かわいそうな幸福の娘
「シフレソア様、本日より初夜の儀に向けての準備に取りかかります」
様々な騒動にようやく区切りがついて、私も息が吐けるようになった、とある日のこと。
朝食の後に部屋を訪れた初老の侍女が口にしたのは、そんな一言だった。――初夜。ついにその時が来たのかと、私は固唾を呑む。
婚約者から正式に妻という身分になったのだから、いずれそうした話が出てくるのは覚悟していた。それでも面と向かって口にされるのは、やはり違った。
タガンツールの第三王子の妻。それが今の私の立場だ。もはや哀れなエアンダルの娘ではない。悲しげな顔をしているわけにも、たじろいでいるわけにもいかない。
とはいえ、この国で、しかも王室に入るという形となる者が、どのような初夜を迎えるのか。そうした知識が、私にはまるでなかった。余計に緊張するのはそのためだろう。
「そうですか」
「そのため、本日よりお食事が変わります。また、身を清めるための儀式も行っていただきます。身につけていただくものは全てディアーイン様が選ばれておりますので、そこはご心配なく」
「わかりました」
「この度はディアーイン様の取り計らいで、お二人での初夜の儀となりましたので。そちらもご心配なく」
淡々とした口調で真顔のまま、侍女はそう告げた。嫁いでくる者の大半は他国の人間だろうから、その辺りはもう織り込み済みということだろうか。
けれども「お二人での」という響きが、私の中で引っ掛かった。それではまるで、二人だけではない初夜の儀があるかのようだ。
「それでは失礼します」
しかしそんな問いを放つ暇はなかった。音もなく踵を返した侍女の後ろ姿を、私は椅子に腰掛けたまま見送る。用件は本当にそれだけだったのだろう。
私は膝の上で握る手に力を込めた。豊かな布の上に、小さな拳が沈み込む。
ようやくここまで来た。何重にも重ねた嘘を乗り越えて、ようやくここまで。そう思うと、なんとも言えぬ心地がする。
ここしばらくはディアーインともほとんど言葉を交わさない生活を送ってきた。彼が忙しすぎるのがその原因だけれども、初夜となるとそうはいかない。彼をどこまで謀ればいいのかもわからずに、私はため息を吐いた。
気が重い。彼が私のことを本当はどう思っているのか。そんなことはどうでもよいと言い聞かせ続けてきたけれど、身体を重ねるのだと考えるとやっぱり気に掛かってしまった。
彼も偽るのが得意な人間だ。第三王子としての立場はまだまだ複雑であるし、隙を見せるようなことは、あれからほとんどなかった。いつも誰かしらが私たちの傍にはいるので、気をつけているというのもあるだろう。そういう意味では、初夜の儀は久しぶりに二人きりになる時間でもあるのか。
私はふいと天井を見上げた。それを恐れているのか喜んでいるのか、自分でもよくわからない。私が彼と二人で言葉を交わすのは、大抵この部屋の中だ。ただそう思い出すだけだった。
扉の閉まる音がすると、部屋を満たしていた緊張感がほんの少し和らいだ。無言のディアーインに手を引かれたまま、私は懸命に言葉を探す。
こんな時、何と言えばよいのか。どんな顔をすればよいのか。そうやって躊躇っているうちに、彼の方が振り返った。いや、そう思った途端に肩を押される。
虚をつかれた私は、たまらず後ろに倒れ込んだ。――その先には、幸いなことに大きな椅子があった。それをわかって彼がそうしたのだと理解した時には、長い指がぐいと私の腕を掴む。
「兄が失礼をしたね」
そのまま深く沈む椅子に縫い止められて、私は息を呑んだ。これほどの距離で彼に顔をのぞき込まれるのは、初めてのことだった。
よく考えると、部屋で二人きりになるのも初めてだ。私の鼓動はたちまち跳ねる。
せっかくのドレスに皺が寄るだとか、髪を結わないとこういう時に邪魔だとか、どうでもよいことが頭をよぎった。全て動揺のせいだろうか。意味のある問いかけは、どれも喉の奥へと引っ込んでしまう。
「嫌な思いをさせてしまった」
「あの、ディアーイン様?」
私を見つめる琥珀色の瞳は、いつになく剣呑と輝いていた。普段の優雅な物腰とも、時に私の胸を抉る皮肉な言動とも、無感動に愛を囁く様子とも違う。
その偽りの笑顔の奥にあるものが読めずに、私は戸惑った。第三王子ディアーインとしての顔ではないし、哀れな娘を娶ろうとする異国の青年の顔でもない。次兄のあの言動が、ディアーインの気に障ったのだろうか?
