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精霊と幸福の娘

 子どもが泣いていた。子どもだとはわかるのだけど、その顔立ちがはっきりしない。おそらく、少年だ。金の髪を振り乱し、顔をくしゃくしゃに歪めて、私の名を呼んでいる。その様子がぼんやりと見える。

「戻って来てよ、シフレソアっ」

 切なる願いの込められた叫びは、聞いているだけでも胸が痛かった。何度か瞬きをすれば、ぼやけた視界の中でかろうじてその顔が浮かび上がる。

 私はどうやら見下ろされているようだった。少年の向こうには、清々しい空が見える。ということは、私はどこかに寝転んでいるのだろう。

 全身が痛い。胸が苦しい。そして手足が重かった。一体、ここはどこなのか? 背中に感じるのは固い地面だ。

「シフレソア?」

 するとぱっと見開かれた琥珀色の瞳が、今度ははっきりと見えた。こぼれた大粒の涙が、私の頬へ落ちる。

 子どもを泣かせるなんてばつが悪い。私は頬の滴を拭おうと手を伸ばし……目に入った自分の手が、ひどく小さいことに気がついた。土のついた、傷だらけの小さな手のひら。たぶん、妹よりも小さい。

「よかった、気がついたんだ!」

 顔をほころばせた少年と、自分の手を、私はじっと見比べてみる。それでようやく理解する。

 そうか、これはきっと夢だ。もしかすると子どもの頃の夢だろうか? まだ頭の中が混乱していて、うまく考えが纏まらない。

 ただどうしようもない感情ばかりが湧き上がってくる。胸の内に広がるこの苦いものは……きっと後ろめたさだ。これは一体なんだろう。

「大丈夫? どこか痛くない?」

「あ、の……」

「覚えてない? シフレソアは湖に落ちたんだよ!」

 起き上がろうとすると、ますます全身が重くなった。体中に何かが纏わり付いているような気怠さと、息苦しさを感じる。それでも無理をして動こうとすると、今度は気持ち悪くなってくる。

 身体を折った私は、ついで咳き込んだ。口の中が苦くて酸っぱい。どうやら水を吐き出したらしいとわかったのは、お気に入りだった服が汚れたのが見えた時だった。

 分厚い真っ白な布の裾に、母が刺繍をしてくれた自慢の服。身につけていたのはおそらく五歳くらいの頃だろう。着られなくなって残念に思っていたのは、記憶に残っていたけれど。でもそんな幼い頃のことは、覚えていないはずなのに。

「そっか、わた、し」

 湖に落ちた。少年の言葉を胸中で繰り返していると、突然頭の中で何かが弾けた。瞬く間に視界が開けていくように、全てが繋がっていく。

 そうだ、私は小さな頃に、湖で溺れかけたことがあった。たぶん何度も。どうして忘れていたのだろう? 

 父に怒られるから内緒にしていた? どうもはっきりとは覚えていない。覚えていないけれど、でもとても大事なことだったような気がする。

「だから追いかけちゃ駄目だって言ったじゃないかっ」

 私が身を震わせながら水を吐き出していると、泣きそうな声で叱られた。子どもに怒られるなんてと不思議な気持ちになるが、たぶん今は私の方が小さいのだろう。

 湖から助け出してくれたのは、この少年だろうか? もしかして命の恩人か?

「精霊のことなんて、話さなければよかった……。もう、精霊なんて追いかけないで」

 ぐしゃぐしゃな声でそう言い含められて、私ははっと顔を上げた。――精霊。その響きに、頭を強く揺さぶられた。

 私は精霊を見たことがあったのか? それともこれは夢の中だから? 私の願望がこんなものを見せているの? 自らのお腹をさすりながら懸命に記憶を辿っていくと、怖々と背中を撫でる手の感触がした。

