青の式
青の式当日は、いつになく風が強かった。
外套を着込めば寒さは和らぐけれど、気を許すと足を取られそうになるのはどうしようもなくて。従者たちに付き添われて海を目指すも、遅々とした足取りになった。
歩を進める度に、外套の下の藍色のスカートが揺れる。足首まであるそれは、この日のためにあつらえられた特注品だ。
透けるような薄い布を幾重にも重ねた豪勢なドレスには、銀の花が散らしてあった。どこかの国花を模したものなのだそうだが、私には見覚えがない。
はじめこそ外に出られた喜びで心弾んでいたけれど、それでも段々とくたびれてきた。次第に視線も下がっていく。どうしたって口を開く気にもなれなくなった。
それは皆同じなのか、いつしか沈黙が一行を包むようになった。
そうやって歩き続けて、どれくらい時間が流れただろうか。必死に前へ前へと進んでいた私は、先を行く足が止まるまで、周囲の変化に気づいていなかった。
「着きましたよ」
その声が誰のものだったのかも意識せず、顔を上げた私はただ目の前に広がる光景を見つめた。ようやく不思議な音が周囲に満ちていることにも気がついた。
「これが……」
広いという単純な言葉で表せるものではない。世界が全て水に包まれているのかと思うような、圧倒的な存在。それは、たとえるなら空に近い。幼い頃、深い森に抱いていた気持ちとも似ているかもしれない。
立ち尽くしていると、いつの間にか隣にディアーインがたたずんでいた。私はちらとそちらへ一瞥をくれる。
白い外套に身を包んだ彼は、いつもとは違って神妙な顔つきだった。海を前にすると、彼はこうなるのか。
「これが、海なんですね」
また風が吹き荒れて、私の髪が勢いよく煽られる。それでも海を見つめずにはいられなかった。ただ砂ばかりが広がるその向こう側を、青々とした水が覆っている。空のような明るさとは違う、とにかく深い蒼だ。
揺らぐ水面から聞こえるのが波の音というものなんだろうか。葉擦れの音と同じ、心安らぐ旋律だ。
「幸福の娘が海を見たことがないって、面白いね」
小さく独りごちる彼の声が、私の耳にも届いた。何か含みの感じられる言い様に思わず振り返ってみても、やはり彼は真っ直ぐに海を眺め続けていた。独特の匂いのする風に、彼の金の髪も揺れている。
「綺麗だろう」
彼は海が好きなのだと、私は肌で理解した。そういえば侍女たちがそんなことを言いふらしていた。婚礼のドレスが蒼になったのは、彼が好きな色だからだと。
――彼が愛しているのはこの海の蒼だ。そうか、だから彼はやたらと私の瞳をのぞき込もうとするのか。
私も彼に倣ってまた海を見る。この波の音は、不思議と心地よく耳に馴染む。身を委ねるような気持ちで聞き入っていると、意識がふわふわと浮き上がるような感覚があった。高揚するような、眠くなるような、奇妙な心地だ。
どれくらいそうしていただろう? 定かではなかったけれど、誰しも言葉を交わすことなく、ひたすら海を眺めていた。
タガンツールが青の式を尊いものとしているのが、理解できるような気がした。この広大な水の前では、私たちは誰もが小さい。
「それでは青の式を始めましょう」
皆がしばらく立ち尽くしていると、従者の一人が静かに声を上げた。ディアーインが頷くのが、視界の端に映る。
さすがにいつまでもこうしているわけにはいかない。また同じ道のりを歩いて帰らなければならない。そんな事実を思い出すと、私の足はじんわり重くなった。
最近はほとんど歩かない生活が続いていたので、体力が落ちてしまっているのかもしれない。エアンダルではあんなに歩き回っていたのに。
「シフレソア」
甘やかに名を呼んでから、ディアーインがこちらへと手を差し伸べてくる。首を縦に振った私は、その手を取ろうとし――何かを感じて咄嗟に身を捻った。
やにわに、誰かの悲鳴が上がった。
振り返ろうとした私のすぐ横を、何かが通り過ぎていった。それが刃物であると気づいたのは、血の臭いがした時だ。ぞっとする間もなく、ディアーインが忽然と私の手を引く。
「こっちだ!」
切羽詰まった彼の声が鼓膜を叩いた。何が起こっているのか、確かめる余裕などない。引きずられるようにして走り出した私の足は、思うように動かなかった。
歩き通しで疲労が溜まっているのに、砂の上を駆けるなんて無理だ。しかもこんなドレスを身に纏っている。これではすぐに転んでしまう。
それでも背後で聞こえる叫声と怒声が、立ち止まってはいけないと警鐘を鳴らし続けた。とんでもないことが起きている。それがひしひしと伝わってくる。
「トァーランか」
前を行くディアーインの舌打ちが聞こえた。唾棄するように吐き出されたのは、第二王子の名前だ。
もしや無防備になる式を好機としていたのだろうか? では、先ほどのはディアーインを狙ったもの? 私は固唾を呑んだ。鼓動がどくどくと強く打つ。
「シフレソア、急いでっ」
私の手を引く彼は、何故だか海へと向かっているようだった。そちらにはそれ以上逃げ場がないのに、どうしてだろう?
不思議に思っていると、今度は耳が痛くなるような重い音が響いた。同時に、何か鋭い物が海に突き刺さる。あまりの速さで、私の目では捉えられない。
「銃だっ」
彼の腕が伸びてきて、私の肩を捕まえた。強引に引き倒された私の頭上を、また何かが通り過ぎていった。
彼の言葉を脳裏で繰り返す。――銃。それは大国が蘇らせたという武器のことだろうか。最近、改良が進んでいると聞くが。まさかこの件には他国が絡んでいる?
慌てて起き上がろうとしてもうまくいかずに、口の中に砂が入った。咳き込んだ私の手を、再び彼が引き上げる。
「シフレソア、海へっ」
引きずられるように無理やり立ち上がらせられても、足がもつれてまともに歩くことができなかった。それでも彼は私ごと抱き上げるようにして進み、海の中へと身を投げ出した。
突然の衝撃に、頭の中がぐらぐらと揺れる。
息ができない。身体が重い。ドレスが、外套が、手足に絡みついてくる。全身を刺すような冷たさに、意識が遠のいた。目を瞑れば、目蓋の裏で薄青の光が瞬く。
――私はここで死ぬのだろうか。
どちらに向かって手を伸ばしてよいかもわからない。もがく力はどこにもなくて、ただ水の流れに身を任せるしかなかった。