第二章 好敵手(ライバル)再会す
「――へえ、そりゃまた面白そうなことがあったもんだな」
「まあね。でもなあ、女子ばっかりだったから、さすがに気まずかったよ。逃げるように出てったんだから……」
その日の午後、日直の相方である陸上部員の女子生徒・沼田千春と物理の自習用プリントの束を運びながら世間話をしていた僕は、ひょんなことから先日、「白鯨」であった出来事を話して見せた――余談ではあるが、沼田は上背のかなりある、シャギーに刈った髪と小麦色に焼けた肌が特徴的な、橘華さんとは対照的な女子だったりする――。
「案外小心者なんだなあ、高津は。あたしだったら、面白そうだからしばらく駄弁ってるぜ。コーヒーだけで飽きてきたら、サンドイッチの一皿でも食べてさあ……」
「あいにくと、僕はそこまで図太くないんだよ。だいたい、一見の店でそんなに長居するのはどうかと思うけどなあ」
僕の指摘に、沼田はそれもそうかもなあ、と納得が行った様子だったが、何か思うところがあったのか、不意に立ち止まってから、
「なあ高津、放課後空いてるか?」
僕ならいつでも暇だよ、と返すと、沼田は安心したような顔で、
「ちょうどいいや、合同練習が先方の事情で中止になっちまったんだよ。サンドイッチぐらいおごってやるから、連れてってくれよ」
意外な申し出にいささか面食らいはしたが、別に断る理由もないだろうと思うと、僕は二つ返事で、沼田を「白鯨」へ連れてゆくこととなった。
ところが、「白鯨」には橘華さんたちばかりではなく、沼田と因縁のある人物の姿があった。久しぶりに「白鯨」の店内へ入った僕と沼田は、いつもの定位置ではなく、左手の方向にあるボックス席で橘華さんたちが、後ろ髪をバレッタで止めた、ジャージ姿の女子学生と話しているのに出くわすと、そっとカウンターの方へ動いた。が、
「――あれ、沼田じゃんか」
「……加賀崎!」
呼びかけられた相手の顔が分かると、沼田は驚きのあまり、ぶら下げていた通学鞄を床へ落として、呆然と立ち尽くしてしまった。
「なんだ、加賀崎の知り合いか?」
スミさんがクリームソーダのグラスを持ったまま、僕に軽く手を振りながら尋ねると、加賀崎と呼ばれた相手は、そうなんだよ、と答えてから、
「妙なところで会うなあ、沼田。――この頃、どうしてるんだよ」
「それはこっちが聞きたいね。あたし、ずっとメールしてたのに、全然返事がないんだから……」
知り合いらしいことはなんとなくわかったが、理解が追い付かない。たまりかねて沼田へこの人は……? と聞くと、沼田はさらりと、
「こいつは加賀崎チエミって言ってな、桜花女学院の陸上部員――」
「だったモンさ、よろしくな、彼氏さん……」
加賀崎さんがニヤニヤと笑いながらこちらを覗き込んでくると、
「おいおい、こいつはそういうんじゃないぜ。高津健壱つって、あたしの同級生だよ」
沼田は顔を赤らめながら否定したが、加賀崎は本当かなあ、と茶々を入れるばかりだった。が、
「――まあ、立ち話もなんですから、お座りになりませんか?」
という、橘華さんの一言に、店の隅っこに置いてあったペア席の椅子とテーブルを動かして、僕と沼田は改めて話の輪の中へと加わることになった。
「さて、これはいったいどこから話したものでしょうかね、小山内さん」
角砂糖をたっぷり入れたセイロンティーへ口をつけながら島田さんが問うと、橘華さんはしばらく考え込んでから、頭からお話してあげましょ、と、いたって冷静な調子で言ってのけた。
「高津さん、こちらにいらっしゃる加賀崎さんは、わたし達の一個上の先輩、だった方なんです」
「だった……っていうと、今は違うんですか」
「――やっぱり、噂は本当だったのか!」
僕の素朴な疑問に島田さんが答えるより先に、沼田が加賀崎さんへ食いつくように迫った。
「沼田、どういうことなんだよ。噂になってたって……」
「――ここにいる加賀崎って奴はな、練習中に誰かにボウガンで襲われたせいで、陸上の選手生命を奪われちまったんだ。ありゃあちょうど……」
「半年前の、ちょっと天気の悪い夕暮れ時だったなあ」
否定もせずに、加賀崎さんはまだ湯気の立つオレンジエードを、ホットグラスの縁を持ったままグイと飲み干す。
窓の外の電線に集まっていたカラスが、申し合わせていたように、奇妙な鳴き声を上げながら小さなビル街を飛んで行く。まばらながらも、気の早いネオンサインがけだるげに光り出しているのがわかると、マスターが店内の明かりを点けた。
「……おかげで今でも、こいつが手放せなくてねえ」
ソファの上に転がしてあった、軽金属製の筒を手に取ると、加賀崎さんはそれを勢いよく伸ばして、床へ突き立てた。無骨な握りのついた、折り畳み式の杖だった。
「――なあ、加賀崎、教えてくれ。いったい、あの日に何があったって言うんだ」
沼田の懇願に、加賀崎さんは困ったような瞳でしばらくこちらを見ていたが、
「……二度も同じ話をするのは性に合わないんだ。ちょっとカウンターで音楽でも聴いてるから、島田、頼むよ」
左足を引きずるようにその場を離れ、カウンター席へ腰を下ろした加賀崎さんは、オレンジエードのお代りを頼んでから、耳へイヤホンをはめてしまった。
「やれやれ、困ったお人だ」
「――カオリちゃん、面倒かもしれないけど、お二人に説明してあげてくれる?」
