたでしょう?」

 ぼんやりとした思考を手繰り寄せつつそう答えてしまってから、私は我に返った。

 ――今のは失言だった。私を見下ろす彼の双眸に驚愕の色が宿ったところからしても、口にすべき言葉ではなかったのだとわかる。

「シフレソア」

 名を呼ぶ彼の声は、明らかに強ばっていた。私は視線を逸らした。こんな時になんてことを口走ってしまったのか。頭がふわふわとしているせい? それとも精霊が見えた驚きのせい?

 何にしても、これは手遅れだ。

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