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大陸の夢

「青の式を取り止めるんですか?」

 本へと手を伸ばしかけていた私は、思わぬ話を耳にして振り返った。

 療養の期間が終わり、ようやく自由に動けるようになったばかり。寝台に縛り付けられている状態から逃れ、やっと書庫に入るのが許されたところだ。

 高揚していた気持ちに冷や水でも浴びせられたかのようで、つい表情にも出してしまう。するとディアーインはゆっくり頷いた。

「ああ、そういうことになったよ」

 優美な笑顔をたたえた彼は、相変わらずの振る舞いだった。公務の後なのかタガンツールの礼装に身を包んだ彼は、静かに棚に手を掛ける。その動きにあわせて、膝まである白い長衣がさらりと揺れた。

「例の件、トァーランの謀だったという証拠が出てきたので、調査が入るんだそうだ。時間が掛かりそうだから、しばらく海には行けない。でもまさか婚礼の儀を延期するわけにもいかないだろう? なら取りやめるしかない」

 そう説明されると、私には異を唱えることができなかった。婚礼の儀には各国の要人たちも招いているというから、先延ばしにするのは難しい。どこも大国には敵わないものだ。

「そうですか」

「……もう一度海に行きたかった?」

 私が落胆したのが伝わったらしく、彼は小首を傾げてそう問うてくる。私は本をそのまま棚へと戻し、かすかに頭を傾けた。

 また同じことが起きてしまったらという一抹の不安は残っているが、それ以上にもっとじっくりあの海を見てみたいという気持ちが強かった。

「あの時は、ゆっくり海を見られなかったので」

「ああ、それなら青の式でなくともいいね。婚儀が終わったら連れていってあげるよ。それで十分だろう?」

 そこで思わぬ言葉を掛けられて、私は瞳を瞬かせた。何か他意があるのかと頭を捻ってみたけれど、思い当たるものはない。

 純粋な厚意だろうか? それとも哀れな花嫁に向ける温情のつもりだろうか? 書庫の付き人はもう退室してしまったみたいだから、そんな振りも必要ないのに。

「ありがとうございます。ところで、どうして青の式は海の近くで行うんですか?」

 考えてみてもわからないものは、とりあえず横に置いておくしかない。彼の胸中を知る術などなかった。それとは別に前々から気になっていたことを、私は思い切って尋ねてみる。

 あの一件があってから、明らかに私の中で何かが変わった。彼への恐れも忌避感もなりを潜め、ただ純粋な好奇心だけがこの胸にあった。

 それが彼に伝わって怪訝に思われていなければいいのだけれど。単に、命を懸けて助けたことで心を開いた。そんな風に映っていたら幸いだ。

 彼のことを全く恨みに思わないのが、自分でも不思議だった。でもよくよく考えてみると、全て彼が悪いわけでもない。

 彼と出会っていても出会わなくても、私は精霊の存在に気づかなかったかもしれない。もしかすると精霊を求めて湖で溺れ、死んでいたかもしれない。「もしも」を考えていてもきりがなかった。

 それに、彼を憎悪したところで、私の立場が変わるわけでもない。彼なしには、私はここにいられない。

「シフレソア、君はそんなことも知らないのか」

 おどけた調子で笑った彼は、近くの本棚から一冊古びた書物を手に取った。緑の背表紙の、ずいぶんとくたびれた本だ。タガンツール語で書かれているらしく、表紙を見ても私には読めない。

 彼はそれをぱらぱらと捲り、あるところまで辿り着くと私に押しつけてきた。

「幸福の娘の伝説について。幸福の娘というのは、海の底に沈んだ亡国の生き残りと言われているんだ。当人が知らないなんて不思議だね」

 そう付言した彼は、笑みを深めた。以前だったら探られていると思うような言動だった。でも今の私は、それこそ偽りであるとわかっている。

 彼はもしかすると、私に嫌われたいのかもしれない。憎まれたいのかもしれない。私に嫌悪されることで、罪滅ぼしをしたいのかもしれない。最近はそんな風にも感じていた。

 彼の振る舞いはどこかちぐはぐで、幾つもの感情に引き裂かれているようにも見える。

「海の底の亡国」

 私はそっとその言葉を繰り返した。ほとんどがタガンツール語で書かれていて読めないが、挿絵の脇に一行だけ、大陸公用語で説明が付け加えられている。海の底に眠る偉大なる国の秘宝、と。

