永い瞬間
美樹は途方に暮れていた。
全くもって、戻れないことにどうしたら良いのか分からなかった。
そもそも、なんでこんな事になったのかと自分の横たわった姿を見ながら、思い出そうとしていた。
美樹は電車にはねられる前の記憶が全く無かった。
かすかにこだまする誰かの声、誰かを思って遠くを見つめていた、いや酔いしれていた感覚に近い。
あれは...
窓の外は明るい夕暮れ。赤々な太陽が明日に向かって沈む様は、私の心にゆっくりと温かさと安らぎを与えてくれているのと同時に、濃さゆえの朱さはどこか不安も存在していた。
母は泣きつかれて、私に付き添い一緒に眠っている。
静かだなぁ。そう、ゆっくりと流れる時間、遠くをぼんやりと眺めていた時、コンコンという目覚めの合図とともに、ドアが開く音がした。
「失礼します。佐々木です」そう言ってドアから入ってきたのは、寝癖が特徴的な若々しい男性だった。スーツ姿に背中のリュックが今風のビジネスマンに思えた。
誰だろう...美樹は、見たことがない男性に怯えるように、見えていないはずの半透明な体をカーテンの袖へ押しやった。
「すみませーん。起きないか。仕方ない、別な日にしよう」
そう、ベットに寄り添っている起きない母の姿をみて、若い刑事は独り言のように呟き、病室を出ていった。
佐々木の遠慮ない声でも起きない母を見て、美樹は申し訳無さと母の愛情に心がギュッっと少し締め付けられていた。
美樹は、母のためにも戻れる方法を早く見つけないと、と心へ奮い立たせるように頷き、刑事の後をつける事を思い付いた。母にそっと「いってきます」と告げ、男性が出ていったドアをすり抜けて、少し薄暗い廊下に出た。
少し先に刑事を見つけたが、誰かと一緒に歩いているようだ。
身長が高く細身で、どこか心がざわつく気がする...
男性が廊下を曲がって階段を降りようとしていた時、横顔にはっとした。
「あ...俊介...俊介!」
美樹は、懐かしさと恋しさが込み上げてきた。
生きていたら、廊下中に響き渡るだろう大声で美樹は叫んでいた。
諦めた事や押し込めた気持ちは、不安の穴からこぼれ落ち、声だけが正直に私の体と廊下に反響する。
誰にも聞こえる事のない可哀想な私の声は、虚しく廊下に響くはずだったのに、私の方を振り向いた彼の目が、すべてを確実に肯定してくれていた。
目と目が合った二人の間には、時間すら存在しない空間に包まれていた。
美樹は、俊介が振り返って目が合った事に、心は最高に跳ね上がっていた。
もう、会えないと思っていたし、こんな不安定な時だからこそ、より嬉しさが押さえきれなかった。
目頭が熱くなった美樹は、俊介の元に駆け寄りたかったが、彼はさっきまでの真っ直ぐな優しい目が消え、悲愛の表情へと変化した事に気がづいた。
「えっ?」美樹はその表情に戸惑い廊下に浮いたまま、佐々木に声をかけられ振り向いた俊介をただただ目に映していた。
「丹羽さん、あの~...どうかしましたか...?」
佐々木は、誰も居ない廊下に振り返向き表情が曇った丹羽に、恐怖感を抱き声をかけた。
「すみません。何でもないです」
そう言い出した俊介は、悲しそうに俯きながら階段を降り始めた。
佐々木の顔がだんだん青ざめていく。
「丹羽さん、置いていかないで!やだよ、やだよ...丹羽さん、なんで振り向いたんですか...?ちょっと待って!待ちなさい!」
美樹の姿が見えない佐々木は、丹羽の態度に怯え、慌てて後を追いかけた。
丹羽は佐々木の呼び掛けにも反応しないまま、黙って歩くだけだった。
美樹は病室に戻っていた。
俊介の顔が頭から離れなかった。目が合った時の二人通じ合った感覚と表情、暖かさと幸せが入り交じったなんとも言えない心がぐるぐる回っていた。
今の状況を忘れてしまうほど、あの瞬間は美樹にとって衝撃だった。
そんな時間を過ごしている美樹が気がづいたのは、星空が綺麗に輝ける濃い藍色の夜になっていた。
「田中さん、面会時間過ぎてますよ」
看護師が病室に入って来て、母に声をかけていた。
母は、寝ぼけ眼になりながら
「すみません。寝てしまって。すぐ、出ます。」そう、言いながら支度をしている。寝ている美樹に帰る間際、声をかけた。
「美樹、また明日、来るわね。着替えとお気に入りのオルゴール持ってくるから...さっき、美樹が小さい頃の夢を見たわ。じゃぁね。」
母は名残惜しそうに病室から出ていった。
その一回り小さくなった姿に、美樹は現実へと意識が戻りつつあった。
ようやく、冷静に分析を始めた美樹は、自分の姿が一定の人には見えていたことと壁がすり抜けられるという事を整理し、何ができるかを考えていた。
片っ端から人に会って、見える人に聞き回るかな。
あとは、家とか会社とか...あっ!現場にも行ってみるかな。
なんか、意外と出来ることあるじゃん!
俊介に会いたいな...
ポロっと本音が出た美樹は、頭から俊介を振り払い、意気揚々と病室から出ていった。