「ね、お願いだから約束して。シフレソア」

 祈るような少年の声は、いっそう震えた。そのままぎゅっとしがみつくように抱きしめられて、私は自分の身体が冷え切っていることを自覚する。

 小さな少年の腕から伝わってくる体温が心地よい。急にどっと力が抜けて、眠り込んでしまいたくなる。

「聞いてる? シフレソア」

 耳元で柔らかい声がする。このそこはかとなく甘い呼び声には、何だか聞き覚えがあった。回された手に自分のものを重ねて、私は必死に呼吸をする。

「聞こえている」と答えたくとも、全然声が出ない。その代わりに私は力なく頷いた。

「精霊なんて、追いかけてもどうしようもないんだ。もう水の中に入らないで」

 少年の懇願を聞きながら、私はゆっくり目を瞑った。すると目蓋の裏側で、淡い光が瞬いた。「ああ」と、言葉にならない感嘆の吐息が漏れる。

 そうだ、これが精霊だ。思い出した。

 私はいつも目蓋の裏で、青白く揺らぎながら彷徨う精霊を見ていた。水の中に入るとその姿がより鮮明になる。歌声が聞こえる。美しい旋律まで耳に流れ込んでくる。

 一人きりの私は寂しくて、辛くて、心細くて、だからいつしか彼らを求めて水の中に潜るようになった。時にはいつまでも、限界を超えて、ずっと。どうして今まで忘れていたのだろう。

「シフレソア、シフレソア」

 また強く身体が揺さぶられる。途端に吐き気を催し、私は目を閉じたまま顔を歪めた。揺らさないで欲しいと伝えることも、今はままならない。自らの腕を抱くように身体を縮め、ひたすら嘔気を堪えた。

「目を覚まして」

 気のせいか、先ほどよりも声が遠い。しかも、これは子どものものではない。そう意識すると同時に、私ははっと目を開けた。

 ――これは夢じゃあない。

 まず目に飛び込んできたのは、砂まみれになった自分の髪だった。その向こうに広がっているのは、海だ。今日初めて見た、ひたすら深い蒼。

 そう、ここはタガンツールの海だ。

 私たちは何者かに襲われ、水の中へ逃げ込んだのだった。そして気を失っていたのだろう。

 おおよその状況を推測した私は、さらに現状を把握しようとする。けれども自分の状態を確かめたくとも、身動きが取れなかった。何かにのしかかられたように身体が重い。手足がだるい。仕方なく、私は視線だけを彷徨わせる。

「お願いだから、シフレソア。……忘れていたよ、君は水に喚ばれやすいんだった」

 頭上から聞こえたのは悲痛な声だ。それがディアーインのものであると理解するのに、しばし時間が必要だった。

 いつもの皮肉さも、優美な響きもない。まるで泣きじゃくる子どものような、焦燥感を帯びている。

「そっ、か」

 かろうじて唇からこぼれたのは、そんな声で。けれども彼にとっては、その反応でも十分なようだった。

 慌てた彼に、顔を無理やり空へと向けられる。置いてけぼりになった少年のような眼差しが、私を見下ろしてきた。

「シフレソア?」

 そうして怯えるように名を呼ばれる。私は瞬きすることで意思表示をした。少しでも頭を動かすと世界が揺れてしまうので、それ以上身を起こすことはできなかった。

「大丈夫?」

 彼の手がそっと、私の頬を撫でた。まるで壊れ物でも扱うかのように怖々と、彼は丁寧に触れてくる。急に胸の奥がむずがゆく、それでいて温かくなった。私はもう一度目蓋を閉じ、それから彼の顔を見上げた。

「ディアーイン様」

 かすれてざらざらとした声を絞り出せば、塩辛い味が口の中に広がった。海に飛び込んだ後のことは何も覚えていないけれども、きっと彼が助けてくれたのだろう。

 青の式はどうなるのか? 従者たちは皆無事なのだろうか? 尋ねたいことは山ほどあって。どれから問うていいのか判断できない。

「泣かないでください」

 それでも真っ先に口をついて出たのは、そんな言葉だった。突として彼の琥珀色の瞳が見開かれた。――ああ、この双眸には見覚えがある。私はようやく思い出した。

 そう、私は彼と会ったことがある。何も知らぬ幼い頃に、共に時間を過ごしたことが。エアンダルでの話だ。まるで精霊の記憶と一緒に封じられていたみたいに、今の今まで綺麗に忘れていた。

「もう、大丈夫ですから」

 私は努めてゆっくりそう告げて、今度は慎重に身体を起こした。

 気づけば外套はいつの間にか脱がされている。ずぶ濡れになった藍色のドレスは、べっとりと身体に張り付いていた。白い砂まみれになっているせいで本当に悲惨な状態だ。これではもう式どころではない。

「泣いてなどいない」

 強ばった彼の声が、私の鼓膜を揺らした。戸惑いと怒りの滲んだ声音だ。私の頬から離れた指が、今度は肩を捕まえてくる。

 そうか、泣いていたのは夢の中の彼か。まだ幼かったあの少年だ。――今も、ほとんど泣き出しそうな面持ちだけれど。

「……そうですか」

 ぼんやりと応えながらも、私は様々な記憶を思い出していた。

 タガンツールという名も、そういえば耳にしたことがあった。確か母が交友を持っていたのだったか。そうした人間が、ある時期お忍びでエアンダルを訪れる。そういったことはさして珍しくもなかった。

