4.手痛い洗礼 2-2
無益な言い争いをしている二人に、むっつりとした厳つい男が近づいて来た。
三十代後半だろうか。
厳つい顔には立派な揉み上げというか頬髭が生えている。
大柄で、熊のような男だ。
熊のような男は無言で濡らした布を葉月に差し出した。
「ありがとうございます。トーリスさん」
葉月は笑顔で礼を言い、受け取った布で顔の汚れを拭った。
乾いているとはいえ地面を派手に転がったせいで、かなり汚れている。
動きやすいように男物の服を着ているが、土埃で真っ黒だ。
しかしトーリスと呼ばれた男は微かに眉間にしわを寄せ、唸るような声で言った。
「違う。腕を冷やせ」
「え? あぁ……腕ですね」
トーリスの言葉に葉月は自身の腕を見下ろした。
確かに葉月の腕は真っ赤になっていた。
太い、細いとそこにばかり気をとられていたせいで気付かなかったが、勢いを殺したとはいえタイロンの蹴りを受けたのだ。
今は真っ赤だが、今に紫色に染まるのは目に見えていた。
葉月が両腕を布で包むようにして冷やす様子を見てうなづいたトーリスは、タイロンの頭に拳骨を落とした。
「いってぇ!」
タイロンが頭を抱えてうずくまる。
トーリスはそんなタイロンを見下ろしながら、裏庭の方を指さした。
「井戸。あと気付け」
トーリスはそれだけ言うと、来た時と同じようにむっつりと母屋へ戻って行った。
熊のような容貌の上無愛想で無口なトーリスだが、細かい所にも気が利き面倒見も良い。
副長補佐という地位にある彼は多忙だ。
それなのに毎日とまではいかないが二、三日に一度は朝稽古が終る頃にやってきて濡れた布を渡してくれる。
むさ苦しい男どもばかりの<テーラン>にいきなり放りこまれた(ように見える)葉月を何かと気にかけてくれているのだ。
そのトーリスから拳骨をくらったタイロンは、頭を擦りながら立ち上がるとトーリスの後ろ姿をにらみつけた。
「ったく、殴ることねぇだろ、殴るこったよぉ」
「ごめんなさい、タイロン」
葉月のせいで彼は殴られたのだ。
自分自身も無頓着だったのに、指導役とはいえ彼だけが怒られると罪悪感がわく。
うなだれる葉月に、タイロンはぱっと渋面を解いた。
「ん? あぁ、お嬢が謝るこたぁねぇよ。それより腕冷やしに行こうぜ」
タイロンに背中を押されて、井戸のある裏庭へと向かう。
井戸には先客がいた。
先客は細身だがしっかり筋肉のついた上半身をさらし、頭に水をかぶっていた。
二人の気配に気づき、濡れた髪をかきあげながら振り返る。
「よお、タイロンにお嬢様じゃねーの。どうしたんだ?」
にやっと笑った男は、少し軽薄な雰囲気があったが、女性が見れば十人中九人はかっこいいと振り返るような容姿をしていた。
葉月は心の中で密かにチャラ男とあだ名をつけていたが、これでも<テーラン>の中でも戦闘を主任務とする実行部隊の第四隊長だ。
タイロンは「よう、ケヴィン」と気軽に手をあげて男の問いかけに答えた。
「お嬢の腕を冷やしに来たんだ。俺の蹴りが当たっちまってさぁ」
「お前の蹴りが? それって折れてんじゃねーの?」
ケヴィンはひょいひょいと葉月に近づいてきて、腕の布をはぎ取り真っ赤な腕を無遠慮に握った。
「っ」
痛みに顔をしかめる葉月。
だがケヴィンはにやにや笑いながら、引っ込めようとする葉月の腕をぐいぐいと握る。
「ははは、タイロンの蹴りを受けた割にやぁ、折れてねーみたいだな。すげーじゃん、お嬢様」
なおもぐいぐいと腕を握るケヴィンに、葉月は心の中で『このチャラ男が!』と罵った。
この軽薄な男はタイロンとは違い、からかうように“お嬢様”と呼ぶ。
しかもこのようにさりげなく、いじめ紛いのことを仕掛けてくるのだ。
あからさまな悪意は向けられたことがないが、ひまつぶしの道具くらいには思われているかも知れない。
非常に腹立たしいし、今も出来れば蹴り飛ばしてやりたいが、相手は腐っても隊長様である。
勝てる気がしないし、報復が怖いので耐えるしかない。
副長に言いつけるのも、負けを認めるようで嫌だ。
今に覚えておけよ、と恨みを飲み込む。
「もういいだろ、離せよ」
タイロンがケヴィンの腕を引き剥がし、水を汲んだ釣瓶に葉月の腕を突っ込んだ。
ひんやりと冷たい水が、火照った腕を冷やしてくれる。
葉月は小さく息を吐いた。
ケヴィンはそんな葉月の様子をにやにや笑って見た後、「お大事にー」と言って去って行った。
「大丈夫か?」
タイロンが心配気な顔をしながらしゃがみこむ。
葉月は笑顔を浮かべてうなづいた。
「ありがとう」
「また何かされたら言えよ? なんとかすっから」
「頼りにしてます」
「任せとけ」
タイロンがにっと笑う。
ブノワが葉月にタイロンを付けたのは、こういった理由もあった。
直接的で分かりやすい危害を加えてくる者はさすがにいないが、葉月たちのことを快く思っていない者が何をしでかすか分からない。
<テーラン>は荒くれ者の集まりなのだ。
居場所は自力で作り出せと言うが、何の手も打たずに潰されるのも困るという配慮だった。
ジークにも葉月と同じようにカーサ直属の配下が指導役としてついている。
葉月もジークも指導役の威を借ろうとは思わないが、決して頼らないと思うほど頭が固くもない。
利用しろというのだから、利用するべきだ。
嫌み程度なら慣れているし聞き流せば良いのだが、暴力で来られると葉月では少し荷が重い。
風当たりが強いことは分かっていたが、実際にやられるとたまったものではなかった。
もちろんタイロンとて四六時中守ってくれるわけではないが、直接にらみをきかせてくれる者がいるのといないのとではだいぶ違う。
ブノワの配慮に、葉月はしみじみと感謝していた。