第三章 疑惑の中の二人
加賀崎チエミ襲撃の犯人として浮上した風間あやせ、船越晶の二人へ誰が、どうアプローチをかけるか――。これが案外、些細なようで大きな問題だった。
「被害者である加賀崎さんと同じ学校の生徒である我々が近づくとどうなるか――。うっかりすると、相手に妙な警戒心を抱かせてしまうかもしれません。で、どうでしょう。もしご迷惑でなければ高津さんと沼田さんに、その役目をお願いできないかと思うのですが……」
「私からもお願いします。これも、高津さんを信頼しての頼みなんです。お願いできませんか……?」
参謀役の島田さん、そしてほかならぬ橘華さんに頼まれては断ろうにも断りにくい。いの一番に僕が折れると、きっかけを与えたしなあ……という理由で沼田も加わり、橘華さんたち桜花の生徒に代わり、都立三高の生徒である僕と沼田が、風間・船越への接触をはかることになった。
「――引き受けた手前、ここまで来て逃げるわけにはいかねえやなあ」
三日後、港区の二番町、ビルの谷間にそびえたつ煉瓦造りの立項高校の門前に立った僕に、同行者である沼田は落ち着かないそぶりを見せながら、しきりにバッシュのつま先でアスファルトを小突く。そのたびにブレザーと擦れて妙な音を立てる、エナメルバックの肩ひもの金具を忌々しく思いながら待っていると、陽気な運動靴の足音が二つ、こちらへ近寄ってきた。
「――お待たせ」
沼田と同じぐらいの背丈の、日焼けした頬へそっと触れるほどの長さのボブヘアをした体操着姿の女子生徒が、下級生らしい小柄な子と一緒に目の前に姿を現した。この背の高い女子生徒が、件の風間あやせである。
「よ、よお、久しぶりだなあ……」
「沼田ぁ、怪我して新聞部に臨時移籍だって? 都大会三勇士の一人がこれじゃあ、第三高校の陸上部は、しばらく浮上できないわね、あはは……」
新聞部の取材という触れ込みで、門前にいた立項の生徒を通して呼び出してもらった風間さんは、沼田もかくや、という豪放磊落な人物だった。
「――で、取材のほうはどうすればいいの? 出たほうがいいんなら、どっか近くのお店で話ぐらい付き合うけど……」
「じ、じゃあ、あそこのテレビ局のとこに喫茶店があるから、そこでやることにしましょうか……」
顔の至る所に青筋を立てて、今にも怒りを爆発させそうな沼田の代わりにかじ取りをすると、風間さんは後輩の子に離れる旨を伝えるよう頼み、僕たちと共に学校を離れた。
立項の校舎から歩いて数分ほどのところにある、東洋テレビの麹町スタジオの一角に軒を構えている喫茶店「こらむ」で、ストリベリーパフェを報酬代わりに、かなりベタな質問をいくつか投げて取材を済ませると、世間話から絡めて、加賀崎さんの一件について話の矛先を向けて行った。
「そういやあ、あれからずいぶん経つのよね。沼田、あんたどうしてるか知らないの?」
「いやあ、全然。むしろ風間こそ、なにか知ってることはないのか?」
それに対して、風間さんはスプーンで器の底のクリームをすくいながら、あんたと同じよ、と冷たく返す。
「可哀そうだとは思うけど、おかげであんたもあたしも入賞できたんだからねえ。――知ってる? 加賀崎って子がいなかったら、沼田は三位にすらなれなかったんだから……」
すでに本人から聞いていたが、社交辞令的にへえ、そうだったんですか、と適当な相槌を打つと、不機嫌そうな顔で応対していた沼田が、
「ハイハイ、そういうお前は一位だったもんな……。部の中でも、クラスの中でも英雄で、さぞかし気持ちがいいだろうよ」
ところが、当の風間さんは浮かない顔で、まあ、学校の中じゃあねえ……と力なくつぶやいただけだった。
「なんだ、うれしくないのか」
「――そういうんじゃないわよ。ただ、一度テッペンに登っちゃうと、また今度も同じ結果を求められちゃうから大変ってだけ。怪我してるあんたと一緒にされたくないわ……
