ここしかないから
婚礼の儀の準備は、着々と進んでいた。近々海の傍で執り行われるという「青の式」に向けて、侍女たちは慌ただしくしている。
ただし私には特にやることがない。自室に引き籠もり、書庫から持ち出した本を眺める日々が続いていた。
あれからエアンダルの書物を手に取るのは止めた。何故かディアーインの書庫にはそういった本が多かったけれど、また何を言われるかわからないので、あえて見ないようにしている。
代わりに私が手を伸ばしているのはタガンツールの歴史書だ。彼の人となりやこの王宮内の状況を把握するためには、まずタガンツールを理解する必要がある。
エアンダル王家の傍系として大陸や大国については学んできたけれど、タガンツールのような小国についてはどうしても知識が乏しかった。
私は今日も空色の華美なドレスに身を包み、一日中膝に本を乗せて読書にいそしんでいた。全身が沈み込みそうになる椅子に座ることにも、ようやく身体が馴染んできた。たっぷりとした袖も、長いスカートの扱いにも慣れた。
それでもこの部屋を出ることをよしとはされていないので、王宮内の勝手はわからない。めまぐるしく入れ替わる侍女たちの顔も覚えきれなかった。
本当はもっとやることがあるし、知りたいことがある。けれども余計なことをして目立つのは憚られるので、おとなしくするしかない。
「海ってどんなところなのかしら」
美しい挿絵を眺めていると自然と頬が緩んだ。
エアンダルは森と山に囲まれた国だったので、海というものを目にしたことがない。湖よりもずっと大きいと聞いたことはあったが、想像できなかった。この絵が本当なら、見渡す限り水が広がっているという。
「塩辛い湖。私の色」
ディアーインはいつも、私の瞳を海にたとえる。でも鏡をのぞいてみても、やっぱり想像できない。色は挿絵ではわからないから、ますます興味があった。
青の式は海沿いまで歩く必要がある、体力のいるものなのだそうだ。それでも私が楽しみにしている理由はそこだった。
小さな頃は、よく父たちに内緒で湖に出かけた。そこで水浴びもした。妹が生まれるまではずいぶんと無茶をしたような気がする。
各国を歩き回り様々な情報を持ち帰る母に憧れていたのは確かだ。強くなるためには体力が必要だと、そう自分に言い訳して走り回った。近くに住んでいる子どもたちとも遊んだ。
現王――いや、元王か――の従兄弟であることが誇りとなっている父はよい顔をしなかったけれど、母はいつも笑っていた。所詮は傍系。「幸福の血を引く」家柄の一つでしかない。母もその遠い先祖は幸福の血を引く者なのだという。
「海って水浴びはできないのかしら」
式の最中にそんなことが許されないのはわかっている。だから将来的な話だ。
いつか王宮を自由に出入りすることができるようになったら、ひっそり海に行ってみたい。その向こうに逃げたはずの妹に、何かを届けたい。野望とも言える思いが、私の胸にはいつもあった。
「一緒に水浴びをしたら、怒られちゃったのよね。セラントア」
小さな小さな妹の名を、そっと唱えてみる。泣きたくなってしまうから口にしないようにしていた。父に溺愛され、母を知らず、不穏の中でも笑顔を忘れない私の妹。十も年の離れた可愛い妹セラントア。
あの子が元気でいてくれるなら、私も耐えられる。私に何かあれば、きっと妹の耳にもいつか届いてしまうだろう。泣かせてしまうだろう。だから私は何があっても生きなければならない。この決意が何より、私の力となってくれていた。
ゆっくりと本を閉じ、目を瞑る。無邪気な妹の笑顔を思い出す。無事に逃げおおせていますようにと何度祈ったことか。
もちろん、そんな心配など不要だった。屋敷の者たち皆があの子の力となってくれる。父に反発していた使用人たちも、従者も、料理人も、誰も彼もがセラントアを慈しんでいた。可愛いセラントアは、誰からも愛される存在だった。
寝ぼけまなこで「精霊が起こしてくれた」と口にした日から、その存在はますます尊いものとなった。
――そうやって幸福な時間に思いを馳せていたからだろう。扉が開いたことにも、私は気づかなかった。
「シフレソア!」
声が聞こえてはっと眼を見開く。ディアーインだ。こんな時間に珍しい。
慌てて立ち上がろうとしたけれど、膝の上の本が重くてすぐにはあたわなかった。その間に、笑顔の彼がずんずん近づいてくる。その足取りが、いつもと少し違う。
「よかった、まだ起きていたんだね」
「あの、ディアーイン様?」
「贈り物だ」
いつになく快活な声と共に、彼の手が私の頭へと伸びた。髪を梳かれるのかと思ったが、どうも手つきが違った。私は言葉を探し出せなくて、きょとりと彼を見上げる。
「やっぱりよく似合うね。美しい」
「ディアーイン様、これは――」
「ああ、君には見えないのか、もったいないな。イリースの使者が持ってきてくれたんだ。金に青をあしらった、花を模した髪飾りだ。これは君にしか似合わないと思って」
彼が饒舌なのは普段と同じだけれども、でも違和感がある。輝く琥珀色の瞳を見つめているうちに、私はあることに気がついた。彼が話す度に感じるこの匂いは――。
「もしかしてディアーイン様、酔ってらっしゃいます?」
お酒の香りだ。彼がやけに高揚しているように見えるのも、そのせいだろうか。大国イリースから使者が来ていたということは、宴でもあったのか?