「また滅びているのですね」

 苦笑と共に、そんな言葉がこぼれ落ちた。

 幸福と呼ばれる割に、不幸に見舞われてしまう運命にあるのだろうか? 実に皮肉な話だ。これが真実なのだとしたら、そんな滑稽な運命を求めて、幸福の娘はもらわれていることになる。

「君は面白いところに目を付けるね、シフレソア」

「そうですか?」

「亡国の秘宝は、あの大国ですら手が出せない領域なんだ。海の底に潜るのは難しいからね。まだ島国の方が進んでいるんじゃあないかな?」

 くつくつと笑う彼は、妙に上機嫌のようだった。またお酒を飲んだのではと訝しんでみたが、そういった匂いはしない。何かよいことでもあったのだろうか?

 ……ああ、第二王子トァーランが窮地に追い込まれているからか。仲が悪いという噂は、嘘ではないらしい。

「海にのまれた亡国の秘宝は、この大陸の夢。各国王家のみが知ることのできる伝説だ」

 うっとりと、まるで微睡むような瞳で、彼はそう告げる。私は戸惑いながらも、静かに首を縦に振った。

 彼は私の向こうに亡国を見ているのか。彼が海を好んでいるのもそういうことなのか。なるほど、人によれば、私は彼の夢のためのお人形にも見えるのかもしれない。

 最近になってようやく、現状を客観的に考えられるようになってきた。私がタガンツール王家に娶られたその意味について、考えられるようにもなった。

 取り立てることのないただの娘が、祖国を失った後に、幸福の娘だからという理由で、第三王子に迎え入れられる。これを幸運と言わずに何と呼ぶのだろう。もしかしたら、妹の方が苦難の道のりを歩んでいるのかもしれない。

 私は一体いつから、自分は不幸のただ中にいると思いたがっていたのか。捉え方によっては、色々な面が見えてくる。

「大陸の夢……」

 繰り返した言葉が、じんわりと私の心を揺らした。

 私の命を二度も救ってくれた人の役に立ちたいと思うのは、愚かなことだろうか? それは単に彼に、利用されているだけになるのだろうか?

 私自身、彼という人間をどう思っているのか、あまりよくわかっていなかった。それでも彼の妻となることに、抵抗はなかった。

「幸福の娘というのは、その手がかりになるのですか?」

 各国の要人たちが求めているのなら、その存在は何かに必要なのだろうか。しかしそれが明確にわかっているなら、きっと既に誰かが成し遂げているはずだ。幸福の娘とは一体何者なのか。

 すると彼は私の顔をじっと見て、意地悪く笑った。

「そう信じているだけだよ」

 彼は口角を上げた。現実は違うのだと、そう言外に答えているようにも見える。けれども彼自身は信じているのだとも、その眼差しが語っていた。

 精霊たちのことを、私は思い出す。水の中でたゆたっていると、その周囲に集ってくる青白い光。よく目を凝らすとうっすら輪郭が辿れる程度の儚い存在。

 鳥とも魚とも言い難い不思議な姿をしたものたちは、声を持たぬよう黙したまま小さな羽を揺らしていた。彼らは私を海の底へ誘いたいのか。そこには何か眠っているのだろうか。

「ならば私も信じます」

 彼は海を愛している。海の底に眠るかつての大国を求めている。だからエアンダルにも詳しかったのだろう。私もそこへ近づかなくては。私はもっと、私のことを知らなくてはいけない。そして彼のことも。

 本を閉じて微笑めば、彼は一瞬息を止めた。私を見つめる双眸に何が宿ったのかまでは読み取れないけれど、彼が驚いたのは確からしい。思わぬ反応にたじろいでいると、彼は大袈裟にため息を吐いた。

「まったく君は」

「ディアーイン様?」

「いいや、気にしないでくれ。君が無垢で素直な女性だということを思い出しただけだよ」

 彼は頭を振った。思い出したという一言が持つ意味を、彼自身はどうも理解していない様子だった。

 それでも私は気づかない素振りで曖昧に頷く。きっとまだ、彼には何も告げない方がいい。少なくとも婚儀を終えるまでは。

 私はそっと本を抱きしめた。彼といつか、そんなお伽噺ついて言葉を交わす日が来る。そう考えると少しだけ心が慰められる気がした。

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