 そんな風に母はいつもたくさんの人々に囲まれていた。毎年代わる代わる、様々な国の人が顔を見せに来ていた。

 ディアーインもその一人だったのだろう。誰かと一緒に、きっと私たちの屋敷にやってきたのだ。他国を学ぶ機会が必要なのだと、説明していたような気がする。大人が来るのはよくあることでも、子どもが来るのは初めてだった。だから、私はとても嬉しかった。

 私は当時から森の中を駆け回っては湖に潜り、強き娘となるために気ままに動いていた。

 当時は精霊のことは誰にも告げていなかったはずだ。あまりにたくさんの精霊が見えていたために、誰にでも見えるものなのだと思い込んでいた。

 それが特別なものであると教えてくれたのは、彼だ。彼は何故だか、精霊やエアンダルについて詳しかった。

「ディアーイン様、先ほどのは」

「もう大丈夫」

 私は過去を辿りつつ問いかけようとする。けれどもそれを遮って、彼は力強く抱きしめてきた。私は再び目眩に襲われて、慌てて目を瞑った。

 溺れかけた後は、いつもこうなる。これは「精霊に呼ばれる」現象らしいと、幼い彼が口にしていた。

「大丈夫だから」

 彼は私の背を何度も何度も撫でた。それはまるで、彼自身に言い聞かせているかのようだった。

「あの」

「心配しないでシフレソア」

 彼の様子に当惑しつつも、私は懸命に言葉を探した。

 この国に来てからずっと、彼に蔑まされているものとばかり思ってきた。偽りの幸福の娘であることを隠して必死になる私を、嗤笑しているのではないかと。

 けれどももしもこの記憶が正しいのだとすれば、彼は私が本物の幸福の娘であると知っていることになる。

 では、どうして彼はそのことについて何も言わなかったのか? そこまで考えたところではっとした。

『君は、精霊なんて見ていない』

 溺れた私を救った彼が、かつて口にした言葉。呪いのように、祈りのように染み込む言葉が、不意に脳裏に蘇ってくる。

『精霊なんて見てないんだ。だからもう追いかけないで』

 幼い彼の口から紡がれる呪詛。この世界が終わってしまうとでも言いたげな彼の顔を見つめて、あの時私は何度も頷いた。

 ――私が見ていたものが精霊だと言ったのも彼だが、それを否定したのも彼だった。

 幼い私は、わけがわからないままそれを受け入れたに違いなかった。精霊だと思ったけれど精霊ではなかったと。これは二人の秘密だと。

 だから、父にも母にも詳しいことを話さなかった。そうしたくとも、うまく伝えられなかったことだろう。

 湖で溺れたのが母に知れてからは、水の中に潜ることも禁じられた。私は鮮明な精霊の姿を見ることもなくなった。目蓋の裏の光も、意識しなければ目立たなくなった。

 そうして私は、精霊の見えない幸福の娘になった。

「シフレソア……」

 耳元で彼の声が響く。私は目蓋を少しだけ持ち上げてみた。

 そうか、彼は最初から全てを知っていたのか。私が何故まやかしの幸福の娘となったのかも、全部知っていたのか。だから国が滅びた時に、助けてくれたのかもしれない。

 あらゆることが腑に落ちた。――彼の内にあったのは、もしかすると罪悪感なのだろうか。

「ディアーイン様」

 複雑な心境のまま、私はできる限り優しく呼びかける。そうして彼の心境を推測する。

 思い出してしまったことを吐露しようかとも考えたが、少なくとも今は駄目だろう。万が一彼が自責の念を抱いているのだとしたら、まずい。その悔恨に追い打ちをかけてしまう。

「助けてくださって、ありがとうございます」

 だから今は触れない。どんな理由であれ、彼が私を助けてくれたことに変わりはない。そして私の居場所はここしかないということも。

 だから今は、このままでよいのだろう。命の恩人に感謝し、惹かれていく娘の振りでいい。真実を知るのは、それからでもかまわなかった。……そう、思うことにする。

 気持ちの整理がつかないまま、私は彼の胸に縋り付いた。遠くから従者たちの呼び声が、徐々に近づいてくるのが聞こえた。

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