「ん? ああ、酔うほどは飲んでいないよ。ちょっとした果実酒さ」
彼は瞳を細めた。見たことのない無邪気な笑顔に、不覚にも私の胸は高鳴ってしまった。意地の悪さが抜けるとこんな表情をするらしい。とても年上とは思えない。
「イリースはエアンダルの一部の領地をもらって、ずいぶんと勢いに乗っているらしいね。君の父親の話も聞けたよ。それなりに元気にしているそうだって」
けれどもすかさずにこやかに父の話を口にされ、私は閉口した。
それはできれば耳にしたくはなかった。やはり彼は彼らしい。私が何を嫌がっているのか、よくわかっている。その点だけを考えても、彼はある程度私たちの噂を知っていると考えてよいのかもしれない。
――きっとそうだ。私が偽物かもしれないという噂があるから、だから力の弱いタガンツールの、しかも第三王子が、「幸福の娘」を手にすることができたのだ。みんなわかっていたのだ。
各国の王家がそういった情報に疎いとは思えない。どうして気づかなかったのだろう。……私は、気づきたくなかったのか。
「そう、ですか」
「うん。君の婚儀にはもちろん参加できないけどね。ああ、あの美しい姿が見られないなんてかわいそうだなあ。本当にかわいそうだ」
仰々しい口調でそう告げると、彼は両手を広げた。そして何の躊躇いもてらいもなく、私を抱きしめた。
全く心の準備ができていなくて、思わず悲鳴じみた声がこぼれる。深々と身体が沈んでいくこの椅子の上では、彼は覆い被さってきたと言った方が正しいかもしれない。お酒の匂いにむせそうになりながら、私は懸命に呼吸した。
「ディアー、イン、様」
「僕の可愛いシフレソア。もう離したりしないから」
ぎゅうと力強く抱きしめられて、目眩がしそうだった。酔っていても女性を口説くのを忘れないとは驚きだ。それだけ彼の中に染みついているのだろう。
でも「もう離したりしない」だなんて、誰と間違えているのだろう? そう疑問に思っていると、また私の耳朶に唇が触れた。
「何か言って」
甘えてねだるような彼の声に、くらくらした。なんてとんでもない酔っ払いなのか。こんなにお酒に弱くて大丈夫だろうかと、ふと私は心配になる。
これから彼が宴に参加する機会も増えていくだろう。お酒が原因で不用意な発言をして……というような事件が起きないとは言い切れない。
と、そこまで考えたところで私は違和感を覚えた。そして、自分が彼の身を案じているという事実に愕然とした。
確かに、私が生きていくためには彼の力が必要だ。この国を追い出されることなくうまく立ち回らなくてはと、密かに悩んでいた。けれども今は、そういう打算は抜きに、ごく自然に彼の今後を憂慮していた。
「ねぇシフレソア」
私は既に「振り」ではなくほだされている? 抱きしめられて胸が苦しいのは、ただ息がうまくできないから? 私は困惑した。
なんだか人懐っこい愛くるしい動物と戯れているような気分になる。こういうところも女性を虜にしているのだなと、突として納得した。私も例外ではなかったということだろうか。
「ディアーイン、様。早く休まれた方が」
どうにか声を絞り出せば、不満げな目で見下ろされた。整った眉が、珍しくも不服そうにきつく寄せられている。可愛く拗ねている妹を思い出して、じくりと胸の奥が痛んだ。
「君は意地悪だね、シフレソア」
そして突然の言葉に、ますます混乱する。意地悪? 何を言っているのだろう。それは彼の方だろうに。
「どちらが、ですか」
痛みと共に思わず本音が漏れ、私は内心慌てた。妹のように愛くるしい、加護すべきか弱い少女でいなければと思うのに、ついつい強がりな言葉がこぼれてしまう。
まさかお酒くさい息のせいで私まで酔ったわけでもあるまいし。きっと妹のことを考えて気持ちが緩んでいたのだろう。
「そうだね、僕もひどい男だろうね。でも君の方がひどいよ。全部忘れるだなんて」
そう続けた彼は、右の口角だけをつり上げた。そこには明らかに、私を責める色があった。ひやりと背筋を冷たいものが撫でていく。それはどういう意味だろう。
しかし彼の意味深長な言動に対して問い返す暇はなく。私はそのまま無理やり唇を塞がれた。
ねっとり絡みつくような口づけは、妙に甘かった。咳き込みそうになるのさえ許されずに、頭の芯まで痺れていく。唇を食まれ、舌を差し込まれても、私にはなすすべがなかった。
彼の唇が一体いつ離れたのかもわからなかった。気づいた時には、涙で歪んだ視界に困惑した彼の顔が映っていた。戸惑い露わなその様子を、私はぼんやりと見つめる。
「シフレソア、ごめん」
謝る彼の声も遠かった。その手がそっと伸びてきて、私の頭に触れる。
「抑えられなかった」
どうして彼が泣きそうなのだろう? 私は瞬きを繰り返しつつ、彼の手に自分のものを重ねた。お酒のせいか熱っぽい手が、ぴくりと小さく震える。
まるで怯える子どものようだ。目の前にいるのが本当に第三王子ディアーインなのか、不意に疑いたくなった。これだけ美麗で優雅で悪魔のような人が、他にいるはずもないのに。
「私には、もうここしかありませんから」
彼の思いや意図も見えないと、ますます私は返答に困る。だからただ事実を告げた。
何があっても、嫌悪されても疎まれても蔑まされたとしても、私にはここしかない。たとえ彼が全てを知りつつ、必死になる私を嘲笑っているのだとしても。私に選択肢はない。
「だから、そんな顔をなさらないでください」
それなのに彼を見ていると胸の奥がざわつくのは何故なのか。複雑そうに笑って視線を逸らした彼を見上げながら、私はどうしてだか懐かしいエアンダルの森を思い出していた。