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幸福の国

 あてがわれた部屋での生活は、不自由はないけれど息苦しい。

 婚前に王宮内を歩くことは必要最低限にするようにと、私はここに来た時からきつく言いつけられていた。理由は教えてもらえなかったが、色々と考えられる。

 そんな窮屈さから逃れるために、私はディアーインにずっと本をねだっていた。もっとこの国のことを知りたいという理由をつけて。

 とはいえ、それは決して嘘ではない。父は私に何かを学ばせることを快く思っていなかったから、ずっとこういう機会を待ち望んでいた。

 ディアーインの書庫ならばという条件付きで許されるようになったのは、さすがに私を不憫に思ったからか。それとも単なる気まぐれか。

 もしかしたら、また第二王子が何か口を挟んだのかもしれない。何にしても、私にとっては幸いなことだった。

 時折侍女たちがうっかり漏らす噂には、愚弟としてのディアーインの評判や、第二王子トァーランとの度重なる喧嘩話が混じっていた。二人はことあるごとに互いを牽制し、小競り合いも絶えないらしい。

 年の離れた第一王子エンヴィオンの力が確固たるものであること、ディアーインが異母兄弟であることも、その原因となっているのだろう。要するに権力争いだ。

 王への道を着々と歩んでいる第一王子はディアーインのことも可愛がっているという。それがまたトァーランは面白くないのだと。どの国でも王族は大変なようだ。私には遠い出来事のはずだったのに、まさかこんなことになるなんて。

「こちらです」

 付き人の一人が案内してくれたディアーインの書庫は、ずいぶんと広かった。

 女遊びがひどいとの噂の彼だが、同時に勉学に対しても貪欲だったらしい。とんでもない数の本棚だ。ここにこもることができれば、退屈とは無縁でいられそうだった。タガンツールに来て初めて、私の心は躍った。

「まあ、すごい」

「ディアーイン様は古い本から新しい本まで幅広くご興味があって。また他国の文学にも精通されているんです。きっとシフレソア様の気に入る物もありますよ」

 大袈裟な笑顔でそう告げる妙齢の付き人に、私は頷いてみせた。うまく立ち回るためにも知識は大事だ。得られる物は何でも得ておきたい。そうでなくとも、本は楽しい。

「そうなんですね、素晴らしいわ。タガンツールの歴史書もあります?」

 視線を巡らせつつ、私は背の高い本棚の間を進んだ。すると慌てたように追いかけてきた付き人の靴音が、よく磨かれた床で反響する。

「シフレソア様、お気をつけください。そのドレスは裾が長いですので」

「ああ、そうでした。ごめんなさい」

 つい浮かれて忘れかけていたと、私ははっとして足を止めた。気を抜くと普段の癖が出てしまう。第三王子の婚約者が書庫で派手に転んだなどと噂されてはかなわない。気をつけなければ。

 緑豊かなエアンダルでは、膝まである靴を日常的に履いていた。貴族でさえ、長いスカートを身につけることはあまりなかった。婚儀のような時だけだ。もちろん、ふんだんに布地を重ねるようなこともしない。丹念に編まれた分厚い布でかろうじて肌を覆う程度の者もいた。

 父は「幸福の血を引く」家柄としての誇りを重視していたから、そういう恰好をはしたないと言って許さなかったけれど。

「すみません。でももう大丈夫ですから。あなたは扉のところで待っていてください。ゆっくり見てみたいので」

 呆れ顔を隠そうとしている付き人へと、私は穏やかに微笑みかけた。見張られたままというのは居心地が悪い。気も休まらない。それに本に集中できない。

 付き人はこれ幸いといった様子で、会釈をしてから踵を返した。彼女自身はこの異国の婚約者にうんざりしているのかもしれない。遠ざかる後ろ姿を見送ってから、私はもう一度辺りを見回した。

 書庫にある本はどれも大陸公用語で書かれたものばかりのようだった。タガンツール語は全く読めないので、これは大いに助かる。

 陸地の大半が海にのまれ、大陸が今の形となってからもう五百年。大陸公用語は小国にも浸透している。

 私は本の背に書かれた名を目で追っていく。あの付き人の言っていた通り、本の種類は様々だ。それでも私の目は、見慣れた単語へと引き寄せられていった。

「幸福の国エアンダル」

 ぽつりとむなしく響く故国の名が、私の耳に染み込んだ。思わず足を止めれば、ふわふわと揺れる赤いスカートが足に絡みつく。

 幸福の象徴と呼ばれてきた小国が、こうも呆気なく消え去るなんて。ずいぶんと滑稽な話だった。――自然の豊かな国。大国と大国の狭間で、せめぎ合いの中、かろうじて生き延びていた国。私の国。

 そっと手を伸ばして本を手に取る。軽くページを捲ると、見慣れた文言が踊っていた。

 ――エアンダルには幸福の娘が生まれる。王家の血を引く女性の中に、精霊を見ることのできる者がいる。それを人々は古から幸福の娘と呼んでいる、と。

 文を目で追っていると、自然と歪に口角が上がった。

 不思議なお伽噺だ。精霊が見えたから何だというのだろう。幸福の娘であった母は、妹を生んで間もなく亡くなった。まだ六歳になったばかりの妹は、祖国を追われるようにと逃がされた。その他の女性たちも、『幸福』を求める各国に次々ともらわれている。一体何が幸せだというのか。

