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本物の証

「ディアーイン様」

「そのまま動かないで」

 私がかろうじて微笑むと、悠然と歩いてきた彼の腕が、揺れる袖へと伸びた。たおやかな手が、丁寧にドレスを棚から解放する。

 でもほっとしたのは束の間のこと。今度は彼に手首を捕らわれてしまった。困惑した私が面を上げれば、彼は少し意地悪い顔をしていた。

「またこんなところに引っ掛けて。本に夢中になっているからだよ」

「あの、これは……」

「もしかして、故郷が恋しくなった?」

 優雅に小首を傾げた彼の眼差しは、私が持つ本へと向けられた。

 こうした仕草は、二十歳にもなった青年としては少し幼い印象だった。しかし彼の瞳にあるのは、なぶるような色だ。私を傷つけたいと強く訴える輝き。――こういう目は見慣れているから、よくわかる。

「お恥ずかしながら、早くも懐かしくなりまして」

「そう。ここでは満足できないかな?」

「いいえ、そんなことは。それに、私が満足しようとしまいと、エアンダルはもうありません」

 彼が求めているものは、なんとはなしにわかる。期待された答えを返してみれば、彼は満足そうに笑った。切なげな声を作るのにも、少しは慣れてきただろうか。

 すると手の中にあった本を、そのまま彼に抜き取られる。「あっ」と漏れた声が、遠ざかっていく誰かの足音に掻き消された。先ほどの付き人だろうか? もしかすると、彼に退室するようにと言われたのかもしれない。

「幸福の娘の物語」

 耳元を這うような彼の声。取り上げられてしまった本を見上げた私は、ついで怖々と彼へ視線を向けた。掴まれた手首が痛かった。それでも苦痛の声を上げるのは嫌で、軽く唇を噛む。

「美しいね。君のようだ」

「そんなことは……」

 彼はうっそりと微笑んだ。困った私は、小さく頭を振る。否定しようとする声は、どうしても小さくなった。彼の褒め言葉はいつも私を突き刺す。

「遠慮深いね」

 彼は本を軽い調子で棚へと戻し、あいた手を私の長い髪へと差し入れてきた。そのままぐいと頭ごと引き寄せられれば、琥珀色の瞳が間近に飛び込んでくる。

「麗しい、僕のシフレソア」

 彼の吐息が頬をくすぐる。逃れようと身をよじらせても、ますます腕の中に捕らわれていくばかりだ。

 耳朶をかすめる彼の唇の感触に、つい頬が熱くなった。彼はこういう行為にも慣れているのかもしれないが、私は違う。

「君はもう少し自覚を持った方がいい。幸福の娘が欲しいのは、僕だけじゃあないんだ」

 耳穴に直接、彼の声が吹き込まれる。胸の奥底に重しが置かれたようで、背筋が冷たくなった。

 それは先日の第二王子との件についてだろうか? やはりあれは、ディアーインの機嫌をずいぶんと損ねたらしい。

 私も油断していた。まさか衣装合わせの最中に、部屋に押し入ってくるとは思わなかった。

 王族が相手では逃げるわけにもいかないし、そうしたくても重たいドレスを身に纏っていては難しい。腰を抱かれそうになっただけとはいえ、ディアーインの矜持を傷つけたことは間違いなかった。

「すみません」

「謝らないでシフレソア。そういう意味じゃあない。どれだけ幸福の娘が求められているのか、わかって欲しいだけだから」

 彼の優しげな声が、体中に染み込んでくる。そう、彼はいつだって振る舞いだけは優しい。私は体が震えてしまわないよう力を入れるだけで、精一杯だった。

「たとえ、それが偽物でも」

 さらに続く一言が、忽然と私の時間を止めた。息まで止まってしまったかと思った。頭の中をめまぐるしく、幾つもの考えが通り過ぎていく。

 まさか先ほどの呟きを聞かれていたのだろうか? それとも彼は最初から全てを知っていた? いや、単に噂を耳にしたことがあるだけ?

 どの可能性も否定できない。ばくばくと心臓が強く打つ。ならば私は、どうすればよいのか。戸惑いが胸を満たした。

「何の、お話でしょう?」

 かろうじて返した声は、幸いなことに震えてもかすれてもいなかった。やや硬くなったことは否めないけれど、この状況ではそれも仕方がないと思うことにする。

「さあ、何の話だろうね」

 彼は私の髪を手で梳きながら、少しだけ距離をとった。これでようやく彼の顔が見えるようになる。でもそこはかとなく嫌味っぽく、かつ妖艶に破顔する様子だけでは、彼の真意はわからない。私ははにかんだ。

「どうか、からかわないでください」

 ならばはぐらかすしかないだろう。私が「見た」のか「見ていない」のかは、私にしかわからない。それを彼らが糾弾することはできなかった。だから堂々としていればいい。

 これが精霊にまつわる奇妙な点の一つだ。そんな不確かなものを拠り所にして、何の意味があるというのか。

「私、こういうことには不慣れで」

 それでもわずかな動揺が命取りになることはわかっていた。だから私は話を別の方向へ持っていくことにする。

「こんな、ところで。婚礼前ですのに」

 唇を引き結んで目蓋を伏せれば、彼が言葉に詰まったのが感じ取れた。

「ああ、すまないシフレソア。君のような無垢な人を困らせてしまったね。つい我慢ができなくて」

 彼は柔和に微笑むと、私を解放した。いや、そう思った次の瞬間、もう一度腰を引き寄せて頬に口づけてきた。

 何が起こったのか、すぐには理解できなかった。私は目を丸くして、ただただ呆然と彼を見つめる。顔が熱い。どこか悪戯っぽく笑った彼が一体何を考えているのか。今の私をどう見ているのか。何もわからないけれど、私にはどうすることもできなかった。

「でもそんな可愛らしい声を出しては駄目だよ。僕も待てなくなってしまう」

 軽く肩をすくめた彼に、私は曖昧に笑って首を傾げた。

 ――勘違いしてはいけない。ほだされてはいけない。彼は幸福の娘を得た第三王子という立場を望んでいるだけだ。それは第二王子と対抗するため。ようやく得た機会を逃してはなるまいと思っているだけだ。大国の花嫁をもらった第二王子と張り合うためには、幸福の娘が必要だから。

 ならば私はそこへかこつければいい。故郷を奪われた悲しき幸福の娘として、彼に癒された振りをすればいい。そこだけを間違えなければ、私の居場所は守られる。

 ――この滑稽な舞台はいつまで続くのだろうか。考えてはいけないことが脳裏をよぎり、私は目を細めた。

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