しかし私もまさか第二王子を邪険に扱うわけにはいかない。声をかけられれば応えるしかない。彼と次兄についての噂は、私の耳に届くほどでもあるし。
「すまない」
詫びる言葉とは裏腹に、ドレスごと私を椅子に沈める力は強かった。
幾重にも重ねられた薄い布は、そうでなくとも自由が利かない。椅子に埋もれているのか布に埋もれているのかわからなくなる。私は身じろぎ一つできなかった。
「あの兄――トァーランは困った人でね」
ディアーインはそう告げた。声はいつも通りなようでいて、少しばかり硬い。一体どうしたのだろう。彼がこんな真似をする理由が、私にはわからなかった。
婚礼前の花嫁に手を出されそうになって憤っている……という振りならば、この部屋の中でも続ける必要はない。噂好きな付き人や仕立屋の前でそう見せかけていればいいだけの話だ。ここには私たち二人しかいないのに、どうして彼は機嫌が悪いのか。
そう考えた瞬間、一つ理解した。そうだ、彼は機嫌を損ねている。こういった言動は、見慣れた父の横顔を彷彿とした。私が物心ついてからというもの、父はよくそうした顔を見せていた。あの父と同じだ。
「彼は僕のものを横取りするのが趣味なんだ。君が美しいから、つい欲しくなったんだろうね」
そう思えば合点がいった。薄く笑む彼が実際には微笑んでいないことくらい、出会って日が浅い私でも気がつくのに。それでもそうしてしまうくらいに、彼は不機嫌なのだ。
「本当に申し訳ない」
間近から降り落ちてくる声が、私の耳朶をくすぐった。
こういう時にどう振る舞うのが「かわいそうな幸福の娘」に相応しいのか。私はすぐさま答えを出せず、返答に窮した。ここで偽る相手は彼のみだけど、だからこそいっそう難しい。
祖国が滅び、無理やり嫁がされ、それでも恩人に愛されようと必死になる、不幸なエアンダルの娘。それが私が演じなければならないか弱い少女だ。
長年私が心がけてきたものとは正反対で、いつも少し戸惑ってしまう。私はここに来るまではずっと毅然と悠然と物を言い、凛とたたずむことを目指してきた。――母のようにと。
「すみません。私が至らないばかりに、ディアーイン様にご心配をかけて」
しばし考えてから、私はそう答えた。何にせよ、私は彼に委ねるしかない。そして私の言動が彼の評価の一つとなることも間違いはなかった。これは私の胸中にかかわらず、つきまとう現実だ。
「申し訳ありません」
絞り出した声は、少しだけかすれた。ついで私は瞳を伏せ、身体を強ばらせた。
このことがきっかけで、次兄との問題がますますこじれる可能性もある。大事ともなり得る。そう思って恐る恐る彼を見上げれば、艶やかで豊かな金の髪を、窓から差し込む陽光が目映く照らしていた。つと細められた双眸が、私の手元に向けられる。
「そんな風に言うものではないよ、シフレソア」
彼の白い指先がそっと、私の手に触れた。壊れ物でも扱うかのようなこの柔らかさには、やはりどうにも慣れなかった。
次々と女性を毒牙に掛けていると噂のタガンツール第三王子は、仕草一つ取っても優美だ。こうして女性たちを虜にしているのだろうと、機微に疎い私でも想像できる。
「いいえ、私が悪いのです。だから怒らないでください」
とはいえ、ここで「哀れな娘」は頬を赤らめたりはしないだろう。