橘華さんに促されると、島田さんは軽く咳払いをしてから、徐に話を始めた。
「……ちょうど半年前のことなのですが、桜花女学院の高等部のグラウンドで、事件は起こりました」
改めて耳にした桜花女学院という名前には心当たりがあった。確か、経堂の辺りにある、エスカレーター式の女子校だったはずだ。
「時間は今と同じ、午後の四時ごろ。十月の頭の方で、あまり天気の良く無い夕暮れ時に、他の陸上部員たちを伴って走り込みを行っていた加賀崎さんは、いきなり飛んできたボウガンの矢が左足に刺さって、その場へ倒れ込みました。矢の刺さった位置にはフェンスを挟む形で道路があって、ちょうど彼女が襲撃された直後に一台のスクーターが走り去ってゆくのが目撃されていますが、ナンバーを控えていた人もおらず、残念ながら普及車ということもあって、特定までには至りませんでした」
こんなところでよろしいでしょうか、と、話を終えた島田さんが尋ねると、沼田がゆっくりと手を上げて、
「そこまではあたしも知ってるんだよ。聞きたいのは、どうしてあいつがやめちまったか、ってコトさ。なにも、そこまでしなくたって……」
「――わかんねえかなあ、沼田。走ることに命を懸けてきた人間が、走れなくなっちまったらどうなるかって」
カウンターで音楽を聴いていたはずの加賀崎さんが、手からイヤホンをぶらさげながらこっちを見て、うつろな目を沼田へと向けている。
「……最初は杖突きながら律儀に通ってたけどよ、憐みの目であたしを見てくるクラスメイトや、放課後に練習してる先輩や同輩の顔を見てるうちに思ったんだ。ここは今のあたしのいるべき場所じゃあない、ってな」
「……悪かったな、加賀崎」
バツの悪そうに沼田が詫びると、加賀崎さんはわかればいいよ、と言って、再びイヤホンを耳へはめ込んだ。しばしの沈黙ののち、それを打ち破るようにスミさんが声を上げた。
「――気に入らねえなあ」
「と、申しますと……?」
僕の野暮な聞き方が気にくわなかったのか、スミさんは忌々しげに舌を鳴らし、
「バカヤロウ、人が一人、人生棒にふってやがんだぞ。これを誰も、なんとも思わずに過ごしやがって……どういう了見だってんだよォ」
「――東田、てめえに何がわかる!」
はめていたイヤホンをカウンターの天板へ叩きつけ、加賀崎さんは足を引きずりながら、杖をわざと大仰についてこちらへと近寄ってくる。
「これ以上逆なでするんじゃねえ、走れなくて困ってるのはあたしなんだよ!」
頬を真っ赤にして叫ぶ加賀崎さんに、スミさんは一旦ひるんだが、
「だから、せめてそのホシだけでもあたしらでとっ捕まえてやろうじゃねえかってんだ!」
と、威勢のいいタンカを切って、大上段に構える。あっけにとられた加賀崎さんに、今度は島田さんが眼鏡を直してから補足を加える。
「――加賀崎さん、これはあくまでも、私たちの個人的な探求心から出た提案です。お嫌でしたら断わってくださって構いません。ですが……」
「ですが……?」
妙な間を置く島田さんにつられて、加賀崎さんは顔を覗き込みながら首をかしげる。
「一度ぐらい見てみたいと思いませんか? ――バレないだろうと思っていた犯人の顔が、捕まって絶望の色に染まるところ」
口元に悪意を含ませて笑う島田さんに、加賀崎さんはやや引き気味でま、まあねえ……と返す。
そのうちに、黙って様子を見守っていた橘華さんが援軍とばかりに瀬古さんまで巻き込んで、
「――あまり品のいい趣味じゃないかもしれませんけど、相手が品を欠いてるんですから、良いと思いますけどね、私は。――瀬古ちゃん、どう思う?」
「そうだねえ、一度ぐらいならいいんじゃないかなあ。そのうち、テレビや新聞に顔がたくさん出ると思うけど、生で見るのはレアだからねえ」
ココアを飲みながら、にっこり笑ってえげつないことを言う瀬古さんに沼田ともども引いていると、杖を伸ばし、わきの下に挟んだまま腕組みをしていた加賀崎さんが、つむっていた両方の目を開き、覚悟が付いたらしく、こう言い放った。
「――そこまで言うんなら、見せてもらおうじゃないか。あたしをこんなにした張本人のツラをよぉ」
「――交渉成立、だな。さてお嬢、こっからどうする?」
ソファへ戻ったスミさんは鉛筆をなめながら、手帳へ日取りを書き込もうとしている。
「いったん、加賀崎さんの交友関係を整理しましょう。そうすれば、加賀崎さんが怪我をしたことで利益を得た相手が洗い出せるはずだから……」
橘華さんの指示に、了解……と言って、スミさんは手帳をひっこめる。
「じゃあ、それが分かってから動けばいいんだねぇ。――カオリちゃん、また面白いことになりそうだねえ」
「まあ、ちょうどいい暇つぶしにはなりますね。さて、どう洗い出したものか……」
各々、知恵を巡らせる桜花女学院の生徒たちに呆気に取られていると、しばらく黙り込んでいた沼田が、
「いや、それにゃあ及ばないぜ。――加賀崎が怪我ァして儲けたやつは、二人っきゃいないからな」
「――ああ、そうだな」
カウンター席へ戻っていた加賀崎さんとの間でアイコンタクトが交わされたのち、沼田はそっと唇を開いた。
「――立項高校陸上部副部長の風間あやせと、風光館学院陸上部主将の船越晶だ。加賀崎が怪我して出られなかった大会で、一位と二位におさまったやつらさ……」