5.切り裂きし者 12-2
『ここからが本題なんだけど、唇読める?』
ジークの部屋にあるのは粗末な蝋燭の燭台のみである。
光量としては少々心許ない。
それにジークは読唇術を習得しているか、という質問だ。
葉月たちがこの世界で普段話している言葉は<ゼルディア語>であって、自動翻訳とは少々異なる。
きちんと<ゼルディア語>で話しながら、意味がネイティブ並みに分かる仕様だ。
ただし、元の世界になかったモノについては、確認せずには意味が分からない。
葉月もジークもそれぞれの母語を意識して話すことが出来た。
無意識の内に発する言葉は<ゼルディア語>に“設定”されているようだったが、<ゼルディア語>を<ゼルディア語>として認識出来ることは、葉月たちにとってかなりの利点である。
話す言葉と聞こえる言葉が異なる自動翻訳では、読唇術を行うことは限りなく不可能だ。
葉月が読唇術を習得したのは、曽祖父の指導によるものだった。
読唇術はかなりセンスに左右される技術で、相当の修練が必要である。
唇の動きだけでは同じになってしまう言葉が多々あるからだ。
唇だけではなく、舌や顎の動き、顔の表情など総合的な読み取り能力が要求されるし、文脈から候補の単語を選びとる判断能力も問われる。
葉月の曽祖父という人は四百年以上の師岡流の歴史の中でも傑出した天才で、先の大戦では特殊部隊に所属し、決して表沙汰にはならない戦果を上げたという兵であった。
葉月はこの曽祖父からいわゆる忍術と呼ばれる技術を仕込まれていた。
その内の一つが読唇術だったのだ。
兄や弟を差し置いて何故葉月だったかと言えば、偏に葉月の器用貧乏な質による。
習得が難しい技術でも、七割から八割程度はなんとか出来た。
兄や弟はどうも武術に才能が偏りがちであり、妹は致命的なまでにセンスがない。
葉月の祖父や父もあまり向いておらず、兄の長男(葉月にとっては甥)が生まれるまでは葉月が唯一の伝承者だったのだ。
このように読唇術はセンスによるし、傭兵をしていたというジークが読唇術を習得している可能性はあまり高くないだろうと、葉月は予測していた。
案の定、ジークは少し困ったように首を傾げた。
『えーと、少しだけなら、なんとか』
ジークの返答に葉月は頷き、持ってきた手提げから帳面を取り出した。
筆談混じりで意志の疎通をはかろうというのである。
葉月は何故、このような面倒なことをしようと考えたのか。
それは、葉月とジークが<世界の落とし子>であることを絶対に知られないようにという用心からであった。
葉月は己の推測をジークに伝えたかったが、伝えるにも周囲にかなり気を配る必要がある。
壁に耳あり障子に目ありとはよく言ったもので、どこで誰が聞いているか分かったものではない。
筆談で使用した紙も後で燃やしてしまうつもりだった。
それほど、デリケートな話題なのだ。
葉月が大体の推測を説明し終わると、ジークは難しい顔で唇を動かした。
『つまり、一連の事件は俺たち、<世界の落とし子>を狙った事件なんですね』
ジークは帳面に書かれた“ねらいはせかいのおとしご”という文を指差し、確認の眼差しで葉月の顔を見た。
それを受けた葉月はこくりと頷き、帳面に“はんこうせいめい、かくにんずみ。たぶん”と書き入れる。
『ヴィリーさんに犯行声明を見せてもらったんだけど、多分そうだと思う』
続いて、犯行声明に書かれていたことの要約を書いていく。
まだマスターしたのは表音文字のエレイムだけで、表意文字のゼダンはいくつかしか読めない。
表音文字のみでは読みにくいので、なるべく簡潔にしてしまう。
元の文章はヴィリーに読み上げてもらったが、かなりの修飾が加えられた文章で回りくどく、暗喩も多用されていた。
あれを大真面目に考えたのなら、やはり頭がイカレているのだろう。
要約してしまえば、たったの一言なのだから。
“しんこうちくにいみごがいる。だからころす”
『元の文章風に言えば“許されざる地に忌子あり。誅滅こそ正道なり”ね』
“いみご → せかいのおとしご?”と補足をかき入れながら、葉月は皮肉げに笑う。
被害者の身元確認は人員を割いて行われている。
しかし、身内であると名乗り出るものは少なかった。
娼館の女将がウチから逃げた妓ではないか、としぶしぶ確認したくらいだ。
身寄りのない、周りとの付き合いも薄い者が狙われたと見て間違いないだろう。
犯行声明という裏付けもある。
<世界の落とし子>がターゲットとなっているのは明白だった。
葉月たちにはブノワという身寄りがいることになっている。
それに通常の<世界の落とし子>よりも歳が若い。
それらの要素が、葉月たちを守っていたのだ。
幸運だとしか言いようがない。
葉月は今までの被害者たちが自分たちの身代わりとなったことに罪悪感を覚えてはいない。
自分でも薄情だとは思うが、自分たちが命を狙われているという危機感と、やられる前に相手のことが分かったという安堵感があるだけだ。
被害者が顔も知らない者たちであることが、その一因かも知れない。
葉月は博愛の精神など欠片も持ち合わせていないと自覚している。
そんな柔な考え方が出来る程、現代でも師岡の家はお綺麗な家ではなかった。
ジークも真実を知り傷ついた様子はない。
そのことに葉月は安堵と頼もしさを覚えた。
自分たちに降りかかる火の粉を如何にして払うか、それこそが問題なのだ。
その為に意識の共有が必要だった。
自らの命を守り、正体を気取られないようにすること。
言葉にしてしまえば簡単だが、実行は難しい。
一人では手に余るだろう。
事情を共有し、共に戦う相手がいるのは、本当に有り難かった。
葉月とジークは作戦に紛れて疑われる要素を排除する方法を打ち合わせる。
対<ゼルダの使徒>のおとり作戦が開始されたのは、それから二日後のことだった。