トイレ
『トイレの水って意外と味しないんだな。』
人は見かけによらないとは、昔からよく言ったものであるが、トイレの水だって案外そうだ。汚いという印象だけであまり決めつけるものでもなさそうだ。こんなことになるくらいなら、そこにあるブラシで昨日にでも便器内を掃除するんだった。
『にしても、ああ、仕方ないか。』
そういえば奥の角においてある花瓶。手に取ってみると、花は枯れたっていうのに水だけがぬるくなって残っていた。透明な花瓶に、白い「HAPPY」の文字。オレンジ色のマリーゴールド。これいつの間に枯れちゃったんだろう。忘れてたな。人は失って初めてそのものの大切さに気付くなんてきれいごとだと思っていたが、思いのほかそういうものなのかもしれない。別に花に特別興味があるわけではない。元カノが置いて行ったのだ。花を見ると幸せになるとかなんとか。そんなことどうでもよかった俺にとって、あいつの声は鬱陶しかった。あいつがいれば、この花はまだきれいに咲いていたのかな。
『花にとったら、あいつが、大切だったのかな。』
夏というわけではないが、やたらと汗をかく。トイレの水をもう一口頂く。できる限り静かに、音を立てず、ゆっくりと、水面に顔を近づけて。今度はさっきよりも苦く感じた。「はあ。」とため息を1回。
その時、リビングのほうから聞こえていた物音が、足音へと変わりこちらへ近づいてくる。とん、とん、とん、とん、とん、俺とそいつしかいないんだ。音はよく聞こえる。マンションの3階、角部屋。玄関とは反対方向にあるトイレ。そいつが家に入ってきて、俺はとっさにトイレへ隠れた。トイレに隠れてから、どれくらいの時間がたっただろうか。スマートフォンはベットに置いてきたし、時計なんてもちろんない。30分くらいか、いやもっとか。汗が右の頬を流れる。キイ、っと扉が開く音が聞こえる。心臓が、いまにも胸を突き破ろうかという勢いで鼓動を繰り返す。そいつは男か、女か。武器は持っているのか。いや、無いと来るはずがないか。とん、とん、とん。足音はトイレの前で止まった。
『くそ、、どうする。』汗が左の頬を伝い、首筋を通る。右から流れた汗は、顎から床へと落ちていく。心臓は大きな音を立てている。俺は、右手で花瓶を持った。
とんとんとん。3回ノックされた。
「誰?いるの?今日大学休み?」
なんだ。母さんか。来るなら言ってくれよ。安堵とともに、花瓶を握る掌が汗でびっしょりになっていた。花瓶を元の場所に戻そうとしたが、力が抜けた俺の右手からするりと滑り落ち、ごん、という音とともに床へ転がり、水がこぼれた。枯れたマリーゴールドが、やっと役目を終えたかのようにずんと横たわった。
「俺だよ。今日は大学休みでさ。」
トイレのドアを開ける。
「あらあんた、体調悪いの。そんなに汗かいて、って何この床、水漏れ?やだ業者呼ばなきゃじゃん。」
リビングのテーブルの花瓶には、まだ美しく白いカーネーションが咲いていた。俺は、テーブルの上にあったおそらく母が買ってきたであろうリンゴを1口かじった。
「また言ってるわね、梅宮さん。」
「意識が戻ってからずっとよ。ああやって壁に向かって話すのも。」
「悲惨だったものね、まだ大学生だっていうのに。一人暮らししている家に強盗が入ってさ、普段は大学に行っている時間だったんだけど、その日はたまたま休みでさ。トイレに逃げ込んだんだけど頭を鈍器で殴られちゃって、梅宮さんの叫び声を聞いてた隣人さんがどうしたのかとドアスコープからのぞいたところ、見たことない人が飛び出すように逃げていったから警察に通報したらしく、駆け付けた時には、梅宮さん、トイレで意識を失っていて、そのままこの病院に運ばれてきて命はとりとめたんだけど、ショックが大きかったのかしらね。」
「今日はお母さんですって。いつも誰が来るかだけは変わるのよね。」
「にしても彼女さんもかわいそうよね。いつもいつも来ては毎日違うお花を持ってきて。梅宮さん、お花が大好きだったんですって。」
夕日の差し込む病室。透明な花瓶には胡蝶蘭の花が、強く、強く咲いていた。