「だから強くありなさい」

 私は本をじっと見つめた。こういう時、ついつい母の教えが口をついて出る。遠くを見据える母の眼差しは、いつも毅然としていて。私もこうありたいと思わせる何かをたたえていた。

 私がまやかしの幸福の娘となってからは、なおのこと母の言葉を意識するようになった。母は他国もたくさん見て来た人だ。狭いエアンダルの外を知っている人。今の私には、母の教えしか縋るものがない。

 不意に、暇をもてあました付き人の鳴らす靴音が、書庫の中に響いた。ページを捲ろうとした私の手は止まる。

 そうか、あまり大きな声を出すと、あの付き人に聞かれてしまうかもしれない。私は慌てて口をつぐんで目を伏せた。すると華美としか思えぬ赤と金のドレスが、自然と目に入る。

 タガンツールの衣装は全て豪勢だ。着飾ることが彼らの楽しみであり、また立場を示すものにもなっているらしい。身につける物よりも口に入れる物にお金と時間を掛ける、エアンダルとは真逆だった。

 本当はもっと簡素な服でよいのだけれど、それはディアーインの立場にも関わってしまう。だからこうしたドレスとはこれからも付き合っていかなければならない。私は嘆息を堪え、そっと本を閉じた。

 同時に、表紙に描かれた美しい姫君の肖像が、すっと視界に飛び込んでくる。きっと私と同じくらいの年の頃の少女だろう。でもどこか妹を思わせる顔立ちだ。

「一生嘘を、吐くために……」

 私は口の中だけで呟いた。幸福の象徴である娘たちは、大概豊かな黒い髪と蒼い瞳を持つのだという。私もそうだ。

 けれども、私は精霊を見たことがない。

 子どものうちに精霊が見えなければ、幸福の娘ではないと見なされる。それなのにどうしてだか私は、幸福の娘として扱われていた。

 おそらく父がそう仕向けたのではないかと思う。これだけ濃厚に王家の血を引いているというのに、精霊が見えないのはおかしいと。体面を取り繕うために、そううそぶいたに違いなかった。

 そもそも、その精霊が何なのかもわかっていない。遙か昔、もっと多くの国が栄えていた時代に、人々が生み出した生き物だ。そういう夢物語まである。

 しかし全てあやふやな伝承だった。だから偽物の幸福の娘が幸せになれるかどうかはわからない。幸福の娘だって、不幸になるのだし。

 だけども周囲はそうは思わない。幸福の娘のこととなると、特にエアンダルの人間は敏感だった。

 不義の子ではないかと噂されてしまったことも、そのために母が辛く当たられたことも、全て私が撒いた種だったのだろうか。

 本物の幸福の娘である妹が生まれてからは、父はなお厳しくなった。妹が私に懐いていなければ、もっと早く屋敷を追い出されていたかもしれない。

「だから、強く」

 私の心を支えているのは、いつだって母の言葉だ。優しくて強い母は、いつも大陸中を駆け回っていた。母を必要とする人は大勢いた。

 母がいない時間は、私への風当たりはますますきつくなった。私が大人に近づけば近づくだけ、いっそうひどく。それでもこの屋敷に置いていかれるのは嫌だと泣きつく度に、母は首を振って言った。

「この世界のどこかに幸福の国があるなんて、そんなことはない。自分で作らなければ」

 表紙の少女をじっと見つめていると、ため息がこぼれ落ちる。故国にもない居場所というものを、私はここで見つけられるだろうか? 自信はなかった。

 私を拾ったのがどこかの貴族ではなく小国の王族だったのは、果たして幸運なことだったのか。よくわからないけれど、こうなってしまった以上は足掻くしかない。

 大陸を脱出した妹たちが、無事に島国へ逃げ込んだことは聞いている。私がタガンツールにもらわれたことも、いずれは妹の耳に入るだろう。

 私に何かあれば妹が悲しむ。それだけはどうしても避けたかった。あの小さな妹を安心させること。それが私の目標であり、心の拠り所だ。

 表紙を撫でた私は、そのまま棚に戻そうとした。けれどもひらひらとした袖に腕を引っ張られて、その動きが止まる。

 布の端が棚に引っ掛かってしまったようだ。どこかささくれ立っていたのか? うっすら肌が透ける紅の袖は、力加減を間違えたら裂けてしまいそうで。慌てた私は眉根を寄せた。これだから慣れない服は困る。

「シフレソア」

 袖へと慎重に手を伸ばしていると、不意に背後から声がした。甘くとろけるようなこの呼び声は、ディアーインのものだ。

 私は顔が強ばりそうになるのをどうにか堪えて、静かにそちらへと目だけを向ける。本棚の向こう、靴音もさせずに近づいてくるのは、やはり彼だった。

 どうしてここへ? この時刻に書庫に来ることは、伝えていないはずなのに。

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