懇願するようそう口にしてみれば、不意に彼の纏う空気が変わった。私の手を包もうとしていた彼の手のひらに、不自然な力がこもる。瞬きをする彼の瞳には、わずかな驚きが滲んでいた。
その事実に私も喫驚する。
「ディアーイン様?」
呼びかけに、返る声はなかった。彼はただただ息を呑んでいるようだった。まさか自分が不機嫌なことに気づいていなかったのだろうか? 彼は自分のことであれば全て自覚済みだと思っていたのに。
そう考えると私の背をぞくりと冷たいものが這い上ってきた。もし彼が無意識に不機嫌だったのだとしたら――。
「ああ、いや、何でもない。つい慌てて君を連れ出してしまったけれど、衣装合わせの途中だったね。あの兄のせいでせっかくの時間が台無しだ」
すると彼はゆるゆると頭を振って、そのまま私の手を引いた。椅子に沈み込んでいた身体が、ふわりと浮き上がる。
体勢が崩れて彼の胸に飛び込む形になると、さりげなく腰を抱かれた。慌てて離れようとしても、それを許さぬ力がある。細いように見えても彼はやっぱり男性だ。それに、こうしたことにも慣れている。
「では戻ろうか。仕立屋も待っている。思った通り、そのドレスは君によく似合っているよ。その蒼は君の瞳と同じ、深い海のようで美しい。緑は君の国の色だね。幸福の象徴だ」
瞳をすがめた彼は、そのまま私を見つめた。褒めそやしているようでもあるけれど、故国のことを口にするのはきっとわざとだ。私の胸にちくりと棘が刺さる。
彼はこうして時折私に釘を刺す。もう生まれ育った国がないことを思い起こさせる。
「ディアーイン様が選んでくださったドレスですから」
小さな痛みを押し隠して、私は破顔した。何にしても、彼の機嫌をこれ以上損ねるべきではない。だからただ面映ゆそうに視線を下げるだけにする。――彼が表向きは怒れないように。
「シフレソアは奥ゆかしいね。そうだ、ベールも決めないと。でも君のその髪を結ってしまうのはもったいないな。本当に美しい黒髪だから」
彼はもう一方の手で、私の長い髪をすくい上げた。
祖国エアンダルでは一般的な色でも、ここタガンツールでは珍しいらしい。そのせいか、彼はよく私の髪に触れたがった。どうやらこれは「振り」ではなさそうだ。
「そこは髪結いの者と相談しようか」
彼の提案に、私は頷いた。
緑豊かな国――エアンダルが失われたのは、春のことだった。
いつから何がどう傾いていたのか、私は知らない。けれども父は既にそのことに気がつき、陰ながら準備を進めていたようだった。私が囚われの身となる前に妹が無事国を脱出していたことからも、それは確信できる。
あの幼い妹さえ無事であれば、父は満足だったのだろう。父自身もひっそり取り引きを済ませて、大国イリースに逃げ込む算段となっていたことは、先日ディアーインが、親切を装って教えてくれた。
何も知らなかったのはきっと私や妹くらいだろう。大国間の均衡が破られた時から、既にこうなることは定められていたに違いない。
「可愛い僕のシフレソア。愛しているよ」
わざとらしく囁く彼に、私ははにかみつつ俯いた。彼に愛でられた髪が揺れる。
どこへ行くことになっても、エアンダルの幸福の娘であらねば。――そうではないと悟られてはいけない。妹のためにも、決してあばかれてはならない。
何が何でも生き抜くことを決意した日から、私の闘いは続いていた。