はたから見ていると、なんともぜいたくな悩みのようにも思えたが、案外真理なのかもしれない。だが、納得する僕をよそに、沼田は虫が好かないのか、
「フン、勝手にしな……」
と言ったきり、お冷の氷を奥歯でかみ砕きながら、ギッと風間さんをにらみつけている。これ以上二人を同じ空間に置いておくと殴り合いに発展しかねないと悟ると、僕は適当に話を切り上げ、新聞は出来上がり次第郵送するので……とだけ言い残し、沼田をひっぱって「こらむ」を出た。
「――あのアマ、今度会ったら覚えてろ!」
珍しく空いている都バスの後部座席で、沼田は唇をかみしめながらガラス越しに夜景をにらんでいる。風間さんのあの態度を前にすれば、無理もない話だ。
「そう怒るなよ、相手にしたら、思うつぼだぜ。――それよりどう思う、あの態度」
取材中の立ち居振る舞いへ話を変えると、沼田はいくらか不機嫌を引きずりながらも、感じたところを丁寧に話してくれた。
「わざと無関心を装っているようにも見えるなあ。でも、もともとああいう性格だから、芝居なのか違うのか、よくわかんねえよ」
「――敵もさるもの、だね」
元が元ではどうしようもないと、慰めるつもりで言ったのだが、沼田はカブリを振って、
「おいおい高津、そんなこと言ってたら、次の船越なんてもっと面倒くさいぜ。あいつ、必要以上に喋んないからなぁ」
「そ、そんなあ……」
そんなことは初耳だったが、最寄りのバス停への接近を告げるアナウンスに気づくと、僕は慌てて、近くにあった降車ボタンへ手をかけた。
中央線・御茶ノ水駅のホームを眼下に見下ろす形で建っている大手スポーツクラブのビルへ入ると、沼田は受付でインストラクターへ何かを話してから、その後ろへついて、西向きに広がっている総ガラス張りのプールのほうへと歩き出した。
「――沼田、プールであってるのか?」
塩素の臭いの漂う廊下を進みながら尋ねると、沼田は言ってなかったっけ、と付け加えて、
「全身運動で手っ取り早いし、邪魔されなくていいからって理由で、あいつは普段、泳いでばっかなんだよ。――あ、どうも。あとはあたしらでやりますんで……」
インストラクターから見学車用のネックストラップを受け取ると、僕と沼田はコインロッカーへ鞄を入れ、サンダルへ履き替えてから、重い扉をそっと前へ押した。
中へ入ると、屋内プール特有の耳にツンと来る気圧差と、濃厚な塩素の香りが鼻を突いた。平日ということもあってか、二、三人が水音けたたましくレーンの中を泳いでいるだけだった。
「――いたいた。あいつだよ」
ベンチへ腰を下ろし、どこに船越がいるのかを探っていた沼田が声を上げる。
「――どれ?」
「あれだよ。ほら、もうじきゴールする、青い水泳帽のやつ……」
言うが早く、僕の腕をつかんだ沼田は、そのまま相手のいる第三レーンへと急いだ。やがて、ゴール手前の五メートルほどを潜水していた相手が浮上すると、沼田はよっ、と気さくな態度で手を上げる。すると、相手はゴーグルをとり、けだるそうな目をしばつかせてから一言、沼田か……とつぶやく。
この少女が、もう一人の容疑者候補である船越晶なのだ。
「で、何の用?」
「都立三高の沼田千春、ただいま怪我でオフシーズン中でな。隣にいる新聞部の高津ってのと一緒に取材活動してんだ」
日焼けしにくい体質なのか、沼田と対照的な白い顔でこちらを覗き込む船越さんは、取材ねえ……と怪訝そうな態度で接する。そして、飛び込み台へ手をかけてプールから上がると、彼女は手近の棚に置いてあった備え付けのハンドタオルを手に取り、派手なストライプの入った競泳用の水着の上から体を拭いた。
「もうじき、都大会の第一予選が始まるだろ? だから、優勝候補の連中に、出られなかったあたしがハナシを聞きに行くって企画なんだよ……」
事情を話す沼田をよそに、船越はベリーショートに切った髪を拭き、ゴーグルと水泳帽をまとめて肩紐へとひっかけ、ベンチへどんどん進んでゆく。
