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となりのトコロ

作者: 十一橋P助

「メイ、ほらご飯よ」

 呼んでも来ない。頭を上げてこちらをチラリと見ただけで、すぐに丸まって寝てしまう。

 仕方なくご飯を乗せた小皿を目の前まで持っていく。一応においは嗅ぐものの、やはり食べようとしない。

引越しをするから姉が飼えなくなったと聞いて引き取ったのが五年ほど前。その時点で既に十歳を超えていたからかなりの老猫だ。どこか具合を悪くしたのだろうか。

鼻の乾き具合を確かめようと指先を伸ばしたとき、玄関の呼び鈴が鳴った。

「はぁい」と返事をして、ドアスコープから確認する。おじいさんが立っていた。

 誰だろうと思いながらドアを開く。

「こんばんは」と彼は軽く会釈をすると、

「私、このたび隣に引っ越してきました、所と申します。どうぞよろしくお願いします」

 年齢の割には背が高く、そのせいか少し猫背気味の老人は深々と頭を下げた。

「皐月と申します。こちらこそ、よろしくお願いします」と私も慌ててお辞儀をした。

「これ、お近づきのしるしに、どうぞ」

 彼は小脇に携えていた包みをこちらに差し出す。

「これはご丁寧にどうも……」と言いながら、それを受け取った。

「では、失礼します」

 痩せた顔に穏やかな笑みを浮かべた老人は、静かにドアを閉じた。

 所さんの風貌は父を想起させた。父は私が幼い頃に他界しているが、きっと歳をとればあんなふうになっていただろうなと思う。それにつれ、父に背負われて散歩した田舎の風景が脳裏に甦った。

 ノスタルジックな思いを胸に振り返る。よかった。メイがご飯を食べていた。



 洗濯物を干そうと思い、申し訳程度についているベランダへ出た。洗い立ての衣類を物干しにかけていると、電話をしているらしい所さんの声が聞こえてきた。窓を開けっ放しにしているのだろうか。

「……ええ、もちろん仕事ですから。わかりました。今夜、必ず」

 その言葉を最後に声は聞こえなくなった。

 あの歳で仕事をしているのか。それも夜に。どんな仕事だろうか。と考えていたら足元がお留守になり、置いてあった洗濯物のカゴを蹴飛ばしてしまった。ガランゴロンと大きな音が響く。

 散らかった衣類をかき集め、カゴに戻す。顔を上げると所さんと目が合った。ベランダの仕切りの端からこちらを見ていた。

 彼は狼狽した様子で「すみません」と頭を下げてから続ける。

「覗き見していたわけじゃないんです。ベランダから物音がしたもので、何かあったのかと思いまして……」

 老人は申し訳なさそうに笑う。

「こちらこそごめんなさい。お騒がせしちゃって。うっかりカゴを蹴飛ばしてしまっただけですから」

「そうでしたか。それなら私はこれで。失礼しました」

 と言って顔を引っ込めようとする所さんを思わず「あの……」と呼び止めてしまった。理由は自分でもわからない。やはり無意識のうちに祖父の面影を追っているのだろうか。

「はい?」

 彼は穏やかな顔で私を見た。

ところが話題を用意していたわけではないので、「えっと……」と言葉に詰まった私は、咄嗟に先ほど耳にした言葉を口にした。

「お仕事、されているんですか?」

 老人が怪訝な表情を浮かべたのを目にして、慌てて補足する。

「いきなりすみません。さっき、所さんの会話が少し聞こえてしまったんです。そのお歳でまだ働いているのはすごいと思ったもので」

「ああ、聞こえちゃいましたか」

 老人は決まりが悪そうに表情を硬くしてから小さく肯いた。

「ええ。実はそうなんです」

「どんなお仕事ですか?」

「それは……」と彼は少し躊躇うように間を置いてから口を開く。

「まあ、バスの運転手、ですかね」

「へぇ。いいですね。私、車の免許持ってないから……」

 今度所さんのバスに乗せてもらおうかな……と言おうとしたところで、隣の部屋の呼び鈴の音が聞こえた。

「あ、お客さんが来たみたいですね」

「そのようです。じゃあ、私はこれで」

 小さく頭を下げた老人の姿は仕切りの向こうに消えた。

 彼はどの路線のバスを運転しているのだろうか。と言うよりあの年齢で路線バスの運転手が出来るものなのか?もしかしたら、幼稚園なんかの送迎バスを運転しているのかもしれない。優しそうな人だし、きっと子供たちに懐かれていることだろう。

 そんなことを考えながら、部屋の中に戻った。



 見えるのは田舎の風景だ。雨が降っている。幼いころ、私を背負った父が通った道。後ろには稲荷神社が、目の前にはバス停があった。私は片手で赤い傘をさし、もう一方の腕でメイを抱えている。

 ああ、この現実感のなさはきっと夢だ。恐らく所さんの影響だろう。彼を見て父を思い出したり、郷愁にかられたりしたからだ。

 バスが走ってきた。まさかと思いながら見ているうちにそれは目の前で停まった。案の定、運転席には所さんの姿があった。

 ドアが開き、「どうぞ」と老いた運転手が手を差し出す。

「メイも一緒でいいかしら?」

 たずねた私に「もちろんです」と彼は笑顔で応じた。

 ステップを上がって進むと、車内は柔らかい空気で満たされていた。心がほっこり温かくなる。

「発車しますので、おかけください」

 所さんの声に私は手近な席に座る。ひざの上でメイが丸まった。

 ドアが閉じ、バスはゆっくりと走り出した。どこへとも知れず。



 一人の主婦が心配そうな表情を浮かべていた。彼女が見つめる先にはアパートがあった。その二階の一室のドアが開け放たれている。

そこへ「どうしたの?」と別の主婦が歩み寄ってきた。

「ほら、201号室で一人暮らしの、皐月さんって分かる?」

「ああ、ネコ飼ってるお婆さんでしょ」

「そのお婆さんが、夜の間に亡くなっていたんだって」

「えぇ!なんで?」

「まだわからないけど、事件性はないみたい。あの歳だったから、たぶん心不全とかじゃないのかな。驚いたことに、飼ってたネコも死んでいたそうよ」

「あらやだ。一緒に天国へ旅立ったのかしら」

 そんな会話をしていた彼女たちの目に、202号室から出てくる老人の姿が写った。階段を下りてきた彼は二人の前を通りかかると、会釈をして見せた。

「あら所さん、お出かけ?」

 主婦の言葉に「いえ」と老人は足を止める。

「こちらでの仕事が終わりましたので、別の街に引っ越しを」

「最近来たばかりなのに、大変ねぇ」

 同情する主婦に「もう慣れっこですから」と応えた彼は、猫背気味の背をさらに丸め、再び歩き出した。


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