「で、ひとつ第一弾として、船越に話を聞こうってわけなんだけど――」
「なるほど。――けどね、今度の大会は出ないんだ」
「――へっ?」
競泳用水着特有の開けた背面に目をやっていた沼田が、立ち止まって唖然と口を開ける。すると、船越さんは踵を返して、
「実は、関東体育大の方から、予科特待生としての合格通知が来てな。来月からそちらのトレーニングや合宿に参加するから、大会はパスするんだ」
「そんなの初耳だぜ、いつ決まったんだ」
驚く沼田に、船越さんは無表情なまま、つい一昨日、と素っ気なく返す。名門、関東体育大の予科特待生に選ばれたというのは、運動部員にとってはかなり名誉なことのはずだ。運動と無縁な僕ですら知っているくらいだから、縁のある沼田の心中はだいたい察しが付いた。
「そんなわけだから、あいにくとお役には立てない。ほかを当たってくれ――」
そばにあった回収ボックスへタオルを投げ込むと、船越さんは軽く伸びをしてから、じゃ、帰る、とだけ言って、更衣室へ続く長い廊下の奥へ消えてしまった。
そのままクラブを出て、御茶ノ水駅を経由して新宿に出ると、僕は沼田をいきつけの喫茶店「プランタン」へ誘い、労をねぎらった。
「あそこのビジター券があったから、聞いたついでに泳いでいこうと思ったけど、その気が失せちまったぜ……」
クリームソーダの泡へスプーンを差すと、沼田は眉をㇵの字に曲げて、忌々しげに舌を鳴らす。
「結局、船越さんからは何も聞きこめなかったなあ。――日を改めるか?」
シベリアをかじりながら提案すると、沼田は一旦は賛成、と言いかけて、いや、止しておこう、と手を振った。
「忙しくなるから、今より捕まえにくいだろうなあ。まあ、今日もたまたま、行ってみたらそこにいた、ってだけの話なんだけどさ……」
「――当てずっぽうだったのかよ」
あまりの無計画ぶりに少し声を張ると、沼田はバツの悪そうな顔をして、
「そう怒るなよ。――ああいう強い奴ってのは得てして、部内でもお目こぼしがあるもんだからなあ。ふらりと帰ったり、ってこともあるわけ」
「なるほどねえ……」
これ以上沼田を攻めるのはお門違いらしい、とわかると、僕は行きがけにとってきた夕刊を開き、何かめぼしい記事はないかと探った。が、例にごとく、世の中は至って平和そのものだった。
「高津ぅ、読み終わったら貸してくれよ。スポーツ欄が見たいんだ」
「ああ、ならもういいよ。面白い記事、なかったし……」
ホチキスで綴じられた夕刊をそのまま渡すと、沼田はスポーツ欄を開いて、しばらく記事へ目を通していた。が、ある箇所で目が留まるといきなり、
「高津、これ見てみろよ……」
グラスをよけ、テーブルの上に広げた紙面のある記事を指さすと、沼田はここ、読んでみな、と促した。記事の内容は、競技ボーガンの関東大会決勝の結果を伝えるもので、一位の入賞者・風間一平の写真が記事の割には大きく掲載されている。
「まさか、風間って……」
「そのまさからしい。見てみろ、ここんとこ。『なお、昨年の都内高校生陸上大会で一位を獲得した立項の風間あやせ選手は従妹であり、両者のさらなる活躍を期待する向きもある』って……」
活字を指でなぞって読み上げた沼田は、言い終わると僕の目を見て、偶然にしちゃ、出来すぎてないか、と、大儀そうにつぶやく。
「ボーガンやってる従兄がいて、そいつから見た従妹のライバルが、ボーガンでやられた……。今時、下手な漫画でもこんな展開ないぜ」
「……もしかすると、風間が今度の事件の犯人だっていうのかい」
「可能性はないとは言い切れねえぜ。――ひとまず、明日橘ちゃんたちに報告しといた方がよさそうなのは確かだなあ」
ほとんど形のなくなったアイスクリームをスプーンでかぶりつくと、沼田はストローも使わず、へりへ口をつけたまま、クリームソーダを飲み干した。